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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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天下和順への旅/小早川秋聲(東京ステーションギャラリー)

2021-10-28 20:51:42 | 読んだもの(書籍)

東京ステーションギャラリー 『小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌』(2021年10月9日~11月28日)

 小早川秋聲(1885-1974)の幅広い画業を見渡す、初めての大規模な回顧展。小早川秋聲の名前は知らなくても、彼の代表作『國之楯』、暗闇に横たわる兵士(将校)を描いた絵画のイメージを、どこかで見た記憶がある人は多いのではないか。私もそうだった。この印象的な絵画の作者の名前を知ったのは、2019年に東京・京橋の加島美術で開催された『小早川秋聲-無限のひろがりと寂けさと』展である。このときは、前後期で約40点が展示され、戦争画以外にも多様な作品を描いていること、旅を好み、平和な異国の風景を描いた作品が多数あることを知った。

 だから今回の回顧展が、伝統的な歴史画や中国趣味の絵画に始まり、中国、インド、エジプト、ヨーロッパ、アメリカなど、エキゾチックな風景と風俗を題材とした作品が並び、なかなか戦争画が登場しなくても驚かなかった。むしろこの明朗な色彩の世界にずっと浸っていたいと感じた。

 好きな作品はいろいろあるが、まず『長崎へ就く』は、華やかなオランダ更紗(?)のシャツやスカートをまとった女性たちの存在感ある後ろ姿と、対照的に、はかない幻のように海に浮かぶ帆船。この女性たちの肉体の充実感は、『愷陣』の巨大な馬の姿に重なるような気もする。作品の前に立つと、視界が一頭の馬の姿で遮られてしまう大きさだ。儀式用の美しい鞍を置かれ、旗と紅白の牡丹の花で飾り付けられているが、関節の太い逞しい脚と大きな蹄、極寒の戦地を耐え抜いてきたふさふさした毛並みから匂い立つ生命力に圧倒される。

 歴史上の著名人を描いた大作に『法華経を説く聖徳太子像』や『絶目盡吾郷(成吉思汗)』がある。ジンギスカンの背後には、大きな白馬が寄り添っている。『回顧』は、藁沓を履いて、薪の束の上に腰を下ろした無名の(たぶん)老人の肖像。いずれも寡黙で気品(むしろ気韻か)の感じられる肖像である。林和靖と鶴を描いた『薫風』は、加島美術のギャラリーではスペースの関係で前後期入れ替えだったが、今回は左隻と右隻を一緒に見ることができてよかった。

 代表作『國之楯』は、ひとつの通過点として静かに眺めて通り過ぎた。ただ、この作品の下絵が同時に展示されていたのは興味深かった。最終的に円光を消して黒一色の背景とし、横たわる兵士の身長(脚の長さ)を修正していることが分かる。

 小早川は、戦後も細々と創作を続けたが、解説によれば、大きな展覧会にはほとんど出品しなくなり、その画業は徐々に忘れられて行ったという。仏画や伝統芸能、中国の故事を描いた作品が多かったが、その中に『聖火は走る』という、1964年東京五輪の聖火ランナーを描いた小品があり、微笑ましかった。1956年の『天下和順』は、金色の満月の下、びっしりと描かれた小さな人々が、酒を飲み、肩を組んで踊っている、空想の祝祭風景。全て男性らしく思われるのは、男性ばかりの戦場の記憶を昇華させようとしたのではないかと思う。

 この展覧会、110点余(展示替え有)のうち、ざっと見て三分の二以上が「個人蔵」という異色の構成だった。ご遺族のご協力なのだろうか。開催に努力された関係者各位に感謝したい。

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間違いを正す/ジョブ型雇用社会とは何か(濱口桂一郎)

2021-10-20 16:51:33 | 読んだもの(書籍)

〇濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か:正社員体制の矛盾と転機』(岩波新書) 岩波書店 2021.9

 著者は12年前の著書『新しい労働社会』(岩波新書、2009)で「ジョブ型」「メンバーシップ型」という雇用の類型を紹介したことで知られている。私はこの本は読んでいないが、『働く女子の運命』(文春新書、2015)を読んで、いろいろ納得した。そうしたら、最近、ネット記事で「ジョブ型」という文字が妙に目につくようになった。本書によれば、経団連が『2020年版 経営労働政策特別委員会報告』で大々的にジョブ型を打ち出したためだ。ところが、2020年に流行したジョブ型は「私の提示した概念とは似ても似つかぬもの」「間違いだらけのジョブ型」だったという。笑ってはいけないが、苦笑してしまった。そこで、世の中の間違いを正すため、あらためてジョブ型とメンバーシップ型について説明したのが本書である。

 端的に、職務(ジョブ)の記述があり、そのジョブを遂行できる人を当てはめ、定められた賃金を払うのがジョブ型雇用である。大部分のジョブは成果主義ではない。(アメリカを除き)解雇自由でもない。実はメンバーシップ型よりも古いシステムである。ここまでは私も理解できるのだが、現実の日本社会とのかかわりは、かなりややこしい話になる。

 まず、日本の雇用システムはメンバーシップ型であるが、日本の労働法制(実定法)は欧米のジョブ型に基づいているという解説にびっくりした。法制度のことは全く分からないが、そんなものが運用可能なのか。2008年に労働契約法が施行されるまで、法と実態の隙間は、判例の積み重ねで埋められてきたという。

 それから、ジョブ型雇用を実現する肝は採用である。採用可否の判断基準は、ジョブを遂行する能力の有無「だけ」でなければならないのだが、いま、ジョブ型をもてはやしている人の中に、その覚悟のある人がどれだけいるか。確かに、自分の体験を振り返っても、メンバーシップ型の採用では、候補者がその時点で持っているスキルよりも、採用後、組織の中で円滑な人間関係、相互信頼を築けるかどうかを重視する。その基準を捨てるよう迫られるのは、かなり辛い。

