見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

囲われ者の金魚/アートアクアリウム展(サッポロファクトリー)

2013-12-14 23:39:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
○サッポロファクトリー 『アートアクアリウム展 ~札幌・金魚の灯~』(2013年11月30日~2014年1月19日)

 公式ホームページによれば「アートアクアリウム展は『アート』と『デザイン』と『アクアリウム』を融合させ、変幻自在の水槽デザインとライティング、映像を組み合わせて水生物を展示するイベント」で、すでに東京・大阪・名古屋・京都・神戸で開催した「アートアクアリウム金魚シリーズ」等で、230万人以上の観客を集めているという。主に用いられているのは金魚。

Byoburium/ビョウブリウム(屏風水槽)

屏風の「扇(せん)」に見立てられた薄い縦型の6つの水槽には、それぞれ小さな金魚が泳いでいて、白い背景にその姿が映る。墨画のように、川、草木、花鳥などが映し出され、姿を変える。中央の二扇の水槽にいる金魚が、他より元気で、激しく縦横に動くので、面白かった。

Oiran/花魁(巨大金魚鉢)

「江戸の遊郭を表現しており、乱舞する金魚は花魁とそれを目指す女達を表す」のだそうだ。ああ、そうか、中央の大鉢で七変化するスポットライトを浴びているのが花魁で、その下の暗闇を回遊しているのが、花魁を目指す女たちか。華やかというより、大鉢に詰め込まれた金魚が息苦しそうで、可哀相で見ていられなかった(まさに花魁)。

まあ、そもそも金魚って人工的な存在ではあるが。あんな不自然な点滅光を浴び続けて、ストレスにならないのかな。



個人的には、金魚は自然光の下で見るのが、いちばん美しいと思う。

おまけ:サッポロファクトリー・アトリウムの巨大なクリスマスツリー。これも全体のイルミネーションが七色に変化する。

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2013札幌・初吹雪

2013-12-14 23:02:50 | 北海道生活
札幌に引っ越して、初めての冬。

10月に入った頃からそわそわと、初めて使うストーブを点検に来てもらったり、灯油を確保したり、冬靴・コート・帽子を買い揃えたりしてきた。

11月に雪が降ったときは、来たか!と思ったが、いつの間にかその雪も消えて、12月12日(木)まで、ほとんど積雪がなかった。このまま年末までいくのかしらと思っていたら、13日(金)は、みるみる積もって、帰宅時は傘も差せない「吹雪」に。鉄道も大混乱だったらしい。

今朝はよく晴れたが、銀世界に辟易して、外に出る気になれなかった。昼過ぎ、ようやく重い腰をあげて外に出てみるとこんな景色。





でも、今年の春は記録的大雪で、4月に新生活を始めたときも銀世界だったので、いまいち感動が薄い。あるべき風景に戻ったような気がしている。

今夜も冷えそう!
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あれから四年半/すずしろ日記 弐(山口晃)

2013-12-12 22:51:35 | 読んだもの(書籍)
○山口晃『すゞしろ日記 弐』 羽鳥書店 2013.11

 山口晃画伯の『すずしろ日記』第2巻。うわー待ってました! 第1巻が2009年3月刊行だから、4年半ぶりである。画伯のおっしゃるとおり、元ネタは東京大学出版会のPR誌『UP』に連載されたエッセー漫画(オビの表現)だが、月に1度、1頁しかない原稿だから、冊子の分量に足りるまで、数年かかってしまったという。

 しかし、第1巻が出たときは、え!山口さんってこんな漫画タッチの絵も描くの!?文章もこんな軽妙洒脱なの!?と驚いたが、その後は本業だけなく、文章やマンガでも大活躍である。エッセイストの才能を発揮した『ヘンな日本美術史』や、本書と同様の二頭身キャラで登場する『日本建築集中講義』など。ただ、これらの著書が、美術や建築など、本業の範疇に題材を求めているのに対して、本書は、もっとゆるくて気楽な、三十男あらため四十男の私生活エッセイである。仕事を終えた夕暮れ、散歩の途中で、芋煮をつまみに一杯やるのが至福のひととき、みたいな。

