〇吉見俊哉『敗者としての東京:巨大都市の隠れた地層を読む』(筑摩選書) 筑摩書房 2023.2
はじめに2020年春からのコロナ禍によって、都心の空室率の上昇、人口の転出増、商業地の地価下落など、1980年代以来、数十年間にわたって東京が歩んできた方向(=福祉国家から新自由主義へ、効率化のための一極集中)を反転させる可能性が垣間見えることが示される。本書は、これまで明らかに近代化の「勝者」として歩んできた東京を「敗者」の眼差しから捉えなおそうとする試みである。
そのために本書は、遠景・中景・近景の三つの視点を用意する。「遠景」は地球史的な視座で、縄文時代の南関東の「多島海的風景」を想像するところから始まる。やがて朝鮮半島からの渡来人たちが東京湾岸から上陸し、土着の縄文人と遭遇してクレオール化する。古代から中世へ、東国勢力は徐々に力をつけ、大和朝廷に対する自立性を獲得していく。こういう東国の古代中世史、とても魅力的だ。そして東京につながる巨大都市・江戸を出現させたのは1950年に始まる「徳川の占領」である。
東京(江戸)は三度の占領を経験している。二度目は1868年の「薩長軍による占領」で、この記憶が「中景」となる。彰義隊・幕臣・博徒(清水次郎長)・貧民・女工など。敗者(あるいは弱者)がどこまで自分の言葉で語ることができたかを慎重に留保しつつも、明治大正の東京には、彼らの語りを成り立たせるメディア的な装置があったことを検証する。同じ著者の『五輪と戦後』でも触れられていたが、女工たちの歴史(逃走→争議→バレーボール!)がとても面白い。
三度目は1945年の「米軍による占領」である。この占領によって、東京の風景が決定的に変貌したことは、著者が『五輪と戦後』『東京復興ならず』等で詳述しているところだが、本書は著者自身のファミリーストーリーから、戦後東京の「近景」を描いていく。私は長年の著者の読者だが、初めて聞く話ばかりで驚きの連続だった。著者の母親は、両親の離婚後、父(著者の祖父)とソウルで生活しており、終戦後、兄(著者の叔父)とともに子供二人で家出して東京の母に会いに行ったこと。著者の祖母の甥に、ヤクザからヤクザ映画の俳優になった安藤昇がいること。私は彼の名前を知らなかったが、本書にまとめられた安藤昇の生涯は、無法と暴力に彩られている。
ここで著者がちょっと横道にそれて、丸山眞男が「無法者」のエートスを的確に定義していること(丸山はその生い立ちから右翼系の無法者に接する機会があったこと:苅部直氏の教示)や、エイコ・マルコ・シナワ氏による、近代日本の政治が無法者たちの暴力的行為と深く関わってきたという指摘に言及しているのは興味深い。ただし、近代化と暴力の関わりが明示的だったのは1960年代までで、その後は次第に隠されてきたのではないかとも思う。「サザエさん」など昭和のマンガで覚えた「愚連隊」という名称も久しぶりに聞いた。
また、著者の曽祖父・山田興松は「水中花」を発明して米国市場に進出したり、造花をカリキュラムにした女子教育に携わったりしていた。著者は2002年に母をなくし、戸籍謄本を取り寄せたのがきっかけでファミリーヒストリーに興味を持ち始め、国会図書館や新聞社のデジタルアーカイブで親族の軌跡を発見したという。著者のいうとおり、同じような体験をする人は、有名無名を問わず、これから増えるのではないかと思う。
「近景」の最後に著者は、35年以上前、渋谷円山町のアパートで『都市のドラマトゥルギー』を書いていた自分に立ち返り、実は親族たちの軌跡のパターンを模擬的に反復していたのではないかと考える。
終章では、山口昌男、鶴見俊輔、加藤典洋らを論じ、さらに海外の敗者論を参照する。シヴェルブシュは、敗者が敗北を否認するためのさまざまな方策(勝者への同一化、精神的な勝利の主張、報復の試み、責任転嫁 etc.)を挙げていて面白い。しかし私は、著者が山田太一ドラマを引いて語っているように、「敗者」であることを堂々と受け入れ、自分たちの「無力」に自覚的であり続ける精神に共感と尊敬を抱く。その意味で、「敗者から眺める」ことが東京の未来につながると著者は説くのである。