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見もの・読みもの日記

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動員・監視・デジタル/中国「コロナ封じ」の虚実(高口康太)

2022-03-09 21:02:52 | 読んだもの(書籍)

〇高口康太『中国「コロナ封じ」の虚実:デジタル監視は14億人を統制できるのか』(中公新書ラクレ) 中央公論新社 2021.12

 2020年に始まったコロナ禍は、地球規模のパンデミックとなったため、各国の保険医療や政治体制の違い、さらには文化の違いについて、いろいろ考える機会になった。

 本書は、中国がいかにしてコロナを封じ込めたか、その手法、体制について検討したものだ。中国の「コロナ封じ込め」に疑いを持つ人もいるが、著者は中国の「成功」を是認する立場である。ただし「上に政策あらば下に対策あり」の中国で、人々に外出自粛やロックダウンを守らせるのは容易なことではない。中国人のしたたかさを知るがゆえに、この成功には、驚きが大きいという。

 日本ではその答えを、デジタル技術を駆使した監視社会に求める人も多い。しかし、実際にはドローンやVRの活用はまれで、封鎖式管理の実務に動員されたのは「社区」の居民委員会(農村では村民委員会)だったという。建国直後の単位(ダンウェイ)や人民公社に代わって、1980年代以降、社会サービスを担ってきた組織である。日本の町内会に近いけれど、国から給与を貰う公務員でもある。ちなみに台湾にも、里(村)という類似の基層自治体があるそうだ。中国では、2010年代から、さらに社会サービス/社会管理の密度を増す「網格(グリッド)化」を進めており、コロナ対策には、全土で450万人近い網格員が動員されたという。ちょっと古代の保甲制を彷彿とさせる。

 デジタル技術も大動員を支えた。ひとつは「本人確認」で、中国ではすべての行政データが国民IDに統合され、携帯電話番号とも紐づけられている。国民IDの導入に成功したのは、韓国、台湾、エストニアなどの後発福祉国家で、アメリカやイギリス、日本などの先発福祉国家は、行政サービスごとに個別の管理体系が構築されており、統合にはコストがかかる上に、市民にとってのメリットが乏しいのだという。つらいなあ。

 あまり上手くいっていなかった「データ共有」も、コロナによって一気呵成に進展した。「省人化」や「不正防止、エラー防止」も同様である。隔離期間中、はじめはチャットで体温を報告する方式だったものが、途中から入力フォームが設けられたり、紙に訪問者の名前や電話番号を記録する方式から、QRコードの読み取りに変わったり、小さな改善が次々に実現しているのはうらやましい。ただ、デジタルサービスを使いこなせない中高年の存在は、悩ましい社会問題だという。また、IT企業の巨大な実力を知ってしまった中国共産党が、これからIT企業をどのように扱っていくかという問題提起には、かなり不穏な匂いがする。

 次に、デマと世論の統制について。2020年1月、新型コロナウイルスにいち早く警鐘を鳴らした李文亮医師が行政処分を受ける事件が起きた。李医師は2月にコロナ感染により死亡。その後、中国政府は李医師を英雄として表彰している。本書によれば、李医師が情報を流したのは、同僚医師グループのクローズドなチャットだったのに、政府の監視システムに引っかかったのだという。怖い。

 しかし、正しい情報を握りつぶしたことが批判されているが、ネットには1つの真実とともに99のデマが流れていた。社会秩序を守るため、ネット監視と迅速なデマ潰しは必要なのだ。これは『三体』の作者、劉慈欣の発言(大意)である。確かに近年、言論の自由が保障された日本やアメリカ、イギリスなどで、とんでもないデマやフェイクニュースが広がり、社会秩序を動揺させる事態を見ていると、劉慈欣の発言に同意したくもなる。

 しかし、やっぱり怖いといえば怖い。今や中国政府のネット検閲はますます巧妙になり、「検閲されている」ことすら気づかないうちに、予防的にトラブルの芽が摘み取られていく。なお、こうしたネット世論対策は、政府が開発した技術ではなく、民間企業によって育て上げられたテクノロジーに依存しているという指摘は興味深い。中国社会のいわゆるラスボスは誰なのか?と考えさせられる。

 習近平政権は、社会の「正能量(ポジティブエネルギー)」の増進を目標に掲げており、ここから、デマ・邪教・ポルノなどの撲滅、さらにアイドル経済抑え込み等の政策が導き出されている。中国民衆が清く正しく生きることが、統治者の徳(統治能力)と支配の正当性の証明になる、というのは、脈々と続く中国の伝統文化なのだろう。こういう文化圏に生きるのは、民衆も統治者も、つくづく大変だなあと感じた。

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違いと共通点/誤解しないための日韓関係講義(木村幹)

2022-03-05 22:30:27 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『誤解しないための日韓関係講義』(PHP新書) PHP研究所 2022.3

 木村幹先生の本『韓国愛憎』が分かりやすくて面白かったので、もう1冊。こちらは学生さんの「オンライン研究室訪問」のかたちをとって、日韓関係と韓国の政治・経済・社会事情について、多くの日本人が感じている疑問に丁寧に答えたものである。

 はじめに、韓国の政治経済の危機を煽り続ける日本メディアの認識を否定し、各種統計から、リアルな韓国の姿を確認する。日本国内における韓国経済「危機」説は、1990年代のアジア通貨危機の状況を念頭に置いている。しかし韓国経済は、すでに20年以上、一貫して経常収支黒字の状態にある。日本社会があまりにも変わらないので、他国の状況を同じように考えてしまいがち、という指摘に苦笑した。

 政治面では、退任後の大統領が次々逮捕されるなど不安定に見えるが、1987年の民主化以後、制度的な変化はなく、「安定」しているとも言える。大統領が好ましくない末路に直面したのは(朴槿恵を除き)退任後のことであり、大統領の「弾劾」は、議員内閣制の首相の「不信任」よりずっとハードルが高い。続けて、いまの韓国社会は、保守派が3割、進歩派が3割、どちらでもない人が3割で安定しており、保守派と進歩派ではあまりにも政策や理念が異なるので、一足飛びに支持政党を変えるのは難しい、という分析を興味深く読んだ。日本の政治状況とはずいぶん違うと感じた。

 日本人が、現実に反したステレオタイプな認識で韓国を見てしまうのは、親が子供をいつまでも子供扱いするようなものだという。かつて日本と韓国には、大人と子供ほどの力の差があった。しかしそれは遠い昔のことで、いまの韓国は、すでに一人当たりGOPや実質平均賃金で日本を超えている。GDPの増加は結果的に軍事費の増大につながり、国際社会における韓国の存在感も大きくなっている。

 次に過去の植民地支配をめぐる問題について。まず、日本の朝鮮半島や台湾における支配は植民地支配ではない(そんな主張があるのか)という妄言は、はっきり否定される。では、なぜ日韓には今なお議論が存在するのか。著者はこれを、上司と部下の酒席での喧嘩に置き換えて考えさせる。力の差があるものの間のトラブルは、その場で何らかの手を打たなければうやむやになる。これは後によい結果をもたらさない、というのは常識的によく分かる。重要なのは、本人や目撃者の記憶が明らかなうちに、できるだけ早く解決の手続きに入ることだという。

 まあそうなんだけど、今それを言われても、と思って読み進んだら、朝鮮半島における日本の植民地支配の終焉は、日本の敗戦と、連合国の要求による朝鮮半島放棄の結果として達成されたため、「日本人と朝鮮半島の人々が直接向かい合い、お互いの利益関係をその場で整理し、清算する機会は失われることになった」と書かれていた。もう関係改善の途はないということか。

 しかし(韓国国民の心情はともかく)韓国の歴代政府は、慰安婦問題を含む過去の請求権問題は全て解決済みという立場を1992年まではとっていた。それは、アジア唯一の経済大国である日本に韓国が一方的に依存する関係だったことが大きい。90年代以降、日本の重要性は急速に失われ、人々は日韓関係の維持に努力を払わなくなった。過去と現在の大きな違いは「火種」の有無ではなく、消火活動のインセンティブの有無である、という説明は腑に落ちた。私は、日本が世界のフロントランナーでなければならないとは思わないので、日本の凋落による状況の変化は、まあ仕方ないかな、という気持ちである。あとは身の程をわきまえて、遠い国とも近い国とも仲良くしていける母国であってほしい。

 もちろん韓国社会に問題がないわけではない。大統領の支持率に最も大きな影響を与えているのが「不動産問題」(ソウル首都圏の不動産価格の高騰)であることは初めて知ったが、若年層の雇用不安、経済格差、少子高齢化などは、日本とも共通する問題である。韓国では、1990年代のアジア通貨危機を乗り切るため、経済効率を最優先し、グローバル化に適応する大改革が実行された。その重点項目のひとつが雇用の流動性強化だった。結果として、マクロに見た韓国の経済は成長を続けているが、国内では不安定な非正規労働者が(特に若年層に)増大し、問題となっている。ううむ、日本の場合、経済のグローバル化対応が不十分だったことが、長期の経済停滞を生んでいるわけだが、これでも韓国よりは雇用が守られたということだろうか。なんだか、どっちの社会も悩ましい。

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家族・学校・地域/日本人のしつけは衰退したか(広田照幸)

2022-02-25 18:08:56 | 読んだもの(書籍)

〇広田照幸『日本人のしつけは衰退したか:「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書) 講談社 1999.4

 少し古い本だが、SNSで「これは名著」というお薦めを見たので読んでみた。刊行は1999年。1997年の酒鬼薔薇事件など青少年による凶悪事件が相次ぎ、「家庭の教育力が低下している」という見方が常識となっていた時期だ。しかしこのイメージは本当に正しいのか? 本書は、戦前から今日までの、学校、家庭(家族)、地域の役割の変容とともに、検証していく。

 明治~昭和初年の農漁村や庶民の家庭では、家業=生産に直結した「労働のしつけ」は厳しかったが、「基本的生活習慣」や「行儀作法」は厳しくしつけられていなかった。学校教育と「村のしつけ」は全く別物で、両者はさまざまな軋轢を生んだ。ともかく子供が学校へ通う慣行が定着すると、親たちは子供を学校に預けっぱなしにして、学校教育の内容にはあまり関心を払わなかった。

 大正期(1910年代)になると都市部に新中間層が出現する。彼らは核家族が多く、地域との関わりは薄く、子供の教育は母親が担った。また彼らは学校が子供の将来に決定的に重要であることを自覚し、学校の教育方針に沿って家庭教育を行おうとした。新中間層の教育意識の特徴として挙げられているのが、童心主義・厳格主義・学歴主義で、彼らはこの矛盾する三者をすべて達成しようとして、パーフェクト・マザーを目指した。

 戦後も、しばらくは戦前の家族のあり方が存続していたが、1950年代後半から高度経済成長が始まると、経済構造の急激な変動が、旧来の家族を根底からこわしていく。特に農村においては、青少年の都市流出・農家の兼業化・離農によって地域共同体が崩壊し、「家族」という単位がサバイバルしていくには、子供の教育がかつてないほど重要になった。この章段には、各種統計とともに、北海道の開拓農家に育った後藤竜二(児童文学者)の自伝小説『故郷』が紹介されていて、興味深い。

 そして高度成長期の終わり頃(70年代初頭)には、ほとんどの子供たちが、卒業後、組織に雇用されて働くようになった。高度成長期には、農村を含め、あらゆる社会層が学歴競争に巻き込まれたが、学校は子供の将来の進路を具体的に保証してくれる装置でもあった。著者はここに「学校の黄金期」という小見出しをつけている。

 1970年代に入る頃から新たな動きが表面化する。家族と学校の力関係において、家庭のほうが優勢になってきたのだ。多くの親が、自分たちこそ子供の教育の最終責任者であるという意識を持ち、学校に批判の眼差しを向けるようになる。その象徴が、1972年から数年間にわたって朝日新聞に連載された「いま学校で」だという。私はまさに当時の小学生から中学生で、あまり問題のない学校に通っていたので、世の中にはこんな学校もあるのかあと思って読んでいたことを覚えている。

