見もの・読みもの日記

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科学技術政策の100年/私の1960年代(山本義隆)

2015-11-04 22:44:08 | 読んだもの(書籍)
○山本義隆『私の1960年代』 金曜日 2015.10

 昨年2014年10月に行われた講演を下敷きにしたもの。講演のあと、雑誌『週刊金曜日』から活字にしないかと誘われて、加筆して本書となった。以上の経緯は「2015年8月 2015年安保闘争の渦中で」と付記された「はじめに」に書かれている。

 著者は1941年生まれ。1960年に東京大学に入学し、安保闘争を経験した。1962年、物理学科に進学し、大学管理法(大管法)闘争に遭遇する。大学院に進み、素粒子論の研究をしながら、ベトナム反戦運動にかかわる。1968年1月、医学部の研修医制度をめぐって東大闘争が始まり、6月、安田講堂が占拠される。講堂の雑用係をしていた著者は、10月、「東大全共闘代表」に選出される。69年1月、機動隊によって安田講堂バリケードは解除され、9月に著者は逮捕される。70年10月に保釈され、71年3月に再逮捕。再保釈後は大学に戻らず、零細なソフトウェア会社を経て、予備校の仕事をしながら、科学思想史の研究と執筆を続ける。

 以上が本書に書かれている著者のおおよその軌跡であり、この間に、我が国の近現代史を踏まえて科学技術についてのさまざまな思索が入る。明治維新とともに帝国大学は、国家が必要とする官僚と技術者を育成するために生まれた。帝国大学教授は、学問ではなく国家に仕えていた。そして、日本の科学は、日清・日露戦争を経て日本が帝国主義国家に成り上っていく中で、明確に「軍事」に力点が置かれていた。それはまあ、そうだろう。ここまでは驚かない。

 問題は、その科学が、敗戦後いかなる反省もなく、民主主義と平和国家に不可欠なものとして祭り上げられ続けたことであり、そのことを批判的に見る著者の誠実さに打たれる。戦後においても公害患者は、国の経済復興のためには私的利益を放棄すべきだという強い社会通念と戦わなければならなかった。原発も同様である。原子力発電が、化学工業とどう決定的に違うのか、「安全」を主張する解析がどの点で疑わしいのかは、非常に納得がいった。

 東大全共闘の「1960年代」の資料として読んでもむろん面白い。60年安保闘争のとき、教養学部の自治委員会でアジっていたのは、哲学者の加藤尚武さんと近代政治史の坂野潤治さんだとか、お茶の水女子大出身で新聞研の研究生(この制度、当時からあったのか)だった所美都子さんの逸話とか、知らないことがいろいろあった。占拠された安田講堂が、広く開放され、誰でも中に入ることができ、徹底的な議論の場となっていたことを読んで、いまの大学が実現しようとしている「コモンズ」の機能そのものじゃないか、と思ったりした。

 もっと古い科学史でいうと、文部省科学研究費(通称、科研費)というのが、1938年(昭和13年)生産力と戦力の増強を図り、経済と軍事の要請に応えるために創設されたというのが、ちょっと衝撃だった。当時の文部大臣は、陸軍大将の荒木貞夫である。私は東大の事務職員だったことがあるので、かつて工学部の学科名が「造兵」「火薬」など、身も蓋もないほど軍事科学的だったことは聞きかじっていた。しかし、戦時下の東京帝国大学が「規模を縮小するのではなく、拡充の一途を辿っていた」ことを、関係者はよくよく認識しておくべきだと思う。今後、東大がどちらの方向に向かうかを考える上で。あと、これは東大の話ではないが、戦時下では「日本主義科学」(日本的性格を有つ科学技術)ということが提唱されていたのだという。これ、表明しているのが物理学者の長岡半太郎なんだなあ。

 どんなに優秀な科学者、技術者も、うっかりすると狂信的な国家主義者にからめとられてしまう。やっぱり人間には批判精神が必要だし、批判精神を養うには、歴史と人文科学的な教養が必要なのではないかと思った。私は、元来、全共闘の1960年代というのが大嫌いだった。しかし、2015年安保闘争を経験する中で、感じ方が少し変わってきた。本書は、1960年代の意味を再考するのに大変いいテキストだと思う。

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