経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

リーダーの条件-9

2006年06月30日 | Weblog
 さて、5つの真のリーダーの資質と要件の第一。

 第一に、人の話を聞くこと。
 できるだけ幅広い分野、多方面の多くの人に会い、話を聞く。また会議などで参加者全員に発言させ、それをひたすら聞く。こうしたことができるということ。
 これは、1に、やる気のある人間の発見と鼓舞のためである。2に、情報の公平さを保ち、歪みを避けるためにである。

 まず1について。

 人を登用、動員し、行動してもらう時、その選定喜寿うんとしてもっとも重要なことは、その人が本当にやる気があるかどうかである。見せかけで口先やそぶりでやる気を演じることができようが、それでは実際つかいものにならない。

 だからほんとにやる気があるかどうか見分ける必要がある。ではどうするか。
 実際に試してみたらわかることだが、人の話をじっくり聞くこと。これに尽きる。辛抱強く最後まで聴いていると、本当に腹の中でそう思っているのか、思っていないのか、誰が本当にやる気があり、誰が本当にやる気がないのか、容易にわかる。

 だから、こうした「聴くなり聞くこと」ができず、やみくもにこちらから一方的に、「やる気を出せ」とあおったり、やる気の出る講話や訓話を話しても、みんなの心の状態はつかめないのである。また、途中相づちは良いとしても、相手の話を取っても、折ってもならない。
「聞く」ことの、反対は「話す」ことだ。だからこちらがしゃべると、こちらは聞けない。相手は聴く方に廻らねばならず、口を閉じる。
だから、聞くためには、その間、こちらが、「しゃべらない」。ここが肝心、そして難しい。要は、相手の口は、開かせるものであって、これを閉じさせるものではない、という基本戦略の確立が必要になる。

 人の話を聞くことで、やる気があるのはなぜか、やる気がないのはなぜか、その原因、理由をつかみ出した上で、やる気のない根元を解決し、やる気が沸き立つようにもってゆく。これだ。
もちろん、原因や理由には、普遍性と個々人の特殊事情がある。この2つで構成されている。
 そこで、まず普遍性で把握する。次に各人それぞれの特殊、固有の方も掴んで、個別に対応する。たとえば前者は朝礼や通達、後者は個人面談。このような使い分けで対処するのである。

 次に、2についてである。 
 多くの人のしゃべるのを聞くくことで、たくさんの情報(材料)も集めることができる。また関係者一同がもっている環境や条件、抱えている課題なども把握することができる。こうしたことで、みんなを取り巻く繋がりなど全貌がわかってくる。自分一人だけでは、自分が接触し得た材料だけしかもっていないのだから、とうてい全貌とはいえない。全貌を掴まず、部分的なものを全貌と解し、判断するのでは、公平さを欠くし、偏り、歪みが出る。これでは判断の結果はおして知るべし、といってよい。

 自分が何でも知っている。掴んでいるということは、自分の見ただけのものが全貌、そして正しいと錯覚、思い違いしているだけの話である。
それだけではない。聞く耳を持たぬ人には、人がもの言わなくなる。ものを言うために、人は人に近寄るなければならないわけだから、そういう人には人が近づかなくなる。だから、ますます自分の見る、知る情報の範囲と数が小さくなってしまう。

 だから、どうしてもみんなの話をじっと聞いて全貌をつかみ、みんなをやる気にさせる手だてをその中からつかみ出さす、ということを基本姿勢として確立しなければならない。これができなければ真のリーダーとはいえない。2006/06/30


リーダの要件-9

2006年06月29日 | Weblog
 ここから、項を改め、

3 リーダーとしての資質と要件
 

 とし、リーダーとしての資質と要件を、具体的に考察してみたい。まずはこれまでの整理と前置き。
              *
 できるだけたくさんの人たちと接触し、動員し、組織し、各自が自在に活動できるようにし、さらにその活動をうまく組み合わせ、配分して、1つの戦略目標を達成する。
そして、1つを達成すると、さらに次の戦略目標へ取りかかる。このようなパターンで次々と活動を積み上げていく。この繰り返しを継続していける人間、これがリーダーの資質ということになる。

この「サイクル」と「繰り返し」、どちらかが抜けても真のリーダーとは言えない。ちなみに前者が欠けると戦略の成就はできないし、後者が欠けると事業で言えば短期、一過性に終わる。

 リーダーとは、「○○だ」と抽象的な言葉で定義し、それを暗記し、人にしゃべることは誰でもできる。だが口では言えても、実際にどう手足を動かしたらよいかはわからず、言葉のイメージや思いつきで動くことになる。各自がバラバラ、無戦略、無目的、無意味に動いていては、とうてい組織的活動は果たせない。