 私は、ときどき題材になる少年時代の思い出話が好きだ。グリコの「コロン」のパッケージの話とか、布団にもぐって匍匐前進する興奮とか…。よくこんな些細なことを覚えているなあと感心するが、私も人生の節目のような大事件を全く覚えていないのに、小さなことをヘンに鮮明に記憶していることがあって、親近感を覚える。画伯がお住まいの谷中・根津かいわいの話も楽しい。

 性格のまるで違うカミさんとの愉快なコンビネーションは相変わらず。画伯のお父さんとお母さんも味わいのあるキャラクターだ。カミさんの実家の飼い犬、ポチの出番が少なくてさびしかったが、各回の解説頁に書き足しがあって、うれしかった。

 ときどき、テーマが視覚論や芸術論になることもある。むかしの絵の「近景-中景-遠景」の一画面多意識とか、セザンヌの風景のとらえ方(セザンヌ紀行)など、かなり専門的で難しいことも、漫画で解説されると分かったような気になる。画伯は「私は文章書きが苦手で、手とイメージの速度が合わせられない」とおっしゃるが、文章の読解にも同じ側面があるのかもしれない。挿絵があると、ストンと得心がいく(気がする)。

 個人的に残念だったのは、おまけの「冷泉家の起こり」。『芸術新潮』に載っていたものだ~とすぐに思い出したけど、これを収録するなら、応仁の乱で焼け残った御文庫のイラストも収録してほしかった!

 『すずしろ日記』第1巻は、羽鳥書店が2009年4月創業してすぐ刊行した書籍だったが、久しぶりに同書店のホームページを見にいったら、順調に刊行点数が増えているみたいで嬉しかった。第3巻の刊行もゆっくり待ちたい。

新潟市美術館:山口晃展オリジナル手ぬぐいとすずしろ日記+新商品予告!
ポチてぬぐい、ほしいよ~。
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2013秋@幕末の北方探検家 松浦武四郎(静嘉堂文庫)

2013-12-11 22:28:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
静嘉堂文庫美術館 『幕末の北方探検家 松浦武四郎』(2013年10月5日~12月8日)

 終わった展覧会だが書いておこう。「北海道の名付け親」として有名な松浦武四郎(1818-1888)に関する展覧会だが、どうして静嘉堂がこんな企画を立てたのか、さっぱり分からなかった。どこかの博物館から展示資料を借りてきて開催するのかと思っていたら、「静嘉堂が所蔵する武四郎旧蔵考古遺物コレクションの中より主要な物を選び、初公開」と聞いて、びっくりした。

 展示会場に入ると、まず「探検家」松浦武四郎の成果を紹介する文献資料が目につく。アイヌの風俗や動植物のスケッチを色刷版画で添えた調査誌の数々。刊行販売されていたのか。そして、『東西蝦夷山川地理取調図』(安政6年)。26枚の部分図を並べると、巨大な北海道と国後島・択捉島が現れる。

 武四郎愛用の『大首飾り』(実際に着用した肖像写真が伝わる)は、碧玉・瑪瑙・水晶・金環など、色と形の異なる素材をリズミカルにつないだ美品だが、キャプションに「縄文時代~近代」とあって、笑ってしまった。図録の解説は、さらに詳しく、総数243点の玉(パーツ)のどれが「縄文時代」でどれが「古墳時代」「古代」でどれが「近代」か、内訳が示されている。要するに着用できるように自分で再編集(補修)したのか。考古遺品は現状維持が大原則なんていう現代と違って、自由でいいなあ。

 ほかにもなんだか怪しい品物が並べてあった。同郷の先輩・本居宣長にならって、古墳時代の銅鈴を集めていたのはよいとして、宣長宅にあった『鬼面鈴』のスケッチそっくりの品は、江戸時代製作のイミテーションらしい。中国戦国時代の「戈」があると思えば、古代ローマの青銅鏡に銀貨、古そうに見えて、実は清代の銅壺や鉄鉾も。このひと、無類の「好古家」だったという。玉石混淆の甚だしい展示で、頭を混乱させながら進むと、巨大な『武四郎涅槃図』(の写真パネル)が掲げられていた。河鍋暁斎筆。松林の中、笑顔の武四郎が寝そべり(やっぱり大首飾りをつけている)、その周囲に武四郎遺愛の古物たち(人形、仏像、玩具など)が集まっている。ほのぼのと幸せそうな図様。

