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見もの・読みもの日記

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覆水盆に返らず/一度きりの大泉の話(萩尾望都)

2021-05-08 22:03:12 | 読んだもの(書籍)

〇萩尾望都『一度きりの大泉の話』 河出書房新社 2021.4

 萩尾望都さん(1949-)が大泉時代のことを語った書き下ろしエッセイが出版されたという情報が流れてきた。私がSNSで最初に見かけたのは、どこか奥歯にものの挟まったような、煮え切らない感想だったので、よけい気になって書店に行き、一気に読んでしまった。そして、なるほどこれは感想を他人に語るのが難しい本だと思った。

 著者は1969年に漫画家としてデビューし、上京した後、練馬区大泉の二階家で竹宮恵子氏と同居していた。1970年から72年の2年間ほどである。それから下井草に半年ほど住み、1973年5月には埼玉に引っ越した。田舎に引っ越した「本当の理由」についてはずっと沈黙を守ってきたが、2016年に竹宮氏が自伝本『少年の名はジルベール』を出版して以来「静かだった私の周辺が騒がしく」なり、困惑しているという。そこで、封印していた記憶を一度だけ解き、「私の出会った方々との交友が失われた、人間関係失敗談」という前置きのもとに著者は語り始める(この導入、著者は無意識かもしれないが、ストーリーテラーとして実に巧みだと思う)。

 序盤は淡々とした回顧録である。両親に反対されながら漫画家を目指す。中学時代の友人の紹介で増山法恵さんと知り合う。『なかよし』でデビュー。竹宮恵子先生と知り合う(萩尾さんは文中で「竹宮先生」と呼んでいる)。上京、大泉生活の始まり。増山さんと竹宮先生の「少年愛」への熱中を、少し醒めて眺めている著者。ヨーロッパ旅行。おおむね竹宮氏の自伝の記述と齟齬するところはない。そして、佐藤史生、山岸涼子、ささやななえ(こ)、坂田靖子、城章子、山田ミネコ、伊東愛子など、懐かしい(それぞれの絵柄が浮かぶ)名前もちらほら登場する。

 ヨーロッパ旅行から帰ると、竹宮先生と増山さんは別のマンションで暮らすことになり、著者も別のアパートを見つけて、大泉生活は終了した。そして、1973年3月、『ポーの一族』シリーズの『小鳥の巣』を執筆中だった著者は、竹宮先生と増山さんに呼ばれて「なぜ『小鳥の巣』を描いたのか(なぜ男子寄宿舎ものを描いたのか)」という質問を受ける。さらに「あなたは私の作品を盗作したのではないのか?」と言われたとも文中にある。著者はうまく答えられないまま、呆然として下宿に帰った。

 3日ほど後、竹宮先生がひとりで著者のアパートにやってきて「この間した話はすべて忘れてほしい」と言って、手紙を置いていく。この場面、著者は記憶に従って書き起こしているのだろうけど、異様な緊張感がある(別の箇所で、萩尾さんが、見たものをぱっと覚えて正確に描いてしまう才能の持ち主と言われていることを思い出す)。自分と同じジャンルに入り込んできた、才能ある後輩を呼びつけて「盗作」の疑いで詰問するまでは、凡百の人間がやりそうなことだ。しかし、ひとりで後輩を訪ねた(ひとりで来たのは初めて、とある)竹宮先生の心中の葛藤も察するに余りある。著者は、竹宮先生の手紙を読んでも、彼女の意図が分かりかねたという。そして本文中には、その手紙の一部らしい語句が切れ切れに並べられているのだが、その中に「『11月のギムナジウム』くらい完璧に描かれたら何も言えませんが」というフレーズがある。やっぱり、竹宮先生は萩尾さんの才能が本能的に怖かったのではないかと思う。

 著者は「何かわからないけど、自分の何か悪いことで嫌われたのだ」と思って自罰的になり、頭痛や不眠、目の痛みに悩まされるようになる。妹の語学留学につきあい、しばらく英国で暮らしている間も、脳の中にある「大泉の死体」を意識していたという。帰国後、木原敏江先生の誘いもあって埼玉に引っ越し、ぼちぼちと仕事を始める。木原さんが萩尾さんに「個性のある創作家が二人で同じ家に住むなんて、考えられない、そんなことは絶対だめよ」と語ったというエピソード、理知的な切れ味が木原先生らしい。それから、城章子さんの後書きで岸裕子さんが「あの頃、漫画を見ていてわかった」「(萩尾さんの)絵柄が変わった」「登場人物の目が怒っていた」と語っていることにも驚いた。プロの感性は鋭い。当時の作品を、もう一回読み返してみたい。

 その後も著者の人生は続く。連載中に評判が悪かった『ポーの一族』第1巻初刷3万冊が、3日で売り切れたというのは初めて聞くエピソード。漫画家に反対していた両親との和解。そして、大泉生活解散の理由についても、著者は著者なりに、歳月をかけて整理した言葉であらためて語っている。しかし過去は過去。このことにはもう触れないでいただきたい、と。同世代を生きる私たちは、著者の訴えを聞くしかないだろう。でも、いつの日か本書が、あらためて著者の作品とともに解読されることをひそかに期待してしまう。

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庶民の夢と生活とともに/サラ金の歴史(小島庸平)

2021-04-30 20:17:36 | 読んだもの(書籍)

〇小島庸平『サラ金の歴史:消費者金融と日本社会』(中公新書) 中央公論新社 2021.2

 面白い、という感想がやたらSNSに流れてくるので、読んでみたらなるほど面白かった。本書は、無担保で小口融資を行う消費者金融の歴史を、特に1960年代に誕生した「サラ金」に焦点を当て、前後の期間を含めて記述する。

