〇吉見俊哉『東京復興ならず:文化首都構想の挫折と戦後日本』(中公新書) 中央公論新社 2021.6
東京という都市の成り立ちについて、特に戦後の都市計画の中で実現したものとしなかったものを考える。本書は、まず戦争末期、米軍による空襲で焼け野原となった東京に私たちを連れていく。路上にはおびただしい数の焼死体。こんな生々しい「空襲被害写真」が残っていることを私は知らなかった。けれども終戦を境に、あっけらかんと明るい日本の戦後が始まり、「聖戦」に代わる呪文「復興」に人々は熱狂する。そもそも「復興」とは「一度衰えたものが、再び盛んになること」(ルネサンス=文芸復興)であり、「以前よりよくなること」を含意しない。しかし近代日本では、この言葉は「成長し膨張する都市」という都市観に絡めとられ、「もっと良くなる」ための成長・再開発を意味してきた。戦後東京は、成熟としての「復興」をいまだ獲得していないと著者は考える。
敗戦直後の日本には、現在と異なる「復興」の可能性があった。たとえば「文化国家」ブーム。だが、戦後の知識人たちは、文化を国家から切り離すことに熱心だった(その気持ちは分かる)。国家の側も「経済・技術復興」路線が固まるにつれて「文化」をかえりみなくなり、多くの日本人がこれに追随した。「文化国家」ブームを語る逸話として興味深いのは、憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」が、GHQ草案にはなく、日本側の働きかけで入った文言であること(この件、複雑な背景があり、単純に評価できないことは本書を参照)。
「文化国家」構想と連動し、東京の復興を「文化首都」の建設事業として推し進めようとしたのは、東京都の都市計画課長・石川栄耀である。石川は「帝大と上野」「早稲田と目白台」「三田と芝」「神田」「大岡山」に、ケンブリッジやオックスフォードのような、大学を中心とした文教地区をつくることを構想し、各地区の大学が具体化に取り組んだ。東大では、南原繁総長の下、建築学科の助教授たち(その一人が丹下健三)が中心となり、計画を策定したが、あまりにも大胆かつ理想的すぎて実現に至らなかった。せめてその「何十分の一か」でも実現させようというしぶとさが足りなかったことを著者は惜しんでいる。
1950年代半ば、東京の都市計画の先導役は、石川栄耀から山田正男に交代する。山田は、石川の文化都市構想を引き継がず、道路中心の「オリンピック都市・東京」の構想に切り替えていった。高度成長に向かう東京にとって現実的な選択と言える。その結果、首都高速道路と新宿副都心の建設と引き換えに、東京は多くの中小河川と水辺の風景、そして都電を失った。もちろん、当時、東京の過密交通の解決は喫緊の課題だったし、石川の文化都市構想を握り潰した上司・安井誠一郎都知事の「今は一人の都民も(食糧不足で)死なさぬことだ」という決意はもっともで、単に懐古的なセンチメンタリズムで批判してよい問題でないことは分かる。
その後、1970年代末から80年代初めのわずかな間、日本人が再び「文化」や「心の豊かさ」とは何かを考えようとした時期があった。その一例が、1979年の大平正芳首相の施政方針演説である。そのころ、私は高校生から大学生で、大平演説は覚えていないが、世間の風向きが微妙に変わった雰囲気は覚えている。しかし、続く中曽根政権は「たくましい文化」という怪しいキャッチフレーズを掲げ、再び「経済」重視、さらに「文化」の産業化を推進する。なるほど、ここから80年代、企業が「文化(むしろ横文字のカルチャー)」を先導する時代が始まるわけか。
以後、バブル期もバブル崩壊以後も、日本政府と東京都は「世界都市・東京」を目指して都心や臨海部の開発を強力に進めてきた。彼らが信奉するのは、ビッグイベントの招致によって社会資本の整備が進み、経済成長を生み出すという「お祭りドクトリン」で、その果てに2020年五輪がある。今年(2021年)東京五輪が開催されてもされなくても、東京の「復興」はないだろう。経済的な面でも、まして文化的成熟という意味でも。東京の「文化的焼け野原」状態は今も続いている。著者が提唱する「未来のために過去とのつながりを再生させていく都市」としての東京、局地的に実験的な試みは、いくつか立ち上がっていると思うのだが、もう少し大きな方向転換を、私が生きているうちに見ることができるだろうか。