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見もの・読みもの日記

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世界の目から/検証コロナと五輪(吉見俊哉)

2021-12-30 20:35:15 | 読んだもの(書籍)

〇吉見俊哉編著『検証 コロナと五輪:変われぬ日本の失敗連鎖』(河出新書) 河出書房新社 2021.12

 本書は、東京五輪をめぐる全体状況を編者が論じたあと、若手研究者チームが国内外のメディア言説を分析する構成になっている。編者を代表とする科研費研究「プレ-ポストオリンピック期東京における世界創造都市の積層と接続に関する比較社会学」の一環として企画されたものだという。

 編者の執筆部分は、2020年4月刊行の『五輪と戦後』、2021年6月刊行の『東京復興ならず』の問題意識を引き継ぎ、補完するものだ。2005年夏、石原都知事は、近隣諸国への敵愾心と国威発揚の欲望から、「お祭り」としての東京五輪構想を立ち上げた。その淵源には、90年代に計画された世界都市博が中止となり、湾岸部の開発が「塩漬け」になっていた事情がある。

 2000年代、都心部(丸の内、汐留、大崎など)の再開発は進んだが、これで潤うのは民間大企業だけで、東京都にとっては湾岸部の基盤整備が何としても必要だった。そこで当初の東京五輪構想は、主要な会場を湾岸部に想定していた。もし、当初のザハ・ハディド案の競技場が湾岸にできていたら、海からの新たなランドマークとして評価を受けていたのではないか、という想像には、ちょっと心を動かされた。しかし、やがて多様な思惑を持つステークホルダーが相乗りになると、神宮外苑の「レガシー」重視の声が大きくなり、湾岸五輪の構想は潰えていく。

 震災直後に五輪に立候補するにあたり、安易に使われ始めた「復興五輪」も、被災地・東北と東京の分断を明らかにしただけだった。本書第3章には、2020年の「コロナ来襲」以降、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証し」という新たなお題目が掲げられると、新聞各紙の「復興五輪」への言及が激減した実態が示されている。

 コロナ禍での五輪は、人々の心をひとつにすることはなく、むしろ明らかに「分断」を深めた。五輪を開催するか否かという問題は、与党と野党の政治的対立に巻き込まれていく。大手新聞社は、五輪のスポンサー契約を結んでいる立場から、明確な中止の提言には二の足を踏んでいたが、開催賛成派(産経、読売)、慎重派(朝日、東京)は、それぞれ自社の主張を補強する専門家・有識者を選んで活用した。この「専門知のキャスティング」問題には、今後も注意を払わなければならないと思う。

 私が最も興味深く読んだのは、第5章「海外はどう見たか」で、欧米、韓国、中国の主要メディアによる五輪報道が分析されている。アメリカ、イギリス、ドイツの有力紙や雑誌では、五輪やIOC、そして開催国日本の対応を問題視する記事が目立った。特に批判の矛先はIOCに向いており、英国『ガーディアン』紙には「IOCは解散し、その資産を民主的に構成された新しいグローバルスポーツ組織に受け渡すべきだ」という専門家の意見記事も掲載された。

 韓国では、東京五輪の退屈な開会式に失望するとともに、「文化面において過去に日本に憧れた私たちが、今や日本を追い越した」という、ある種の優越感を表明する記事が目立ったという。どうしてこう両国民とも優劣を競いたがるかなあと苦笑したが、文化芸術面で韓国に勢いがあるのは事実だと思う。中国では、批判はあまり目立たず、好意的な評価が主流だった。日本国内での分裂・分断も伝えられていたが、北京冬季五輪に向けて、五輪という「夢」を損なうまいという中国当局の意思が働いたのだろう。しかし『環球日報』には、上海外国語大学の教授が「東京五輪はチャンスから鶏肋(たいして役に立たないが、捨てるには惜しいもの)に」という評論を書いているそうで、比喩が的確すぎて笑ってしまった。鶏肋、出典は『後漢書』楊修伝である。チャンス=機会 jihui と鶏肋 jilei の音も近い。

  とにかく五輪は終わり、人々は全てなかったような顔をしているが、巨大な負の遺産に向き合わなければならないのはこれからである。2021年東京五輪の挫折は、コロナ禍だけによってもたらされたものではなく、それ以前からあったいくつもの矛盾やごまかし、ビジョンの欠如に依ることはきちんと総括しなければならないだろう。そして、近代オリンピックを継続する意味があるのか?という本格的な問い直しも必要だ。札幌五輪の夢に浮かれている場合ではないのである。

※参考:東京五輪とはいったい何だったのか?(Web河出 2021/12/21):とりあえず「戦後日本の『お祭りドクトリン』」の冒頭を読むと絶望を感じる。この国の政治には、万博とオリンピックしかないのか。

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新しい変化像/観音像とは何か(君島彩子)

2021-12-29 21:14:00 | 読んだもの(書籍)

〇君島彩子『観音像とは何か:平和モニュメントの近・現代』 青弓社 2021.10

 本書は、新しい信仰対象である「平和を象徴する観音像」の誕生とその展開を明らかにするものである。我が国では、特にアジア太平洋戦争(第二次世界大戦)後に、戦没者の慰霊と平和祈念のために多くの観音像が発願された。ただし本書はさらに歴史を遡り、長い歴史を持つ観音信仰と観音像が、近代の始まりとともに、どのような変化を迎えたかから語り始める。

 明治期には、近世までの庶民的な仏教信仰は薄まり、「哲学」としての仏教と、「美術」として仏像を見る意識が強固になった。日本で美術概念が形成される過渡期の明治20(1887)年前後、美術の主題として観音像が流行した。代表的な絵画作品に狩野芳崖の『慈母観音』(1888年)と原田直次郎の『騎龍観音』(1890年)がある。