 戦前期の日本では、個人間の資金貸借が活発に行われていた。貧民窟の素人高利貸は「男伊達」であり、男性労働者の憧れだった。第一次大戦後に層として成立するサラリーマンの世界にも、職場の同僚に有利子で金を貸して副収入を得る人々がいた。また、戦前戦後を通じて庶民金融の代表格は質屋だった。サラ金は、個人間金融を源流とし、質屋を代替するかたちで登場する。

 高度成長期、人々は消費水準の上昇と生活様式の変化についていくことを義務のように感じており、とりわけ団地族の専業主婦は、家電製品の導入に積極的だった。彼らの購買意欲を助けたのが割賦販売(月賦)である。代金支払の先延ばし、つまり一種の資金貸付ともいえる月賦の利用には、借金への抵抗感を薄める効果があった。しかし大蔵省や日銀は、銀行が消費者向け金融に参入することに警戒的だったため、1960年以降、銀行を中心とするフォーマルな金融システムとは別に、消費者金融ビジネスが立ち上がる。のちのアコム、プロミス、レイク、武富士につながる企業である。

 この分野に早期に参入した企業は、団地の主婦層への小口融資を展開した。しかし安定的な収入を持たない主婦を相手にする団地金融は、高リスク・高コスト体質を脱却できずに行き詰まる。次いで1960年代半ばから、サラリーマン金融が急成長する。この頃、サラリーマンの人事評価は、意欲や態度を見る「情意考課」で、出世のためには、接待や職場の飲み会に積極的に参加し、気前よく部下におごってみせることが必須だった。サラ金は、男性サラリーマンの飲酒・ギャンブルのための借入を「前向き」と評価して歓迎する一方、主婦は原則的に排除した。

 高度経済成長が終焉した1970年代、銀行は新たな融資先としてサラ金に目をつける。これにより、サラ金各社の資金調達環境は好転するが、肝心のサラリーマンは賃金の低迷に悩み、遊興費ではなく、家計のやりくりのための借入申込が増大していた。サラ金は「前向き」需要の減少分を埋めるため「後ろ向き」需要にも積極的に対応するようになり、借入主体として主婦の取り込みを図った。

 70年代末から80年代初頭にかけて、過剰な債務によって人生に行き詰まり、家出や自殺をする人々が増大したことを受けて、「サラ金被害者の会」や弁護士たちの取組みによって、1983年、貸金業規制法が制定された。弁護士たちは、業界寄りの不十分な内容と受け止めたが、以後、サラ金は「冬の時代」を各種の経営改革によって乗り切り、バブル景気下で再び劇的な成長を遂げる。

 バブル崩壊後は、長引く不況、日本型雇用の解体、家族の戦後体制の動揺を背景に、業界の過当競争が激化した。またも過剰貸付が横行し、多重債務者や自己破産者が増加した。サラ金に対する規制強化を求める世論は日増しに強まり、当時、小泉純一郎の郵政選挙で世論の動向に敏感になった自民党の議員たちも、これを支持した。その結果、2006年に改正貸金業法が成立し、長らく金融業界の周縁部にあったサラ金は、これで完全に銀行システムの内部に組み込まれたのである。

 まず戦前の個人間融資については、明治や大正の小説を読んでいると、わりと頻繁に金の貸し借りの場面や「高利貸」という職業が出てくることを思い出した。戦後の団地族については、原武史さんのいくつかの著作を思い出したが、こういう家計面の考察はあまりなかったと思う。団地の入居審査をパスした家族なら、借金を返せなくなる可能性は低いという信用情報の判断が面白いと思った。

 サラ金の創業者たちは、信頼できる信用情報を低コストで収集するため、さまざまな工夫を凝らしている。電話局の番号案内(あったねえ)の利用もその一例。1970年代には複数の業者の信用情報を共有するシステムを構築したが、誤作動の多いコンピュータに見切りをつけ、人海戦術で職員がカードボックスに走る方式で迅速な照会を実現したというのも面白かった(図書館のカードケースっぽい写真あり)。著者はサラ金を一方的に断罪することはせず、個性的な創業者、不断の経営努力を公平で温かい目で記述している。また、金を借りる側の庶民の、生活様式・雇用・ジェンダー意識などを細かく掬い取っていることも興味深かった。

 なお、貸金業規制法・改正貸金業法をめぐっては、弁護士の木村晋介氏(怪しい探検隊の)、宇都宮健児氏、のちに法務大臣をつとめる森雅子氏も登場する。上限金利引き下げの反対派は、規制が強化されればヤミ金(違法な闇金融)被害が拡大すると主張していたが、実際はそうならなかったことを著者は検証している。しかし、全てが解決したわけではなく、規制強化を受けて、ヤミ金業者は特殊詐欺(オレオレ詐欺など)に「転業」した可能性がある。さらにSNSの世界では個人間融資が復活し、ヤミ金融と大差ない違法な取引が行われているという。あるサラ金創業者が掲げた「人間的な顔をして金融システム」の理想は、もはや昔話なのだろうか。

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諸侯の国際機構から「中国」へ/戦争の中国古代史(佐藤信弥)

2021-04-22 20:33:41 | 読んだもの(書籍)

〇佐藤信弥『戦争の中国古代史』(講談社現代新書) 講談社 2021.3

 本書は殷から漢王朝初期まで、様々な勢力間の戦争を見ていくことで「中国」形成の様子を描き出すことを目的とする。ある勢力と別の勢力が、戦争によって覇権を争い、興亡する様子を描くのは、最もスタンダードな歴史記述だと思う。最近は、経済とか生産力とか、新しい切り口の歴史記述が増えているように思うので、「戦争」に着目するのは、わりとオールドスタイルな感じがした。