 一方、ジョブとヒトのマッチングには、職務が記述されていなければならない。少なくとも中途採用市場において、労働省は熱心に職務分析に取り組んできた。しかし、キャリアマトリックスやジョブ・カード事業は、民主党政権下の事業仕分けで廃止されてしまった。「事業仕分けに関わるような人々は大企業正社員型のメンバーシップの中で育てられてきた人が多いでしょうから」「社会の上層部になればなるほどジョブ型感覚が希薄になる」と著者は冷たく指摘している。

 雇用システムと教育システムは密接に絡み合っており、本田由紀氏は、日本の教育システムの最大の問題点をその職業的レリバンス(意義)の欠如に求めているが、普通高校も大学も職業教育には後ろ向きである。大学が、エリート教育時代のアカデミズム幻想にとらわれているという批判は首肯できるが、かと言って、今の文科省が進めようとする大学改革・入試改革が、将来にわたって有効な職業的レリバンスを生み出せるかどうかには、疑問を感じる。

 1990年代以降、日本型雇用モデルの矛盾が噴出する中で、低スキルジョブの非正規労働に落ち込む若者と並び、顕在化している問題が、正社員になってもまともなOJTを受けられず、膨大な作業に追いまくられ、スキルを獲得できずに中高年になった高給社員「働かないおじさん」である。これは、けっこう深刻で根深い問題だと思う。

 日本の賃金制度は、「能力」(スキルではない)は上がることはあっても下がることはないという前提でできている。また、日本の正社員文化では、会社は社員にできる仕事を見つけてあてがうものと考えられている。恐ろしい倒錯だが、私もそういうシステムの中で働いてきた。2020年以来のジョブ型ブームが目指すものは、成果主義によって中高年の不当な高給を是正することにあり、雇用システム全体のジョブ化を求めているわけではない、という著者の洞察が腑に落ちる。

 このほか、同一労働同一賃金問題、児童手当や配偶者手当、労働時間と残業代、安全配慮とプライバシー、女性活躍、障害者雇用、外国人労働者、労働組合など、多様な問題が丁寧に論じられている。どの問題も「労働者の権利」とか「財政健全化」とか、単一の価値観から脊髄反射的に結論を出してはいけないということを教えられた。

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事件と記憶を運ぶ/歴史のダイヤグラム(原武史)

2021-10-06 19:48:37 | 読んだもの(書籍)

〇原武史『歴史のダイヤグラム:鉄道に見る日本近現代史』(朝日選書) 朝日新聞出版 2021.9

 朝日新聞土曜別刷り「be」に2019年10月から2021年5月まで連載されていたコラムに加筆修正し、新たに構成してまとめたものだという。本書の章立ては「移動する天皇」「郊外の発見」「文学者の時刻表」「事件は沿線で起こる」「記憶の車窓か」となっているが、巻末のリストを見ると、掲載時はもっとランダムに話題が選ばれていたようだ。

 テーマ別にまとめたのがよかったかどうか、個人的には最初の「移動する天皇」は、帝国日本の天皇の権威と鉄道の結びつきを繰り返し意識させられるため、やや重たく感じられた。もっとも、紹介されている逸話は、些細な、つまらないものも多い(だから大事とも言える)。昭和大礼の御召列車の運行にあたって、すれ違う列車の便所は使用禁止になり、停車駅構内の便所は幕で覆われたとか。東海道本線と立体交差する鉄道では、送電そのものをとりやめた私鉄もあったとか。

 「郊外の発見」は、京都市営地下鉄や阪急の話題もあるが、小田急線、京王線、横須賀線など、東京西部と神奈川東部の話題が圧倒的に多い。著者の生活圏の関係かもしれないが、私も同じエリアに住んできたので親しみを感じた。京王線の聖蹟桜ヶ丘は明治天皇に由来するのか。大岡昇平の妻・春枝が夫の出征を見送るために上京した際、夕暮れの大船観音が怖かったというのは分かる気がする。

  「文学者の時刻表」では、文学作品や文学者の日記・エッセイなどから拾った話題を紹介する。著者が、当時の時刻表や路線図を丁寧に検証しているのが面白い。三島由紀夫の『春の雪』に、導入されたばかりの中央の婦人専用車が描かれているなんてすっかり忘れていた。谷崎潤一郎の「旅のいろいろ」には、東京から大阪へ帰る際、夜行の普通列車を好んだことが記されている。名古屋までは家の建て方や自然の風物に東京の匂いがするけれど、名古屋を越すとはっきり関西の勢力圏に入る。だから名古屋あたりで目を覚ますと、窓の外がすっかり関西の景色になっているのが気持ちいいというのだ。この感性、さすがだと思う。また、靖国神社の臨時大祭へ列席する遺族を乗せた専用臨時列車で、山口誓子が見た女性の姿は、短編小説のようだった。

 「事件は沿線で起こる」には、著名人が書き留めた車中の会話の数々が紹介されている。「あとがき」にも言うとおり、鉄道は、全く予期せぬ人々とのコミュニケーションを引き起こす、「誤配」の可能性に満ちた公共空間なのだ。分かる。

 初代鉄道院総裁をつとめた後藤新平が米原付近で脳溢血に襲われ、入院先の京都府立医科大医院で死去したことは知らなかった。東村山の全生病院のハンセン病患者が、中央線・東海道本線を使って、極秘で岡山の長島愛生園へ輸送されたことも。実は1968年の「新宿騒乱」も、当時小学生だったが覚えていない。1974年の三菱重工ビル爆破事件は思えているが、その爆弾が、昭和天皇が乗った列車を爆破しようとした虹作戦で使われるはずだったものだというのも知らなかった。鉄道は、本当にさまざまな近現代史の舞台となっている。