 会場には、武四郎が全国の有名な建築物から「木材」を勧進して建てた書斎「一畳敷」の実物大模型も復元されていた。どこまでもわがままを通しているところが羨ましい。国際基督教大学の敷地内に残っているとは知らなかった。

 家に帰って、図録解説を読んでみたら、静嘉堂文庫が松浦武四郎コレクションを入手した経緯は、結局、分からないらしい。一つの可能性は、武四郎と交流のあった江戸幕府の大工棟梁・柏木貨一郎が、岩崎彌之助の深川別邸の工事を手掛けていることだという(成澤麻子氏の論文による)。しかし、ともかく武四郎コレクションの整理が完了し、私たちの前に姿を現したのは慶賀すべきことである。

※2013年の東京・関西展覧会「行ったもの」レポートはこれで一段落。あとは年末年始まで新しい記事はありません。たぶん。
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見えない労働/家事労働ハラスメント(竹信三恵子)

2013-12-10 22:32:16 | 読んだもの(書籍)
○竹信三恵子『家事労働ハラスメント:生きづらさの根にあるもの』(岩波新書) 岩波書店 2013.10

 Amazonのカスタマーレビューをさらっと覗いてきたら、題名に違和感を持った読者が多いようだった。確かに。何でも「ハラスメント」をつけてしまえば事足りると思っているのかもしれないが、思考法が雑すぎる。「パワー(地位や権力による)ハラスメント」「アカデミック(大学や学術機関における)ハラスメント」などの用語を思い浮かべながら、さて何を言いたいのか、しばらく悩んだ。オビの後ろにある「家事労働ハラスメント(家事労働への嫌がらせ)」という赤文字を見つけて、はじめからそう言えばいいのに、と苦笑した。

 これは編集者への苦言。本書の内容は、1999年から2001年まで雑誌に寄稿した「家事神話-女性の貧困のかげにあるもの」という連載が土台になっているというから、「ハラスメント」百花繚乱以前に書かれたものである。

 はじめに語られるのは、シングルマザーとして著者を育てた母の姿、新聞社で共働きを続けながら子供を育てた自らの経験を通じて気づいた日本社会の矛盾。そこは、「家事労働など存在しない」ことになっている奇妙な世界なのだ。企業は社員に「家事労働」が必要であることを認めない。口では何と言おうと、そういう勤務時間・勤務体制が設計されている。家事労働に携わらざるをえない(それゆえ、24時間365日を企業に捧げることができない)働き手は、徹底的に安く買い叩かれる。そのことが、多くの女性の貧困と働きづらさを生んでいる。

 全くそのとおりだと思う。高度成長期このかた、多くの日本人が、この企業の「悪だくみ」に乗ってきた。男性だけでなくて、少なからぬ女性も。かくいう私も、子供の頃からずっと家事嫌いで、誰かのための家事労働に専従する女性にはなりたくなかった。他人のためどころか、自分の身体をケアするための家事労働さえ、最大限に手抜きして生きてきて、最近まで、それがカッコいいことのように思っていた。思えば「家事労働」を貶め、あらゆる働き手を「賃労働」に動員しようとする、企業のたくらみに搦めとられていただけかもしれない。

 しかし、誰もが納得できるかたちで家事労働を「見える化」することは、なかなか難しい。専業主婦とひとことで言っても、社長夫人の妻と会社員の妻、さらに零細自営業主の妻では、実態が異なる。夫が貧困層なのに外で働けない貧困専業主婦も存在するという。

 途中に、「男は外で働き、妻子を養うもの」という伝統的な家族観で育った男性(1960年代生まれ=私と同世代だ)が、妻の影響で考えを改め、妻は働きに出て家計を助け、夫は無理な残業を断って、家事を分担するようになり、健康と一家団欒を取り戻して万々歳という、絵に描いたようなグッド・プラクティスが紹介されていた。こういうのは、複雑な問題の解決方法を具体的な一例で伝えるという、かつての新聞コラムによくあった手法だが、私はあまり好きではない。同じ著者の『ルポ賃金差別』でも感じたことだが、字数の限られる新聞記事と違って、丁寧な記述を期待される新書には、そぐわない手法ではないかと思う。