 そこで、実際にどう人間が動いたらよいかということが極めて需要になる。
 動くことに、目的性が付加されていなければ、「働き」にはならない。また「動き」には起点と終点が必要不可欠である。「起点と終点のない線を引いてみよ」、といわれても絶対に出来ない。起点があることは終点もあること、またその間の方向性、時間性も存在することを意味する。

 さらに、動くということは、脳の指示、命令による判断である。判断には基準がこれまた不可欠である。

 こうしたことを頭に置いて、次に真のリーダーの資質と要件を、次号以降まとめてみたい。 2006/06/29

リーダーの条件-8

2006年06月28日 | Weblog
 日本は四面、四方を海に囲まれ、他国から強引に占領され支配されるという危険がほとんどない。長い歴史を見ても、ちょっと蒙古に襲われたことはあるが、占領された経験は、第二次大戦後、アメリカに占領されたのが初めてである。それも短期間に終わっている。
 
 日本は多神教であり、神と仏すら同居してしている。概ね同一言語、同一の風俗習慣の中で生活をしている。そのため何をするにしても、一つの国として全国民が戦略的には一致している。明治以降、二つの対立した戦略が、日本の中で争いになり内線状態になったことはない。

一方、欧米諸国は、一つの国家の中にいろいろを民族が同居している。だから一つの国家だからといって、国民はすべて戦略的に一致させることが難しい。
 特にロシア、アラブ諸国は、いろんな民族が住んでいて、宗教・宗派、風俗、習慣、言語すら異なる。 そして一神教が大勢を占めている。だから実に内輪もめが多い。なにかあると内戦状態になる。 それに一部を除けば国境が繋がっている。そのためお互いの国の軍隊が、たとえば川を挟んで対峙している。
 
 たとえばロシアでいえば、国内ではそれぞれ所属している部族が、個々異なる戦略をもって、それに従属している。だから、その彼らに勝手にやらせたら、それぞれが勝手な方向に動き、分裂してしまい、ロシアという「国家」は包装紙だけになってしまう。だからそれなりの強いしめつけをやって、包装紙の中で暴れないようにようにしないといけない。こうしてスターリン的ロシアの組織が有効事例として、ソ連崩壊後も、今のブーチンに至るまで何ら変わっていない、ということである。

 同じことは、たとえばアメリカなどの企業組織でもいえる。多数民族国家で、しかも移民が流入しているということも大きいが、企業で働く従業員は、それぞれの職種別組合に属して、そこから企業とは別の戦略が発せられるから、職種の集合体である会社の戦略との統合・整合性は、極めて困難な条件下にある。

 日本の国民は戦略的には統一している。日本が栄えることは、自分たち国民の一人一人の繁栄につながる、砥考えている。これは自民党も、社会党も共産党も変わりない。同様に、日本の企業では、全従業員が、会社の繁栄は、自分たち社員一人一人の繁栄につながる、という認識、共通戦略は一である。組合であっても会社を倒産させようという戦略を持っていることはない。
共通の戦略で、一致団結、この形をしかっと作るのが、国では政治家、企業では経営者の仕事なのである。

リーダーの条件-7

2006年06月27日 | Weblog
先に触れたが、日本的組織と人の動員のあり方は、信長や秀吉にその典型的モデルを見るこができる。両者とも、人を活動させ、その集合体としての自分の力を大きくしている。命令がなければ動けない、自分では動かない歯車ではなく、自分で動き、局面に対応させ、打開してゆく人間として活動させて、の結果である

 侍が終身雇用制でない、自由に仕える殿様を選べたこの時代に、命を賭けて、彼らは、自分の技量を自由に振る舞わせてくれるリーダーを選び、仕えたのである。脅されて、仕えたのではない。時代劇や小説の虚構に騙されてはならない。
 
 信長の陪臣、部下である羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀、滝川一益その他の部将は、みんな彼のおかげで、殿様に取り上げられた。
 信長からみたら、部下ゼロの状態から、自力で自分の部隊を創り上げ、拡大発展させ、天下を取ろう、と言ったところまで行けたのである。乞食同然の草履取りの秀吉など、単独でその他のこれまでの大名たちと対抗することができるようになったうえに、天下まで手に入れた。
なぜか。

 会社でいえば、重役や部長や若手層の意見をどしどし出させ、できる人物を抜擢し、十分にウデをふるわせるというやり方で、進歩発展していったからである。だからリーダーのモデルになる。