 著者はいう。明治から戦後の高度成長期まで、学校は「遅れた」地域社会を文化的に向上させるための「進歩と啓蒙の装置」だった。ところが、未曾有の経済成長によって、誰でも最低限の生活が満たされるようになると、学校の生活指導や集団訓練は、時代から半歩遅れた存在になっていく。学歴競争は誰かが勝てば誰かが負けるゼロサムゲームになり、学校は恒常的に一定量の「敗者」を作り出す装置になってしまった。一方、子供の教育に強い関心を持つ親たち(父親を含めたパーフェクト・ペアレンツ)は、多様で矛盾した要求を学校に突きつけ、学校と争うようになった。学校不信の時代の到来である。

 家族のみが子供の教育の最終責任を持つようになったことで、二種類の問題が起きていると著者は指摘する。一つは、貧困や病気、家族の離別などで「教育する家族」の責任を負い切れない家族の問題だ。もう一つは「家族としての機能の過剰」が、虐待や家庭内暴力を生む問題である。振り返って思うと、本書の書かれた90年代末は、後者の問題のほうが大きかったのではないか。現在は、前者の問題が深刻化しているが、同時に、古い地域共同体にも学校にも拠らない、新しい処方箋も少しずつ試みられているように思う。

 最後に、子供のしつけには、はっきり世代差・階層差・個人差があるのに、「社会全体のモラルの低下」に短絡するには誤りであるという指摘も納得できた。本書の刊行から20年、相変わらず「日本人のしつけは衰退した」と言いたがる論者は多いが、そもそも前提が間違っているので、「家庭の教育力を高めることが、さまざまな問題の解決手段になる」という主張は無視してよいことがよく分かった。

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差別に抗した人々/全国水平社1922-1942(朝治武)

2022-02-18 19:19:05 | 読んだもの(書籍)

〇朝治武『全国水平社1922-1942:差別と解放の苦悩』(ちくま新書) 筑摩書房新社 2022.2

 全国水平社は、部落差別からの解放を求めて部落民自らが結成した社会運動団体で、創立は1922年、今からちょうど100年前にあたる。本書は、大阪人権歴史資料館の学芸員・館長であった著者が、長年の研究を踏まえ、全国水平社の結成から消滅、そして戦後の部落解放運動への継承までを記述したものである。

 1871(明治4)年の「解放令」によって、建前上、近世的な差別的身分は廃止されたが、その後も部落民衆に対する差別はなくならず、1900年前後には、近代化に対応できない「劣位」な人々に対して「特殊(特種)部落」という新たな差別的呼称が生まれる。同時期に、各地で自主的な部落改善運動が始まるとともに、多様な主体による融和運動(差別をなくす運動)が起こり、部落民による、部落差別に対する抗議行動も行われるようになった。

 著者は近代部落問題の特徴として、第一に近代天皇制との密接な関係を挙げる。部落は、華族、士族、平民という血統主義による身分的階層秩序の最下層に位置づけられていた。第二は朝鮮民族、アイヌ民族、ハンセン病患者などにかかわる、重層的な差別の制度化である。

 1920年に入ると、部落青年による自主的な運動団体が各地で生まれ、全国団結の機運が高まり、1922年3月3日、京都市公会堂(現在の京都市美術館別館)で全国水平社の創立大会が開催された。この背景には、社会主義、西洋的ヒューマニズム、仏教、キリスト教などの思想に加え、国内の大正デモクラシー、国際的な民族自決と人種差別撤廃の動きなどの影響がうかがわれる。

 個人的には、同じ1922年設立の日本共産党とは、同じ時代思潮の申し子のように思っていたのだが、そう単純ではないようだ。多くの社会主義者が水平社の運動に賛辞を寄せたことは確かだが、水平運動と無産階級運動の役割の違いを説く主張も見られる。水平社内でも、普通選挙における政党支持をめぐって、共産主義、無政府主義、保守主義など意見の対立が表面化していく。また、水平運動の全国波及に危機感を抱いた保守政治家と内務省は、天皇を中心とした融和政策の推進を強化するが、水平社の人々は、融和運動の「同情的差別撤廃」に批判的だった。

 水平運動は、差別に対する抗議として「糾弾」という方法を用いた。この言葉の意味が、なかなか分からなかったのだが、「部落差別と糾弾闘争」の章に至って、やっと理解した。徹底的糾弾→社会的糾弾→人民融和的糾弾→挙国一致的糾弾と変容したらしいが、細かい差異はあまり重要ではない。要するに、部落民を差別した者に対して、大人数で交渉に押しかけ、謝罪させる(時には、新聞等に謝罪広告を出させる)ことをいう。暴力ではなく、言論による解決を目指すと規定されているものの、現代の基準から見れば、暴力行為の範疇だろう。なお、差別した者が子供の場合、謝罪の主体は父親、妻の場合は夫、被雇用者の場合は雇用者など、家父長とジェンダーに関する意識が反映されているという指摘も重要である。実は水平運動が、ほぼ男性のみに主導された運動であることは、本書を読んで初めて知った。本書の著者が、そのことに自覚的なのは、大変ありがたかった。

 糾弾の対象になった差別、結婚差別や軍隊内差別の実例はひどいもので、立場の弱い者が抗議の声をあげる際、集団の力を頼み、威嚇的、暴力的になるのは、ある程度やむをえないと私は思う。しかし、相次ぐ騒乱・争闘事件によって、水平社は官憲から危険視されるようになっただけでなく、部落に対する差別意識がかえって強まり、周辺住民から部落が襲撃される事件も起きている。なんというか、現代の反差別運動(BLMやフェミニズム)と反・反差別運動の顛末を見ているような感じがした。

