goo blog サービス終了のお知らせ 

見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
【はてなブログサービスへ移行準備中】

異を恐れ神威にすがる/江戸のコレラ騒動(高橋敏)

2021-03-12 23:26:47 | 読んだもの(書籍)

〇高橋敏『江戸のコレラ騒動』(角川ソフィア文庫) KADOKAWA 2020.12

 東日本大震災のあとは、地震に関する歴史研究を好んで読んだ。いまは新型コロナの影響で、感染症の歴史に興味が湧いている。本書は『幕末狂乱(オルギー) コレラがやって来た!』(朝日新聞社、2005.11)の改題だが、巻頭の著者の「はじめに」と巻末の小松和彦氏の「解説」は、文庫版のために書き下ろされたもので、どちらもコロナ禍の中で本書を読む意味について語っている。

 コレラは(1)罹患してからの死亡率が高い(2)発病してから死に至るまでが迅速(3)患者の症状が異様、という点で、人類がかつて経験したことのない伝染病だった。そのため人々は、草創期の近代医学に向かうよりは、ありとあらゆる旧来の呪術・宗教儀礼に救いを求めることになった。コレラの大流行は19世紀中、5次にわたった。日本を襲ったのは、まず1817年に始まる第1次大流行で、文政5年(1822)に日本に上陸し、西日本を中心に広がったが、沼津辺りで止まった。次が第3次大流行で、安政5年(1858)に長崎に上陸し、江戸に達した。

 はじめに著者は、東海道三島宿に近い桑原村の名主・森家に伝わる「年代記」を題材に、幕末に生きた人々の意識を探っていく。信州善光寺大地震、安政大地震・大津波、さらに大水・大風・江戸の大火など、天変地異や災害の記録が相次いだ幕末、嘉永7年(1854)にはペリーの率いるアメリカ東インド艦隊が江戸湾に来航し、万延元年(1860)にはイギリス公使オールコックが富士登山を試みる。こうした「異」の侵入に対して、人々は不安とともに、旺盛な好奇心を抱いていた。

 そこに安政5年のコレラ大流行である。村人は鉄砲を撃ち、鉦や太鼓を鳴らし、鬨の声をあげて村内の神々を巡拝した。若者組は伊豆の国の一の宮、三島明神に早朝はだか参りをした。前近代では、神社仏閣が、危機における心のよりどころだったことが分かる。さらに人々はコレラを、幕末の不安の元凶である「異」と合体させ、日本人を取り殺す「アメリカ狐」「千年モグラ」(唐のイメージ)のしわざと考えた。

 駿河国富士郡大宮町の一町家の日記には「くだ狐」「千年モグラ」に加えて、イギリス船が「疫兎」を放ったという風聞が記録されている。いまの新型コロナについて、生物兵器説を唱える人々と似ていて苦笑した。狭い島国・日本にとって、疫病が「外国から持ち込まれるもの」という認識は、古代から沁みついているのだろう。大宮町では、くだ狐を退治するため、武州三峯山へ御犬様借用を願い出る。「生(しょう)に見ゆる御犬」を借りたいと頼むが、結局「カゲ」(お札)を頂戴することになる。調べたら、三峯神社では、今でも「御眷属拝借」の制度があるのだな。面白いなあ。

 大宮町に近接する下香貫村、深良村は、京都の吉田神社を勧請することした。代参の者たちは、コレラが猛威をふるう東海道を京都へ向かう。吉田神社では、きわめて高額な祈祷料と引き換えに(コレラ大流行を利用したぼったくりである)祈祷した御小箱を受領された。吉田家は江戸幕府と結びつき、全国の神社を傘下に収めかけたが、江戸時代後期になると、名門白川家が巻き返しを始めた。これに対抗する吉田家は、江戸に出張役所を設け、東国・関八州への勢力拡大を図ったいた。駿河国の村人が、京都吉田神社の勧請を決めた背景には、このような神道界の情勢もあったという。吉田神社は、八角形の大元宮が興味深くて見に行ったことがあるが、いろいろと生臭い神社である。神道界が、古来ひとつでなかったことがよく分かったのは、意外な収穫だった。

 また本書には、江戸の人々がコレラを洒落のめしたジョークやパロディが多数収録されている。百人一首のもじり「あきれたのかかあにしなれ そのあとはわがこどもらもすぐにしにつつ」は上手いと思ったので書き留めておくが、こういう神経の太い笑いは、もう生まれないのかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする