○竹内洋+中公新書ラクレ編集部編『論争・東大崩壊』(中公新書ラクレ) 中央公論新社 2001.10
だいたい、1990年代の後半から2001年にかけて、各種の雑誌・書籍に発表された東大関係記事のアンソロジーである。『Voice』『諸君!』から『論座』『中央公論』まで、という表現が正しいかどうか、よく分からないが、右から左まで、あるいは『広告批評』から『週刊ダイヤモンド』までを含む。編者の竹内洋さんらしい、いきとどいた目配りだと思った。内容的にも、パロディあり、社会調査あり、Z会講師が東大入試に望む提言あり、産学協同プロジェクトの紹介あり、さまざまである。
私としては、やはり、竹内洋氏の大学論が興味深かった。学歴貴族の誕生から、学歴インフレーション(1970年代)までを論じてきた竹内氏が、その後の東京大学をどう見ているのかは、本書によって、初めて知ることができた。学歴貴族の末裔たちは、学歴大衆のとげのあるまなざしを避けるべく、できるだけ突出した表出を抑え、普通人ぽく振舞うことによって、世の中に適応しようとしている。「ふつう」強迫観念に支配されているようにさえ見える。
こうして、学歴貴族の末裔たちが、教養や大学知から逃走を続ける限り、どれだけ広い裾野から才能を拾い上げたとしても、日本社会は、責任あるエリートを持つことができない。これは、大衆教育社会以前には、予想もできなかったかたちの「教育損失」である。
私は東大卒ではないけれど、かなり、これに類する行動をとってきた。「ふつう」であるべしという、有形無形の圧力は、常に強く感じた。あれは1980~90年代という時代の趨勢がそうだったのか、20~30代という私の年齢に起因しているのか、よく分からないが。あの薄気味悪い圧力を、「教育損失」というかたちで客観視できるのは、少し目の前が晴れるようだ。
もう1つ、面白かったのは、テキスト『知の技法』を作った船曳健夫氏と、橋本治氏の、放談めいた対談(バランスよく飯島耕一氏の対論も収録されている)。東大で面白い人はみんな不良であること。普通、不良は目立ってしまうのだが、東大の不良は、濃厚な無名性をたたえている人たちのほうが、かえって優れている、ということ。この2点、特に後者は、東大の内部を知る者でなければできない貴重な発言であると思う。何人かの先生の顔が浮かんでしまった。
あと、京大育ちの竹内洋さんらしい、あとがき。「(長男)東大の栄光と苦渋がバッシングされることにあるときに、(次男)京大の栄光と苦渋はバッシングされない(常に判官びいきされる)ことにある」というのは、含蓄あるな~と思った。
だいたい、1990年代の後半から2001年にかけて、各種の雑誌・書籍に発表された東大関係記事のアンソロジーである。『Voice』『諸君!』から『論座』『中央公論』まで、という表現が正しいかどうか、よく分からないが、右から左まで、あるいは『広告批評』から『週刊ダイヤモンド』までを含む。編者の竹内洋さんらしい、いきとどいた目配りだと思った。内容的にも、パロディあり、社会調査あり、Z会講師が東大入試に望む提言あり、産学協同プロジェクトの紹介あり、さまざまである。
私としては、やはり、竹内洋氏の大学論が興味深かった。学歴貴族の誕生から、学歴インフレーション(1970年代)までを論じてきた竹内氏が、その後の東京大学をどう見ているのかは、本書によって、初めて知ることができた。学歴貴族の末裔たちは、学歴大衆のとげのあるまなざしを避けるべく、できるだけ突出した表出を抑え、普通人ぽく振舞うことによって、世の中に適応しようとしている。「ふつう」強迫観念に支配されているようにさえ見える。
こうして、学歴貴族の末裔たちが、教養や大学知から逃走を続ける限り、どれだけ広い裾野から才能を拾い上げたとしても、日本社会は、責任あるエリートを持つことができない。これは、大衆教育社会以前には、予想もできなかったかたちの「教育損失」である。
私は東大卒ではないけれど、かなり、これに類する行動をとってきた。「ふつう」であるべしという、有形無形の圧力は、常に強く感じた。あれは1980~90年代という時代の趨勢がそうだったのか、20~30代という私の年齢に起因しているのか、よく分からないが。あの薄気味悪い圧力を、「教育損失」というかたちで客観視できるのは、少し目の前が晴れるようだ。
もう1つ、面白かったのは、テキスト『知の技法』を作った船曳健夫氏と、橋本治氏の、放談めいた対談(バランスよく飯島耕一氏の対論も収録されている)。東大で面白い人はみんな不良であること。普通、不良は目立ってしまうのだが、東大の不良は、濃厚な無名性をたたえている人たちのほうが、かえって優れている、ということ。この2点、特に後者は、東大の内部を知る者でなければできない貴重な発言であると思う。何人かの先生の顔が浮かんでしまった。
あと、京大育ちの竹内洋さんらしい、あとがき。「(長男)東大の栄光と苦渋がバッシングされることにあるときに、(次男)京大の栄光と苦渋はバッシングされない(常に判官びいきされる)ことにある」というのは、含蓄あるな~と思った。