 1889年には東京美術学校の彫刻科が開校して美術史教育が始まり、明治中期以降には、飛鳥・白鳳・天平期の仏像が西洋の古典彫刻に対応する「規範」となった。飛鳥・白鳳・天平期が称揚されたのは、近代的な天皇制国家が成立する中で、聖徳太子をはじめ、天皇や皇族が強く仏教に関わった時代に価値が見出されたためで、裏を返せば、江戸時代に流行していた中国趣味(黄檗宗の影響→范道生とか?)が排斥されていく過程であるという。うーん、そうなのか? ちょっとキレイに整理し過ぎの感もあるが…。

 なお、飛鳥・白鳳・天平期の古仏とは異なるもうひとつの流れとして、中世以降に禅宗とともに広まった白衣観音が、明治中期以降、まず絵画で流行し、1900年代に入ると彫刻でも制作されるようになった。ここに聖母マリアや西洋の女神のイメージが付加され、大正期には、創作性の強い、寓意的な観音像もつくられた。

 昭和期に入り、1937年(日中戦争開戦)以後の戦時下では、現世利益(弾除け、護国、興亜)と結びついた、公共的なモニュメントとしての仏像が求められた。1936年の高崎大観音を嚆矢として、大観音像の建立がブームになる。興亜観音は陸軍大将の松井岩根が発願したことで有名だが、怨親平等の思想と結びついた観音信仰は、日中友好のプロパガンダとして中国大陸での宣撫工作にも用いられた。「観音世界運動」なるものも推進されたらしい。このあたり、ひとことで善悪を言えないのが厄介なところだと思う。

 戦時下で日本の軍事政策に追随していた日本仏教界は、敗戦とともに思想を転換する。観音信仰も同様で、戦勝観音や護国観音であった多くの観音像が「平和観音」に名前を変更する。従軍経験のある僧侶・吉井芳純は平和観音会を組織し、法隆寺の夢違観音を写した平和観音を数百体(!)制作し、各地の寺院や個人に譲った。最も有名なのは世田谷観音寺の像だという。ああ、ドラマ『悪夢ちゃん』のロケ地になったところだ。現在、吉井が発願した平和観音(世田谷にあるものは、特に特攻隊の死者を祀るもので特攻平和観音という)とは別に、やはり夢違観音を模したブロンズ像が境内の池の中に建立されている。私は2013年の初詣で参拝した。

 戦後は、平和を祈念する多様な観音像(または観音のような女性像モニュメント)が、各地に多数つくられてきた。何度か訪ねており、印象深いのは長崎・福済寺の万国霊廟長崎観音。もと神奈川県民として親しみ深い大船観音は、はじめ護国観音として計画されたが、寄付金不足や敗戦で放置されてしまい、発願の趣旨を「世界平和」や「戦死者慰霊」に変更し、1960年に落慶したという。苦難の歴史であるが、結果的に大船観音や高崎観音は、地域の観光資源の役割も果たしている。バブル期(1980年代)以降になると、慰霊や平和祈念の意義が薄れ、観光施設としての大観音像が建立が相次いだ。しかし、慰霊や祈願などの参拝客を見込めないと、観光だけで維持は難しく、荒廃が避けられないようである。

 一方で観音像(マリア観音)は、硫黄島やサイパン、レイテ島などにも建立され、キリスト教徒や現地の人々にも受容され、仏教の一菩薩を超越した「平和の象徴」になっているという。もともと「変化応身」は観音の属性で、一切衆生を救うため、状況に応じてさまざまな姿に変じて出現する尊格なのだから、この程度の変容、何ら問題ないのかもしれない。南無観世音菩薩。

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袋小路の現在/学術出版の来た道(有田正規)

2021-12-26 22:54:44 | 読んだもの(書籍)

〇有田正規『学術出版の来た道』(岩波科学ライブラリー 307) 岩波書店 2021.10

 仕事の関係で読んだ本だが、せっかくなので感想を書いておく。本書は、一般にはほとんど知られていない(研究者ですらよく知らない)学術出版の特異な産業構造とその問題点を、歴史的な視点から解き明かしたものである。

 はじめに、学術出版のはじまり(17世紀~)が簡略に語られる。科学に興味を持つアマチュアだったオルデンブルグが自己資金で刊行を続けた、ロンドン王立協会の『哲学紀要(Philosophical Transactions of the Royal Society of London)』。オルデンブルグの功績は、むかし金子務氏の『オルデンバーグ:十七世紀科学・情報革命の演出者』で読んだことを思い出した。ちなみに王立協会は、名前こそロイヤルだが、王室からの資金提供は全くなかった。なお、『哲学紀要』に一歩先んじて、フランスでは『ジュルナル』が刊行されている。17~18世紀のヨーロッパでは、政治と一線を画し、科学者が自主的に運営するアカデミーが設立され、学問の成果は書簡ではなく、学術誌上で公開されるようになった。

 しかし20世紀に入ると、商業出版社が徐々に、やがて急速に影響を広げていく。商業出版社のはじまりは、早いもので18世紀末。20世紀初頭まで科学と学術出版の中心はドイツだったが、1930年代、ナチス政権下で、多くの優秀な研究者がドイツから米国へ移住する。戦後、学術出版社の勢力図は、ドイツ語から英語にシフトするが、ここに代表的な学術出版社エルゼビア、シュプリンガーの動向が大きくかかわっていることは初めて知った。

 そして「学術出版を変えた男」ロバート・マクスウェルの登場。マクスウェルも(彼が設立した)ペルガモンも出版社の名前としては認識していたが、その背後に、こんな怪人物がいたことは、全く知らなかった。スタイリッシュなデザイン、出版サイクルの速さなど、画期的なビジネスモデルで研究者の支持を得、瞬く間に事業を拡大する。通貨ごとに販売価格を設定したり、個人購読と図書館の価格差を大きくしたのもコイツなのか。結局、資本主義は「全ての人」を幸せにせず、どこかにひずみを生み出す気がする…。1960年代、西側諸国が基礎科学に国費をつぎ込む時代となったことを背景に、商業出版は、学会やアカデミーによる出版を圧倒して大躍進した。そして、1990年代、ペルガモンを傘下に加えたエルゼビアの急拡大が始まる。

