クラシック音楽の世界で指揮者といえば演奏の頂点に位置する絶対権力者であり司令塔のような存在だが、指揮台に立っていないときの普段の素顔となると意外に知られていない。
嫉妬深さ、吝嗇、女性好き(指揮者には不思議なことに女性がいない!?)など彼らの赤裸々な実像に迫ったのが「指揮台の神々」(ルーペルト・シェトレ:音楽之友社2003年刊)である。
この本には次の13名の指揮者の列伝が紹介されている。右は逝去した年。
雄弁家ビューロー1894、教育家リヒター1916、英雄ニキシュ1922、殉教者マーラー1911、独裁者トスカニーニ1957、天使の声の持ち主ワルター1957、大器晩成クレンペラー1973、ぐずフルトヴェングラー1954、時代錯誤者クナッパーツブッシュ1965、人間嫌いべーム1981、帝王カラヤン1989、感激家バーンスタイン1990、期待の星ラトル(存命中)
各指揮者にまつわるエピソードが面白く、中には少々品に欠けるものもあるがそれらは決して彼らの芸術性を貶めるものではなくむしろより身近に親しみを感じさせるとともに、音楽解釈への糸口に導く役目を果たしてくれる場合もある。
また、一方では指揮棒のミスが決定的なミスにつながらない得な指揮者と比較して演奏のミスが絶対許されない演奏家との落差、成り上がりのソリストによる指揮者への転身問題など興味が尽きない。
さらに、本来なら作曲家が主で指揮者はその忠実な下僕にすぎず、「音頭とり」としてオーケストラの中に埋もれてろくに姿も見えなかった指揮者がどんな経緯で人もうらやむ権力を握りそれをほしいままにふるったか、そしてスターとしてのスポットライトを浴びながら何故その威光が近年減衰してきたのか検証している。
最後にカラヤンとバーンスタインの死後、マエストロを偶像化してきた時代が過去のものとなり、新しい道を開きつつあるとして次の3名の指揮者を挙げている。
イギリス出身のサイモン・ラトルはバーミンガム市立交響楽団を妥協のない厳しさで完璧な練習を求め一流に育て上げた功績を踏まえて現在世界でもトップのベルリンフィルハーモニーの主席指揮者に就任しているが、古色蒼然とした指揮界の徹底的な改革にその手腕が期待されている。
バルト出身のマリス・ヤンソンスはあのムラヴィンスキーの弟子でその演奏にはドラマティックな興奮を伴っておりどの演奏会も全て色合いが違っている。残念なのは健康に問題があることで二度の心筋梗塞に見舞われている。
ヴァレリー・ゲルギエフも熱血漢的なタイプとして将来の期待の星である。指揮活動の中心をサンクト・ペテルブルグにおきその録音CDはここ数年の市場の宝石となっている。1998年のザルツブルク音楽祭でのチャイコフスキーの5番は名演としてCDになりベストセラーになっている。