 はじめに戦争の起源について。黄河の中下流域では、新石器時代後期には集落間の戦争が頻繁に起こるようになっていたと推定されている。河南省偃師市の二里頭遺跡では宮殿址や青銅礼器が発見され、殷に先立つ王権の存在が認められている(中国では夏王朝に比定)。

 「二里頭王朝」に取って代わったのが殷で、複数の都城が発見されているが、偃師商城・鄭州商城が内城外郭を具えるのに対して、安陽市の殷墟には城壁が確認されておらず、中国古代の都市は外郭を具えていないのが常態だったのではないかと考える中国の考古学者もいるという。これには通俗的な理解を覆されてびっくり。なお、殷代には戦車の使用が始まるが、騎兵が存在したかどうかは議論があるそうだ。

 周は兵農一致の常備軍を持ち、前線には諸侯を封じ、軍事力によって様々な勢力を服属させ、膨張していった。しかし後継者をめぐる政治的混乱に加え、西戎の侵攻によって東遷を余儀なくされ、以後、群雄割拠の時代(春秋、戦国時代)が始まる。東周時代の諸侯国の関係は、「国際政治」の観点から語られることが多いというのは面白い指摘だ。覇者を中心とする多国間の同盟関係は、現代の「国際機構」のような役割を果たし、同盟内の平和維持や内紛の調停、同盟外に対する共同防衛などが協議された。台北故宮博物院の「散氏盤」には、紛争解決の約定が記録されているという。ただし蛮夷戎狄は会盟の場から排除され、周王朝を奉じる諸侯国が「中国」の範囲と考えられるようになる。

 「尊王攘夷」が『春秋九羊伝』に出典を持つことは初めて知った。斉の桓公が、東周の襄王を保護し(尊王)、戎夷に侵攻された諸国を援け、自ら南方の楚国と戦ったり(攘夷)したことを評した言葉である。また『左伝』には、楚の荘王が「戈を止めるを武と為す」と語ったと記録されている。『義経千本桜』の渡海屋銀平、実は平知盛のセリフじゃないか! 日本の伝統と思って疑ったことのなかったもののルーツが、こんなところにあるなんて面白い。

 戦国時代には諸侯国の滅亡が進行し、生き残った諸国は競って「帝国」化を進め、最終的に秦が「中国」を統一する。この時代の兵法書『孫子』は「兵は詭道なり」で知られている。近年、中国古代の兵法や軍事思想に関する文献がいくつか発見されており、そのひとつ『曹沫之陳(そうばつのじん)』は、奇襲戦法を説かず、奇襲に対する用心も説かない。これは、同書の想定する戦争が、戦車中心の堂々たる会戦で、「軍礼」に基づくものだったからだ。宋の襄公は春秋時代の人物で、敵軍が川を渡り切る間、攻撃を控えたため、かえって敗北を喫し、「宋襄の仁」のいわれとなった。しかし、研究によれば、当時の人々には、戦争にまつわるルールと、スポーツマンシップ的な規範意識「軍礼」が共有されていたという。春秋から戦国にかけて、戦争が車兵中心から歩兵中心に変化し、戦争の大規模化と長期化が進行すると、詭計や陰謀が普通に受け入れられるようになった。そのほか、鉄製の武器や大型の弓「弩」が用いられるようになったこと、戦車でなく騎兵が導入されたのもこの時代の変化である。

 秦の始皇帝により統一された中国は、たちまち瓦解に瀕する。著者は「中央集権的な統一への忌避感が秦への反抗を促した」と述べる。そして、よりゆるやかな結合である郡国制を選択した漢は、「草原帝国」匈奴と共存共栄を図る。しかし武帝の時代には、国内の体制は中央集権的な郡県制に変質し、対外的には積極攻勢によって匈奴との共存を清算する。以後、漢の衰退は、長い「古代の終わり」である。

 中国史の概説書は、どうも長いタイムスパンを1冊に詰め込みすぎるきらいがあるが、次は春秋戦国時代に焦点をしぼった本を読んでみたい。あと、この時代を題材にした中国ドラマの情報がさりげなく盛り込まれていたのも、いずれ活用したいと思う。

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強面と弱腰の二面性/文部科学省(青木栄一)

2021-04-14 16:54:34 | 読んだもの(書籍)

〇青木栄一『文部科学省:揺らぐ日本の教育と学術』(中公新書) 中央公論新社 2021.3

 本書は、教育行政学を専門とし、文科省の所轄機関である国立教育政策研究所に在籍したこともある著者が、文科省の内部に分け入り、また外部との関係から、その真の姿に迫った著作である。批判ありきで書かれたジャーナリスティックな文科省研究と異なり、データの点でも組織理解の点でも、納得できることが多かった。

 文科省は(一般にはあまり知られていないと思うが)2001年に文部省と科学技術庁が統合されて発足した組織であり、本書はこの経緯を重視する。旧文部省は「機会均等」を機関哲学(組織の大目標)としていたが、官邸や自治体からの外圧に加え、科技系からの内圧により、「選択と集中」路線が強まっている。文科省の主要組織は、教育三局(総合教育政策局、初等中等教育局、高等教育局)と研究三局(科学・技術政策局、研究振興局、研究開発局)で、教育三局は各局の独立性が高いが、科技庁由来の研究三局では政策の調整や統合を行いやすい(分かる)。高等局と研究三局は、文部系と科技系が混じり合う「汽水域」となっている。なぜなら、文部系からみれば国立大学は「学術」の中心地であるが、科技系にとっては「科学技術」に貢献する国立研究機関と同様の「手足」の一つであるからだ(すごく分かる)。