 1950年代には、学術雑誌に付随するツールとして、ユージン・ガーフィールドらによって、速報サービス『カレント・コンテンツ』や引用索引『SCI(Science Citation Index)』が生まれ、重要な学術雑誌を選ぶ観点から、インパクト・ファクターという指標が編み出され、1970年代には、学術雑誌のランキングが発表(販売)されるようになった。

 1990年代、インターネットの普及に伴って、学術出版は大きな変革期を迎える。日本の大学図書館からは、電子ジャーナルのビッグディール契約開始→価格高騰(購読の破綻)→オープンアクセス運動、というトレンド変化に見えていたが、関連年表を見ると、英国のハーナッドが、研究者が自分の論文をインターネットに公開する(オープンアクセス)ことで、商業出版社を「転覆」させようと提案したのは1994年なのだな。これに対して、商業出版であるアカデミックプレスが、ビッグディールという「起死回生」の契約プランを提案したのが1996年。世界中の大学図書館がこれに飛びついてしまった。

 ビッグディール契約の何が悪いのかは、ぜひ多くの人に知ってほしい。ビッグディールを維持するため、図書館は書籍の購入や小規模出版社の学術雑誌の購読を徐々に縮小するようになった。その結果、図書館は「図書を失った」のである。出版界では、小規模出版社が大手に身売りし、ビッグディールの規模はますます大きくなり、大手出版社の利益率を知った投資家が参入するようになった。図書館連合やアカデミアによる抵抗運動は続いているけれど、その旗印であるオープンアクセスさえ、もはや商業出版社の金脈となっている。

 論文の中身よりも本数、被引用数、インパクトファクターなどの数値を競う(競わされる)研究者と、学問に貢献する気がない営利至上の学術出版社が共生しているのが、今日の学術出版の世界である。「今の学術出版の有様は、国家が科学につぎ込む資金を目当てにした政商に近い」という著者の言葉に、寒々とした気持ちになった。この悲惨な状況を変える途はあるのだろうか?

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唐宋版わわしい女/妻と娘の唐宋時代(大澤正昭)

2021-12-20 20:01:12 | 読んだもの(書籍)

〇大澤正昭『妻と娘の唐宋時代:史料に語らせよう』(東方選書 55) 東方書店 2021.7

 中国の唐宋時代(7~13世紀)の妻と娘、つまり女性史や家族史に焦点を当てた7編の研究を紹介する。もともと学部の新入生向けに書いたものが主で、平明な文章で、興味を引く内容を取り上げている。

 著者が用いる史料は多様である。ひとつは絵画史料。しかし現実に忠実だと考えられがちな絵画資料も、実はバイアスがかかっている。たとえば『清明上河図』に描かれた人物の性別は「千男一女」であるが、他の当時の史料には、街なかにいる女性が記述されている。つまり『清明上河図』の画家には、女性は外を出歩くべきでないので、家の中にしかいないことにする、という意図があったと考えられるのだ。おもしろい。同様に『耕織図詩』の、畑仕事は男性、機織りは女性という性別分業図も、現実の反映でないことを、壁画墓の図様を反証に挙げて説明する。

 文献史料も、もちろんバイアスから自由ではない。それを意識した上で、著者は、裁判記録(清明集)や家訓(袁氏世範)や小説(太平広記・夷堅志)の中から、注意深く当時の女性たちの姿を取り出してみる。すると、一般に儒教思想の本場である中国では、古来女性の地位が低く、何の権利も認められていなかったように考えられているが、必ずしもそうでない実態が見えてくる。

 たとえば唐代は離婚・再婚が多く、寡婦が財産を持って再婚するのは普通のことだったし、妻の側から離婚を求めることもあった。当時の小説史料には、いわゆる不倫関係がおおらかに描かれてさえいる。この価値観が逆転し始めるのは宋代だという。

 男女関係が自由であることは、夫婦の結びつきが弱く、妻の立場が弱いことも意味していた。唐代の妻は嫉妬を武器として、自分の地位を確保すべく戦わなければならなかった(日本の平安時代の女性を思わせる)。唐代は宗族的つながりが強固で、家族の姿がよく分からないが、宋代になると、夫婦を核とした小家族の自立度が高まる。唐代では「一夫一妻多妾」だったものが、徐々に「一夫一妻プラス多妾」制へ変化し、妻と妾の権限が明確になるのだという。これは、宋代の庶民(上流階級だけど)の夫婦を主人公にした中国ドラマ『知否知否応是緑肥紅痩(明蘭)』を思い出さずにいられない。なるほど、ドラマで正妻の子か側室の子か、という出自が何度も取沙汰されるのは、こういう時代背景があるのだな。

 女性史から少し外れるのだが、唐代後半期から宋代にかけて「豪民」と呼ばれる人々が活躍した。塩・紙・鉄・石炭など物資の流通に関与して経済力を蓄えるとともに、地域社会のもめごとを裁き、紛争を解決する私的な裁判所として機能していた。ここで著者は、日本の近世社会なら村落共同体が成立しており、村人が支持する指導者たちが紛争の調停をおこなったが、中国に村落共同体はなく、宋朝政府か豪民かの選択になった、と書いている(この差はよく分からないので後で考える)。なお、豪民の活動も寡婦の生業の選択のひとつだったという。『水滸伝』などの女侠のイメージかな。