 1930年代、全国水平社は、帝国主義戦争反対、反ファシズム闘争を掲げるが、次第に強まる「挙国一致」の声を受け、戦争に協力することにより天皇の下で部落差別の解消を目指すグループが力を増す。しかし近衛新体制(大政翼賛会)に参加するには至らず、近衛退陣後、アジア・太平洋戦争が始まると、不許可になるであろう結社申請書を出すことも、解散届を出すことも拒み、法律上は自然消滅することになった。最後まで国家権力に抵抗した意味は大きいと著者は評価する。

 現代の目から見れば、運動として稚拙な点、容認できない点も多々あるが、現代の差別問題とその解決方法を考える上で、よくも悪くも参考になる歴史だと感じた。

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変わりゆく隣国/韓国愛憎(木村幹)

2022-02-13 21:39:55 | 読んだもの(書籍)

〇木村幹『韓国愛憎:激変する隣国と私の30年』(中公新書) 中央公論新社 2022.1

 木村幹先生は韓国現代政治の研究者だが、ツイッターでは、韓国情報に加えて、院生指導の苦労とか趣味の輪行の様子とか、いろいろつぶやいてくださるのが楽しいので、私は長年フォローしている。しかし著書を読むのは、ご本人が「自叙伝もどき」とおっしゃる本書が初めてである。

 本書は、1966年、在日コリアンの暮らす街である大阪府河内市(現・東大阪市)で著者が生まれたところから始まる。やがて京大法学部に進んだ著者は、大学教員を目指すことに決め、特に思い入れもなく、消去法的に韓国を研究対象に選ぶ。韓国留学、米国留学、愛媛大学等を経て神戸大学に着任。政治学の新しい研究スタイル「政治科学」との葛藤に悩んだりする。

 2002年から日韓歴史共同研究に参加。これは同年のサッカーワールドカップ日韓共同開催を好機として、両国の友好関係強化のため、日本・小泉純一郎首相と韓国・金大中大統領が立ち上げた国家間プロジェクトである。当時、私は日韓関係に興味を持ち始めていたので、このプロジェクトは覚えている。結局、目に見える成果はなしに終わってしまったように思っていたが、著者の回想によれば、昼、公式の研究会では対立した研究者たちも、夜の懇親会では打ち解けているように見えたというから、研究者間の交流には意味があったと言ってよいのだろう。ちなみに私は無関係だが、この時期は韓流ブーム(2003年~)も起きていた。

 日韓歴史共同研究の第1期は2005年に終了し、2007年から第2期が始まる。日韓関係は、2005年頃から、竹島問題や『マンガ嫌韓流』の影響で急速に悪化していた。韓国・廬武鉉政権、日本・安倍政権は、それぞれ国内での歴史の見直しを積極的に推し進め、相手国に厳しい態度で臨もうとした。そのため、第2期の委員は、多くが両国の歴史認識を代弁する傾向となり、議論も不毛な衝突にならざるを得なかったという。木村先生には「お疲れ様でした」と申し上げるしかない。

 2000年代初め、日本社会には日韓関係について好意的な雰囲気があった。これは全くそのとおりというか、私などは、90年代末から2000年代に初めて韓国という隣国に関心を持った。私事になるが、職場の海外研修に応募して、公費出張で初めて韓国の地を踏んだのが99年(韓国の大学図書館と大学事務を訪ねてまわった)、それから2003年と2008年には友人と韓国古蹟めぐり旅行にも出かけた。私は90年代半ばまで、韓国の歴史も、近現代の複雑な日韓関係も全く知らなかったので、この時期の楽観的な日韓友好志向には、コロリと騙されていた。しかし、著者の言うとおり、98年の小渕恵三と金大中による「日韓パートナーシップ宣言」は、潜在的な問題を承知の上で「臭いものに蓋」をしたとも言える。こうやって手際よく庶民を騙してくれる「食えない政治家」は必要な存在だ。

 著者は2001年の夏に高麗大学に短期留学し、90年代末のアジア通貨危機以降の韓国が、グローバル化への適応を果たし、急速に日本と異なる社会になりつつあることを実感する。それは、韓国社会において、かつての成長モデルだった日本の存在感が急速に失われていることを意味した。グローバル化とは世界各国の地域の枠を超えてより遠い国々との関係を深めることである。交流が世界規模に拡大すれば、地域的な協力の重要性は必然的に小さくなる。後半は、民主党政権の「東アジア共同体構想」が周回遅れだったことを批判した箇所だが、全く首肯せざるを得ない。

 2010年代、韓国はますます自信を深める。経済的に大きな自信を得たことによって、韓国は歴史認識問題を克服していくかもしれないと著者は考えたが、それは当たらなかった。2010年の韓国併合100周年を巧みに乗り切ったかに見えた李明博政権の対日政策転換によって、日韓関係は急速に悪化する。しかし興味深いのは、影響を受けたのは日本の世論だけという指摘である。つまり、すでに日本の存在感が希薄な韓国では、対日政策が政権の支持率を左右することはないので、政権としても、あまり対日関係の正常化に熱心になれないのだろう。

 いま、日本の多くの若者が、韓国のドラマや音楽、ファッションをふつうに身近なものと感じている。30年前には想像もできなかった関係性だ。それなのに政治の世界(インターネット世論を含む)では、日韓両国とも古い誇りにとりつかれた人たちが、幻想の中の相手と戦っているように思われる。このめんどくさい状況、即座に解消することは難しいだろうが、少しずつ後者の人たちの声が小さくなっていくことを願う。

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女文字による動員/「暮し」のファシズム(大塚英志)

2022-02-07 22:53:16 | 読んだもの(書籍)

〇大塚英志『「暮し」のファシズム:戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』(筑摩選書) 筑摩書房 2021.3