 私は主に高等教育まわりに興味があって本書を読み始めたのだが、初中等教育の話も新鮮で興味深かった。特に予算に関して、文科省が教員給与(義務教育費国庫負担制度)と学校施設(公立学校施設整備費負担金)に基づく安定的な財政支援によって「世界に誇る義務教育」を維持してきた意義はよく分かった。しかし著者は、これらの制度を評価しつつも、文科省がその成功体験に安住し、政治家、財界、国民等から、新たな支持を調達することを等閑視してきたため、「ときどき降ってわいてくる外野からの思いつきの教育改革案に振り回されてしまう」と厳しい。実際に、1990年代以降、財政制度見直しが本格化し、文科省は大きなダメージを追ってしまった。

 文科省は伝統的に義務教育と国立大学を重視してきたが、その間にある高校教育にはあまり関与してこなかった。しかし民主党政権下で高校無償化がうたわれ、続く自公政権で見直し(所得制限)が加えられたものの、経済的な就学支援が制度化された。それとともに文科省は高校教育への関心を強め、はじめて初中等教育と高等教育を包括する戦略を扱うようになった。今さらかい!と思うが、そういえば「高大接続」という耳慣れない言葉が流行り始めたのはこの頃だったかも。

 大学について。法人化した国立大学では、学長への権限集中が推奨されているが、大学の財政基盤が弱体化した現状では、権限が集中した学長が行えるのは、限られたパイの中での合理性追求だけで、疲弊した自治体で公務員の人件費削減を訴えて当選する「改革派首長」と同じこと、という皮肉の効いた批判には苦笑した。国立大学法人化の失敗の原因は、国立大学の準備不足、覚悟不足もあるが、文科省にも一因がある。そもそも文科省の多くの職員が国立大学を知らない。国立大学の博士課程の醍醐味を知っている(博士号を有する)職員をもっと増やすべきだし、国立大学の教員(職員ではない)が文科省職員として一定期間働く仕組みをつくってはどうか、という提案も面白いと思った。

 それから、文科省は国立大学協会を相手にしていれば業務に支障がないので、その外側に「応援団」をつくる努力を払ってこなかったという。学校教育における教育委員会にも似たところがある。官邸や財務省にはからきし弱いのに、教育委員会や国立大学には強い姿勢をとる「内弁慶の外地蔵」と揶揄されるゆえんで、文科省は、最前線が受けるしわ寄せには目をつぶり(しばしば理念先行で資源制約を考えない)、無責任な「間接統治」をおこなっているとも言える。

 本書は、この「間接統治」の構造を打破するために、文科省には「金目の議論から逃げない」「(予算と人員を獲得するための)ロビイング活動から逃げない」「政治(政治的支持連合づくり)から逃げない」という3つの姿勢が必要と説く。文科省だけでなく、大学や学校の職員の立場でも胸に刻みたい提言だと思う。

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遊び心とその影響/椿井文書(馬部隆弘)

2021-04-06 22:02:18 | 読んだもの(書籍)

〇馬部隆弘『椿井文書:日本最大級の偽文書』(中公新書) 中央公論新社 2020.3

 2021年の新書大賞第3位に輝いた話題作。絶対面白いに違いないと思っていたが、読んでみたらやっぱり面白かった。椿井文書(つばいもんじょ)とは、江戸時代後期の国学者で山城国相楽郡椿井村出身の椿井政隆(1770-1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書類である。厳密には、古文書とは差出人と宛先が記されたもので(それ以外は古記録)、差出人を偽ったものを偽文書と呼ぶが、椿井文書には由緒書や系図・絵図も含まれ、数百点が流布しているという。

 椿井政隆がなぜ大量の偽文書を作成したかはよく分からないが、伝統的な利権をめぐって村と村の争いのあるところに出没することが多い。論争を有利に導く文書(エビデンス)が必要とされたためだ。椿井は地域の中核となる神社や史蹟に立脚し、中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁で、その由緒書等を創作する。対象が目に見えるかたちで実在するので、真実味を帯びやすい。さらに関連の系図や連名帳・書状などを芋ヅル式に創作して、信憑性が担保されるように見せかける。すごい。

 果てはカラフルで細密な絵地図まで創作しており、その精力的な創作欲に驚く。中には「空想を楽しんでいるとしか思えない」ものもあり、「悪意というよりも、遊び心をもって自己満足のために作成する椿井正隆」の姿が想像できる。即売を前提とせずに作成されたものもあり(椿井家に残されていたが、のちに流出)「椿井正隆の偽文書創作は趣味と実益を兼ねたものであったが、彼個人としては前者に重きを置いていたのではななかろうか」と著者はいう。確かに「日本最大級の偽文書」と言いながら、おどろおどろしい印象は全くないのだ。

 椿井文書は、近江・山城・大和・河内など近畿一円に分布しているが、知識人の多い都市部(奈良市中・京都市中)は意識的に避けていたようだ。明らかに書札礼を無視した文書、未来年号(改元前に次の年号を使用する)など、明らかに偽文書であることが分かるように作られたものも多く、発覚したときの言い訳が考えられていたのではないかという指摘も興味深かった。

 悩ましいのは、現在に及ぶ影響である。戦前、関西では椿井文書に疑惑の目が向けられていたが、戦後歴史学には十分に情報が継承されなかった。しかも分野の細分化が進み、現物を見ずに活字史料のみを用いる研究者が増えたこと、加えて、地域史の隆盛によって、椿井文書は自治体史等に利用されるようになる。カラー絵地図の見栄えのよさも幸い(災い?)した。ついには史蹟に立つ説明版に図版が用いられたり、自治体のホームページから発信されることも…。こうなると椿井政隆の遊び心を、のどかに受け入れてはいられない。

