1996年2月に亡くなった司馬遼太郎さんは好きな作家の一人なので、折にふれ著作に目を通しているがつい最近「未公開講演録」という本に出会った。
あれほどの国民的大作家なので国内各地で行った講演は数知れないが、その講演録をまとめた本である。
何回も推敲ができる小説と違って、講演は聴衆を前にしての一発勝負でいったん発した言葉は放たれた矢と同じで修正、取り消しがきかないので意外と本音が聞ける楽しみもある。
そういえば、つい最近の国会質疑で安倍首相が自衛隊のことを「我が軍」と言ったとかで物議を醸している。元首相の田中角栄さんが、以前「国会の予算委員会ほど怖いものはない、筋書きに無い質問が出てウッカリ言葉を滑らせると大変なことになる」と言ってた事があるが、その懸念通りとなった。
まさに「着込んだ鎧が衣の下からチラリと顔を出した」ということだろうが、そもそも現実に他国が攻め寄せてきたときには「自衛隊は国防軍」になるんだから民主党もそう目くじらを立てることもあるまいと思うがどうだろうか。
民主党はなにごとにつけ党の存在価値を出そうと躍起になっているようだが攻め手に事欠くあまり、肝心の政策論議は後回しにしてこういう「言葉狩り」に非常に熱心になっている。
それに先般来日したメルケル首相と岡田党首(民主党)の会談において「従軍慰安婦」の問題についても、岡田党首が国益に添わない話をあえて公開するものだからドイツ政府からわざわざ修正の申し入れがあったりする。まさに「党あって国なし」の状況で、これではたして野党第一党としての責任を全うできるんだろうか。
閑話休題。
「司馬遼太郎が語る日本~未公開講演録愛蔵版~」は23話の講演録をまとめた本で、構成はつぎのとおり。
私の小説の主人公達 1~10話
文学と宗教と街道 11~23話
となっている。
居ながらにして司馬さんの講演が23話も聞ける大変重宝な本でいずれも興味の尽きない話ばかりだが、ここで取り上げるのは第20話にあたる。期日:1984年11月29日、開催地:大垣市文化会館、テーマ「日本の文章を作った人々」による講演である。
内容は明治維新になっていったん崩壊した文章日本語が夏目漱石に至って成立したこと、天才漱石の偉大さを讃えるとともにモットーである「則天去私」(天にのっとり私を去る)は生活論ではなくて芸術論であったことを中心に述べている。
はたして漱石は自分の作品の中に「則天去私」をどう発揮したのだろうか。
司馬さんは分かりやすい例として(講演の)冒頭で「素人と玄人の文章の違い」にふれている。
もちろん司馬さん流のものの見方であることが前提だが、「文章は相手に判ればいいのであって、勝手気ままでよい、そんなに堅苦しいことを言わなくてもいい」という向きにはまったく縁のない話である。
まず、ここでいう素人(アマ)と玄人(プロ)というのは文脈から推すと必ずしも文筆で生計を立てているかどうかという区分でもないようで、つまるところ文章の背景に起因する精神の問題のようである。
さて、一流の作家からみてアマとプロが書いた文章はどこがどう違うのだろうか?
司馬さんによるとこうだ。
「たとえば一流の学者、実業家が文章を書いた場合にもたしかに上手に書けているけれど、一見してこれはアマが書いた文章だと判るケースがある。また、逆にこれはプロが書いた文章だと感じさせる場合もある。
文章の技術ということではアマもプロも違いはないが、決定的に違うところがある。それは文章を書くときの精神の問題で「私心」があるかないかということ。
文章は物を表すためだけに、あるいは心を表すためだけにある。正直にありのまま書けばそれでいい、これが基礎だが、アマはつい格好をつけたがる。「俺が、俺が」と、自己をひけらかしたりするのが私心である。
自己というものは本来、生まれたては清らかだが世間を渡っているうちに競争心が出てくる、負けず嫌いにもなってくるが、文章を書くときにそれを出してはいけない。漱石にも負けず嫌いの気持ちがあっただろうが、それを押し殺しての“則天去私”である。」
かいつまむと、以上のような内容だがたしかに自分にもアマの文章家のひとりとして大いに思い当たる節がある。
たとえばブログを書くときにどうしても自己顕示がらみで自慢めいた話になりがちなのをはっきり自認している(笑)。これは明らかに「競争心=負けず嫌い」の気持ちを押し殺していない好例である。
これから改める積もりもないので、自分にはとても漱石のような「則天去私」の心境には及びもつかないのがよく分かる。そもそも負けず嫌いを押し殺すなんて精神衛生上良くないし、大好きなオーディオだってそれが推進力の一つになっているぐらいなんだからとても無理な相談だ。
結局、これが文章家としても人間としても大成できない理由なんだろうが、別に(文章で)日銭を稼いでいるわけでもなし、(ブログを)読んでくれと頼んでいるわけでもないし、(人生の)残り時間も限られているし、ま、このままアマでずっと行かせてもらうことにしましょう(笑)。