見もの・読みもの日記

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新聞報道と流言/関東大震災「虐殺否定」の真相(渡辺延志)

2021-08-11 14:38:57 | 読んだもの(書籍)

〇渡辺延志『関東大震災「虐殺否定」の真相:ハーバード大学教授の論拠を検証する』(ちくま新書) 筑摩書房 2021.8

 著者は主に歴史分野を対象とするジャーナリスト。知人の学者から、ある論文のレビュー(書評)を書いてほしいとの依頼を受ける。論文の著者は、ハーバード大学ロースクールに籍を置くラムザイヤー教授だった。昨年「慰安婦は合意契約した売春婦である」という趣旨の論文を発表し、論議を呼んだ人物である。ただし本書で取り上げるのは慰安婦論文ではなく、関東大震災における朝鮮人虐殺に関するものだ。

 その論文は「Privatizing Police: Japanese Police, the Korean Massacre, and Private Security Firms(警察の民営化:日本の警察、朝鮮人虐殺、そして民間警備会社)」(The Harvard John M. Olin Discussion Paper Series:1008, 2019/06)というもので、本書は、かなり丁寧に内容を紹介している。私の理解では、「公共の治安は公共財であるから、国家は基本的な治安サービスを公費で住民に提供する」「機能不全に陥った社会では、政権が治安装置(警察)を利用して自分たちの利益を引き出そうとすることもある」「機能不全に陥った社会では、人々は、公共の警察が提供する治安を補完するために(あるいは公共の警察から自分を守るために)追加的な治安を購入する」という論旨らしく、この見解に異論はない。

 論文は、はじめに治安装置としての警察の機能を解説し、明治維新以降の日本の歩みを簡単に紹介する。それから関東大震災における自警団の治安維持活動、その結果として発生した朝鮮人虐殺について論じ、最後に戦後日本の警備産業について述べる。正直、この紹介を読んでも、関東大震災に関する記述(分量的には論文の過半を占める)が、冒頭の論旨とどうつながるのか分からなくて、ぽかんとしてしまった。

 本書の著者も同じように感じたらしい。さらに大きな問題は、ラムザイヤー論文が「朝鮮人が放火をした」「井戸に毒を投げ入れた」等の流言を「嘘ではなかった」ものとして扱っており、虐殺を「正当な自衛行為」とみなす余地を与えていることである。これについて著者は、2008年に内閣府・中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」(※資料)がまとめた報告書をラムザイヤー論文が参照していないことに強い疑義を呈している。この報告書の存在を私は初めて知ったのだが、「本事業の目的は歴史事実の究明でなく、防災上の教訓の継承である」ことを基本姿勢とした意義深いものである。内閣府もいい仕事をしているのだな(福田内閣時代の仕事らしい)。

 続いて著者は、ラムザイヤー論文が引用した当時の新聞記事を検証していく。「長野」「高崎電話」などの短いクレジットから、記事の情報源と伝達ルートを推測し、信頼性を評価する試みには、著者の記者経験が活かされており、興味深かった。震災直後、鉄道の線路に沿って全国を結ぶ通信網(東海道線と中央線は不通だったため、信越線の回線が頼り)が大きな役割を果たしたことを初めて知った。

 当時の新聞報道については「関東大震災下の『朝鮮人』報道と論調」(三上俊治、大畑裕嗣、1986-87、東京大学新聞研究所紀要 35-36)という研究がある。1088件の新聞記事を東大の大型コンピュータで集計、分析したものだ。その結論は、新聞が、流言を事実であるかのように報道して読者に誤った状況認識を植え付けただけでなく、事実無根の流言と判明した後も、これを積極的に打ち消し、読者に正しい認識を与えようとする努力を示さなかった等々、きわめて厳しい。なお、仙台に本社を置く河北新報は「朝鮮人による暴行」流言記事の割合が全国平均を大きく上回っており、東京からの避難民の談話に取材したことと関係づけられているのも興味深い。

 著者は、自らの不明を恥じつつ、三上・大畑論文を「これまでに読んだことはなかった」ことを率直に告白している。その背景には、虐殺事件に対する日本社会の関心の乏しさ、理解しがたい残虐さから目をそむけたいという欲望があるのだろう。この点を、戦友会=兵士の戦場体験を封じ込める仕組みからの類推で論じた箇所にも考えさせられた。

 あと個人的な感想としては、いま大学の紀要類はオープンアクセスで入手できるのが標準と思っていたので、新聞研究所紀要のバックナンバーがネット上に公開されていないことが地味にショックだった。人文社会科学分野では、過去の研究成果にも価値あるものが多いと思う。もっと公開を進められないものだろうか。

 なおラムザイヤー論文は、その後、大幅に改訂されたものが別の媒体に掲載され、本書に紹介された版はネット上では入手不可(コピーリクエストは受付)になっていることを付け加えておく。


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