 本書に好印象を持ったのは、解決策(家事労働の再分配モデル)が、必ずしもひとつではないことが、きちんと示されていたことだ。かつての専業主婦大国から、短時間労働を増やすことによって、経済の活性化に成功したオランダモデル。しかし、結局は女性を労働市場の二流市民に追いやるという批判があることも付記されている。一方、スウェーデンモデルは、賃労働の比率を増やすため、家事労働を家庭外のサービスに委託するケースが増える。「男女とも休暇を取り尽くしてフルタイムで働く」って、うーむ、うらやましいのか、うらやましくないのか、よく分からない。少なくとも日本のように「休暇は取り尽くさない」慣習が前提の社会では、導入は無理かな、と思う。

 シンガポールのように、家事労働者(家政婦)を国外に依存するという方策もアリだ。周囲に言葉が通じやすい民族が住んでいて、経済力に差があり、安い賃金で労働力を供給することが可能な場合。日本も一時、看護師や介護福祉士を積極的に海外から受け入れようとしていたが、あまり成功しているように見えない。

 そして、ケア労働者や住み込み労働者が、さまざまな問題を抱えていることも、本書から教えられた。介護や家事のサービスを受ける側には「家庭」でも、労働者にとっては「職場」であるという意識を、雇用者も被雇用者も、もっと明確に持たなくてはならないし、何より社会を設計する行政の側が、家事や介護は「家庭の問題」「家族の責任」という古い感覚を脱しなければならないと思った。
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2013秋@江戸の狩野派(出光美術館)

2013-12-09 22:26:28 | 行ったもの(美術館・見仏)
○出光美術館 『江戸の狩野派-優美への革新』(2013年11月12日~12月15日)

 「江戸狩野」に焦点をあてた展覧会。そういえば、春の京博で「京狩野」を取り上げた『狩野山楽・山雪』が開催されたことは記憶に新しい。あれもよかったが、こっちもなかなか。

 江戸狩野の祖は、永徳の孫の探幽(1602-74)で、その弟の尚信(1607-50)、安信(1613-85)、尚信男の常信(1636-1713)などが主な登場人物である。最もよく知られているのは探幽だろう。作品も見分けがつきやすい。淡泊で、品があって、優美で。いかにも戦乱の時代を遠く離れて、平和な時代に生まれた若者の作品という感じがする。実はまだキナ臭い戦国末期の生まれなのだけど。東博で時々見る『鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)降誕図』が出ていて嬉しかった。探幽は、こういう知的な画面構成が好きだ。『叭々鳥・小禽図屏風』は出光美術館の所蔵だというが、記憶になかった。人を驚かせたり、唸らせたりする作品ではないが、やんわりといい。「まあ、こんなもんでしょ」と言っていそうな控えめな作為で肩が凝らない。

 尚信と安信は、なかなか区別がつかなくて覚えられないのだが、本展では「安定した筆力を示す」安信よりも、「筆勢のある大胆な筆致と、濃淡を自在に用いた瑞々しい墨技」「探幽の影響下にありながら、その枠から一歩踏み出したユニークな作品を遺している」尚信の評価が高い。なるほど『猿曳・酔舞図屏風』に描かれた市井の人々の表情も面白いし、金屏風に墨画『叭々鳥・猿猴図屏風』の大胆にデフォルメされたテナガザル(いや、手が長くない)の親子は圧倒的にかわいい。『猛虎図』(東京富士美術館)の赤い舌を出した(てへぺろ)トラもかわいい。

 自分のブログを検索してみると、私はときどき尚信作品の印象を書きとめている。栃木県立博物館所蔵の『龍虎図屏風』とか、京博の『李白観瀑図屏風』とか。わりと好きなので、近衛家熈が尚信の画技を「探幽に比するに、まされる所あり」と高く評価していたと知って、嬉しかった。