 著者は枚方市の非常勤職員として勤務していた経験があり、「偽史を用いた町おこし」に誠実な批判を加えているが、「行政」や「市民感情」の壁は厚いようだ。自分の住んでいる地域が、偉人や伝統、歴史上の重大事件と結びついたものであってほしいという気持ちは、なかなか捨てられないのである。

 本書を読んでよく分かったのは「式内社」(延喜式神名帳に記載された神社)というのが、近世に再構築された伝統であること。そうだよなあ、そんなに何もかも古代の伝統が継承されてきたはずがない。並河誠所(1668-1738)は『五畿内志』で多くの式内社を比定しており、椿井政隆もこれを利用し、補完しようとしているが、三浦蘭阪(1765-1844)のように並河に批判的な知識人もいた。しかし、新たな由緒を主張すれば、名所づくりによって実利を生むことができるが、批判は、どんなに真っ当でも実利を生み出さないので嫌われる。そして行政のお墨付きを得た「〇〇スゴイ」の偽史だけが残るのは、悲しいかな、今も昔も変わらない構図である。

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異を恐れ神威にすがる/江戸のコレラ騒動(高橋敏)

2021-03-12 23:26:47 | 読んだもの(書籍)

〇高橋敏『江戸のコレラ騒動』(角川ソフィア文庫) KADOKAWA 2020.12

 東日本大震災のあとは、地震に関する歴史研究を好んで読んだ。いまは新型コロナの影響で、感染症の歴史に興味が湧いている。本書は『幕末狂乱(オルギー) コレラがやって来た!』(朝日新聞社、2005.11)の改題だが、巻頭の著者の「はじめに」と巻末の小松和彦氏の「解説」は、文庫版のために書き下ろされたもので、どちらもコロナ禍の中で本書を読む意味について語っている。

 コレラは(1)罹患してからの死亡率が高い(2)発病してから死に至るまでが迅速(3)患者の症状が異様、という点で、人類がかつて経験したことのない伝染病だった。そのため人々は、草創期の近代医学に向かうよりは、ありとあらゆる旧来の呪術・宗教儀礼に救いを求めることになった。コレラの大流行は19世紀中、5次にわたった。日本を襲ったのは、まず1817年に始まる第1次大流行で、文政5年(1822)に日本に上陸し、西日本を中心に広がったが、沼津辺りで止まった。次が第3次大流行で、安政5年(1858)に長崎に上陸し、江戸に達した。

 はじめに著者は、東海道三島宿に近い桑原村の名主・森家に伝わる「年代記」を題材に、幕末に生きた人々の意識を探っていく。信州善光寺大地震、安政大地震・大津波、さらに大水・大風・江戸の大火など、天変地異や災害の記録が相次いだ幕末、嘉永7年(1854)にはペリーの率いるアメリカ東インド艦隊が江戸湾に来航し、万延元年(1860)にはイギリス公使オールコックが富士登山を試みる。こうした「異」の侵入に対して、人々は不安とともに、旺盛な好奇心を抱いていた。

 そこに安政5年のコレラ大流行である。村人は鉄砲を撃ち、鉦や太鼓を鳴らし、鬨の声をあげて村内の神々を巡拝した。若者組は伊豆の国の一の宮、三島明神に早朝はだか参りをした。前近代では、神社仏閣が、危機における心のよりどころだったことが分かる。さらに人々はコレラを、幕末の不安の元凶である「異」と合体させ、日本人を取り殺す「アメリカ狐」「千年モグラ」(唐のイメージ)のしわざと考えた。

 駿河国富士郡大宮町の一町家の日記には「くだ狐」「千年モグラ」に加えて、イギリス船が「疫兎」を放ったという風聞が記録されている。いまの新型コロナについて、生物兵器説を唱える人々と似ていて苦笑した。狭い島国・日本にとって、疫病が「外国から持ち込まれるもの」という認識は、古代から沁みついているのだろう。大宮町では、くだ狐を退治するため、武州三峯山へ御犬様借用を願い出る。「生(しょう)に見ゆる御犬」を借りたいと頼むが、結局「カゲ」(お札)を頂戴することになる。調べたら、三峯神社では、今でも「御眷属拝借」の制度があるのだな。面白いなあ。

 大宮町に近接する下香貫村、深良村は、京都の吉田神社を勧請することした。代参の者たちは、コレラが猛威をふるう東海道を京都へ向かう。吉田神社では、きわめて高額な祈祷料と引き換えに(コレラ大流行を利用したぼったくりである)祈祷した御小箱を受領された。吉田家は江戸幕府と結びつき、全国の神社を傘下に収めかけたが、江戸時代後期になると、名門白川家が巻き返しを始めた。これに対抗する吉田家は、江戸に出張役所を設け、東国・関八州への勢力拡大を図ったいた。駿河国の村人が、京都吉田神社の勧請を決めた背景には、このような神道界の情勢もあったという。吉田神社は、八角形の大元宮が興味深くて見に行ったことがあるが、いろいろと生臭い神社である。神道界が、古来ひとつでなかったことがよく分かったのは、意外な収穫だった。

 また本書には、江戸の人々がコレラを洒落のめしたジョークやパロディが多数収録されている。百人一首のもじり「あきれたのかかあにしなれ そのあとはわがこどもらもすぐにしにつつ」は上手いと思ったので書き留めておくが、こういう神経の太い笑いは、もう生まれないのかな。

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科学と技術と文部省/科学技術政策(鈴木淳)

2021-03-04 23:06:12 | 読んだもの(書籍)