 「記憶の車窓から」は、著者の個人的な記憶・体験が色濃く反映された文章を集めている。高校一年生の北海道旅行で、倶知安駅前の天ぷらそばの自動販売機に空腹を救われた話は、本書の白眉だと思う。2010年に再び倶知安を訪れたとき、胆振線は廃止されて久しいのに、自動販売機がまだ存在していたという後日談を含めてとても好き。高校時代の友人と福島県の熱塩に行った話もよい。鉄道旅行の大先輩である内田百閒が、少年時代の旅の思い出を書いた随筆の趣きがある。

 最後を締めくくるのは食堂車の思い出。そうそう、むかしの食堂車のメニューって割高だったなあ。いまのJRのクルーズトレインは、最低でも数十万円らしい。一生縁がなさそうだ。近鉄の観光特急「しまかぜ」だったら、多少現実味があるだろうか。

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「改革の政治」を振り返る/現代日本政治史(大井赤亥)

2021-10-05 22:25:04 | 読んだもの(書籍)

〇大井赤亥『現代日本政治史:「改革の政治」とオルタナティヴ』(ちくま新書) 筑摩書房 2021.9

 本書は、1990年代以降の日本政治を「改革」をめぐる対立軸で捉えるとともに「改革の政治」を超える新たなオルタナティヴの提示を目指したものである。

 55年体制下の日本政治の対立軸は「保守vs革新」だった。保守とは、資本主義体制と日米安保条約を堅持する立場をいう。しかし「革新」の衰退によって、日本政治の対立軸は「保守」の内部抗争、すなわち、行政機構の縮小再編成を掲げる「改革保守」と、利益誘導政治の維持を目指す「守旧保守」の対立へと移行する。この起点を80年代の中曽根行革に求める立場(吉見俊哉氏など)もあるが、著者は、中曽根行革はまだ「保革対立」の枠内のできごとと位置づける。

 1993年、小沢一郎が『日本改造論』を刊行し、同年の衆院選で、日本新党、さきがけ、新生党という、誕生したばかりの「非自民保守系改革派」政党が躍進した。自民党は現状を維持したが、社会党の一人負けによって「革新」の退潮が明らかになった。

 細川政権は、政治改革(選挙制度改革)と規制緩和に乗り出していく。政治改革は、地元への利益還元から脱却しようとする「改革保守」と、自民党の金権腐敗を批判するリベラル派の支持を得、規制緩和は、財界、アメリカ、そして国内の消費者から支持された。「生産者」「労働者」であるより「消費者」であることにアイデンティティを感じる都市部有権者が増えていたのである。

 以後の日本政治は「改革」と揺り戻しの反復として整理できる。村山政権は改革の揺り戻しで、自民党もコンセンサス型意思決定につとめた。次いで橋本政権は、小沢一郎の「お株を奪う」かたちで行政改革を進め、内閣を強化し、政治主導を強めた。しかし財政構造改革の失敗によって、自民党は1998年の参院選で大敗する。小渕・森政権は、新自由主義のスピードを鈍化させ、伝統的派閥政治への回帰を目指した。

 2001年、小泉政権が発足。小泉構造改革は、自民党が「守旧保守」から「改革保守」へと変容する自己脱却の契機となった。小泉政治を通じて「改革の政治」は、ポピュリズムと結びつく。90年代以降、組織化されない個人が有権者の大部分を占めるようになると、目くらまし的なポピュリズムの手法が効果を発揮するようになった。また「改革の政治」が右派イデオロギーと結びつく契機となったのも小泉政治だが、小泉にとっては明確に構造改革が主で、右派イデオロギーは従だった。

 続く第一次安倍政権・福田政権・麻生政権は、総じて旧来型の自民党政治への回帰の時代だった(この評価はちょっと意外に感じた)。そして竹中平蔵は、自身が敷いた「改革」路線の減速に焦燥感をにじませ、与野党を横断する改革派の結集による「保守系第三局」の創出を目指す(これは納得)。

 2009年、民主党政権誕生。鳩山政権は、社会福祉分野において「改革の政治」とは大きく異なる政策を実行した。しかし、官僚との相互不信、沖縄基地問題という桎梏を超克することができず、2012年衆院選で大敗する。著者は、民主党政権の未熟さ・脆弱さを首肯しつつ、「改革の政治」に対するオルタナティヴの模索として一定の評価を与えている。

 この時期、「改革の政治」はいびつなかたちで関西に移り、橋下徹による大阪維新を生む。非常に興味深く感じたのは、2012年の早稲田大学で行われた調査で、既存政党を「保守-革新」の順番に配置させたところ、最も「保守」的な政党として自民党、最も「革新」的な政党として維新の会を選ぶ学生が多かったという。若年層にとっては、左右の既得権に挑み、どちらからも批判される維新こそ、最も「革新」的に見えるのだ。

 2012年に誕生した第二次安倍政権は、政治の優先順位を「改革」から「右傾化」に移し替えた点が特徴的である(この評価には笑った)。経済政策に関する限り、安倍政権は市場に対する国家介入を強める方向にあり、公共投資による土建国家への回帰を示している。口では「改革」を言いながら、ほとんど改革をやっていないのが実態だった(なるほど)。2017年の衆院選では、「改革」は依然として有力なスローガンだったが、希望と維新が票を伸ばせず、「改革保守」の衰退を示す結果となった。個人的に、これは喜ばしい傾向である。

