見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

訴訟社会の伝統/訟師の中国史(夫馬進)

2024-06-01 23:22:55 | 読んだもの(書籍)

〇夫馬進『訟師の中国史:国家の鬼子と健訟』(筑摩選書) 筑摩書房 2024.4

 訟師とは、近代以前の中国で人々が訴訟しようとするとき、訴状の作成などを助けた者たちである。大半の読者にとって「訟師」とは初めて聞く言葉であろう、と著者は冒頭に述べている。確かに私も聞いた記憶がない。ただ、2023年公開の中国ドラマ『顕微鏡下的大明之絲絹案』(天地に問う)で程仁清という人物が「状師」を名乗っていたので、中国語のサイトで調べたら「状師。又称訟師」と出て来たことは記憶にあった。なので、実は本書を読みながら、ずっと脳内で訟師には程仁清(を演じた王陽)のイメージを当てていた。

 訟師の評判はよくない。真実を嘘とすり替え、無実の人に濡れ衣を着せ、必要のない訴訟を起こして大儲けをする社会のダニで、訴訟ゴロツキ(訟棍)とも呼ばれていた。しかし例外的だが、庶民の訴訟を助ける訟師を評価する者もいた。

 中国は伝統的に「健訟(さかんに訴訟する)社会」で、歴代政府(宋代以降)は訴訟の多発に悩み、訟師を排撃し続けてきた。本書には明清時代の訴訟と裁判制度の詳しい解説もあり、ドラマ視聴で得たぼんやりした認識を整理できて、ありがたかった。司法の統括は、中央政府-省(総督、巡撫-按察使)-道(分巡道)-府)(知府)-州(知州)-県(知県)となり、各級に衙門が置かれた。日本(江戸時代)は原則一回しか裁判を受けることができなかったのに対して、中国では各級どこでも訴状を受け付けた。下級官庁が訴状を受理してくれないとき、あるいは判決に不満なときは、さらに上級官庁に訴え出ることができた。ただし訴訟を受け付けてもらうには、さまざまな名目の手数料を支払う必要があった。地方衙門は健訟に悩みつつ、訴訟に依存する構造も持っていたのである。

 衙門に訴状を取り上げてもらうには、デタラメをまじえても事件を「盛る」必要があった。そこで訟師の出番である。国家がこれを放置していたわけでなく、雍正7年には官代書の制度が定められる。衙門に提出できる訴状は官代書が書いたものだけとし、もぐりの代書である訟師の断絶を図った。しかし実効は上がらなかった。

 中国の伝統的な司法制度は国家権力に泣きつく側面があったので、訴訟では、相手がいかに悪辣かを訴える必要があった。儒教の伝統的な理念では、皇帝およびその代理人である地方衙門は「民の父母」として、人民の争いや無念の思いをすべて受け付けることが求められた(この「理念」は、少なくともドラマの中では現代の民事警察にも受け継がれているようだ)。しかし現実には訴訟件数が多すぎて、些細な争いでは裁判をしてもらえなかったので、民事を傷害や殺人事件に偽装することがしばしば行われた。

 乾隆年間には私代書の取り締まりが一段と厳しくなり、「積慣の訟棍」(訴訟幇助の常習犯)を重罪に処することが定められる。ところが嘉慶帝は、親政を始めた直後、全国で冤罪に苦しんでいる者は誰でも京控(北京の衙門に訴え=皇帝に直訴)してよい、いかなる訴状も拒絶してはならない、という上諭を発する。現場の事務処理能力を度外視した、こういう理想主義者の上司は困ったものだ。しかしその結果、地方都市と北京の間に京控のルートとネットワークが形成されたり、現在、北京の中国第一歴史檔案館には大量の訴状が残っているというのはおもしろい。

 その後、清末から近代的な訴訟制度が採用されると、ヨーロッパ起源の法律家は、上海では律師(状師)と呼ばれるようになる。新しい訴訟制度では、訴状は簡単な条件さえ満たしていれば受理されることになり、訟師は存在意義を失ってしまう。

 しかし中国社会の「健訟」ぶりは変わっていない。特に2005年前後から「訴訟爆発」と「案多人少」が言われるようになった。対策として「先行調解」(調停)に誘導する措置が取られているそうだが、それでも訴訟は激増しているという。中国人の裁判好き(弁論好き?)の長い伝統は、なんとなく納得できるところがある。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京建築祭2024:丸の内+日本橋 | トップ | 21世紀に続く戦後処理/日ソ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読んだもの(書籍)」カテゴリの最新記事