〇鈴木淳『科学技術政策』(日本史リブレット100) 山川出版社 2010.6

 昨年、日本学術会議の任命問題が世間を騒がせたとき、日本の科学技術政策を歴史的視点で考えるならまずこの本、という誰かのつぶやきを見て、読んでみた。本書は、明治初年に「科学」「技術」という言葉ができてから、我々になじみのある科学技術政策が発足するまでの歴史的過程をたどったものである。

 明治3年(1870)明治政府に設置された工部省は、製鉄、鉄道、電信などの工業を所管するとともに、工部大学校における研究と教育など、工業技術振興の幅広い権限を与えられる。明治6年(1873)に設置された内務省の勧業寮は、勧業・勧農事業を所管し、工業試験事業も開始する。明治14年(1881)には農商務省が誕生し、農商工諸産業を管轄することになった。この乱立状態に文部省が登場し、工部大学校、駒場農学校を帝国大学に編入し、東京職工学校(のちの東工大)を開設する。文部省は、あらゆる分野の学校教育を自省の管轄に収めることに熱心だった。確かにそのほうが、教育事業としては効率的だが、現場の技術から切り離された大学は、科学の担い手の色彩を強めたと著者は指摘する。

 大正年間、科学の産業利用を目指した科学者たちの建議と運動によって、大正5年(1916)理化学研究所が発足する。しかし、基礎研究を推進する役割は果たしたものの、国内産業への貢献では、工業試験場に及ばなかったという。なかなか現実は厳しい。

 東京学士会院は、先進国のアカデミーを模して明治12年(1879)に発足していたが、大正8年(1919)文部省の管轄のもとに設置されたのが学術研究会議である。初代会長は土木学者の古市公威で、政府が新たに研究所・試験所等を設置する際は、無益な重複を避けるため、あらかじめ学術研究会議に諮詢するよう求めたという。ああ、現在の「マスタープラン」の淵源だな、と思った。しかし「(第一次)大戦後の財政事情が悪化する時期にあたり、実効は乏しかった」「経費節減のなかで国家的に重要な研究課題を選択し、研究を統制することがめざされた」という当時の状況は、あまりにも今と似ている。この頃、研究奨励費の削減を挽回するために設立されたのが日本学術振興会。

 日中戦争開始後、国防のための「科学動員」を積極的に打ち出したのが企画院で、これに刺激された文部省は、学術会議の会長である平賀譲(帝大総長)を軸に、科学振興に大きく踏み出す。昭和15年(1940)には「科学技術新体制」の名の下に技術院が発足し、昭和17年(1942)科学技術審議会が設置される。しかし、技術院は、在来の官庁を刺激し、科学技術への取り組みを積極的にさせた効果はあったものの、それ以上の成果は生み出せなかった。戦後、人々は「合理的な体制」の不備に戦争の敗因を求めたが、「単一な指揮系統で総動員ができたとしても、当時の日本の資源や科学技術の限界から、それほど結果は変わらなかったと思われる」という、実に身も蓋もない指摘こそが、真実のように思われる。

 しかし「科学」は希望の言葉となり、GHQ科学技術課の支援のもと、日本学術会議が発足する。1956年には科学技術庁が発足し、科学・技術政策の立案・調整と、原子力、航空、のちに宇宙開発という国家的な大規模技術開発を担うことになる。初代長官は正力松太郎なのかー。学術会議は、科技庁が原子力行政を担当することに反対したというのはなぜなんだろう。このへん、もう少し詳しく知りたい。宇宙開発をめぐっても、科技庁と文部省・大学の対立があって、1968年には科学技術基本法案が廃案になっているという。今では想像がつかないが、当時の文科省は大学と歩調を合わせていたということか。

 1995年に科学技術基本法が成立し、5年ごとに科学技術基本計画が策定されることになった。2013年には科学技術イノベーション総合戦略が決定し、以後、国の施策では「科学技術」に「イノベーション」を添えるのが定番となった。著者は「科学技術政策はイノベーション政策のなかに埋没しつつあるかのようだ」と批判的である。明治以来の「科学」と「技術」の主役争いが落着し、両者が一体化したところで、新たに出現した「イノベーション」という異分子。果たしてこれも一体化していくのか、それとも一時の流行に終わるのか分からないが、言葉の物珍しさに騙されないよう気をつけたい。

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江東から多摩まで/水都東京(陣内秀信)

2021-02-23 21:42:27 | 読んだもの(書籍)

〇陣内秀信『水都東京:地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外』(ちくま新書) 筑摩書房 2020.10

 陣内さんの著書は、むかし単行本を読もうとして、最後まで読めなかった記憶がある。これが最初の1冊かもしれない。本書は著者による長年の東京研究の「総集編ともいえるもの」であることが冒頭に示される。各章は東京の東から西へ、「隅田川」「日本橋川」「江東(深川・清澄白河)」に始まり、「ベイエリア(品川・お台場)」「皇居と濠」を経て「山の手」「杉並・成宗」から「武蔵野(井の頭池・神田川・玉川上水)」「多摩(日野・国分寺・国立)」に至る。

 私は、もともと東京東部(江戸川区)の生まれだが、4年前から門前仲町に住んでいることもあって、「隅田川」の詳細はとても興味深かった。世界の代表的な都市の多くは大きな川に面して誕生し、発展したが、パリのセーヌ川やロンドンのテムズ川が重要な都市機能や権力中枢と結びついていたのに対し、隅田川は江戸の外縁にあって、非日常的な開放感、歴史の記憶や聖性を担っていた。その名残りは今でもあると思う。また、隅田川のまわりには漁師町の記憶が潜んでいるというのも面白かった。富岡八幡宮の深川八幡祭で神輿の連合渡御の最後を飾るのは「深濱」(深川濱=1962年に解散した深川浦漁業組合)の神輿だという。2020年は3年に一度の本祭りが中止になってしまったが、今年は見られるかなあ。

 聖性の隅田川に対して、物流と経済を主に担ったのが日本橋川。今は高速道路の影になった日本橋川だが、明治後期、(大河ドラマで話題の)渋沢栄一郎は「東京をヴェネツィアのような国際都市にしようと夢見」て、辰野金吾にヴェネツィア風の自邸を川端に作らせている。ただし水上から直接アプローチするのではなく石の階段をのぼる形式との由。この建物、ドラマで再現されるかしら?