 また最終章で、唐宋時代の「家族」の平均人数を推定する試みも面白かった。敦煌文書の戸籍を用いたり、正史である『旧唐書』『新唐書』『宋史』の地理志を用いたり、小説史料を用いたりして、その数値を比較している。だいたい平均的な家族は4~5人で、経済力のある上流階級のほうが、やや子供の数が多い(貧乏人の子だくさんではないのだな)。特徴的なのは男女比の不均衡で、女児殺し(溺女)の習俗は根強く、明清時代にも引き継がれた。その結果は、独身男性の嫁不足を引き起こし、妻を売り(売妻)、貸し出し(租妻)、質に入れる(典妻)慣習が広がっていたという。岸本美緒氏に「妻を売ってはいけないか?」という、すさまじい題名の論文があることを知ったのは収穫だった。読んでみたい。

 なお、私は著者が読者(特に年配の?)に想定しているような「圧倒的な男性本位という中国史のイメージ」を全く持っていないので、それを丁寧に解きほぐそうとする著者の努力には敬意を払いつつ、まだこんなことを語らなければいけないかあ…と思ったことも事実である。著者が家族関係の史料として紹介している小説や裁判記録は興味深いものが多く、全編を読んでみたいと思った。

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「声」と「文字」/江戸の学びと思想家たち(辻本雅史)

2021-12-17 20:17:09 | 読んだもの(書籍)

〇辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』(岩波新書) 岩波書店 2021.11

 江戸の学びは、素読という「型にはまった」学びを前提としながら、なぜ豊かで個性的な思想を生み出すことができたのか。本書は7人の思想家を取り上げ、「学び」と「メディア」の観点から考える。

 山崎闇斎は、訓詁注釈に堕した明代四書学を拒絶し、真の朱子学の「体認自得」を求めた。言葉や理論ではなく、身体レベルでまるごと朱子の思想に参入しようという主張である。「自分が朱子その人と同じになりたかった」という表現は言い得て妙だ。そのため、闇斎は講釈(パフォーマンス)を重視し、門人たちは、師の言葉の筆記録を伝写し続けた。なお、闇斎が訓詁注釈から方向転換するにあたり、朝鮮の李退渓に大きな影響を受けていることは初めて知った。

 伊藤仁斎は、朱子学の「敬」を求めて思索に沈潜した結果、行き詰まり、「人倫日用」の思想に回帰する。そのメディアとして選ばれたのは同志会における会読で、対等で共同的な議論の成果に基づき、仁斎は自著を生涯アップデートし続けた。ここに京都町衆の文化サロンの伝統を見る指摘は、とても首肯できる。

 荻生徂徠は、「耳に由る」講釈ではなく「目に由る」読書を重視し、積極的に自著を出版した。これは、徂徠が青年期、江戸を離れ、草深い南総で書物だけをたよりに独学した経験によるのではないか。また徂徠が、個を超えた社会全体の側から「道」(安天下の道)を構想したのは、若年期に村落共同体(南総)と大衆社会(江戸)という、異なる二つの社会を体験したことが一因ではないかともいう。

 貝原益軒は、「民生日用」の書を平明な和文で著すことを志した。経学に関する著書は少ない(ほぼない)が、地誌、紀行、本草、礼法など、膨大な著作を出版している。そして、和文の本で教養を身につける文化的中間層(漢文を読む知識人層ではない)の厚みが、益軒のメディア戦略を成功に導いた。余談だが、明治初年、聖書の翻訳文体を探していた宣教師たちは、益軒本を参考にしたという。あと、そもそも益軒は儒者(朱子学者)なのか?という疑問に対して、著者が「私見では、益軒はどこから見ても朱子学者である」と断言しているのも興味深い。

 石田梅岩は、丁稚あがりの奉公人で「耳学問」で学問に志し、忽然として人の道を悟り、講釈を始める。師の講釈を組織化し、不特定多数の聴衆に「心学道話」を語る劇場空間を提供することで、教化運動を全国に拡大したのが門人の手島堵庵である。なお、寛政の改革を主導した松平定信は、伝統的な共同体から排除された民衆の教化に石門心学を活用しようとした。寛政の改革は「たんなる封建反動や思想統制策ではない」「民心も視野に入れた構想力豊かな改革であった」という著者の評価が気になる。

 本居宣長は、古代の声のことばである「やまとことば」の復元に努め、和歌を詠み続けた。和歌を(声に出して)詠み、会衆の共感を引き出す行為を通じて『古事記』の世界に参入できると考えたのだ。一方で宣長は書斎の人で、出版にも熱心であり、「声と文字の相克」がうかがえるという。

 平田篤胤は、民衆の信仰世界を正統の記紀神話の世界につなぎ、新たな神道の語りを構築した。篤胤は自ら各地に赴いて講釈活動を重ね、門弟たちは師の講説の聞書本を出版し、それをテキストにした読書会や勉強会が営まれた。こうして平田国学は、民衆を基盤とした尊王攘夷の政治活動の一翼を担うことになる。

 こうしてみると、通史的にも、また一人の思想家の中でも、学びのメディアとして「声」と「文字」が拮抗し、バランスの針が一方に振れては戻る様子が感じられる。また、成功したメディア戦略の背景には、必ず社会構造の画期(識字層の増加や共同体の動揺など)があるように思う。

 本書は、上記7人の思想家の分析の前段として、江戸時代の標準的な学びの姿を概観している。都市・村を問わず、普通の人々が文字(と算数)の学びを必要とした社会だったこと、手習塾で学ぶのは「御家流」で統一されていたことなど、興味深く読んだ。いまの初等教育の、文字を正しくきれいに「書くこと」への拘りは、このへんに淵源がありそうである。

 最後に本書は、江戸の漢学世代が如何に西洋近代に向き合ったかを、明六社、中村敬宇、中江兆民というケーススタディを通じて語り、唐木順三のいう「型を失った」明治第二世代の問題は、依然として現代に生きる我々に突きつけられていることを示して終わる。

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二千年前の日常/古代中国の24時間(柿沼陽平)