 最後に著者は、新たなオルタナティヴとして、市民社会の活性化、国家の復権(政府しか担い手がいない公共サービスは大胆にその復権を要求する)、公正なグローバリズム(新自由主義グローバリズムでない)という三本の柱を示す。私はこのビジョンに共感する。では、実際にこのビジョンに近い政策を実行してくれる政党はどこなのか、今月末の衆院選に向けて、よく考えたい。

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王朝武者、奮戦す/刀伊の入寇(関幸彦)

2021-09-29 20:38:55 | 読んだもの(書籍)

〇関幸彦『刀伊の入寇:平安時代、最大の対外危機』(中公新書) 中央公論新社 2021.8

 刀伊(とい)の入寇とは、摂関時代の寛仁3年(1019)、中国東北部の女真族が、壱岐・対馬そして北九州に来襲した事件である。「教科書にも簡略ながら記載がある」というけれど、私は高校で日本史を選択しなかったので記憶にない。私がこの用語を知ったのは、文学史の方面からである。刀伊の撃退に活躍した太宰権帥・藤原隆家は、中宮定子を姉に持ち『枕草子』や『大鏡』に登場する重要人物なのだ。

 はじめに、当時の東アジア情勢が簡単にまとめられている。10世紀には、大唐帝国の滅亡(907年)により、中華的文明主義で普遍化された世界からの解放が進み、唐→宋、新羅→高麗、渤海→契丹、南詔→大理など、地域的個性に対応した国家が誕生した。我が国の律令体制の動揺、平将門の乱も無関係ではない。余談だが、ちょうど中国ドラマ『天龍八部』を見ていたので、契丹(遼)、女真(金、建国は1115年)、大理、西夏などの文字を見てにやにやしてしまった(※ちなみに天龍八部の物語は1092-95年の出来事)。

 契丹は宋への侵攻に先立ち、鴨緑江流域の女真を討伐。このため、女真は活路を求めて陸路で半島を南下したり、高麗東岸の海路で海賊行為を働いたりするようになった。刀伊は朝鮮語の「東夷」に由来するという。

 一方、日本は9世紀後半から10世紀にかけて、東北の蝦夷と西海の新羅という二つの国土防衛問題に悩まされた。9世紀末の寛平期には、北九州で新羅の来寇が多発し、俘囚勢力(中央政府に帰順した蝦夷)を西海方面に配備する措置がとられている。9世紀前半には高性能の「新弩」が開発されており、肥前国郡司による新羅への情報漏洩事件が発覚している(三代実録)というのも興味深い。

 「刀伊の入寇」の経過を簡単に記すと、寛仁3年3月28日、刀伊の兵船50余船が、突如、対馬・壱岐に現れ、殺人・放火をほしいままにした。次いで4月7日には博多湾に来襲し、4月13日まで相次ぐ激戦の末、撃退された。日本を退去した刀伊は朝鮮半島の元山沖で高麗水軍に撃破され、のちに高麗から虜民が送還されている。

 先頭に立って積極的な応戦につとめたのは太宰権帥・藤原隆家だが、著者は隆家指揮下の武者たちの来歴を分析し、隆家の随兵として九州に下向した「都ノ武者」、都で権門に武力奉仕をしながら地方にも基盤を持つ「二本足」の武者、地域領主的な「住人」系の武者などの混成部隊であることを明らかにしている。

 都の貴族たちは神頼み以外になすすべもなく、刀伊軍が退去したと聞くと、勅符の到着以前に戦闘が終了したのだから恩賞は不要ではないか、などと呆れた議論をしている。結局、小野宮実資が寛平新羅戦の前例を引いて議論を収めた。さすが故実家にして良識人の実資。なお、刀伊戦は騎射戦であり、矢柄に記した姓名が恩賞の証明になった。この点を本書が、律令制的集団戦から個人的騎射戦への転換と捉えているのは興味深い。

 本書には「刀伊の入寇」の後日談も紹介されている。対馬の在庁官人・長峯諸近は、家族ともども捕えられて刀伊の軍船に乗せられたが、単身脱出。その後、拉致された家族を求め、禁制を侵して高麗へ渡海する。高麗の通詞から刀伊船の日本人捕虜についての情報を得、妻子には会えなかったが、伯母を連れて帰国する。また、高麗軍に救助されて帰国した二人の女性、内藏石女と多治比阿古見の証言も伝わっており、いずれも『小右記』(小野宮実資の日記)に載る。もしかしたら、生きて鴨緑江まで行った日本人もいるのだろうか…と想像が広がる。

 なお、都の貴族も大宰府官人も、はじめ、刀伊とは高麗ではないかと疑っており、高麗から捕虜送還の申し出があったときも謀略を疑っている。日本の消極外交の根底には、海防力の貧弱さを外国に知られることへの強い危惧があったと著者は分析する。そして、この内向きな異国観が生み出したものが「自己優位の外交の幻想」で、13世紀の『愚管抄』では隆家の武人的英雄像が拡大し、「刀伊国、ウチシタガフル」と記述されるに至る。ちょっと皮肉で怖い結末だった。

 この他にも本書は、刀伊(女真)をめぐる、さまざまな興味深いエピソードを拾っている。「鳴鏑」の音が刀伊の撃退に効果があったとか、貞応2年(1223)越後に漂着した異国船から献上された銀札の銘が『東鑑』に記載されており、明治になって女真文字と判明したとか、忘れがたいので、ここにメモしておく。

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二人の偉人の再評価/孫文と陳独秀(横山宏章)

2021-09-28 22:15:49 | 読んだもの(書籍)