 そして今、江東では、「水都」の遺伝子が再び呼び覚まされつつある。近年の東京では「西側に向かう郊外発展の夢は完全に薄れ」、都心回帰あるいは「東に向けて風が吹き始めている」というの観測には完全に同意。清澄白河だけでなく、深川、木場も住む町として、とても魅力的だ。

 一方、私は20代から30代は住まいや仕事場が東京西部だったので、「山の手」「武蔵野」にも親近感がある。武蔵野台地には豊富な湧き水があり、多くの池や川が存在する。流域には遺跡や神社、名所などが分布し、古代や中世に遡る歴史の記憶を伝えている。つまり東京は、ベイエリアや下町だけでなく、「山の手」「武蔵野」も含めて「水の都市」なのだと著者は考える。本書には、白黒ではあるが、井の頭池や玉川上水、野火止用水など、見覚えのある懐かしい水辺の写真も掲載されている。江戸川橋の関口水神社(神田上水の守護神)は、永青文庫に行くときにいつも横を通っているのだが、今度、ちゃんとお参りしておこう。

 最終章の「多摩」に書かれた日野、国分寺、国立は、何度か訪れたことはあるが、あまり縁のない地域である。しかし、実は4月から立川方面に転職の予定なのだ。日野用水にお鷹の道。落ち着いたら、水辺を求めて歩いてみることにしたい。

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血塗られた維新/暗殺の幕末維新史(一坂太郎)

2021-02-08 19:44:05 | 読んだもの(書籍)

〇一坂太郎『暗殺の幕末維新史:桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』(中公新書) 中央公論新社 2020.11

 私は高校で日本史を習わなかったこともあって、幕末維新に関する知識が、長く中学生(というより、ほぼ小学生)のレベルで止まっていた。そのため、明治維新は、大局的には平和のうちに成し遂げられたものと思っていた。幕末に日本各地で大規模な戦闘があったことを認識したのは、かなり大人になってからである。そして、旧幕府軍と新政府軍の組織的な戦闘とは別に、個人を狙った暗殺事件が頻発していたことも徐々に知るようになった。

 本書は、はじめに日本の暗殺史(蘇我入鹿、源実朝、織田信長!)を概観し、幕末の攘夷家による外国人暗殺および未遂事件を紹介する。その行きつく果てに、日米修好通商条約に調印し「国体を辱しめ」た大老井伊直弼が水戸浪士たちに襲撃された桜田門外の変が起きる。

 ここから延々と暗殺事件の紹介が続く。老中安藤信正の襲撃(坂下門外の変)、関白九条尚忠の家士島田左近暗殺(天誅第一号)、土佐の吉田東洋暗殺、本間精一郎暗殺(攘夷派の仲間割れ)、目明し文吉暗殺(島田左近の手下)、御殿山イギリス公使館焼討ち、足利三代将軍木像梟首事件、西洋砲術家の中島名左衛門暗殺、天誅組による五條代官所襲撃、将軍家茂暗殺計画、姉小路公知暗殺(初めての公家暗殺)、新選組の清河八郎暗殺、芹沢鴨暗殺、佐久間象山暗殺、井上聞多暗殺未遂(蘭医の処置によって一命をとりとめた)…以上は事例のごく一部に過ぎない。

 政治的な需要人物が狙われた事件もあるが、仲間割れが原因だったり、殺人そのものが目的に感じられるものもある。物見高い市井の人々も、一緒になって殺人ショーを楽しんでいたかのようで、さらされた首や死体のスケッチが多数残されていることを本書の図版で初めて知った。残酷絵とか血みどろ絵と呼ばれる明治の錦絵も、この延長線上にあるのだな。

 新政府誕生後も、イギリス公使パークスが京都で襲撃されたり、大学南校のイギリス人教師が神田で襲撃されたり、外国人殺傷事件が続いていることにちょっとショックを受ける。新政府高官では、横井小楠、大村益次郎、広沢真臣らが襲われ、明治6年(1873)には初代内務卿大久保利通が石川県の不平士族らに暗殺される。

 本書は、暗殺事件の犯人についても詳しく追及している。事件直後に判明した犯人もあれば、半世紀近く後になって「自分がやった」「犯人は誰々だ」という証言が得られたケースもあるようだ。幕末のテロ事件には、のちに新政府高官となる人々もかかわっており、伊藤博文は塙次郎(塙保己一の息子、国学者)を斬ったとされるが、後年、伊藤痴遊が糺すと「そんな古い事は、どうでもよいではないか」ととぼけたという。

 いまさらながら驚くのは、尊攘派テロリストの一部が靖国神社に合祀されていること。たとえば桜田門外の変で井伊直弼を襲った浪士たちだ。また、イギリス公使オールコックが滞在する東禅寺を襲撃し、斬られたり自決したりした12名の刺客たちも靖国に合祀され、顕彰のため贈位も行われている。なぜ?! ちなみに刺客と戦い、命を落とした警護の武士たちには何も贈られていない。あと、意外なことに清河八郎は靖国に合祀されているのだな。このあたりは「国家に顕彰される死」とそうでない死について、いろいろ居心地の悪い気持ちを掻き立てられる。