 私は常信も好きなので、『波濤水禽図屏風』は堪能した。執拗な(でも、どこかサラッとした)波涛の表現が面白い。『鳥写生図巻』は東博から出陳。江戸城に献上された鳥や飼育されていた鳥を写したもので、これも御用絵師の仕事だったという解説が興味深かった。
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2013札幌大通り・ミュンヘンクリスマス市

2013-12-09 20:45:02 | 北海道生活
久しぶりに地元レポート。

第12回ミュンヘン・クリスマス市 in Sapporo(2013年11月29日~12月24日)が始まっている。ドイツには一度だけ行ったことがあって、秋だったから、まだクリスマスには早かったけれど、どの町でも「マルクト広場」散歩が楽しかったことは覚えている。





↓トナカイの毛皮。これはドイツというより、北極圏っぽい。


↓マトリョーシカ。これも...


↓ガラス工芸のお店は小樽から。


↓ロースト・アーモンド。炒り立ての温かい状態が美味!


ほかにもソーセージとじゃがいも、ホットワインなどのファストフードが楽しめる。

狭い会場だが、暗くなってからのイルミネーションも見ごたえがあって素敵。
来週末も行ってみよう。
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野望の時代/劇画 ヒットラー(水木しげる)

2013-12-08 22:07:23 | 読んだもの(書籍)
○水木しげる『劇画 ヒットラー』(ちくま文庫) 筑摩書房 1990.7

 長い前置きから。「特定秘密保護法」成立の見通しが強まったことに対し、教育学者の佐藤学先生が「法案に反対する学者のアピール」賛同者を募っているということを、内田樹先生のツイッターで知ったのは、11月26日(火)だった。素早く山口二郎先生が反応するやりとりを読んでいた(ちょうど昼休みだったので)。28日(木)13:00から学士会館で行われた会見の様子は、あとからネットで見た。内田樹さんのブログに全文が掲載されている。法案は26日(火)に衆院を通過。5日(木)には参院国家安全保障特別委員会において、与党が質疑を打ち切って採決。6日(金)参院本会議で成立してしまった。

 今週は、ずっとこのことが重たく胸を圧していた。私の周囲に、この一件を話題にする人はいない。かくいう私もリアル社会生活で、進んで話題にすることはしていないし、ブログやツイッターでも何も触れずにきた。でも、美しいもの、楽しいもの、美味しいものの話をしながら、胸の底で疼いていたのは、法案の成立に対する違和感と恐怖感である。国会前のデモに行ってみたいと初めて思った。今年の春から札幌住まいで、現実には行けないから、そう思ったのかもしれない。歴史を振り返って、かつて日本が戦争を始めようとした時代にも、大勢の「無関心な大衆」の中には、私のように「関心」を言葉にすることができなかった人たちがいたのだろうなと思った。

 法案をめぐって、ツイッターに流れてきた画像に、本書の一コマがあった。1933年、全権委任法(立法府が立法権を含む一定の権利を行政府=ヒットラー内閣に委譲する法律)の採決にあたり、「ほとんどこの法案をみなさんに適用することはないでありましょう」と猫なで声で演説するヒットラーの図である。あ、水木しげる先生の絵だ、ということはすぐに分かり、ちくま文庫のこの作品、気になりながら未読だったことを思い出した。土曜日に大きい書店に走って、本書を入手し、読み始めた。思いのほか硬派な作品で、一気に読み通すことができず、途中で一休みしながら、夜中に読み終えた。読み終えたあとは目が冴えて、なかなか寝付かれなかった。

 不思議な作品で、何の解題もないのである。いつ、どんな媒体に発表されたものかという情報さえない。いま、Wikiに「1971年、週刊漫画サンデー」という記述を見つけたが、完全に初出のとおりかどうかは不明である。