〇横山宏章『孫文と陳独秀:現代中国への二つの道』(平凡社新書) 平凡社 2017.2

 中国ドラマ『覚醒年代』に触発されて、まだ関連書を漁っている。本書は、中国近代史に大きな足跡を残した、思想家にして革命家、孫文(1866-1925)と陳独秀(1879-1942)の二人について、その対照的な歩みを紹介したものである。初代中華民国臨時大総統にして共産党からも「国父」と称えられる孫文に対して、中国共産党創設者のひとりでありながら「裏切者」の汚名を着せられた陳独秀。しかし、ネタバレ的に言ってしまうと、著者は「陳独秀側に思いを寄せ、孫文側には厳しい眼差しを注いでいる」ことを冒頭で告白している。

 陳独秀については、いま興味を持って調べていることもあって、あまり新しい情報はなかった。むしろ孫文について、従来のイメージを覆す事実をいろいろ知ることができて、大変興味深かった。

 孫文は、日清戦争を好機と捉えて革命運動を始動した。清朝打倒と漢民族の復興こそが孫文の最優先課題で(この点、列強の中国侵略への抵抗を重視した陳独秀とは異なる)、反清秘密結社である興中会を組織し、何度か軍事蜂起を企てるが失敗。革命派の大同団結の必要性を感じ、中国同盟会を結成するが、内輪もめが続く。幸運にも、孫文のアメリカ滞在中に武昌起義が成功し、辛亥革命が成立する。帰国した孫文は、中華民国の初代臨時大総統に就任した。

 もともと孫文は、革命軍独裁→革命党独裁(または地方自治の容認)→立憲民主制という「三序」構想を持っていた。ところが、中華民国では、孫文がいない間に立憲議会制度の導入が決定していた。議会によって大総統や総理の権限が制限されることを、孫文は「議院専制」と呼んで嫌ったという。驚き!  本書を読むと、孫文はかなり「軍政」「独裁」志向なのだ。著者は、孫文思想の根底には愚民思想があると説明する。民衆は愚かな存在であり、有能なエリート集団である革命党が独裁権力を確立し、民衆を救済することが正義なのだ。これは、現在の中国共産党の論理そのものではないか。

 やがて宋教仁暗殺事件によって、孫文が率いる国民党と袁世凱の対立が深まる。孫文は議会政治を放棄し(ううむ…)軍事蜂起「第二革命」を選ぶが、袁世凱によって鎮圧されてしまう。第二革命に失敗した孫文は日本へ亡命し、新しい革命主体である中華革命党を創設。あからさまな「孫文独裁体制」のため、黄興、李烈鈞ら同志は参加を拒否する。ええ、なんなの、このひと…。

 袁世凱の死去により軍閥混線の時代が始まると、孫文は広州を拠点に北伐の機会を窺いつつ、中華革命党を改組した中国国民党(辛亥革命時代の議会政党・国民党とは別物)の資金不足・兵力不足を解決する起死回生策として、ロシアのコミンテルンとの提携を模索する。同じ頃、コミンテルンの支援の下、陳独秀らは中国共産党を設立していた。コミンテルンから派遣されたマーリンは、国民党が関与した香港の海員ストライキに感銘を受ける。その報告に基づき、コミンテルンは国民党との提携を決め、中国共産党には「国共合作」を命じた。

 孫文と陳独秀の初会合が確認されるのは1920年3月で、陳独秀は長期にわたって、孫文と距離をとってきた。にもかかわらず、コミンテルンの圧力で「孫文の軍門に降った」ことになる。まあ両雄並び立たないこともあるだろうが、陳独秀ら共産党員の目に、孫文の軍事優先・軍閥依存の革命路線が「旧い」と映ったことも理解できる。しかし孫文の、手段を選ばない行動力がなければ、中国の変革は成立しなかったかもしれない。

 一方、思想家としては、陳独秀のほうがはるかに魅力的だと思う。何しろマルクス主義者なのに「個の自立」「個人の自由」を目指したのだから。ただし、国共合作は共産党の発展の機会を奪うという彼の予測は当たらなかった。結果的にはコミンテルンの期待どおり、国民党の庇護の下で共産党は急速に勢力を伸ばした。本書の著者が、同じ時期に誕生した日本共産党が、官憲から致命的な弾圧を受けて力を失ったことと比較しているのが興味深い。

 巻末の後記には「中国でも、歪められた陳独秀評価を正そうと、再評価の兆しが見えてきている」とある。今年のドラマ、著者は見ていらっしゃるかなあ。感想がお聞きしたいものだ。あと、従来の「国父」イメージがガタガタに崩れた孫文については、もう少し勉強したい。

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過去と対話する街/特集・上野の杜の記憶(雑誌・東京人)

2021-09-16 21:27:01 | 読んだもの(書籍)

〇『東京人』2021年10月号「特集・上野の杜の記憶」 都市出版 2021.10

 ときどき気になる特集を企画する雑誌だが、久しぶりに購入して、舐めるように読み尽くした。上野は、幕末、彰義隊と新政府軍の血戦の場となり、その後「徳川の世」の記憶を消し去るかのように、様々な文化施設を備えた西洋式公園が整備されて、今日に至る。「日本の近代化とは何であったのか」という問いとともに、上野の歴史を掘り返す特集となっている。

 問題提起の役割を担うのが、吉見俊哉氏と中島京子氏の対談。吉見氏は、近年『東京裏返し』などの著作で、歴史を踏まえた東京の新たな街づくりを構想し、特に上野の重要性について発信している。 中島氏の小説『夢見る帝国図書館』は「図書館を主人公にした小説」だという。ほとんど小説を読まない私だが、ちょっと読んでみたくなった。上野は、混ざり合う街、居場所を失った人が集まる街であり、過去の記憶(死者や敗者の記憶)と対話できる場所であるということで、二人の認識は一致する。

