〇鈴木淳『科学技術政策』(日本史リブレット100) 山川出版社 2010.6
昨年、日本学術会議の任命問題が世間を騒がせたとき、日本の科学技術政策を歴史的視点で考えるならまずこの本、という誰かのつぶやきを見て、読んでみた。本書は、明治初年に「科学」「技術」という言葉ができてから、我々になじみのある科学技術政策が発足するまでの歴史的過程をたどったものである。
明治3年(1870)明治政府に設置された工部省は、製鉄、鉄道、電信などの工業を所管するとともに、工部大学校における研究と教育など、工業技術振興の幅広い権限を与えられる。明治6年(1873)に設置された内務省の勧業寮は、勧業・勧農事業を所管し、工業試験事業も開始する。明治14年(1881)には農商務省が誕生し、農商工諸産業を管轄することになった。この乱立状態に文部省が登場し、工部大学校、駒場農学校を帝国大学に編入し、東京職工学校(のちの東工大)を開設する。文部省は、あらゆる分野の学校教育を自省の管轄に収めることに熱心だった。確かにそのほうが、教育事業としては効率的だが、現場の技術から切り離された大学は、科学の担い手の色彩を強めたと著者は指摘する。
大正年間、科学の産業利用を目指した科学者たちの建議と運動によって、大正5年(1916)理化学研究所が発足する。しかし、基礎研究を推進する役割は果たしたものの、国内産業への貢献では、工業試験場に及ばなかったという。なかなか現実は厳しい。
東京学士会院は、先進国のアカデミーを模して明治12年(1879)に発足していたが、大正8年(1919)文部省の管轄のもとに設置されたのが学術研究会議である。初代会長は土木学者の古市公威で、政府が新たに研究所・試験所等を設置する際は、無益な重複を避けるため、あらかじめ学術研究会議に諮詢するよう求めたという。ああ、現在の「マスタープラン」の淵源だな、と思った。しかし「(第一次)大戦後の財政事情が悪化する時期にあたり、実効は乏しかった」「経費節減のなかで国家的に重要な研究課題を選択し、研究を統制することがめざされた」という当時の状況は、あまりにも今と似ている。この頃、研究奨励費の削減を挽回するために設立されたのが日本学術振興会。
日中戦争開始後、国防のための「科学動員」を積極的に打ち出したのが企画院で、これに刺激された文部省は、学術会議の会長である平賀譲(帝大総長)を軸に、科学振興に大きく踏み出す。昭和15年(1940)には「科学技術新体制」の名の下に技術院が発足し、昭和17年(1942)科学技術審議会が設置される。しかし、技術院は、在来の官庁を刺激し、科学技術への取り組みを積極的にさせた効果はあったものの、それ以上の成果は生み出せなかった。戦後、人々は「合理的な体制」の不備に戦争の敗因を求めたが、「単一な指揮系統で総動員ができたとしても、当時の日本の資源や科学技術の限界から、それほど結果は変わらなかったと思われる」という、実に身も蓋もない指摘こそが、真実のように思われる。
しかし「科学」は希望の言葉となり、GHQ科学技術課の支援のもと、日本学術会議が発足する。1956年には科学技術庁が発足し、科学・技術政策の立案・調整と、原子力、航空、のちに宇宙開発という国家的な大規模技術開発を担うことになる。初代長官は正力松太郎なのかー。学術会議は、科技庁が原子力行政を担当することに反対したというのはなぜなんだろう。このへん、もう少し詳しく知りたい。宇宙開発をめぐっても、科技庁と文部省・大学の対立があって、1968年には科学技術基本法案が廃案になっているという。今では想像がつかないが、当時の文科省は大学と歩調を合わせていたということか。
1995年に科学技術基本法が成立し、5年ごとに科学技術基本計画が策定されることになった。2013年には科学技術イノベーション総合戦略が決定し、以後、国の施策では「科学技術」に「イノベーション」を添えるのが定番となった。著者は「科学技術政策はイノベーション政策のなかに埋没しつつあるかのようだ」と批判的である。明治以来の「科学」と「技術」の主役争いが落着し、両者が一体化したところで、新たに出現した「イノベーション」という異分子。果たしてこれも一体化していくのか、それとも一時の流行に終わるのか分からないが、言葉の物珍しさに騙されないよう気をつけたい。