 そのシンボリックな対立が、井伊直弼と大久保利通だろう。井伊家の旧臣たちは、大久保が顕彰されるなら井伊も顕彰されるべきと申し出るが、もちろん太政官は聞き入れなかった。それでも徐々に高まる井伊顕彰ムードに対抗するように、浪士たちの靖国合祀が定められ、「桜田烈士五十年祭」が盛大に挙行された。すごいなあ。高崎正風は浪士たちを評して、全く国家のための行動で「一身の栄達を願ふとか、自己の利益を図るとか云ふ念慮は毫も無い」と述べているが、筆者が冷ややかに書いているように、無私無欲だから正しいというのは、テロ顕彰の常套句である。

 しかし国を挙げて半世紀前のテロリストを顕彰しているところに起きたのが大逆事件だった。明治44年、吉川弘文館から出版された『桜田義挙録』では、井伊直弼と幸徳秋水が、国体に逆らった者として同類視されているという。ここまで屁理屈が言えるものか。さすがに今の日本では、暗殺事件の心配は小さいけれど、権力に都合のよい暴力(言論を含む)が正当化され、そうでない暴力が非難される仕組みはあまり変わっていない。こういう屁理屈は、結局、社会の安全を脅かす害毒であると思う。

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戦うユートピア運動/太平天国(菊池秀明)

2021-01-30 22:36:56 | 読んだもの(書籍)

〇菊池秀明『太平天国:皇帝なき中国の挫折』(岩波新書) 岩波書店 2020.12

 太平天国は、19世紀半ばに中国で発生した民衆運動である。下級の読書人だった洪秀全を指導者とし、土着的な理解によるキリスト教を奉じて、清朝の打倒を目指したが、指導部の内紛などもあって、最後には鎮圧された。というのが、私の基本認識だ。清末の歴史は好きな方だが、乱を契機に歴史の表舞台に登場する曽国藩や李鴻章に思い入れがあるので、太平天国については、無知な民衆の反乱で鎮圧されて当然、という程度の認識しかなかった。本書は、そうした後世の価値判断を控えて、太平天国という運動が持っていた可能性をフラットに評価しようという試みで、興味深かった。約20年にわたる太平天国(上帝会)の転戦の軌跡を読みながら、中国を旅行したとき、さまざまな地方で太平天国の史跡や文物に出会って、影響範囲の意外な広さに驚いたことを思い出した。

 洪秀全(1814-1864)は広州生まれの客家人で、科挙の試験に失敗したあと、夢で「志尊の老人」に会い、のちにキリスト教の伝道パンフレットを読んで、夢で出会った老人がヤハウエであったと確信する。この話は、高校の世界史の授業で聞いたことを覚えている。あと、志尊の老人が「金髪に黒服姿」だったというのが、最近の中国ドラマ『将夜』の夫子っぽいなあと余計なことを考えてしまった。

 洪秀全は、キリスト教信仰は中国古代の理想(大同の世)への回帰であると考えた。広州でアメリカ人宣教師に洗礼を求めたが拒絶され、上帝会を創始して、広西・広東で勢力を拡大していく。信徒の大部分が客家(貧しい下層民)だったことは注意しなければならない。やがて客家人の楊秀清が加わり「天父下凡」(神がかり)を見せる。広西には降僮(ジャントン)と呼ばれる南方系のシャーマニズムの伝統があったとのこと。

 1851年頃から、彼らは太平天国を名乗り、清朝と本格的な戦闘を開始する。北上して武漢を占拠、次に南京を陥落させた。南京では多くの旗人が虐殺され、洪秀全らの入城後は天京と改称された。太平天国は、財産や食糧の公有制による「大同」世界の実現を目指したが、実際は不平等を解消することはできず、貧しい人々は、誰か諸王の庇護の下で生きることしかできなかった。これ、なんとなく、いまの共産主義中国を彷彿とさせる。それから、この復古主義的な擬似家族ユートピアは、華南の貧しい農民には歓迎されたが、格差を前提に繁栄を享受してきた江南(南京を含む)の人々には受け入れがたいものだったというのも興味深い。

 次に太平天国は北京攻略を目指し、天津郊外に到達するが、北伐は失敗に終わる。同時進行で行われた西征では曽国藩の湘軍と激闘を繰り返す。九江とか田家鎮とか、長江および鄱陽湖における水上の戦い。このへんは軍記物語として無責任に面白い。太平軍の石達開もなかなかの名将で、著者は太平軍と湘軍が「中国の次の時代を担う後継者の座をかけて争った」と見ている。

 1856年9月、洪秀全が楊秀清を殺害し、その一味を粛清する「天京事変」が起こる。清朝の皇帝を否定した洪秀全は、結局、自らも専制君主の不安と猜疑心から逃れることができなかった。この後、太平天国は、イギリスやフランスの傭兵部隊や湘軍に次第に追いつめられ、首都・天京を包囲され、洪秀全の病死とともに滅亡する。しかし運動の末期にも、洪仁玕、李秀成など、注目すべき人材がかかわっていたことを本書で知った。彼らが、もし湘軍の側にいたら、中国近代史にもっと大きな名を残しただろう。

 太平天国は、矛盾と混乱に満ちた運動だが、中国社会の伝統的な、そして今なお未解決の課題を浮き彫りにしているところがある。権力の分散とか、異質な者への寛容の難しさ。「中国は常に強大な権力によって統一されていなければいけない」という強迫観念から人々を解放するには、中国社会がもっていた可能性を検証していく必要があると著者は説いている。

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