 近藤剛司氏は、不忍池の景観の歴史を概説する。江戸初期の不忍池は、現在の三倍近い面積があったというのは知らなかった。昭和50年代までは池の水が凍り、子供が上に乗って遊んでいたというのも知らなかったなあ。私、東京育ちだけど。

 寛永寺貫主・浦井正明氏と東博の皿井舞氏は、寛永寺について語る。東叡山寛永寺は、寛永2(1625)年、天海僧正が創建した天台宗の別格大本山。皿井氏が担当し、この秋、東博で開催される、伝教大師1200年大遠忌記念特別展『最澄と天台宗のすべて』に絡めて紹介されているので、兵庫・一乗寺の『聖徳太子及び天台高僧像』10幅が揃うのは11/2~10のみ、という貴重な情報もゲットした。

 上野は京都・滋賀の「見立て」として整備された。東叡山寛永寺は比叡山延暦寺、不忍池は琵琶湖の見立てで、池の中に島を造り、わざわざ竹生島の弁財天を勧請した。上野の山には清水観音堂を建立し、現存しないが、祇園堂や大仏殿もあったとのこと。さらに吉野の桜を植え、琵琶湖の紅白の蓮を移し、アカマツ林をつくるなどして、江戸の庶民を引き付ける工夫が凝らされた。幕府の官僚たちは、将軍家の祈祷所を観光地にすることに反対したが、天海は「人が来ないと寺じゃない」という信念に従い、幕府の援助がなくなると、自分で資金集めをして環境整備を続けたという。天海、おもしろいなあ。こんなにおもしろい人とは思わなかった。

 安藤優一郎氏は、彰義隊の戦いについて詳述。 今年の大河ドラマ『青天を衝け』でも描かれたとおり、渋沢栄一の従兄の成一郎が彰義隊の初代頭取だったことが紹介されている。これ、私は昨年、吉見俊哉先生の『東京裏返し』で初めて知った話である。

 フリート横田氏は、アメ横の歴史を語る。終戦直後、満鉄や朝鮮鉄道など旧植民地の鉄道関係者が、古巣である旧国鉄とのコネクションを使い、ガード下を優先的に借り受けて露店を出したのが始まり。その後、外国人、特に在日コリアンたちの存在が、一帯の大規模開発を難しくし、結果的にアメ横らしさが守られたという。

 昭和24(1949)年、GHQから露店撤廃令が出され、昭和26年までに東京都内の常設露店は、全て廃止を迫られることになった。この対策を担ったのが、建設局長の石川栄耀である。吉見先生の『東京復興ならず』に登場した人物だ! 石川は、路上から追われる露天商たちの境遇を思い、西郷会館と上野広小路会館という建物をつくり、露店商たちの共同ビルとした。どちらも現存していないが、西郷会館は比較的最近まであったので、ネットで検索すると、あずき色の外装に「聚楽」(縦書き)の大きな文字が特徴的な外観写真を見ることができる(しかし全然忘れていた)。現在、2012年に開業した「UENO3153」が建つ場所である。都内から全露店が消えた昭和26(1951)年の大晦日、石川が街へ出て露店最後の夜を見てまわったというのも、いいエピソードだと思った。

 老舗の店主インタビューのうち、中華レストラン「東天紅」上野店総支配人の話によれば、東天紅の経営主体は「赤札堂」で、大正期に深川で衣料品を営んでいた創業者の母が、昭和20年、上野広小路に店舗を新築して再興した赤札堂(現・ABAB)がルーツだという。で、流通業の赤札堂から飲食業に参入したのか。門前仲町のスーパー赤札堂にいつもお世話になっているので、興味深かった。

 表紙と特集の扉絵は山口晃画伯。細部をよく見ると、D坂(団子坂)があって、その近くの二階にいるのは森鴎外?とか、浅草通りの上野寄りで柔道着の二人が向き合っているのは講道館発祥の地?など、隠しキャラがたくさんいて見飽きない。

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訳詩と創作/森鴎外の百首(坂井修一)

2021-09-11 23:24:45 | 読んだもの(書籍)

〇坂井修一『森鴎外の百首』(歌人入門) ふらんす堂 2021.8

 森鴎外の詩歌百首を選び、200~250字くらいの短い鑑賞文を付したもの。短歌だけではなく、訳詩、創作詩も含む。ただし長いものは、短歌と同程度の数行が抽出されている。年代順に『於母影』(1889/明治22年)に始まり、鴎外最後の文学作品と言われる『奈良五十首』(1922/大正11年)に至り、「常磐会詠草」から2首を付け加えて終わる。百首を通じて、文芸作家としての鴎外の人生、明治から大正の日本の歴史を追体験する趣きがある。

 中学生高校生の頃、鴎外の小説はとっつきにくくて、どれも駄目だった。それが不思議なもので、中年(40代)になってから、職場の同僚に勧められたのがきっかけで、『渋江抽斎』などの歴史小説をいくつか読み、ロマンチックで幻想的な怪談アンソロジーを読み、『うた日記』に日露戦争の従軍体験を歌った詩があることを知り、『奈良五十首』は気に入って繰り返し読んだ。しかし、自分と相性のいいところばかりつまみ食いしてきたので、鴎外の本領には出会ってこなかった気がする。

 本書のありがたいところは、鴎外の訳詩をたくさん採っているところで、著者が巻末の解説「テエベス百門の抒情」に「短歌だけ選んで解説したのでは、この巨人の抒情詩人としての魅力を伝えきれない」「(鴎外自作の詩歌には、優れて良いものがたくさんあるが)鴎外の詩の翻訳は、これらをはるかに陵駕して凄い」と書いているとおりである。