2021-12-13 21:08:31 | 読んだもの(書籍)

〇柿沼陽平『古代中国の24時間:秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.11

 人々がどこに住み、何時に起き、何を食べていたか。物価はいくらか。飲み会にはいかなるルールがあったのか。このような人々の暮らしに焦点をあてる歴史学を「日常史」と呼ぶ。本書は、秦漢時代の日常に焦点をあて、中国古代帝国の1日24時間を描いている。

 序章「古代中国を歩く前に」では、生活の基本知識として、名前(姓・名・字)のつけかたとよびかた、行政区分(郡県郷里、郡城・県城)について解説する。

 第1章「夜明けの風景」は、当時の自然環境、時間の把握方法、時刻の名前など。長江流域は常緑広葉樹の森林帯で、漢代になってもまだゾウが生息していたという話に驚く。第2章「口をすすぎ、髪をととのえる」から、いよいよ1日が始まる。虫歯、口臭、髪型と冠。髷を結わないと冠が固定できないので、男性官吏にとって薄毛は切実な悩みだった。王莽がハゲだったというのは初めて知った。第3章「身支度をととのえる」は、衣服、化粧。当時の官吏は、現代の女子中高生と同じで、決められた制服のなかで精一杯オシャレをしていたという。

 第4章「朝食をとる」では、当時のレシピが具体的に記述されている。主食は粒食(穀物を煮てから蒸し、粒のまま食べる)または粉食(餅や麺)。コムギの粉食は唐代に盛んになったといわれるが、漢代にさかのぼるという論者もいるそうだ。庶民のオカズはネギやニラだが、上流階級は、食材も料理法も調味料もバラエティ豊か。そういえば、肉の串焼きは中国の古装ドラマで見たことがある。

 第5章「ムラや都市を歩く」は建物、ムラや都城のつくり。第6章「役所にゆく」では、イケメンとそうでない人の考察が面白かった。当時は肌が白く、美しいヒゲを持つ男子が好まれた。身長も低くないほうがよい。漢代にはイケメンであることが官吏の採用条件に含まれることがあった。官吏の昇進競争の厳しさは、なかなか身につまされる。

 第7章「市場で買い物を楽しむ」も詳しくて面白い(著者の専門が経済史・貨幣史と知って納得)。物価には、固定官価(法律で決まる)・平価(実勢価格を参考に県が決める)・実勢価格の三種類の価格があった。売り手も買い手も、より多くの商品情報を集め、より有利な取引を成立させようとした。一方、売り手と買い手にしばしば慣習的な顧客関係が構築されたことが、商品価格の乱高下を抑えた。また、大型取引では、地元の顔役がプローカー(儈)となって取引の公正を担保した。

 第8章「農作業の風景」では、華北の気候(夏に雨が降り、穀物と雑草が繁茂する)に基づく農業が、ヨーロッパ(冬に雨が降り、雑草があまり生えない)に比べてどれだけ困難だったかを知る。穀物以外の収入源として、絹織物や麻織物の生産、牧畜、狩猟、河川での漁業、さらに賃労働をする者もあったが、その実態は史書にあまり書き残されていない。

 第9章「恋愛、結婚、そして子育て」によれば、恋はしばしば道端でのナンパから始まる。婚礼の手順と儀礼は、古装ドラマでおなじみ。第10章「宴会で酔っ払う」によれば、古代中国の食事は二回で、午後2時~4時頃に二度目の食事をとり(早い)、そのまま宴会になることもあった。酒の種類は多様で、漢代には西域からワインも輸入されていた。席次、余興、酒令。ついでにトイレの考察も。

 第11章「歓楽街の悲喜こもごも」は、芸妓の歴史、男女の性愛について。陶俑や画像石(?)には、男女の性愛を表現したものがあるのだな。貴重な図版を初めて見た。第12章「身近な人びとのつながりとイザコザ」は嫁姑問題、離婚、再婚。第13章「寝る準備」は、灯火、手紙、沐浴など。

 こんな具合で、卑近な話題も避けず、幅広いテーマが取り上げられている。「エピローグ」によれば、著者はアルベルト・アンジェラ氏の『古代ローマ人の24時間』に触発されて本書を構想したというが、その後の準備作業がすごい。木簡、竹簡、壁画、明器など、利用可能な全ての史料を用いることにし、資料の歴史的背景を明らかにすべく、出土地に赴いて現地調査もおこなった。伝世文献は、史書や思想書だけなく、軽視されがちな小説類も利用している。

 その苦心は、巻末の膨大な注記からも推察することができる。本文では、古代にタイムスリップした現代人が目撃した光景としてサラリと描かれた記述に、おや、これは?と記憶を刺激されて、注記を見ると「史記」だったり「顔氏家訓」だったりした。この元ネタ当ても本書の楽しみ方のひとつだと思う。

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偉大な家長とその後裔/渋沢家三代(佐野眞一)

2021-12-01 17:24:33 | 読んだもの(書籍)

〇佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書) 文藝春秋 1998.11

 今年の大河ドラマ『青天を衝け』をかなり楽しんで見ている。10月の半ば頃だったか、終盤のキャストとして、栄一の息子の渋沢篤二役や孫の渋沢敬三役の俳優さんが発表された。そのあと、SNSで本書が面白いという情報を見た。佐野眞一さんは実業人の評伝の名手なので、そりゃあ「日本資本主義の育ての親」渋沢栄一を描いても面白いに違いないと確信した。

 しかし渋沢家三代とは? 著者は本書の前に『旅する巨人』と題して、民俗学者・宮本常一の評伝を書いている。その宮本を物心両面で援助し、民俗学をはじめとする我が国の学問発展に陰徳を重ね続けたのが渋沢敬三だった。この人格は一体どこから生まれたのか、という疑問から、著者の関心は、栄一・篤二・敬三の渋沢家三代、百二十年あまりの歴史に向かうことになる。