リーダーの条件6

2006年06月26日 | Weblog
 そもそも日本人は、戦術は自分で工夫することに慣れている。上から戦術の細部にいたるまで一々指図されて、歯車の如く動くことには抵抗感をもち、「細いことにまで、他人からるさく言われ、指図されるのでは、やりっておられない」といったキレルのはなにも職人だけではない、私たち一般に共通していることといってよい。

 だから日本では、欧米型の歯車づくりの組織や軍隊式の組織は、そぐわないと考える。 リーダーが戦略目標を、明確に示したら、それをどうやり遂げるかといった一つ一つの戦術は、それをやる当人に委ね、自在に力を発揮させる、というやり方が一番合うのである。さらに高学歴であるからそれを容易にしている。

 今ここで、自分がやっていること、あるいは自分がめざす理想のリーダーは、欧米型組織のリーダーなのか。日本型組織のリーダーなのか、表面ではなく、実際に具体的に検討し、吟味して欲しいのである。

 日本型のリーダーのあり方を、良し、とする根拠は、日本が他の国を圧倒する経済発展や、他の先進国をさしおいて世界一の長寿国になったり、犯罪率の低さなど、社会的成果に示されている。自分の会社も、自分のリーダーのありかたも、本来の日本的組織、日本型経営で、と考えるのが当然ではなかろうか。

リーダーの条件-5

2006年06月25日 | Weblog
 恐いことであるが、祭りあげられていると、だれしも自分が神様みたいに優れていると錯覚し、自分の思いつきを人に押しつけることになる。当人が生きている間はそれで通るが、落ち目になったり、死んでしまうと、それらのまちがいが、すべて暴かれる。こうして偶像が地に落ちたとき、その取り巻きの最後になる。

 社長の俺のいうとおりにすれば間違いない、といったことを言っている社長は、必ずしも虚勢ではなく、真から自分の言うとおりにやったら、我が社は進歩発展するだろうと思って言っているのだろうが、実際は根拠がある訳でも神通力があってのことでもないか。

 これで、さらに人心が離れる。人心が離れる。まずは社内だ。社長の周りには何でもハイ、ハイのおべっかが占めていて、有能な社員、とりわけ諫言を発する憂国の士は、いの一番に首にされているか、自主的に退社してしまうのである。
 前後して国で言えば民、企業で言えば消費者が離れる。これでたちまち業績は急下降となる。 

 通常なら企業で働く従業員は、所属する企業が発展し、自分の地位と収入もよくなってゆくことを共通戦略として持っているものだ。何とかして自分の企業を潰しててやろうと活動しているものは、まずいないはずである。
 

リーダーの条件-4

2006年06月22日 | Weblog
 絶対服従型の組織では、どうしてもいちばん上にすわる「指導者」を、できるだけ偉いということにしないと統制が取れない。またその威にあやかる取り組み連中の地位も不安定になる。

 そこで、鶴の一声が一切を決め、その他の人間はただハイハイと指示通り動くことが望ましい組織のあり方となる。だから鶴の一声を出し、強権を発する人間が、あらゆる点で、他の人間より優れている、そして鶴の一声で、ことが絶対にうまく運ぶ、みなが良い状態になれる、といったことを宣伝することが重要になる。かくしてこの説明役を担うのが、取り巻き幹部の主な仕事になる。

 いわば、服従型組織とは、鶴の一声を発する鶴と、その鶴を取り巻き、よいしょする一部の中心組織である。

 だからこの組織での鶴、すなわち経営者は、自分を持ち上げてくれる取り巻きを周囲に集めることが、組織拡大になり、それにより自分の威や権力が拡大すること、そのものが目的化する。

 また取り巻き連中にしても、最高指導者を超人間的、神様的、大将軍様に、万能の超人、賢人に奉ることが、自分たちの威を高め権力の増加になり、幸せになる。ここで偉大なる鶴とその取り巻きの戦略が一致。それでヒットラ1も、スターリンも、毛沢東も、人間ばなれした超天才、大英雄になった。しかし実際にはそんな超人間が存在しているわけではない。すべて偶像である。偶像は、必ず崩れるというい意味においても偶像は偶像にすぎず、真のものではない。

リーダーの条件-3

2006年06月21日 | Weblog
 絶対服従とは、その組織内の一人一人の力を縛り、仕切り、発揮できず、自分の意思で動くことができない、単なる歯車にしてしまうことを意味する。
 
 他の歯車が動く分だけ、自分も動く。これではその人が百の力をもっていても、言われた分しか力がだせない。そうしているのだからそうである。仮に反発し、それ以上に力を出すと、「おまえ、やりすぎだよ」と言われ、言うことをきかないといって叱られる。今でもそういったことで、多くの国民の命が危うくなる国がある。殺されたり首になったりでは大変だから、皆、極力用心して、力を出さないようにする。
 