 私は『於母影』や『沙羅の木』に収録されている訳詩も『ファウスト』翻訳も、ほぼ初めて読んだ。さすが『於母影』は格調高い。それに比べると『ファウスト』や『沙羅の木』は、格調や音律を崩さず、自在に口語を入れ込んでいるところに手練れを感じる。中には、普通の口語なのに詩歌として成立しているもの「海に漂ってゐる不思議な鐘がある。/その鐘の音(ね)を聞くのが/素直な心にはひどく嬉しい。」もあって、その言語感覚の鋭敏さに唸る。この訳詩(の一部)を、著者は「鴎外訳の中でも、最も美しい詩句のひとつ」と評価している。

 著者には訳詩ほど評価されていない鴎外の創作短歌も、初めて読む私には面白かった。『沙羅の木』「我百首」の、あまり技巧を弄せず、目の前を光景を上から下へ読み流したような歌が好きだ。「大多数まが事にのみ起立する会議の場(には)に唯列び居り」「『時』の外(と)の御座(みくら)にいます大君の謦咳(しはぶき)に耳傾けてをり」など。後者は御前会議か何かの儀式で天皇陛下の咳払いを聞いたというもの。

 伝統的な和歌にはない、ちょっとドキリとする漢語を据えたものもよい。「善悪の岸をうしろに神通の帆掛けて走る恋の海原」など。突如として妄想が全開するものもある。「書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが読みて行く字の上にゐる」は、明恵さんか澁澤龍彦を思わせる。

 そして最晩年の『奈良五十首』は、あまり尖った表現はないけれど、余裕とユーモアが感じられて好ましい。本書は、鴎外という巨人がたどった足跡を、さっと概観するための入門書としても好適だと思う。

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ボカシと移行期の多様性/日本の先史時代(藤尾慎一郎)

2021-09-08 21:54:31 | 読んだもの(書籍)

〇藤尾慎一郎『日本の先史時代:旧石器・縄文・弥生・古墳時代を読みなおす』(中公新書) 中央公論新社 2021.8

 私の場合、日本の歴史で一番興味がないのが先史時代である。博物館に行っても、だいたい先史時代をすっ飛ばすのだが、たまにはいいかなと思って読んでみた。本書は、日本の先史時代を「移行期」という視点から通史的に考えたものである。

 旧石器時代から縄文時代への移行の指標は、土器、竪穴住居、石鏃と土偶(狩猟とまつり)とされている。かつて土器の出現は1万2000年前、寒冷期が終わって温暖な時代となり、それに適応した生活様式が始まった時期と一致すると考えられていたが(≒たぶん私が小中学校で習った歴史)、1980年代以降、加速器を使った炭素十四年代測定の厳密化により、土器の出現は1万6000年前まで遡ることになった。最も古い土器は青森や帯広で見つかっており、サケなどの魚油採取に使われたと推測されている。一方、これには遅れるが、九州南部では、ドングリなどの堅果類を食料とした暮らしが本格的に始まり、土器の使用が急激に増加した。最も古い竪穴住居は鹿児島や栃木で見つかっている。

 石鏃(弓矢の使用)は温暖化による動物相の変化に対応したものだ。土偶は何らかのまつりで使用されたものと考えられる。人々が定住化し、ずっと同じ顔ぶれで暮らすようになると、ストレスや軋轢が生じ、それを緩和する装置としてまつりが必要となったのではないか、という著者の推測はちょっと面白い。同じ日本列島の中でも、指標の出現年代や展開の仕方が、地域によって異なることが整理されており、とても納得がいった。

 次に縄文時代から弥生時代へ。かつては弥生式土器が弥生時代の指標と考えられていたが、1970年代に指標を水田稲作に変えようという動きが起きる。そして水田稲作の始まりと定着にも地域差があることが分かってきた。最も早く水田稲作を始めたのは九州北部で、複数回の洪水で水田が砂に埋没しても、一度始めた米づくりを継続した。中部・関東では、まずアワ・キビ栽培が始まり、500年くらいかけて水田稲作へ移行した。東北北部では、前3世紀や前4世紀の水田跡が見つかっているが、気候変動によって農耕民は姿を消し、最終的に南下してきた続縄文文化圏に吞み込まれる。この東北北部の水田稲作をどう考えるか、水田稲作を行っていれば弥生文化なのか、というのは重要な論点である。

 弥生時代から古墳時代へ。古墳時代は前方後円墳の出現をもって始まる。では、前方後円墳とは何か。学術的には「弥生時代の墳丘墓の地域性を断ち切った画一性を持ち、規模や副葬品の量を飛躍的に拡大させた大型の前方後円形の墳丘を持つ墓」と定義される。弥生時代の各地に存在した墳墓の要素を統合し、新たに創造された墓制なのだ。たとえば、豪華な副葬品は九州北部に由来する。鏡・剣・玉という、のちの三種の神器につながる組合せの副葬品を有する弥生厚葬墓もあるという。巨大な墳丘は山陰や吉備で現れる、など。

 副葬品のなかでも注目されるのが中国鏡だ。弥生時代には、鏡を共有することに集団を統合する機能があったが、古墳時代になると、鏡の大きさや枚数で保有者が格付けされるようになる(へえ!)。鉄剣・鉄刀も弥生時代から継続して出現する資料だが、その分布を見ると、副葬品の種類によって物流ルートが異なっていたことが分かる。また、それまで地域性が強かった土器も、古墳時代には広域に移動する様子が見られ、列島に「自由で開かれた」交易ネットワーク(韓半島や続縄文文化圏ともつながる)が存在したことを感じさせる。

 本書には、著者の考える各時代の始まりが、具体的な年代とともに提示されているが、そこは省略する。私は、本書に示された各時代の暮らしぶりと、そこから想像される人々の思想や信仰が、ここまで分かるのか、という感じで面白かった。たとえば、土偶は水田耕作が始まると姿を消し、新たに男女の表象からなる木偶が現れるという指摘をメモしておく。

