見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

進化と適応と未来/クマに会ったらどうするか(玉手英夫)

2016-08-03 22:29:58 | 読んだもの(書籍)
○玉手英夫『クマに会ったらどうするか:陸上動物学入門』(岩波新書) 岩波書店 1987.6

 このところ人文社会科学の本が続いていたので、毛色の違う本が読みたくなった。岩波新書(黄版)の「アンコール復刊」(2015年9月)で見つけた1冊。全く知らないタイトルだったが、挿絵が多くて面白そうだったので買ってみた。著者の専門は家畜形態学。本書は、陸上動物相の最も重要な構成員である羊膜類の、過去約三億年の進化の記録と、その知られていない生理・生態学的適応の在り方などを紹介したものだという。ただしこれは本文を読み終えてから、「あとがき」で見つけた要約。

 タイトルにだまされて、すぐにクマの話になるのかと思ったら、古生代から始まり、ようやく陸上生物が登場して、樹上から地上に降り、穴(地下)へ海へと広がっていく。1冊の半分くらいで、まだ恐竜の話をしている。まあ私は進化や古生物に興味があるからいいけれど、オビの文句「身近な動物の生態を楽しく語るエッセイ」は半分しか当たっていない。本書は、身近な動物の生態を、生理的な適応・進化の観点から語るところに魅力がある。

 印象に残った話をいくつか。樹上生活と地上生活の違いについて。リスなどの小型動物は基礎代謝量が多いので、樹に登る場合でも、そのための代謝量の増加は大きくない。一方、体重の重い大型動物は垂直移動によるエネルギー要求がきついので、樹の上り下りを好まず、主に地上で生きている。しかし、オナガザルや類人猿は、いちど地上性になったものが、樹に登りなおしたとみられている。やがて人間へ進化したグループは、樹に登りそこねた大型のサルだったことになる。

 基礎代謝量の高い小型動物は、体重の割に大量の餌を必要とする。餌のコストを考えると、ウシのような大型動物に比べて、ウサギのような小型動物は肉畜に向かない。もしウシのような大型動物が、マウス並みの代謝速度だったら、背中に置いた薬缶でお湯が湧かせるのだそうだ(笑)。逆に、哺乳類の同一種族では高緯度地方(寒冷地)ほど個体が大型化するという。なるほど、ヒトもそうかもしれない…。

 トリの肺は、哺乳類と違ってそれ自体収縮せず、空気の取り入れは、体の各所にある気嚢を拡張・収縮して行っている。ガス交換の効率が非常によい。だから、気圧の薄い高空も悠々と飛んでいられるのである。一方、ウミヘビには必要な酸素の三分の一を皮膚から取り入れることができるので、長い間、頭を海中に入れていることができる。

 恐竜については「最近、米国、コロラド大学博物館の若手恐竜学者、R・T・バッカーは、恐竜類が温血、すなわち内温性であると主張している」とある。そう、現在では(学界はよく知らないが、映画では)恐竜=温血動物説がすっかり普通になっているが、当時はまだ、批判や疑義があったようだ。1980年にまとめられた(バッカーの)報告について「批判の強さが想像できる」ともある。

 カナダ・オタワ市の自然科学博物館には、ステノニコサウルス(体長1メートル位の小型恐竜、トロオドンとも)の模型とともに、もし恐竜が生き残って進化を遂げていたら、という想定によるステノニコ人の模型が置かれているという。確かに、今の進化の道筋が「必然」で、ヒトが「万物の霊長」であるという考えを捨ててみるのはいいことだと思う。

 ステノニコ人が出現しなかったのは、彼らが進化の機会をつかめずに絶滅してしまったためだ。恐竜の絶滅の原因は解明されていないが、セプコスキーとラウプが、約3500科の海生生物の化石について地質的な存続期間をコンピュータに計算させたところ、2600万年ごとに絶滅が起こるという規則性を発見した(1983年発表)。これに反応した天文学者が、未知の連星が、2600万年ごとに約70万年間、太陽系に彗星雨を降らせる、という仮説を提出した(1984年発表)。最近の絶滅が約1500万年前に起こったとすれば、次の絶滅期は1000万年後にやってくる。著者はさりげなく「一体どんな陸上動物が生きてそれを仰ぎ見るのであろうか」と書いているけど、やっぱりヒトは存在しない可能性が大きいのかなあ。たまには身近な問題を忘れて、法螺話みたいな遠い未来に思いを馳せるのはいいことである。
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試される理性/原発プロパガンダ(本間龍)

