○吉見俊哉『アメリカの越え方:和子・俊輔・良行の抵抗と越境』(現代社会学ライブラリー5) 弘文堂 2012.10
副題の三人は、もちろん鶴見和子(姉、1918-2006)、鶴見俊輔(弟、1922-)、鶴見良行(従弟、1926-1994)のことだ。和子・俊輔の祖父は、明治国家の中枢にいた後藤新平。その娘で、サムライ的なエートスを受け継いだ母と、新渡戸稲造の愛弟子で、家庭人としては快活なアメリカン・パパだった鶴見祐輔のもとに姉弟は産まれた。自己形成期をアメリカで過ごした三人は、戦争を契機に、内なる「アメリカ」を越えるために、それぞれ苦悩に満ちた長い軌跡を辿ることになる。
まず、和子について、印象的な挿話が語られる。アメリカ留学時代、大学院のゼミナールで天皇制についての論文を書いたあと、日本の官憲に追い回される夢を見る。もう一つは、戦後、軽井沢の山小屋で原稿を執筆していたとき、暗闇の中から大きな男=米兵が現れる恐怖に取りつかれる。そして、和子は、天皇制の「日本」を恐怖すると同時に、占領の「アメリカ」を恐怖している自分に気づく。「アメリカ」は「日本」の抑圧からの解放の場ではあり得ないし、「アメリカ」の支配を払いのけるために「天皇制=ナショナリズム」を用いることはできない。そこから、和子は、パール・バック(中国育ちのアメリカ人)、生活記録運動、柳田國男などを経て、近代日本を越える契機を求め、南方熊楠にたどりつく。
俊輔もまた、できすぎた小説のような印象的なエピソードを残している。インドネシアで従軍中、心情的には日本よりもアメリカの側に立っていた俊輔は、アメリカによる占領がはじまったとき、「自分とアメリカの戦いが始まる」と日記に書きつけた。これはもちろん、著者が丁寧に補足しているように、日本のナショナリズムの側に立って、アメリカに抵抗するという意味ではなく、アメリカの「民衆」に寄り添い、「国家」としてのアメリカと戦うという決意表明である。そして、実際、そのようになった。1950年代半ばから60年代、原水爆禁止運動、反基地運動、安保闘争、ベトナム反戦運動を俊輔は戦い続ける。
注目すべきは、俊輔が「戦中」と「戦後」の連続性、特に東アジア(東北アジアと東南アジアの両方)において、大日本帝国の支配が戦後のアメリカン・ヘゲモニーに継承されていることに、最も早く気づいた一人であったことだ。では、連続する二つの支配を突き放して見るところは、いかにして獲得されるのか。俊輔は「ディスコミュニケーション」に着目する。その対極が、世界を一つの文明の教室のように考え、その中で順位争いをする「教室」の思想である。「教室」を忌避し、逃走していくことに、日本人の世界の見方を、多少なりとも変えていく可能性が開かれている。
最後に、良行。1950年代、メディア論から出発した良行は、70年代以降、東南アジアを丹念に歩きまわり、日本を問い直すルポルタージュの傑作をまとめあげた。さらに80年代以降の良行は、「アメリカ」との格闘を離れ、アフロ・アメリカンやエスニック・マイノリティが生きる「もう一つのアメリカ」に触れていく。同様にアジアにおいても、「植民地としてのアジア」でも「国民国家としてのアジア」でもない、漁民、商人、海賊など多様な人々の生きる海のアジア史へと視座を転換していく。
ちょっときれいにまとまりすぎではないか、という気もするが、面白かった。実際には、もっと三人とも、先行きの見えない状態で何年も足踏みしたり、以前の試みを全否定するような場面もあったのではないかと思うが、紙数の都合か、そのあたりはあまり詳述されていない。だが、彼ら三人ほどでないにしても、アメリカ的価値観・審美眼・生活規範などを、「日本=ナショナリズム」と分かち難いまで内面化してしまったわれわれ、戦後日本人が、内なる「アメリカ」をえぐり出し、相対化するにはどうしたらよいか、それぞれの軌跡から示唆を与えられる。
私は、最近ようやく鶴見俊輔を読んでみた限りで(少なくとも最近の著書は嫌いではない)、和子・良行については、確か、教科書に載っていたことが悪印象で、まともに読んでみようとしたことがなかった。これから少し読んでみようと思う。