 全7章のうち、1~3章は、ほぼ栄一の一人舞台である。血洗島の「中ノ家」に生まれ、藍玉の製造と販売を父に学び、尊王攘夷思想に触れ、縁あって一ツ橋家に仕官する。明治以降、新政府や実業界での活躍も含め、今年の大河ドラマの展開とほぼ一致しており、本書が直接のネタ本なんじゃないか?とさえ感じた(実際は、渋沢の回顧録など共通の資料に拠っているためだろう)。

 ただし本書には、ドラマが明確に描かなかったエピソードも登場する。血洗島の本家筋である「東ノ家」は、つねづね「中ノ家」を見下す態度を取っており、両家の確執は長く続いたようだ。「東ノ家」の当主は代々金儲けに励み、莫大な富を蓄えたが、これを一代で蕩尽したのが長忠(六代宗助)で、その息子が長康、長康の弟・武の息子が澁澤龍彦である。著者は、栄一が父の市郎右衛門から受け継いだ「現実的合理主義的精神」と「几帳面で勤勉な体質」とともに、渋沢家には「間歇的に、とんでもない遊蕩の血」が現れると指摘し、その血は特に「東ノ家」に色濃く流れていたと述べている。「血」という表現は不適当かもしれないが、そう言いたくなる気持ちは分かる。

 栄一の嫡男・篤二には、この「遊蕩の血」が発現したということになるのだろう。篤二は熊本の五高在学中に「大失策」(詳細は不明だが遊所への耽溺か)を引き起こし、渋沢家の意向で退学させられ、血洗島で謹慎生活をおくることになる。このとき、「東ノ家」の長忠、長康父子と親しく交わった。その後、篤二は、栄一の選んだ公家の娘、橋本敦子と結婚。長男の敬三、次いで次男三男も生まれ、しばらく平穏な日々が続くが、芸者あがりの女性・玉蝶とのスキャンダルが発覚する。

 廃嫡処分となった篤二は、渋沢一族に買い与えられた白金の土地(現在の松岡美術館のある場所!)の妾宅で、玉蝶こと岩本イトと遊芸放蕩の余生をおくった。一方、栄一は孫の敬三を渋沢宗家の当主に指名する。動物学に強い関心を持っていた敬三だが、七十を過ぎた祖父の栄一に頭を下げられ、東大法科経済科に進み、卒業後は横浜正金銀行に入行する。将来は第一銀行に入ることが決まっていた。

 その後、敬三は戦時中に日銀総裁を務め、戦後の幣原内閣で大蔵大臣に就任し、半年あまりの在任中、預金封鎖、新円切り換え、財産税導入などの大ナタをふるう。このへん、本書の記述は駆け足なのだが、もう少し詳しく知りたいと思った。財産税に代えて、屋敷の物納と財閥指定を受入れ(実態は財閥と呼べる規模の資本金は所有せず)、渋沢同族株式会社は解散する。敬三は銀行業務のかたわら、学問発展の支援に情熱を傾けた。大正12年(1921)に発足させたアチック・ミューゼアムは、国立民族学博物館の源流ともなっている。

 私は、たぶん神奈川大学日本常民文化研究所(行ったことはない)の展示企画で「アチック・ミューゼアム」と渋沢敬三という名前を知った気がする。政治家・実業家のかたわら、民具や玩具を蒐集していたと聞いても、なるほど金持ちの道楽かと思ったくらいで、学問の道を放棄させられた挫折を、地道に克服し続けた成果だとは考えもしなかった。一族の期待に応え、運命を恨まず、しかし自分のやりたいことも貫いた敬三は、強い精神の持ち主だと思う。

 篤二は、渋沢一族の重すぎる期待と過保護過干渉に潰されてしまうわけだが、その弱さを責めることはできない。幼くして母を失い、多忙な父の栄一に代わって篤二の面倒をみていたのは「厳格を絵にかいたような姉夫婦」(歌子と穂積陳重)だったという。才媛の誉れ高い歌子だが、本書に引用されている日記記事を読むと、父・栄一を尊敬し、渋沢家を絶対視する気持ちが強くて、これは篤二、つらかったろうなあとしみじみ同情する。さて、大河ドラマはこのあたりをどこまで描くだろうか。

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中国歴史ドラマの背景/南北朝時代(会田大輔)

2021-11-29 23:45:41 | 読んだもの(書籍)

〇会田大輔『南北朝時代:五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.10

 中国の南北朝時代とは、五胡十六国後の北魏による華北統一(439)から隋の中華再統一(589)までの150年を指す。「はしがき」の説明に従えば、「『三国志』と隋・唐の間で、日本でいうと倭の五王から聖徳太子ぐらいの時期」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。一般に日本人にはなじみの薄い時代であることは確かだ。しかし、中国ドラマ好きの私は、SNSに流れてきた、以下の宣伝文句が気になって、迷わず購入してしまった。

 ”最近、南北朝時代を舞台にした中国ドラマ(『蘭陵王』や『独孤伽羅』)や南北朝時代をモデルにした中国ドラマ(『琅邪榜』『陳情令』)が好評ですね。ドラマの時代背景が気になる方は、ぜひ18日発売の会田大輔『南北朝時代ー五胡十六国から隋の統一まで』(中公新書)を。”

 いま確認したら、つぶやいているのは著者本人のツイッターアカウントだった。うまく乗せられたわけだが、後悔はしていない。

 本書は、序章で3世紀後半に中国統一を果たした西晋が崩壊し、中国が南北に分裂する過程を紹介したあと、北朝→南朝→北朝→南朝…という具合に視点を転じながら、諸王朝の興亡と南北間の戦争を追っていく。非常に分かりやすい記述で、複雑な歴史がよく頭に入った。

 本書は、官制や軍制、土地・住民管理、貴族や有力豪族との関係、祭天儀礼を含む礼制、都城、服飾、姓名、言語、宗教、文化など、豊富な情報で諸王朝の姿を描き出している。それと同時に、短いエピソードで強烈な印象を残す人々がいる。やっぱりその随一は侯景かなあ。北魏の軍人として頭角を現し、南朝の梁を滅ぼし、「宇宙大将軍」を名乗り(なんだそれは)、国号を漢として即位するも、梁の残党に攻められ、長江を船で逃げ下る途中で殺害された。船内に逃げ込み、船の底を刀で抉っているところを刺されて死んだと伝えられており、「最期まで諦観とは無縁であった」という著者の人物評が的確である。私は『琅邪榜』の誉王を演じた黄維徳(ビクター・ホァン)でイメージしているのだが、どうだろう?

