Good News Report

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「リバイバルの雨」at いわき希望教会

2015年09月12日 | Good News
[終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ] この使徒2章17節の御言葉は、ヨエル書3章1節からの引用で、ここの「注ぐ」という表現は、その前の章にある(ヨエル2:23)の「秋と雨と春の雨」にかかっている。この描写は、聖書で度々登場する表現(エレ5:24、ホセ6:3、ゼカ10:1)である。

イスラエルには雨が集中して降る雨期が年に2回あり、それは10~11月にかけて作物がしっかりと種付けされるために降る秋(前)の雨と、豊かに収穫するために3~4月にかけて降る春(後)の雨。この2つの雨は、イスラエルに対する救いと恵みの象徴であり、 終わりの時代に生きる私達クリスチャンにとっても重要な意味を持つ。

ペンテコステに降った聖霊の雨によって教会が誕生し、その後の長い乾期を経て、今、最後の収穫の時(イエス再臨の前)に、全ての人々に再び聖霊の雨が降るという預言。また、この「注ぐ」という言葉は、シトシトと降る春雨のような降り方ではなく、バケツをひっくり返したような土砂降りを意味する

この日、イスラエル3大祭りの一つ・春の収穫祭だったペンテコステの日に、ペテロの説教によって、3千人の人々が救われた。この日は小麦の収穫祭のみならず、多くの人々の魂の収穫祭であった。

最初12人から始まったイエスの弟子は、1章15節で120人、2章41節で3000人、4章4節で5000人、そして21章20節では幾万人に膨れ上がった。今、世界中で毎日7万人の人々が救われており、中でも中国は、実に1億4千万人のクリスチャンを擁する世界一のクリスチャン国家へと変貌を遂げた。それは実に、「終わりの時にわたしの霊をすべての人に注ぐ」という、御言葉の成就であった。


使徒に記されている初代教会の記録は、普遍的な教会の真理として、私達が教会活動の基本にすべき事柄である。それには、初代教会の活動について深く知り、それに習う姿勢が必要だが、それはごくシンプルなことである。彼らが「ひたすら(口語訳)」、「堅く(新改訳)」、そして「熱心に(新共同訳)」にやっていた4つのこと(2章42節)があった。それは、「使徒の教え」、「交わり」、「パン裂き」そして「祈り」であった。

使徒の教え
新約聖書がなかった当時、人々は使徒たちを通してキリストの言葉(福音)を聞いていた。「教え」という言葉には、「ケリュグマ・布告」と「ディダケー・教える」の二つあり、それが、「行って、あらゆる被創物に福音を述べ伝えなさい(マルコ16章15節)」と、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28章19節)」のキリストによる福音宣教命令である。福音を宣べ伝えること(ケリュグマ)と、イエスの教え・弟子訓練(ディダケー)に専念する。教会では、様々な活動がされているが、先ず何よりもキリストの教え福音を学び、その福音を人々に宣べ伝える。それが教会の第一義的な存在意義である。

交わり
福祉、奉仕、ボランティアといった言葉自体が存在していなかった当時、現在、政府や自治体がしていることを、教会が行なっていた。そのことを可能にしたのは、教会の信徒たちが目に見えるものではなく、目に見えない信仰、使命、天国の宝を共有しており、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という霊的な交わりがあったからに他ならない。交わりという言葉はもともと「共有」という意味で、ここで大切なことは、「交わり」とは、まず、 神と私たちとの交わりがあってこそ、信徒同士・隣人同士の献身的な交わりが可能となるという事を忘れてはいけない。

パン裂き
洗礼と聖餐は、キリストが世の終わりまで、私たちに守り続けるようにと教えた礼典である。聖餐式とは、私たちのために身体を裂き、血を流されたイエスの十字架の愛を心に刻み込むこと。そこに表わされた罪の赦しを受け、その赦しを他の人に分け与えることによって、人々を救い導いて行くのである。「心を開いて私を受け入れるなら、わたしはあなた方と共に食事をするだろう」と、イエスが私たちを食卓に招いていてくださっているように、罪赦され、聖められ、キリストとの交わり中に入れていただき、その交わりの中で、キリストに養われ、満たされて行く。 真の礼拝と聖餐とは、 このようなキリストとの交わりを深めて行く行為なのである。(メッセージより抜粋)

    

{この日は、早天礼拝、午前の礼拝、午後の聖書クラス、夕方礼拝の計4回行われました。写真中央は早天礼拝、右は愛餐会にて}


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