 コロナ禍の中で広まった「新しい生活様式」という語の響きに、著者は不快な既視感があったという。日々の暮らしのあり方について為政者が「新しさ」を求め、社会全体がそれに積極的に従う様が、かつての戦時下、より具体的には、1940(昭和15)年、第二次近衛内閣が提唱した「新体制」の一部、「新生活体制」を想起させるというのだ。「新体制」とは、全面戦争に対応し得る国家体制構築のため、政治、経済、教育、文化など「国民生活」の全面的な更新を目論むものだった。国民の「内面」の動員が意図されていたと言ってもよい。そこで用いられたのは、勇ましい「男文字」のプロパガンダばかりではない。本書は、我々の「日常」や「生活」が「女文字」のプロパガンダによって巧妙に作り替えられていった様子を検証する。具体例としては、花森安治の仕事、太宰治の小説『女生徒』、詩人・尾崎喜八が描いた「隣組」、新聞まんが、写真家・堀野正雄などが、取り上げられている。

 私が最も興味深く読んだのは、太宰治『女生徒』の章だ。この女性一人称小説は、有明淑(しず)という実在の女性が、太宰に送ってきた日記を下敷きに書かれたことが分かっている(私は初めて知った)。本書は、有明の日記(2000年に公刊)の原文と小説を比較し、太宰による「姑息」な加筆・修正を明らかにする。明瞭な政治意識と批判精神を持ち、「道徳」や「社会」による同調圧力を嫌悪し、「私」の感じ方を大事にしようとしていた有明の内面を、太宰は、ものの見事に消し去っているのだ。小説の中の「女生徒」は、自分の未熟さに起因する不安を述べたあと、「ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない」と表明する。これをどう読むべきか?

 小説であると分かってはいても、私は太宰の「捏造」に強い嫌悪と怒りを感じた。「個人主義」の否定は、時代の要請だったというが、それにしても翼賛体制に対して、見事な忠誠ぶりである。本書は、太宰の女性一人称小説は、転向小説であり、翼賛小説であると解説している。

 男性による「女文字」(女性の好み、感じ方を偽装したもの)のプロパガンダの手練れといえば、花森安治だろう。私は、母の愛読誌だった『暮しの手帖』で彼の仕事に親しんだ世代だが、花森は、戦時下の婦人雑誌『婦人の生活』でも、積極的にさまざまな工夫をすることで、「都会的」で「インテリ」な「ていねいなくらし」が実現することを説いている。ううむ、この「国策」の魅力に抗うのは、分かりやすい「男文字」のプロパガンダより難しいぞ…と感じた。花森の戯曲「明るい町 強い町」も同じだ。暗い顔をした人々を、明るい顔に変えるために奔走するこびとたち。「楽しい歌」に動かされなかった「怠け者」も、戦場の現実を突きつけられることによって、態度を豹変させる。これは、かなり怖いアレゴリーだが、いまの日本でも、同様の事態がじわじわ起きているように思う。また、花森が「女文字」だけでなく、「男文字」のプロパガンダの巧者であったことも、あらためて記憶しておきたい。

 新聞まんがについては、1930年代後半の総動員体制、翼賛体制の下で、「家族」と「町内」を舞台とする様式が定型化したことが分かっているという(中国の日本まんが研究家・徐園氏の研究)。転機となったのは、新日本漫画協会が集団で制作した「翼賛一家」(!)という作品である。面白かったのは、「いささか頼りない空回りする父親」「呑気で憎めない男性像」というキャラクターが、この時代に頻出・定着し、戦後の「サザエさん」等に受け継がれていくという図式だ。これもいろいろ深読みができる。

 写真家・堀野正雄は、制服姿の女子学生がガスマスクをつけて行進する写真(時事新報・写真ニュース)を残している。星野はアヴァンギャルドあるいはプロレタリア芸術運動と戦時プロパガンダの双方を生きた。芸術運動とプロパガンダというのも興味深いテーマだが、ここでは、女学生の制服が、総動員体制・翼賛体制の象徴であるとともに、女性たちの「自由」と「個性」、すなわち「国策」への抵抗の場でもあったという指摘が重要だと思う。

 以上、「ていねいなくらし」の顔をしてやってくる「内面」の動員こそ、最も抵抗しにくいものだと思った。なるべくずぼらで怠惰でいることが、一番の抵抗かもしれない。

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中世日本の原風景/荘園(伊藤俊一)

2022-02-02 18:10:43 | 読んだもの(書籍)

〇伊藤俊一『荘園:墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.9

 質量ともに読み応えのある1冊だった。中心テーマは中世の荘園だが、記述はその前史である律令国家から始まり、荘園の誕生、成長、変容、終焉まで750年余りの歴史を追っていく。

 試しに自分の理解をまとめてみる。古代日本の律令制は公地公民を原則としたが、人々が新たに農地を開発するインセンティブに欠けたため、743年に墾田私財永年法が制定され、各地に初期荘園が生まれた。9世紀後半、摂関期の朝廷は国司に権限を委譲し、国司(受領)は国内の耕地を名(みょう)に分けて有力農民の田堵(たと)に経営と納税を請け負わせた。さらに耕地の開発を奨励するため、税の減免を認めた免田を許可した結果、免田型荘園が生まれた。ここまでが中世荘園制の前史にあたる。

 10世紀後半、国衙の在庁官人に公領の徴税権を与える別名(べつみょう)の制度が導入され、役職の義務と利権を世襲する職(しき)の慣行が定着すると、地方豪族である在地領主が誕生し、在地領主から都の有力者に寄進された免田を核として、治外法権的な領域型荘園が成立する。その領主権は、本家(天皇家や摂関家)・領家(寄進を仲介した貴族)・荘官の三層構造になっていた。鳥羽上皇や後白河上皇により、八条院領や長講堂領という巨大荘園群が形成される。

 鎌倉幕府が成立すると、頼朝は御家人に与えた領地に地頭制を敷いた。地頭は荘官の年貢・公事の義務を引き継いだが、次第に怠るようになった。鎌倉時代末には、荘園領主制の重層性が解体して、一領主が一領域を支配することが一般化する。耕地は、武家が所持する武家領と貴族・寺社が所持する寺社本所領とに区分されるようになった。