 北魏の馮太后は、中国の「女帝」にありがちな悪い噂はあるものの、次々に政治改革を実現し、北魏の華北支配を確立した。すごいなあ、これはカッコいい女性だ。「私生活では偉丈夫の王叡を寵愛した」が「公私混同をあまりせず、政治を乱すことは少なかった」という。ドラマ化されてないかな、と思ったら『王女未央-BIOU-』と『鳳囚凰』がそうなのか。ほうほう。

 馮太后の路線を引き継ぎ、一層の中国化路線を進めた孝文帝は、北魏の全盛期を招来するが、中下級の北族(遊牧民系)の不満が高まり、南北朝全体が動乱の時代に突入する。北魏は東西に分裂し、権力闘争が激化する。西魏では宇文泰が実権を握り、北周を起こす。ここから隋を建国する楊堅が登場するわけだが、北周を潰した宣帝(天元皇帝)も面白いなあ。「常軌を逸した暴君として語られてきた」が、著者はいろいろ功績を挙げて「単なる暴君というわけではない」と評価している。

 本書全体を通して興味深かったのは、南北朝の歴史が「中国≒漢民族」で閉じているわけではないことだ。もともと華北は、漢人と鮮卑・匈奴などの遊牧民が混在する地域であり、北魏を建国した拓跋氏が鮮卑の一部族であることも理解していたが、建国後の北魏も、その後の諸王朝も、高車・柔然などの遊牧民族と、時には死闘を繰り広げ、時には婚姻によって友誼を深めている。北朝だけではない。南朝の宋・斉も、北魏との抗争を生き抜くため、夏・北涼・北燕という五胡諸政権、さらには吐谷渾・高句麗・柔然と結ぼうとして、盛んに使者を交わしている。宋(首都は健康=南京)から吐谷渾・高昌(いまの新疆ウイグル自治区)を経由して柔然(モンゴル高原)に使者を送っていたというのを読んで、20年くらい前に行った西域ツアーを思い出しながら、ひゃ~と驚いた。

 このように「内」と「外」で幾重にも入り組んだ権力闘争と合従連衡のダイナミズム、やっぱり、フィクションでもノンフィクションでも面白いドラマの舞台としてこの時代が選ばれる理由だと思う。

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唯一無二の作家/諸星大二郎トリビュート(河出書房新社)

2021-11-18 21:37:12 | 読んだもの(書籍)

〇『諸星大二郎:デビュー50周年記念トリビュート』 河出書房新社 2021.9

 刊行後すぐ購入したのだが、ゆっくり読みたかったのと、ビニールのパッケージを破らないと中が開けられない仕様になっていたので、ずっと飾って表紙を眺めていた。表紙は、総計18人のマンガ家が描いた諸星作品のキャラクターの詰め合わせになっていて、これだけで毎日見ていても飽きないのだ。

 意を決して封を開けてみたら、冒頭には諸星先生掻き下ろしの「寄稿者への逆トリビュートイラスト」があって、諸星タッチのラムちゃん、諸星タッチの厩戸王子、諸星タッチの吾妻ひでお先生!(何を言ってるか分からないだろうが…)など、悶絶してしまった。

 トリビュート作品は、長いもので16ページくらい、イラスト1ページの場合もあるが、分量に関係なく、どれも熱量が高い。吾妻ひでお先生は特別参加で、吾妻氏から諸星氏へ贈呈された色紙2枚を、吾妻氏のご遺族の許可を得た上で掲載したとの注記がついている。2013年の日付のあるほうが栞と紙魚子で、2014年の日付は瓜子姫。『瓜子姫とアマンジャク』は好きな作品なので嬉しいなあ。

 また、トリビュートは、諸星作品にインスパイアされた完全な創作もあれば、エッセイふうに諸星作品の魅力を語っているものもある。作家によっては「諸星作品との出会いは?」「特に好きなシーンは?」などの質問に、文章で答えてもいる。高橋留美子さんと近藤ようこさん、さらに江口寿史先生も『不安の立像』の強烈な印象を語っていた。これは、私もわりと早い時期に読んで、よく覚えている諸星作品。

 唐沢なをき氏が、中学1年生のとき、近所の書店で手に取った「少年ジャンプ」で『生物都市』に衝撃を受け、買おうと思ったらお金がなかったので、立ち読みで目に焼き付けて帰ろうとした、という思い出話を書いていて、笑いながら共感した。昭和の子供はそうだったよ、名作マンガを立ち読みや、友だちから借りて読んだ。私は床屋や病院の待合室でもずいぶん読んだな。

 そして当時の「少年ジャンプ」は『侍ジャイアンツ』とか『アストロ球団』を載せる一方で、諸星作品を載せていたのである。唐沢氏描く「ど次元くん」が「ぼくは諸星作品に出てくるかわいいものが好きなんです!」と言って、いろいろ挙げる中に開明獣(孔子暗黒伝のキャラ)がいて、「連載当時『1・2のアッホ!!』にも出てきた」とあって大笑いした。あったかもしれない~。唐沢さん、『狗屠王』で芸をしてる犬(怖いのだ、この話)とか挙げていて、目のつけどころと記憶力がすごい。藤田和日郎氏も、『異界録』で中国志怪の本への興味をかきむしり、と書いていて、やっぱり私だけじゃないのね~と思った。

