〇宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書) 講談社 2020.10
民主主義という言葉には、古代ギリシア以来、2500年以上の歴史があるから、意味する内容が歴史の中で変化したり、矛盾する意味が込められていてもおかしくない。本書は「民主主義とは何か」という問題に歴史的にアプローチし、古代ギリシアにおける「誕生」、近代ヨーロッパへの「継承」、自由主義との「結合」、そして20世紀における「実現」を検討する。
古代ギリシアについては、橋場弦氏の『民主主義の源流:古代アテネの実験』を思い出す記述が多かった。著者は橋場氏の本から「参加と責任のシステム」という着想を得たと述べている。著者はギリシア人の発明の要諦を「公共的な議論によって意思決定をすること」「公共的な議論によって決定されたことについて、市民はこれに自発的に従うこと」とまとめている。
ヨーロッパへの「継承」では、イタリア、イギリス、フランスなど諸国の動静を参照する。フランシス・フクヤマは、ヨーロッパの政治史を「集権化する国家とそれに対抗する社会集団の間の対決の物語」と見なしている。国家と社会の平和的な均衡という「狭い回廊」を最初にくぐり抜けたのはイングランドで、議会制によってそれを実現した(一部特権者の議会であったけれど)。英国と異なり、貴族と地主、中産階級と農民が連帯できなかったフランスの政治は不安定で、革命の勃発を招いた。国民の分断は、結局、国を弱くするのだな。
同じ頃、アメリカ合衆国が誕生する。「建国の父」たちは「純粋な民主政」よりも「共和政」を好んだ。多くの人民の直接的な政治参加は党派争いを産みやすく、選ばれた少数のエリートが公共の利益を目指す共和政のほうが大国にはふさわしいと考えたのだ。この比較はとても興味深かった。日本人は民主の反対は専制だと思いがちだが、この「共和」という概念をもう少し学ぶ必要があると思った。
アメリカ建国の父たちは民主主義に警戒を抱いていたが、その後、19世紀前半のアメリカを訪れたトクヴィルは、社会のさまざまな側面における平等化の趨勢、人々が自らの地域課題を自らの力で解決しようとする意欲と能力に「デモクラシー」の可能性を見出す。トクヴィルは「デモクラシー」を政治制度だけでなく、人々の思考法や生活様式に求め、平等な個人が対等な立場で協力し、自由な社会を打ち立てることを願った。
しかし20世紀以降、2つの世界大戦の経験を経て、民主主義は、さまざまな視点からその根拠が問い直される。カール・シュミットの「独裁は決して民主主義の決定的な対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物ではない」は重い。以下、フロム、シュンペーター、ロバート・ダール、アーレント、ロールズなどの論が紹介されている。
読み終えて感じるのは、民主主義という不思議な言葉の曖昧さと実現の困難さ(著者も同様なことを述べている)、にもかかわらず2500年の歴史に耐えたしぶとさである。日本社会においては、かつて「戦後民主主義」という言葉が持っていた無垢の輝きが失われて久しい。だが、失われた輝きを懐かしむことも、民主主義批判にことよせて、違う何かを批判することも虚しい。それよりも今のわれわれに必要なのは、トクヴィルが見たアメリカのように、参加と協力という、デモクラシーの練習問題をひとつずつ解いていくことではないかと思う。