 南北朝の争乱期には前線で軍勢を率いる守護の権限が拡大し、荘園支配には当地の守護の承認が必要になった。室町幕府は、守護在京制を導入することで、地方を治める守護権力の当主たちを、京都に集住する領主たちの世界に組み入れ、荘園では、土倉・禅僧・守護などに年貢収納を請け負わせる代官請負が普及した。しかし、応仁の乱によって守護在京制は解体する。一方、村人の自治による惣村が形成され、国人領主が国衆へ成長していく中で、支配の枠組みとしての荘園は地域社会から消えていった。

 以上、基本的には通史の形態だが、途中「中世荘園の世界」の章は、鎌倉時代の比較的安定した荘園の姿を多角的に描き出している。土地がどのように利用され、どのような景観が形成されていたか。どんな作物がつくられ、どんな農具が使われたか。人々はどんな社会関係の下に置かれていたか。農民以外の職人はいたか。年貢はどのくらいか。輸送手段は?市場は?などなど。標準的な社会関係や技術の進歩がある一方、意外と多様性があったことも認識した。塩や鉄を年貢とした荘園もあったのだな。こうした背景を知ることで、荘園絵図や絵巻物を見る際も、新たな面白さが加わるように思う。

 本書は社会経済史に属するのだろうが、実は政治史についての記述も詳しい。保元・平治の乱から平家政権、さらに鎌倉幕府の成立に向かうあたり、あまりに詳しいので、ちょっと違う本を読んでいるような感じがした。しかし、政治体制の変革は社会や経済に影響し、最終的に荘園制の変容に結びつくのだから、当然必要な記述である。

 一方で、政治とは無関係に社会や経済を動かす要因もある。近年、気温と降水量の変動が年単位でわかるようになり、著者によれば、気候変動と荘園の歴史は「けっこう対応する」のだそうだ。本書には、9世紀から15世紀までの気候変動グラフが掲載されており、これを眺めるだけも興味深い。たとえば13世紀の異常気象(1230年の冷夏)については、藤原定家が米の凶作に備えて庭の植木を掘り捨てて麦畑をつくらせたことが紹介されている。定家の話は明月記にあるのだろうか? 中世に生きるのは大変なことだ。

 全国的な統治権力の変遷とは別に、農民が「惣」という自治集団をつくり、領主に対する立場を強めていく過程も興味深かった。この前段として、13~14世紀、農地の量的拡大が限界に達したため、耕地化できないところに家屋を集約する集村化が進み、農作業のやりかたが変わり、農民どうしの結びつきが強くなったという。よく俗説で勤勉や協調が日本人の国民性みたいに言われるのは、これ以降の話なんだろうな。

 それから、荘園を経済基盤とする京都などの寺社が年貢の確実な収納に苦労してきたこともよく分かった。南北朝・室町時代になると、禅寺は宋の寺院制度に倣い、教学に携わる西班衆と経理・管財を担当する東班衆を置いた。五山派禅寺の東班衆は、寺外の荘園領主と契約し、その所領の代官としても活躍した。専門家集団による業務請負か! こういう古代や中世における寺社や僧侶の社会的役割は、もっと語られてもいいような気がする。

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歴史の否定は犯罪か/歴史修正主義(武井彩佳)

2022-01-22 11:30:36 | 読んだもの(書籍)

〇武井彩佳『歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.10

 近年、日本の歴史(特に近現代史)をめぐって、特定の主張が歴史修正主義であるとかないとかの議論を聞くようになった。本書は欧米社会の歴史修正主義を分析したものだが、日本の事例を考える参考になるかもしれないと思って読んでみた。

 はじめに前提として、歴史学の観点から歴史とはどのように記述されるのかを確認する。歴史は選択された事実の解釈であり、歴史を「修正」することは学術的な行為である。しかし、歴史の政治利用と結びついた歴史修正主義は批判の対象とされてきた。ヨーロッパでは、19世紀末~20世紀前半、フランスにおけるドレフェス事件や、ドイツにおける第一次世界大戦の戦争責任論などを通じて、この問題が意識されるようになった。

 第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判は、ドイツが通常の戦争犯罪のみならず、「平和に対する罪」「人道に反する罪」を犯したと認定し、戦後秩序の形成に画期的な役割を果たした。1950年代には、ヒトラー時代の「公的」な解釈が形成されていく。背景には、連邦共和国(西ドイツ)が国際社会に復帰し、西側の安全保障体制に組み込まれるには、ナチズムとの訣別が必要だったという切実な事情がある。一方で、ナチズムの完全否定は上からの歴史像の「押し付け」であるという対抗言説も登場したが、市民の大半がナチズムの復活を望まなかったため、大きな勢力にはならなかった。

 1970年代に入ると、歴史修正主義者は明白にホロコーストの否定もしくは矮小化を行うようになった(欧米ではホロコースト否定論を歴史修正主義とは呼ばず、より悪質な、史実を歪曲する言説とみなしているが、本書では修正主義の範疇で扱う)。この頃、各国で世代交代が進み、新しい政治志向を持つ若者が台頭するとともに、これを好まない人々が過去を矮小化しようとした。当時の状況は今日(若者の保守化)とは全く逆である。また、国際的要因としては、イスラエルの軍事強国化がじわじわと衝撃を与えた。特に長い反ユダヤ主義の伝統があるフランス(そうなのか)では、ドイツよりも早くホロコースト否定論が生まれている。

 80~90年代には、さまざまなホロコースト否定論者が活動し、言論のプラットフォームがつくられ、政治組織も影響力を強めた。著者が、彼らの動機は「信念」であり、「情熱を原動力とする人には、合理性を問うても意味がない。それは政治的な宗教であり(略)これを放棄することは彼らの世界観の崩壊につながる」と分析しているのは、残念だが当たっていると思う。否定論者には、臆面もなく史料の改竄を行う者もいるが、むしろ警戒すべきは、テクストの異なる読み方に誘導し、史実に対して認識の揺らぎを呼び覚ます人々だろう。著者はこれを「文学でのテクスト論を、歴史に持ち込んでいる」と説明している。事実ではないかもしれないと人が疑念を抱いた時点で、否定論者の目的は達成される。それは歴史の不安定化につながるからだ。