 高橋葉介氏は『西遊妖猿伝』の悟空の殺陣が好きだという。うれしい。私もあの作品のアクションシーンは、怪奇シーンと同じくらい大好物である。とり・みき氏は「諸星先生がときどきお描きになる地球の底が抜けたようなギャグ」への偏愛を語り(分かる)、江口寿史氏は「出てくる女が総じてエロい」と語る。着眼点はさまざまだけど、どの言葉にも愛が感じられて幸せ。

 巻末の諸星先生の描き下し「タビビト」は、マンガ家人生の淡々とした振り返りにも読める。「メジャー」でも「マニアック」でもない「よくわからん方面」へ、ひとりでボソボソ歩いてきて、まだもうちょっと歩いてみようという。先生、どうぞこれからも楽しみながら、長く歩き続けてください。編集者の穴沢優子さん、素晴らしい1冊をありがとうございました。

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関与から競争へ/米中対立(佐藤亮)

2021-11-14 21:16:55 | 読んだもの(書籍)

〇佐藤亮『米中対立:アメリカの戦略転換と分断される世界』(中公新書) 中央公論新社 2021.7

 悩ましいテーマなので、読み進むのがつらく、途中で放棄しようかと思いながら、なんとか読了した。本書は、緊張高まる米中対立のゆくえを考えるために、1979年の米中国交正常化を起点に、そもそもなぜアメリカが中国との関係を構築し、それを維持してきたかを説き起こす。「中国を育てたのは、ほかでもない、アメリカ」なのだ。

 国交正常化を果たした後、カーター政権、ロナルド・レーガン政権は、最先端の実験設備の売却、高度技術の移転、留学機会の開放など、多方面にわたる中国支援を始動した(この頃の中国の貧困と近代化の遅れ、若い人たちには想像もつかないだろうな)。その背景には、中国が近代化すれば、市場化改革が進み、政治体制も変化し、人権状況も改善するだろうという楽観的な期待があった。同時に、いくら中国が成長しても、近い将来にアメリカに追いつくことはあり得ないと考えられていた。

 その期待は、1989年、天安門事件によって崩れ去る。議会やアメリカ社会の対中認識は悪化したが、ブッシュ政権は対中関係を断念しなかった。中国を徹底的に批判していたクリントンは、大統領就任後、米産業界が中国に期待を寄せる現実に直面して「変節」する。1993年には「包括的関与」政策を発表し、「関与」を正当化する、さまざまな理論が形成され、江沢民、朱鎔基による経済改革や党改革は一定の評価を得た。中国は2001年にWTOに正式加盟し、世界の工場として急速な経済成長を実現していく。

 一方、90年代には、経済優先の対中政策に疑念や懸念を抱く専門家もいた。ブッシュ(子)政権では、国防総省において中国戦略の再検討が行われ、2006年のQDR(四年ごとの国防計画見直し)には、かなり明確に中国への警戒感が書き込まれた。

 2009年に発足したオバマ政権は、対中外交を重視し、中国は「アメリカにとって真のリーダーシップを共有するパートナーの資格」を持っていると主張し、習近平の国家主席就任を歓迎した。しかし、2013年、中国が東シナ海に一方的に防空識別圏(ADIZ)を設定したことで、中国政治への警戒が急速に高まり、対中政策の修正が始まる。

 トランプ政権において、アメリカの対中姿勢は一気に硬化する。トランプは人権問題に大きな関心はなく、大局的な国際秩序観も希薄だったが、政府部局や米軍、連邦議会においては、中国のパワーがアメリカに迫りつつあるという気づきが広く共有された。関与と支援が中心だった中国政策を転換し、中国の影響力を押し戻すための政策対応が本格化した。しかし、米中両国とも景気の下振れにより、貿易協議を再開し、合意せざるを得ない状況となった。

 以上が80年代から近年までの米中関係の変遷である。こうして見ると、全く異なる政治体制の国を「関与と支援」によって、正しい(=自分たちと価値を共有する)姿に育てていけると考えるアメリカも、かなり変わった国だと思う。2000年代の初めには、ソ連の崩壊以降、アメリカは唯一の超大国(比喩的には帝国)になったと言われ、次の競争相手は中国?とか言っても、まだ与太話にしか聞こえなかった。この間、中国が着実に覇権国家の道を歩んできたことには、逆説的に敬意を払いたくなる。

 さて、今後、米中のパワー格差は縮小する一方で、対立は全面的かつ長期的なものになると専門家は予想している。では、デタント(緊張緩和)はあり得るか。最終的に米中対立は終わるのか。我々、中小国の市民にできることは何か。本書は、米ソ冷戦の教訓を踏まえて、これらに一定の回答を与えている。その中で、米中対立が終結するには中国の民主化(すなわち現体制の転覆)が必須とする立場を、著者が明確に否定していることには注意しておきたい。たぶん北朝鮮や、西アジア、中央アジアについて考えるときも重要な視座だと思う。

 個人的には、アメリカの対中政策が米台関係に及ぼした影響が、随時語られているのを興味深く読んだ。アメリカは長らく米中台関係の安定(現状維持)を優先してきた。そのため、台湾で2000年に陳水扁政権が誕生したとき、ブッシュは独立志向の民進党政権を喜ばなかった。2012年の総統選挙においても、オバマは国民党政権による台湾海峡の安定に期待していたが、2016年になると、実務的リーダーとしての蔡英文を評価し、歓迎した。いま、米中対立が本格化していくなかで、米台関係はかつてないほど強化されているという。これが台湾政府にとって単純に喜ばしい事態なのかどうか。おそらく大国間で難しい舵取りを迫られるところだろう。

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