副題の三人は、もちろん鶴見和子(姉、1918-2006)、鶴見俊輔(弟、1922-)、鶴見良行(従弟、1926-1994)のことだ。和子・俊輔の祖父は、明治国家の中枢にいた後藤新平。その娘で、サムライ的なエートスを受け継いだ母と、新渡戸稲造の愛弟子で、家庭人としては快活なアメリカン・パパだった鶴見祐輔のもとに姉弟は産まれた。自己形成期をアメリカで過ごした三人は、戦争を契機に、内なる「アメリカ」を越えるために、それぞれ苦悩に満ちた長い軌跡を辿ることになる。
まず、和子について、印象的な挿話が語られる。アメリカ留学時代、大学院のゼミナールで天皇制についての論文を書いたあと、日本の官憲に追い回される夢を見る。もう一つは、戦後、軽井沢の山小屋で原稿を執筆していたとき、暗闇の中から大きな男=米兵が現れる恐怖に取りつかれる。そして、和子は、天皇制の「日本」を恐怖すると同時に、占領の「アメリカ」を恐怖している自分に気づく。「アメリカ」は「日本」の抑圧からの解放の場ではあり得ないし、「アメリカ」の支配を払いのけるために「天皇制=ナショナリズム」を用いることはできない。そこから、和子は、パール・バック(中国育ちのアメリカ人)、生活記録運動、柳田國男などを経て、近代日本を越える契機を求め、南方熊楠にたどりつく。
俊輔もまた、できすぎた小説のような印象的なエピソードを残している。インドネシアで従軍中、心情的には日本よりもアメリカの側に立っていた俊輔は、アメリカによる占領がはじまったとき、「自分とアメリカの戦いが始まる」と日記に書きつけた。これはもちろん、著者が丁寧に補足しているように、日本のナショナリズムの側に立って、アメリカに抵抗するという意味ではなく、アメリカの「民衆」に寄り添い、「国家」としてのアメリカと戦うという決意表明である。そして、実際、そのようになった。1950年代半ばから60年代、原水爆禁止運動、反基地運動、安保闘争、ベトナム反戦運動を俊輔は戦い続ける。
注目すべきは、俊輔が「戦中」と「戦後」の連続性、特に東アジア(東北アジアと東南アジアの両方)において、大日本帝国の支配が戦後のアメリカン・ヘゲモニーに継承されていることに、最も早く気づいた一人であったことだ。では、連続する二つの支配を突き放して見るところは、いかにして獲得されるのか。俊輔は「ディスコミュニケーション」に着目する。その対極が、世界を一つの文明の教室のように考え、その中で順位争いをする「教室」の思想である。「教室」を忌避し、逃走していくことに、日本人の世界の見方を、多少なりとも変えていく可能性が開かれている。
最後に、良行。1950年代、メディア論から出発した良行は、70年代以降、東南アジアを丹念に歩きまわり、日本を問い直すルポルタージュの傑作をまとめあげた。さらに80年代以降の良行は、「アメリカ」との格闘を離れ、アフロ・アメリカンやエスニック・マイノリティが生きる「もう一つのアメリカ」に触れていく。同様にアジアにおいても、「植民地としてのアジア」でも「国民国家としてのアジア」でもない、漁民、商人、海賊など多様な人々の生きる海のアジア史へと視座を転換していく。
ちょっときれいにまとまりすぎではないか、という気もするが、面白かった。実際には、もっと三人とも、先行きの見えない状態で何年も足踏みしたり、以前の試みを全否定するような場面もあったのではないかと思うが、紙数の都合か、そのあたりはあまり詳述されていない。だが、彼ら三人ほどでないにしても、アメリカ的価値観・審美眼・生活規範などを、「日本=ナショナリズム」と分かち難いまで内面化してしまったわれわれ、戦後日本人が、内なる「アメリカ」をえぐり出し、相対化するにはどうしたらよいか、それぞれの軌跡から示唆を与えられる。
私は、最近ようやく鶴見俊輔を読んでみた限りで(少なくとも最近の著書は嫌いではない)、和子・良行については、確か、教科書に載っていたことが悪印象で、まともに読んでみようとしたことがなかった。これから少し読んでみようと思う。