 文化大革命の時代の中国がそうだし、ついフセイン時代のイラン、今でも某北の国はそうだ。国家が、親衛隊という暴力組織をつくって、言うことを聞かない、勝手に動いたという人間を見つけ出し、捕まえ、つるし上げ、監獄に入れ、挙げ句の果ては、殺してしまう。

 民衆は何か言ったり、やったりしたら危ない目に遭うから、なるべく何も言わない、やらないようにし、形だけは上の言うことを聞いてやっているようなふりをする。だから言うときには皆同じような言動になる。これでは経済が発展するわけはない。

 企業も同じだ。成果は、従業員の一人一人が動くことで形成される。その一人一人がなるべく動かないようにしているのでは、繁栄するわけはない。

リーダーの条件-2

2006年06月20日 | Weblog
 リーダーには、大きく2つの型があると考える。

外国、とりわけ欧米と日本ではリーダーのあり方が違う。欧米はヒトラーやスターリン、ナポレオンなどいわゆる独裁的英雄タイプのやり方、あり方の人物を理想のリーダーと見る傾向がある。

 対して、日本は豊臣秀吉などに代表されるタイプにその理想を求めている。日本人は庶民性をとても好む。また立身出世型を好む。こういう人たちの伝記や小説を読む。そしてそれらに自分や今の人を重ねてみたり、まねようとする。元総理、田中角栄さんを今太閤と呼んだりする。

 しかし中には、ヒトラー的リーダ1を模範にして行動してしまう人もいないことはない。だがヒトラー、スターリン的リーダーのやり方の根本は強制と服従である。 強制に従わぬものは監獄に入れたり殺したりする。殺される恐怖が「リーダー」の言う通りに動く人をつくる。こういう人間を組織に並べて、いわゆる軍隊組織、縦組織で、集権的に所期の目標を達成するようにもってゆく。

 第二次大戦以前の日本の軍隊組織はこれだった。ドイツなどから直輸入したのだからである。だが今でもこれをまねて会社組織をつくり、絶対服従を旨としている企業は少なくないのは、どうしたものだろう。

 敗戦したという結果論からだけではなく、こうしたあり方では人間の一人一人の力を十分に発揮できるとは思われない。

 たとえば軍隊では、一握りの幹部が、天皇の名を振りかざし、それを威として命令を発し、他のすべての人たちが絶対服従という組織であった。だから知恵の出し合いはごく少数の人間に限定されてしまう。一人の人間のもつデータは知れている。目は2つしかないのだから観察点も狭く、小さく限定的である。だから狭い視野で情勢を見て、少ない知識で、小さな利害で判断して全体組織を動かすことになる。これは全体の1~2%しか見ないで判断することだから、まず当たらない。判断がはずれると仕事はリスクが大きいことになる。

私考「リーダーの資質」-1

2006年06月19日 | Weblog
 しばらく、「リーダー」について、考えてみたい。 

 日本語に、指導者とか指揮者とかいうのがある。しかし、これはどうも経営にはなじまない。なぜかとときかれても困るが、中小企業ではむしろ、ボスとかオヤジ、とか、シャチョウとかいった言葉の方が親しみ深い。
 そもそも指揮者や指揮官というのは、軍隊で使ったもので、一般的には定着しがたかったのかもしれない。

 リーダ1というのは英語だが、今では日本語と言ってもよい。だが、辞書で見たニュアンスとは、少し異なるかな、というのが実感である。
 そうしたことは、おいおい見ていくとして、ここでは「リーダ1としての資格」といったように、使っていくことにしたい。

 人間は一人で孤立していては、まず何もできない。他の人たちとの協力によってはじめて仕事ができる。大きな仕事になればなるほど、たくさんの人の協力が要る。  だから仕事をするということは、多くの人との関係をつけ、組織し、各人それぞれの活動の目標を与え、各人それぞれの力を出させて活動させ、その活動の成果を、一つの戦略方向にもってゆき、戦略目標が達成できるように活動を采配する、といったことをこなすことになる。こういう動員、組織、采配といった活動ができなければ、リーダーとしての資格がない。

 いくら高邁かつ立派な理論や道理を口にしても、それは自分はこんなことが言える。こんなことも知っている。だから偉い。偉いからリーダーなんだ、と虚勢貼っているようなもの。いくら自惚れ、自慢しても、他の人が言ったとおり動いてくれなければ、口にした理論や道理は実現されず、現実のもの、成果にならないのである。。
 
 これから、特にリーダ1としてどうあらねばならぬか、にいたるまで、考えを述べてみたい。