 また、80年代以降に何度か起きている、歴史修正主義をめぐる裁判の詳細も初めて知った。これまでのところ、欧米の裁判所はホロコーストを「公知の事実」と認め、ホロコースト否定論は「虚偽ニュースの流布」にあたると認めている。

 こうした司法判断も踏まえ、欧米社会では歴史修正主義の法規制が進んでいる。歴史の否定は、表向きは歴史を問題にしているように見えて、多くの場合、特定の民族・人種・宗教集団に対するヘイトクライムやヘイトスピーチの一種であり、個人や集団の尊厳を傷つけ、公共の平穏を乱すという理解から、法規制の対象とされてきた。もちろん、表現の自由との相克は意識されている。特定の歴史の否定を禁止することの社会的利益と損失について、本書は丁寧に記述しており、最後は我々自身に判断が委ねられている。

 むしろ私が初めて認識し、難しいと思ったのは、欧米社会においてホロコーストが、比較不能の「悲劇中の悲劇」と位置づけられているという点だ。第二次世界大戦におけるホロコーストの犠牲を記憶することは、「ヨーロッパ人」という新たなアイデンティティの基礎の一つと考えられている。それゆえ、ホロコースト以外の虐殺、ナチスによるロマ民族虐殺や、第一次世界大戦中のオスマントルコにおけるアルメニア人虐殺への対応はずっと遅れた。東欧の旧共産主義国のスターリニズムによる犯罪をどう扱うのかもこれからの課題だという。

 著者は「歴史の政治利用の何がいけないのか」という最も根本的に問いに対して、明確な回答はないと断定する。ただ、国民の帰属意識を強化する歴史は(自画自賛にしろ犠牲の強調にしろ)、対外的な対立を長期化させ、将来に取り得る選択肢を狭める危険性をはらむという指摘は、覚えておきたい。

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武則天のユートピア/檻獄都市(大室幹雄)

2022-01-17 17:17:46 | 読んだもの(書籍)

〇大室幹雄『檻獄都市:中世中国の世界芝居と革命』 三省堂 1994.7

 年末に中国ドラマ『風起洛陽』を見ていたら、むかし、則天武后のイメージについて、大きな影響を受けた大室幹雄の本を読み返したくなった。大室幹雄さん、Wikipediaでは「歴史人類学者」と紹介されている。1981年の『劇場都市』に始まり、漢~唐末を扱った中国古代都市文明論シリーズを計7冊出しており、私は90年代に耽読した。さて武則天が登場するのはどの1冊だったか、思い出せず、公共図書館をハシゴして確認し、ようやく本書を見つけ出した。

 本書前半の主人公は、唐太宗・李世民。「最初は鷹、つぎは杜鵑(ホトトギス)、第三は鸚鵡、そして終わりは阿呆鳥」として描かれる。唐を建国した父の李淵(唐高祖)に従う、颯爽たる青年将校としての「鷹」の時代。兄の皇太子・李健成と弟の李元吉を殺害し、父を幽閉して皇位に就いた「杜鵑」の時代(ホトトギスは他の鳥に自分の卵を育てさせる「托卵」という習性があることから、親兄弟を蹴落とし、野心を遂げたことをいう)。即位後の太宗が、諫臣・魏徴をはじめとする廷臣たちと繰り広げた言語ゲームを著者は「鸚鵡」の時代と呼ぶ。私は『貞観政要』の抄訳本しか読んだことがないが、全体を読むと、劇場的な言語ゲームの間に、ふと太宗の本音が漏れている箇所もあるようで、著者の解読がおもしろかった。そして老いては「阿呆鳥」となり、凡庸な李治(高宗)を皇太子に立てて没する。

 後半の主人公は、高宗の後宮で美貌と多産と政治的才覚(狡知、果断)を武器に勝ち上がり、ついに皇后の座に就く武則天である。高宗の死後は、唐皇帝家の宗室をほとんど粛清し、周王朝を樹立し、皇帝と号する。著者は、唐王朝に「遊牧草原文化に起源する女たちの明るく暢びやかな活動性」があったことを認めつつも、「むしろ性別を超越した、一個の卓抜な政治的人物、少なくとも宮廷政治の天才が彼女だった」と絶賛する。高宗もなかなか健闘したけれど、やはり天才にはかなわない。中国の伝統的な史論家が高宗をことさら暗愚に描くのは、強い卓れた妻を持った男はろくでなしという儒教的偏見によるのではないか、という指摘もおもしろい。

 李世民と武則天を「主人公」と仮に呼んだが、著者にとって、歴史の主人公は都市そのものである。本書には、隋の文帝によって建設された長安の都市計画と、それを「居抜き」で奪い取った李淵・李世民によって加えられた変更が、実に詳細に具体的に記述されている。中国の考古学雑誌などから転載された興味深い図版も多数。かつて(ウェブなどの情報源がない時代に)私がこのシリーズにハマった理由のひとつはこれだ。ちなみに書名の「檻獄都市」とは、高い土塀に囲まれ、一種の「檻」である坊が整然と並ぶ長安の平面プランに由来する。

 その長安を打ち捨てて、武則天が、恐怖と祝祭のバロック・ユートピアを打ち建てた舞台は神都・洛陽である。武則天の巨大癖(メガロマニイ)の現れである壮麗な巨大建築、明堂・天堂・万象神宮についても詳しい。ドラマ『風起洛陽』との関係では、密告を受け付ける銅匭(銅製の箱)が朝堂に設置されたことが出てくる。また廷臣の粛清に活躍した秘密警察組織があったことも。武則天の自由闊達な人材登用方針により、海千山千のやくざものたちが洛陽に集まり、よくも悪くも多彩な才能を発揮することができた。

 それから、巨大な食糧備蓄庫である含嘉倉も本書に出てくる(これは忘れていた)。江南産の穀物は、大運河の終点・汴州(開封)から洛陽に搬入され、さらに西の長安に運ばれたが、洛陽と長安の間には三門峡という難所があった。汴州から洛陽周辺に巨大な穀物庫群を作ったのは隋の煬帝で、武則天はこの食糧政策を踏襲した。含嘉倉の考古学調査からは、武周時代の食糧管理行政の卓越した実態が分かるという。

