見もの・読みもの日記

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ファンダムの可能性/実験の民主主義(宇野重規)

2024-09-08 21:23:51 | 読んだもの(書籍)

〇宇野重規;聞き手・若林恵『実験の民主主義:トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ』(中公新書) 中央公論新社 2023.10

 宇野先生の著書は『〈私〉時代のデモクラシー』『民主主義とは何か』などを読んできたので、だいたいどのような内容が展開するか、想像ができた。本書は、まず19世紀の大転換期を生きたフランスの貴族トクヴィルが、1831年にアメリカに旅行し、まさに民主主義がゼロから作られていく様子を目にして考えたことの検証から始まる。旧著『民主主義とは何か』でも紹介されていた論点である。

 トクヴィルは「平等化」が世界を覆うことになる趨勢にいちはやく気づいた。平等化は必然的に個人主義をもたらし、人々は孤立化する。そこで社会を解体から救う、もう一つのベクトルが「結社=アソシエーション」である。トクヴィルの見たアメリカの人々は、困ったことがあれば、個人が協力し合って解決する習慣を持っていた。このアソシエーションの習慣があれば、個人主義の負の趨勢には対抗できる。

 宇野先生はトクヴィルの結社論を「デモクラシーのなかにデモクラシーとは異質の原理を保持する要素を埋め込むことにあった」と解説する。これは理論としては魅力的だが、国や地域によって結社の伝統が異なるのでなかなか難しい。また、現代は、暴力的で人種差別的なアソシエーションが勢力を伸ばしているようにも感じられる。

 ここで聞き手の若林恵さんが、アニメやアイドルの「ファンダム」にも可能性と危険性が観察されることを挙げていて、面白かった。若林さんの名前は本書で初めて知ったのだが、編集者・音楽ジャーナリストであり、GDX(行政デジタル・トランスフォーメーション)にも関わっている方だという。宇野先生が歴史の側から読み解いた事項を、若林さんが現代のデジタル技術やゲーム・アニメの趨勢から解釈していく。この異文化交流が本書の醍醐味になっている。

 よい意味での「ファンダム」は、参加者が互いに助け合いながら学び合う空間であり、「政治=選挙=動員」ではない、民主主義の新たな実践を生み出す可能性がある。若林さんは、台湾のIT担当大臣オードリー・タンの言葉を紹介して、我々は「リテラシー」の時代から「コンピテンシー」の時代に移行しているのではないかと問う。「リテラシー」が思考・意志を中心とする「ルソー型の民主主義」であるとすれば、「コンピテンシー」は行動・実行を重視する「プラグマティズムの民主主義」である。

 この「プラグマティズム」の意味も、本書では何度も問い直され、彫琢される。デジタルコミュニティでは、旧来の「DIY: Do it yourself」ではなく「DIWO: Do it with Others」(他人と一緒にやる)が、すでに日常化している。アートの世界でも「天才的な個人に基づく芸術」というロマン主義的な神話が退潮し、「コラボレーション」に価値が見出されるようになっている。リテラシー重視の政治運動では、いちいち参加資格が問われたが、コンピテンシーに基づくデジタル民主主義は「何ができる?」から始まる。応援するだけでも、人の話を聞くだけもいいので「何もできない人はいない」。もちろん「それぞれ好きなことをやってみよう」を紡ぎ合わせていくのは難しいことで、多くの人が「面白い」と思うことは、数の暴力にさらわれる危険性もある。それでも、オンラインゲームやファンダムは、コラボレーションの練習装置になるのではないか、という指摘には、とても魅力を感じた。

 余談になるが、政党の話も面白かった。ヨーロッパの政党はクラブ的なもの(趣味的なつながり)から始まり、次第にイデオロギー化した。日本の場合は、イデオロギー的な政党が先に生まれ、むしろそれを中和するかたちでクラブ的な政党(政友会など)が生まれた。今でも保守政治家にはそういう文化が強いのではないか、と宇野先生。安倍晋三は、保守のボーイズクラブ的な感覚をポピュリスト的な手法にうまくつなげることのできた最後の政治家ではないか、とも。私が日本の保守政党に感じる不快感の源泉が分かったような気もした。

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