 巻末には多数の参考文献が上がっており、作者独自の新しいヒットラーを創造しようというよりも、通説を手際よくまとめたヒットラー像を描いているのではないかと思う。水木先生には『神秘家列伝』という伝記マンガシリーズがあって、これは宮武外骨だの平田篤胤だの、いかにも水木先生のおともだちみたいな人々が登場するのだが、ヒットラーに関しては、作者の思い入れを感じるところは無い。それでも、人間的な側面(青年時代、ウィーンで同居した友人クビツェックが終戦後に語った挿話が好きだ)を適度に配しつつ、感情の起伏の激しい、愛国的な政治家・軍人であったヒットラーを、「マンガ」という媒体の特徴を生かして、冷静に、分かりやすく描いている(つまらない揶揄や皮肉は用いていない)。ヒットラー個人の「伝記」というより、ナチスの結党から政権奪取、さらに世界戦争へという稀有な時代の「歴史」を描いた作品である。特に後半は、ムッソリーニ、チャーチル、日本の松岡外相など、各国の重要人物が入り乱れて登場し、戦争の背後にあった国際関係を大づかみに理解するのにも役立つと思う。

 本書では、上記の「全権委任法」成立後、「すぐさまいっさいの政党は禁止され、彼(ヒットラー)はドイツの封建的な連邦国家制を廃し、中央集権国家を出現せしめた」とある。どうか日本にそんな日がめぐってくるのを見ることがありませんように。さらに国際連盟脱退に際して、ベルリンは歓喜する市民のたいまつ行進で埋まり、1940年、フランス軍を破ってパリに無血入城したヒットラーの凱旋には、教会の鐘が鳴り響き、町は旗と花と人の海で埋め尽くされた。それから、わずか5年。ドイツに残された果てしない廃墟。本書は、普通の「ドイツ国民」の姿を敢えて作品の中に描かないことで、読者の想像力を喚起し、痛ましさを増している。
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2013秋@東大寺 鎌倉再建と華厳興隆(金沢文庫)

2013-12-05 23:31:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
金沢文庫 特別展『東大寺-鎌倉再建と華厳興隆-』(2013年10月11日~12月1日)

 ○○何百年忌みたいな企画ものかと思ったら、そうではなかった。このところ、金沢文庫では、年1回くらい奈良にちなんだ展覧会をやっていて、その一環らしい。東国在住の奈良ファンにとってはありがたかった(過去形)。

 冒頭のパネル、東大寺別当・筒井寛昭師の「ごあいさつ」が「治承4年(1180)12月28日、平重衡による兵火で東大寺の伽藍は焼亡し、大仏さまも大きく損傷しました」で始まるのに苦笑してしまった。やっぱり、そこからか。まあ、再建に尽くした武家の棟梁、源頼朝を持ち上げるには、ここから始めないとね。

 1階入口の展示ケースには、大仏殿の再建で製作された軒丸瓦と軒平瓦。岡山県の万冨瓦窯(万富東大寺瓦窯跡)で焼かれた。図録の解説を読んだら、展示の瓦は、江戸再建の勧進の折、公慶上人が備前国に滞在中、漁師が児島湾海中から引き揚げたという由来を持つそうだ。

 2階へ。東大寺から重源上人坐像がお出ましになっていた。治承四年の焼亡の後、諸国を勧進してまわり、鎌倉再建を成し遂げた方だが、その彫像は、今も東大寺のために東奔西走なさっているように思う。人間味があって、分かりやすい肖像彫刻だから、人気があるのは当然だけど、ご苦労様なことだ。重源上人所縁の品とされる鉦鼓・鉦架・撞木・柄杓などは初めて見たように思う。

 『東大寺大仏縁起』は、勧進のために製作された室町時代の絵巻物。武士たちが、美々しく着飾った白面のイケメン揃いに描かれている。雛人形みたいだ。院政期の絵巻物に描かれた夜盗みたいな武士たちとは、えらく違う。第7段には、大仏殿供養に参列する源頼朝の姿あり。

 展示替えもあるが、東大寺から文書・絵画・彫刻・伎楽面など70件余りの資料が出陳されている。公慶堂伝来の端正な地蔵菩薩立像は快慶作。赤い唇が妖艶で優美だけど、柔弱ではなくて、むしろ男性的な意志の強さを感じる。2008年の東博『対決-巨匠たちの日本美術』にも出品されていたもの。『華厳五十五所絵巻』は可愛らしくて、大好きな作品だが、意外や残酷シーンも描かれていることを知って驚いた(地獄の獄卒に首を斬られた亡者とか)。明代の『華厳海会善智識曼荼羅』などは、たぶん奈良では見る機会のない珍品で面白かった。

