見もの・読みもの日記

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騎馬遊牧民の興亡/スキタイと匈奴 遊牧の文明(林俊雄)

2017-01-24 23:40:54 | 読んだもの(書籍)
〇林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』(興亡の世界史)(講談社学術文庫) 講談社 2017.1

 2006年から2010年にかけてハードカバーで刊行された「興亡の世界史」が、いつの間にか文庫本になっていた。私は、このシリーズがけっこう好きで、数えてみると全21巻のうち7冊は読んでいるのだが、本書をスルーしてしまったのは、「遊牧の文明」にあまり関心がなかったせいだと思う。今回は、タイトルだけで心が動いて、すぐ購入してしまった。

 本書の前半は「スキタイ」を、後半は「匈奴」を扱う。スキタイは、名前の知られている騎馬遊牧民としては最も古い存在の一つであり、前8/前7世紀から前4世紀にかけて活動した。著者はこれを「草原の古墳時代」と呼ぶ。ちなみに中国は春秋戦国時代、西アジアはアッシリア帝国が滅んだすぐあとで、アケメネス朝ペルシアと同時代である。こんなに古い遊牧文明があったのかと認識をあらためる。実は「興亡の世界史」シリーズは、従来の「世界史もの」に比べて騎馬遊牧民を重視した構成になっているのだそうだ。「従来の歴史学では、騎馬遊牧民に関する叙述は、その重要性にもかかわらず、多くはなかった」と語られているが、確かに私も世界史の授業でスキタイについて学んだ記憶は全くない。

 はじめにスキタイが登場するのはカフカス(コーカサス)と黒海北方の草原地帯、西アジアであるが、よく似た文化が中央アジア北部からモンゴル・中国北部まで分布しているので、それらを含めて「広義のスキタイ」と呼ぶこともある。ヘロドトスの『歴史』は、黒海北岸のスキタイについて記述しているが、考古学的調査によれば、東方の内陸アジアに出現したスキタイのほうが早く、彼らが他の騎馬遊牧民に追われて、西アジアに移動してきたと考えられている。

 スキタイを他の文化と区別する特徴は「動物文様」「馬具」「武具」にある。動物文様については、本書は写真図版が豊富で(白黒だけど)分かりやすい。「草食獣の脚を前後から折りたたむ」などは「スキタイ以外の美術には見られない」のだそうだ。こういう特徴を知っていると、古代の美術を見ても面白いだろうな。時代による変化もあって、西部では、後期(前4世紀後半~)になるとギリシアの影響が顕著になり、グリフィンが登場する(鷲グリフィンと獅子グリフィンって初めて知った)。それから、北カフカスと黒海北岸のスキタイ古墳で発見されている石人も面白い。

 前4世紀、黒海北岸のスキタイは、東方から移動してきた新たな遊牧民の圧迫により衰えていく。一方、中国北方の草原地帯には匈奴が出現する。匈奴については『史記』『漢書』の記述が中心となり、張騫とか李陵とか霍去病とか、知っている名前が頻出するので、正直なところ、前半より格段に読みやすかった。しかし、これまでは中国の側から匈奴を見た歴史しか知らなかったので、本書のように、単于(匈奴の君主)の系譜を丁寧に追っていくような記述は初めてで、とても面白かった。初代頭曼単于、2代冒頓単于(最も有名)から、22代蒲奴単于まで、漏れなく記述されており、匈奴集団がひとつの国家であり王朝だったことを実感する。

 この時代、内陸アジアではさまざまな小国家の興亡があり、匈奴の中でも分裂や権力争いがあった。漢人と匈奴の関係は、絶対的な敵対ではなくて、匈奴が才能ある漢人をほしがるとか、逆に匈奴が漢の傭兵となるとか、食うに困った漢の貧民が匈奴の側に逃亡するとか、いろいろな交流があったようだ。そうやって文化は混ざり合ったんだろうな。また、武帝の西域経営がかなり高圧的だったことや、それでも漢との関係はまだよかったが、王莽の新は漢民族中心主義を強行したため、異民族との外交関係が険悪になったことは初めて知った。かの有名な王昭君には云(うん)という娘(単于の死後、再婚後の娘)がおり、云は漢との和親交渉に献身したが、長安に連行され、漢の復興を目指す軍隊によって、王莽とともに殺されてしまう。なんと、王昭君より悲劇的な女性ではないか。

 匈奴は南匈奴と北匈奴に分裂し、南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むようになる。一方、北匈奴は後漢の記録から消えてしまう。そこで、この北匈奴の後裔が「フン族」ではないかという説が生まれた。むかし、高校の世界史でこの説を聞いたときは、大陸の東と西がちゃんとつながっているんだということを実感して、少し感動したことを覚えている。しかし、この説について、著者はさまざまな議論を紹介しながら、慎重な立場を取っている。

 中央アジアの本格的な考古学的調査は、まだ始まったばかりで、さまざまな可能性が残されているように思う。本書「考古学からみた匈奴時代」の章には、1978年、北アフガニスタンで見つかった六基の墓とおびただしい金製品のことが紹介されている。これは、昨年2016年、東博の『黄金のアフガニスタン』展に来ていたものだ、とすぐに思い当たった。「学術文庫版のあとがき」には、原著(2007年)刊行後の発掘調査の主な進展が記載されている。これらも、やがて、展示会などを通して、私たち一般市民の目に触れる機会があることを願っている。

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