「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽は楽譜で読むものか

2012年12月30日 | 音楽談義

今年の「ノーベル文学賞」はアジア地域からの選考だったので、村上春樹氏(以下、敬称略)の受賞が濃厚とされていたが、周知のとおり中国の作家に浚われてしまった。

図書館で新刊本の「ノーベル文学賞」というタイトルの本をざっと立ち読みしたところ、近年の選考基準は既に世界的に著名な作家、いわばポピュラーになった作家には与えない方針とかで、昔は既に有名になっていたヘミングウェイなども受賞しているのに、まことに手前勝手な都合のいい話だが何とも仕方がない。

来年はアジア地域以外からの選考になるので、村上がもし受賞するにしても数年先のことだろうが、村上はエリーティズムには程遠い作家なので、ノーベル文学賞を受賞しなくてもおそらく何ら痛痒を感じていないことだろう。

彼の小説は昔は随分読んだものだが、かなりの思考力を求めてくるので近年は根気がなくなってしまい今や苦手の作家のひとりとなってしまった。「IQ84」などもなかなか読む気にならないが、インタビュー形式の著作は率直な語り口で非常に面白いので、機会あるごとに逃さず目を通している。

最近では、「村上春樹インタビュー集」~夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです~が面白かった。1997年から2011年にかけて、19本のインタビューが紹介されている。

               

つい読み耽ってしまったが、185頁に音楽ファンにとっては実に興味のある問答が収録されている。

「20世紀の偉大な文学作品の後にまだ書くべきテーマがあるでしょうか?文学にはもはや書くべきテーマも、言うべきものごともない、という意見に同意されますか?」と、一人の外国の愛読者が発する問いに対して村上はこう答えている。

「バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正当な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。」

とあり、以下長くなるので要約すると「音楽を作曲したり物語を書いたりするのは”意味があるからやる、ないからしない”という種類のことではありません。選択の余地がなく、何があろうと人がやむにやまれずやってしまうことなのです。」とある。

文学的には、村上が理想とする書いてみたい小説の筆頭は「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)で、小説に必要なすべての要素が詰まっているそうで、そのことを念頭に置いて解答しているわけだが、興味を引かれるのは音楽的な話。

「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人組に対して、はたして他の作曲家の存在意義とは?」

これはクラシック音楽における永遠のテーマではなかろうか。「ブラームス、ワーグナー、マーラー、ブルックナーなどが居るぞ」と声高に叫んでみてもこの三人組の重量感にはまったく抗しようがないのも、なんだか虚しくなる事実である。

本書には、もうひとつ音楽に関して興味あることがあった。(312頁)

村上は映画が好きで青春時代に台本(シナリオ)を読み耽ったそうだが、それが嵩じてそのうち自分なりの映画を空想の中で組み立てていくクセがついてしまった。

それは、近代音楽の雄であるアーノルド・シェーンベルクが「音楽というのは楽譜で観念として読むものだ。実際の音は邪魔だ。」と、言っていることと、ちょっと似ているとのこと。「実際の音は邪魔だ」とは実にユニークな言葉。

「楽譜を読みながら音楽を頭の中で想像する」ことが出来れば実にいいことに違いない。第一、それほど広くもない部屋の中で我が物顔で大きなスペースを占めているオーディオ・システムを駆逐できるのが何よりもいい(笑)。

文学は文字という記号で行間の意味を伝える仕組みになっているが、音楽だって音符という記号で情感を伝える仕組みだから同じようなものかもしれない。

もしかして、楽譜が読める音楽家がオーディオ・システムにとかく無関心なのもその辺に理由があるのかも。人間が勝手に描くイマジネーションほど華麗なものはないので、頭の中で鳴り響く音楽はきっと素晴らしいものに違いない。

これからはオーディオに投資することを止めて、できるだけ頭の中で想像しながら聴くことにしよう(笑)。


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