 あまり馴染みのない名前の祖師図が掲げられていたが、華厳宗は、杜順→至相(智儼)→香象(法蔵)→清涼(澄観)→圭峯(宗密)と伝わるのだな。至相大師の弟子に新羅僧の義湘がいる。天から宝相華が散る少女マンガみたいな『香象大師像』だけは見覚えがあった。

 この時期の東大寺に関係する「称名寺聖教」も展示されていて、興味深かった。気になったのは『弁暁説草』断簡。卓越した弁舌の才をもったといわれる弁暁(1139-1202)の説法の台本で、後白河法皇周辺の法会の様子が明らかになるという(※翻刻版は発売中)。この中に「源平合戦で乱れた世をつくづくご覧になった大仏様は、悪に染まった人々が仏をそしる罪を犯さないよう、あえて自ら炎に身を投じられた」という説教があるそうだ。むかし読んだ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室、2001)を思い出してしまった。人の営みは東西を問わないのね。善行も悪行も。



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2013秋@古径と土牛(山種美術館)

2013-12-04 23:17:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 特別展 小林古径 生誕130年記念『古径と土牛』(2013年10月22日~12月23日)

 梶田半古の門下で、兄弟子・弟弟子の関係にあった二人の画家、小林古径(1883-1957)と奥村土牛(1889-1990)の画業を振り返る展覧会と聞いて、土牛が好きな私は出かけた。そうしたら、はじめは古径の作品ばかりで、あれ?と思ってしまった。「小林古径 生誕130年記念」という副題に気づいたのは途中からだ。

 いや、でも古径の絵も好きだ。歴史画、人物画のイメージが強かったので、静物や花鳥画をたくさん見ることができて新鮮だった。会場のところどころに古径の語った言葉がパネルにして飾ってあったが、師の梶田半古の思い出として「先生がよく言われたのは画品ということであって、少しでも卑しい点があると酷く先生は嫌われた」という一文が印象的だった。ああ、確かに古径の作品が持つ清々しい魅力は、「画品」と呼ぶのがふさわしいかもしれない。

 私が気に入った作品のひとつは、水平に張り出した枝に柿の実った様を描いた『秌采(しゅうさい)』。まるまるとはち切れそうな柿の実の重さが手のひらに伝わってくる。その重みに耐えてたわまない、細枝の強さ。それ以外の作品でも、嫋々とあでやかな梅や桜の花に比べて、古径の描く木の枝は、どれもピンと居住まいを正しているように見える。大野寺の弥勒磨崖仏を描いた『弥勒』も好きだ。青空の下、朗らかな緑、桜の明るい白。弥勒のやさしい視線が見つめる先を、柴をかついだ農夫が通っていく。理想郷そのものみたいな絵画である。

 後半には、土牛作品が登場。花盛りの枝垂桜を描いた『醍醐』が、私は大好きなのだ。不用意に作品に近づいたら、視界がピンクの花傘でいっぱいになって、なんだかいい匂いがするようで、若い踊り子のスカートの中にもぐりこんだような気持ちになった。むかし、私はこの桜の木を「老木」のように感じていたのだけれど、何だろう、この印象の変化は。

 そして『醍醐』ほど好きではなかったはずの『鳴門』に今回は目を見張った。すごい。水流の轟音が聞こえるような気がした。もしかしたら、私が年を取って、老眼が進んだことで、同じ作品を見ても「見えるもの」が変わったのではないか、と思った。だとすれば、老境の画家たちが本当に見ていたものが見えてくるのは、これからからも知れない。楽しみだ。

 古径と土牛の、何かしら類似点のある作品を並べてみるというのは面白い試みだと思った。菖蒲。蓮。富士山。鴨と軍鶏など。古径の『観音』(横向きの肉身の観音像)、土牛の『浄心』(中尊寺の一字金輪坐像)は、どちらも敬虔な宗教心が通っていて、敢えて近代の仏画の名品と呼びたくなる。古径の『猫』は美人さんで、土牛の『シャム猫』はひょうきんだなあ。
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