2016-08-03 00:19:18 | 読んだもの(書籍)
○本間龍『原発プロパガンダ』(岩波新書) 岩波書店 2016.4

 2011年3月11日の福島第一原子力発電所事故以前、国内のほとんどのメディアは原発礼賛広告または翼賛記事を大量に掲載・放映し、国民的洗脳に加担してきた。本書は豊富な事例に基づき、その実態を検証したものである。はじめに電力9社が、この40年間にわたり広告に費やした予算(普及開発関係費)の総額が2兆円を超えることが示される。完全な地域独占企業体である(あった)はずの電力会社が、なぜこのような巨額の広告費を必要としたか。電力会社は広告費を原価とみなし、すべて利用料金に転嫁することができたと聞いては、さらに腹立たしい。

 本書は原発プロパガンダの展開を五つの時期に分けて扱う。まず黎明期(1968-79年)。1970年の敦賀原発の営業開始を控え、1968年元旦に福井新聞に掲載された30段(見開き両面)の連合広告が原発広告の始まりだった。福島でも、福島第一原発の稼動開始(1971)と共に原発広告の連載が始まる。一方、全国紙は、原発広告に対して自主規制を堅持していたが、1974年、朝日新聞が原子力文化振興財団の意見広告を掲載すると、読売や毎日もこれに続くようになる。79年にスリーマイル原発事故が発生するが、「全国紙やテレビではその事故の深刻さが報道されたものの、福井や福島での事故の新聞扱いは非常に少なく、逆に事故を覆い隠そうとするかのように広告出稿が加速していった」という。これ、恐ろしい問題だなあ…。

 発展期(1980-89年)。80年代に入ると、全国各地で原発建設が相次ぎ、ローカル新聞への広告出稿は飛躍的に増加する。1981年には、敦賀原発1号機の放射能漏れを日本原電が隠蔽していたことが発覚。福井新聞は厳しい批判記事を掲載する。しかし福島の新聞には、福島第一原発所長の「敦賀とは違う。事故は絶対に起きない」という発言が掲載されていたりする。あ~あ。歴史の審判に恥じない行動をするって大事だな。1986年、チェルノブイリ原発事故発生。このとき、日本でも反原発の機運が高まったことは、私もよく記憶している。しかし、東電は事故の86年に121億円だった広告費を、翌年150億円に引き上げ、「日本では事故は起こらない」アピールに必死になる。原発推進に抵抗するローカルテレビ局などの動きもあったが、原子力ムラ(原発利権集団)によって粉砕されてしまう。

 完成期(1990-99年)。1991年に原子力文化財団が作成した「原子力PA(パブリック・アクセプタンス)方策の考え方」が紹介されているが、実に見事な「プロパガンダの手引き」である。反原発やリベラルの側も、こういう手法をきちんと学び、取り入れなければいけないと思った。「女性(主婦層)には信頼ある学者や文化人等が連呼方式で訴える」とか、「タレントの顔は人々の注意を引きつけるが、タレントの発言で人々が納得すると思うのは甘い」とか「短くともよいから頻度を多くして、繰り返し連続した広報を行う」とか、いちいち納得できる。

 爛熟期から崩壊へ(2000-11年)。2000年代前半には、東電など多くの電力会社でトラブル隠しや事故が発覚。しかし東電はイメージ挽回のため、さらに巨額の広告費をつぎ込む。原子力ムラは、民放テレビ局の報道番組に莫大なスポンサー料を支払うことで、原発に対するネガティブ報道を牽制する体制を手に入れる。2011年3月11日、東日本大震災発生。記憶に留めたいのは、原発プロパガンダに手を染めていた企業や団体が「脱兎のごとく証拠隠滅に走った」ことだ。それまでホームページ上に所狭しと掲載されていた原発広告の画像や動画は、一斉に削除されたという。こういうとき、ネットというのは便利な媒体だ。本書に掲載されている原発プロパガンダの事例は、ほとんどが新聞広告だが、いったん紙面に印刷されて出回ったものは、さすがに「隠滅」することはできない。

 復活する原発プロパガンダ(2013-)。今日、原発プロパガンダは確実に復活しつつある。さすがに以前のスローガン「原発は絶対安全な技術」「原発はクリーンエネルギー」は使えなくなった。そこで「原発は日本のベースロード電源(安定供給)」「火力発電は二酸化炭素を排出するので、環境に優しくない」「割高な原油の輸入は国富の流出」などの新しいスローガンが考え出された。見事である。こういう目端の利く策士たちに対抗するには、こちらも賢く、慎重にならなければならない。さらに事故の深刻さを伝える報道や発言を「風評被害だ」と叩きつつ、放射線の安全性を説明するリスクコミュニケーション事業が大々的に行われているが、かつての原発安全論と今の放射線安心論にどれだけ違いがあるのだろうか、と私も思う。

 気持ちが落ち込む記述の連続の中で、80年代に天野祐吉さんが雑誌「広告批評」で原発広告を批判していたり、90年代の「新潟日報」が大量の原発広告を掲載しつつも、記事面では公平性を貫いていたことなどは、希望を感じた。どんな巨大な権力にも狡猾な戦略にも、からめとられない思慮と理性の持ち主はいるのである。
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