 終章には、北海道・東北北部の「北のくらし」と奄美・沖縄の「南のくらし」についてまとまった記述があり、特に北の「続縄文」に関する記述が興味深かった。道央はサケ、道南はヒラメ(大きい個体が多い)、道東はメカジキへの依存が高かったという。また、かつては北海道人は水田稲作を行いたかったが寒冷な気候のため叶わなかったと説明されてきたが、現在では、漁撈中心の生活のほうが効率的だったと考える。そりゃそうだよね。

 ぼんやりと画一的だった先史時代のイメージが、だいぶ明らかになった。なお、著者は国立歴史民俗博物館の「先史・古代」展示リニューアル(2019年3月→2019年8月参観)に関わられた方で、本書は展示の新書版であることが「おわりに」に示されている。

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名家の組織改革/三野村利左衛門と益田孝(森田貴子)

2021-09-01 17:00:04 | 読んだもの(書籍)

〇森田貴子『三野村利左衛門と益田孝:三井財閥の礎を築いた人びと』(日本史リブレット 人) 山川出版社 2011.11

 今年の大河ドラマ『青天を衝け』を面白く見ている。これまでのところ、だいたい知っている登場人物ばかりだったが、先日8月22日に登場した三野村利左衛門は初めて聞く名前だった。演じるのがイッセー尾形さんだし、これは重要な役どころだろうと思って気になっていたら、書店で本書が目について買ってしまった。幕末から明治にかけて、三井発展の基礎をつくった三野村利左衛門と益田孝の二人を紹介したものである。

 そもそも三井の家祖は越後守高安といい、近江国六角佐々木氏の家臣だったが、長男の高俊が伊勢松坂で商いを始め、その長男の俊次は江戸で小間物店を開いた。高俊の四男・高利も兄の店に入り、商売を繁盛させていった。呉服店と両替店を開き「現金掛値なし」の商売を始めたのも高利である。高利の子どもたちは、財産を一族の共有として「同苗(同じ苗字=三井家)一致」の原則のもとに維持する家法を定めた。私は三井記念美術館で三井家の美術コレクションを何度か見ているので、ここに登場する人々の名前には少し親しみがあった。

 さて、三野村利左衛門(1843-1914)が三井に入ったのは、慶応2/1866年のことである。それ以前の経歴には諸説あり、不明な点が多いそうだ。幕末の三井は、幕府から次々に御用金を命じられ、取り締り不足・突合せ不足などで多額の滞り金や損失を生じていた。そこで新たに公金請払御用などを扱う御用所を設け、責任者として三野村を招いたのである。三井は幕府側と倒幕派のどちらに与するか迷っていたが、最終的に倒幕派に加勢し、軍資金と兵糧米の調達を担い、維新政府の財政・金融機構の中に基盤を固めていった。ただし最初から三井の地位が盤石だったわけではなく、小野組、島田組などライバルの豪商・両替商が破産して姿を消す中で、三井は危ない橋を渡り切り、明治9/1876年には日本最初の私立銀行である三井銀行を開業する。

 三井は、政府の業務を営業の中心とするため、江戸時代からの組織の改組に取り組んだ。はじめに呉服業の分離(三越の誕生)。次に京都の大元方(おおもとかた:三井経営の最高機関)に代わる東京大元方の新設。そして資産と負債の状況を明らかにし、三井組の資財を三井家から切り離して三井組の所有とした。現代の企業のあり方からすれば当たり前の姿だが、伝統ある旧組織の改組は、新組織を一から作る以上に困難が大きかったものと想像する。三野村没後に三井家同苗の不満が噴出し、揺り戻しもあったが、改革は無にならなかった。「この改革によってこそ、三井は以後の経済界における確固たる地位と発展の基礎を築くことができた」と著者は評価している。三野村が無学で、文字も知らなかった(ほんとか?)というエピソードも興味深い。

 益田孝(1848-1938)は、明治9/1876年に三野村に説得されて三井に入り、「海外海内を論ぜず、諸商品を売捌き、及び買取して手数料を得る」ために新たに設立された三井物産の経営を全面的に委託された。同社は三池炭の販売を一手に担い、のちに三池炭鉱(炭礦)の払い下げを受けた。また日本において機械制大工場を発展させた紡績業の原料となる綿花(棉花)の輸入、紡績機械の輸入、生糸・綿糸・綿布の輸出に重要な役割を占めた。

 明治20年代から明治末年にかけて、三井ではさらなる組織改革の検討が進む。益田がロスチャイルド家など欧米の旧家を視察し、名家を長く維持する方法について意見を求めているのが興味深い。その結果、営業組織は「有限責任株式会社」とし「定款」を定め「営業は総て専門に依り」「業務の執行を若干の重役に委任」するなど、もっともな提言を行っている。しかし現代でも、こうしたことが徹底されていない同族経営企業は多いんじゃないかな…と思う。

 益田の意見書に基づき、明治42/1909年に三井合名会社が設立され、三井家同族11人が社員となって共有財産を所有し、傘下の事業を特殊会社として統括することになった。同時に三井銀行と三井物産は、三井家が出資する株式会社となった。三井家の家政と事業の分離、資本の所有と経営の分離が達成されたわけである。

 企業経営に全く不案内な私にも読める、興味深い三井の歴史だった。このあと、昭和に入ると財閥化とその解体という激動が待っているわけだが、それはまた別の機会に読んでみたい。

※追記:三野村が興した会社の事務所だった「三野村ビル」が清澄白河に残っているらしい。近所なので、そのうち見てこよう(参考:江東おでかけ情報局)。

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