〇湊一樹『「モディ化」するインド:大国幻想が生み出した権威主義』(中公選書) 中央公論新社 2024.5
インドについては、ほとんど何も知らない自覚があったので、最近、近藤正規さんの『インド:グローバル・サウスの超大国』(中公新書、2023.9)を読んでみたばかりである。同書は、現在のインドの強み・急成長の理由を解き明かしつつ、山積する政治・社会問題の数々も指摘していた。ちょっとインドに(怖いもの見たさの)興味が湧いたところで、本書の存在がネットで話題になっていたので読んでみた。
タイトルからも分かるとおり、本書はインドの「問題局面」に焦点を絞っている。「世界最大の民主主義国」と呼ばれてきたインドは、モディ政権のもとで、急速に権威主義化している。スウェーデンの民主主義の多様性(V-Dem)研究所は、2020年3月の年次報告において、世界的な傾向として権威主義化が進行しているとの見方を示すとともに「インドは民主主義のカテゴリーから脱落する寸前にある」と指摘しており、インド政治や比較政治を専門とする研究者の間では「インドを民主主義国と分類することはもはや不可能であるという認識」が共有されているという。
本書は、モディの「生い立ち」(の語られ方)に始まり、彼が権力を掌握してきた過程を振り返る。90年代から続く不安定な連合政治を背景に「強いリーダー」を求める意識が国民にあったこと、モディの地盤であるグジャラート州の経済発展が喧伝されたこと(実態はともかく)、不都合な事実は隠蔽し、イメージ作りを重視する姿勢などが指摘されているが、日本の政治状況にも共通することが多すぎて、暗い気持ちになった。
2014年の総選挙で会議派(インド国民会議派)に勝利したBJP(インド人民党)は、2019年の総選挙でも圧勝した。ここではメディアへの監視と抑圧、大規模かつ組織的な情報操作(SNS上に100万人の実働部隊がいるとも)が行われ、映画や映画俳優もモディの「ワンマンショー」政治を盛り上げるために動員された。選挙に勝つためには手段を選ばないモディ政治を、本書は「選挙至上主義」と呼んでいるが、これも日本について思い当たるところが多い。民主主義の伝統が浅いと、民主主義イコール選挙という短絡の図式ができてしまうのだろうか。
本書の第5章は、インドの新型コロナ対策のの顚末を詳述しており、たいへん興味深かった。権威主義的な体制であるにもかかわらず、インドのコロナ対策は「失敗」している。不十分な保健医療体制、貧困層の多さなど、途上国共通の問題があったことは確かだが、秘密主義と事前調整の欠如、計画性のない場当たり的対応、責任を回避しようとする姿勢などが事態の悪化に拍車をかけたという。特に経済対策では、直接現金給付など貧困層の生存と最低限の生活水準を確保するための政策が軽視されていた。インド憲法には、貧困層を含む全ての国民の生存を国家が保障する「生存権」の規定があるが、ヒンドゥー至上主義のモディ政権にはその観念が薄い。全ての国民が享受すべき権利を「善意」や「思いやり」「施し」の問題にすり替えることで、政府の不作為を正当化しようとしている。モディは「義務」については頻繁に語る一方、「権利」に言及することはきわめて少ないという。
また現政権の「専門知の軽視」は、コロナ対策以外でも見られるもので、「エビデンスに基づく政策づくり」と言いながら、実態は「政策に基づくエビデンスづくり」が行われているというのも、笑えない笑い話である。このへんも日本の話のようで頭が痛い。しかし、コロナ禍での日本政府による一律現金給付は、今となっては評判が悪いが、やらないよりはよかったんじゃないかという気がしてきた。
このように問題山積のインドだが、中国を意識した安全保障分野での協力や、経済分野での関係強化を重視する西側諸国は、インド国内の人権侵害(特にイスラーム教徒への暴力)に目をつぶっており、モディ政権は、国際舞台での脚光を国内政治の支持拡大に利用している。日本の外交・メディアは「民主主義国家・インド」への願望を投影しすぎて、インドの実像が見えなくなっている。これは然りだが、一方で、民主主義の解体と衰退は、もはや世界史的な潮流かもしれないという諦念が頭に浮かぶ。アメリカも日本も、いつまで「民主主義国家」を名乗れるかは危うい感じがする。
なお、ちょうど本書を読み進んでいる最中に、証券会社のお姉さんから「インド株を買ってみませんか?」と勧められた。ニコニコして「私、インド映画も大好きなんですよ!」とおっしゃっていたが、「今は止めておく」と回答した。