 武則天の詩文愛好と牡丹改良に認められる「華麗なものへの心情の傾き」(江南文化への関心と言ってもよい)は、次の時代(玄宗)の長安に引き継がれ、灰色の檻獄都市だった長安は、遊蕩的で性愛的な園林都市に変身を遂げる。この華北/江南の対立と混淆は、つねに中国史を貫くテーマでもある。

 あと武則天の容姿は「豊碩、方額、広頤」と言われているのだな。『風起洛陽』の聖人役の詠梅さん、ぴったりである。90年代に本書を読んだときは、まだ中国ドラマの視聴経験が全くなかったのだが、今回、隋の煬帝や蕭皇后は『隋唐演義』の配役で想像していた。隋に滅ぼされた陳の王妃で煬帝の皇后となった蕭氏は、隋滅亡後も80歳まで生きのびて、唐太宗と会話を交わしていたりする。唐建国の功臣たちの晩年、その後裔たちの運命も味わい深い。

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権威に背を向けて/商業美術家の逆襲(山下裕二)

2022-01-06 20:02:36 | 読んだもの(書籍)

〇山下裕二『商業美術家の逆襲:もうひとつの日本美術史』(NHK出版新書) NHK出版 2021.12

 店頭でパラパラ中をめくってみたら、近年、気になった展覧会の画家・作品が多数取り上げられているので買ってしまった。渡辺省亭、小村雪岱、歌川国芳、河鍋暁斎、鰭崎英明、川瀬巴水、吉田博、橋口五葉、杉浦非水など。彼らをつなぐ接点は「商業美術」である。かつて2000年に京都国立博物館で開催された伊藤若冲展以降、江戸絵画の人気は飛躍的に高まった。2000年が「江戸時代絵画の再評価元年」だとすれば、2021年は「商業美術再評価元年」ではないかと著者はいう。

 いわゆる「ファイン・アート」に比べて、商業美術を下に見る色眼鏡のルーツは、中国・明代の董其昌が展開した「尚南貶北論」にあるという。教養ある高位高官が余技として描く文人画(南宗)こそが素晴らしく、職業画家の作品(北宗)はレベルが低いという絵画論で、これが江戸時代の日本に決定的な影響を及ぼした。しかし実は、中国からもたらされた画技画風をもとに絵画のニューモードを切り開いた日本の南画家たち(池大雅、与謝蕪村、浦上玉堂など)は絵を売って生計を立てていたし、狩野派も琳派も、浮世絵の絵師たちも、基本的には商業美術家だった。

 明治維新後、日本の画壇は「近代化」の名のもとに権威主義化していく。生臭い画壇のゴタゴタに背を向けた画家たちは、挿絵・口絵、工芸品のデザインなど、商業美術に活躍の場を見出すことになる。その筆頭に挙げられているのが渡辺省亭。印象派の画家や欧米の有名美術館にも評価された実力の持ち主であるにもかかわらず、忘れられてきたが、ようやく再評価が本格化しつつある。昨年の展覧会『渡辺省亭 欧米を魅了した花鳥画』もよかったが、本書で興味深く読んだのは、若冲への敬意と対抗意識。省亭には『雪中鴛鴦之図』はじめ、若冲の『動植綵絵』に着想を得たと思しき作品がいくつかある。『動植綵絵』は明治22年に相国寺から宮内省に献上され、帝国博物館がその管理にあたっていたので、省亭は実作品を見る機会があったのかもしれない。

 省亭作品に深い影響を受けたのが鏑木清方で、世代は違っても、清方が高く評価していたのが小村雪岱。ともに泉鏡花作品の装幀を手掛けている。「尊い」トライアングルである。その後、雪岱が「知る人ぞ知る存在」になってしまったのは、開戦直前に亡くなり、戦時色に搔き消された時期の悪さもあったのではないかという。

 浮世絵界では、幕末の歌川国芳が多くの弟子を育てた。「国芳に連なる絵師の系譜」(121頁)は、どこかの展覧会で同様の図を見た記憶があるが、すごいのだ。月岡芳年を経て、水野年方、鏑木清方にもつながり、北野恒富や島成園もいるし、五姓田芳柳、義松もいるのである。河鍋暁斎は、少年時代に短期間、国芳に学んだあと、狩野派にも学んだ。著者がこれを譬えて「東京藝術大学を卒業しながら、じつは高校時代からマンガ家としても売れっ子だったようなもの」と書いているのが面白い。もちろん、浮世絵は現代のマンガである(なお、私はこの比喩で山口晃さんを思い浮かべた)。

 1980年代、暁斎を研究したくて来日したアメリカ人留学生に対して、東大美術史学科の教員はひどく冷淡だったという。たぶん著者の実見談だろう。その留学生は、1993年に大英博物館で暁斎の回顧展を企画したティモシー・クラーク氏である(2013年には春画展を企画した人物だ)。暁斎はあまりにもレパートリーが広く、代表作を決めがたいので、かえって評価が遅れたという推論も興味深かった。

 そして挿絵文化!太田記念美術館で『鏑木清方と鰭崎英朋 近代文学を彩る口絵』を見たのも昨年、2021年だったか。すごい鉱脈に当たった手応えを感じたが、まだまだ知らないことが多い。本書に掲載されている伊藤彦造の『角兵衛獅子』挿絵の凄さよ。著者が「いつの日か伊藤彦造の本格的な展覧会を企画したい」と言ってくれているのを、ここに書き留めておく。

 さらに大正期の新版画、グラフィック・デザイン、戦後の商業美術も論じられている。将来、マンガの原画が国の重要文化財や国宝に指定されるときが来たら、その筆頭候補がつげ義春であるというのは、全く異論がない。しかし、谷岡ヤスジの流麗闊達なペン描きのタッチが、平安絵巻に通じるというのは気づかなかった。言われてみればなるほど。自分の「眼」で作品を見ることの大事さをあらためて思った。

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