経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

いらかん、いらちく

2015年03月19日 | Weblog

家康について、おもしろい話がある。


「鳴くなら、鳴くまで待とう不如帰」

と、その忍耐力ぶりを謳われている家康ですが、
実際は逆で、きわめて短気であった、という説。

私は、家康に直接会っていませんし、
そのころ彼の周辺にいた人のヒヤリングも
皆亡くなっているのでできない。

それで事実かどうか確認のしょうがないのだが、
「辛抱強い」といった説には、疑問がある、
と、私には思える。

いずれにしても、
短気な性格と、戦略思考には直接関係がない。

家康は短気だったからこそ、将来(さき)に大望を抱いて
その具現に向かって、こつこつと歩んでいくといった
長期戦略を採った、と考えられる。


以下、軽く文献等で経緯とその根拠に触れてみたい。
幼児の頃、あることを契機に、家康は辛苦の生活を強いられた。
我慢づよいとか短気であったか、
といった性格云々にかかわらず、堪え忍ばざるを得なかった。


その「あること」。
天文16(1547)年、信長の初陣の年、
信長の父・織田信秀が岡崎に攻め入るとの情報を得た
竹千代(家康の幼名)の父・松平広忠は今川義元に援軍を求める。
その際、義元はその見返りとして、竹千代(このとき6歳)を,
見返りとして、人質に差し出すよう要求する。

広忠はこの要求を受け入れざるを得ず、
竹千代を駿河府中の義元の元へ送ることにする。
その護送の途中、戸田康光の家臣又右衞門が、
竹千代を塩見坂で奪い去り、織田家に売り渡してしまう。

こうして信長の兄・織田信広と人質交換されるまでの
約2年間、竹千代は尾張で人質生活を送ることになる。
この「あること」が、彼の一生を決めた。

この頃から、竹千代は何事かあると、管元総理みたいにいらつく。
そして爪をかむ、といったこと癖が始まったとされる。

それを彼の周囲の人は、「いら竹」と言ったかどうかわからない。
しかし出血するぐらいきつく噛む、といったことであったらしい。

こうみてみると、家康が辛抱強い、気が長い性格とは
思えないのだが、どうだろう。

客体験実技編

2015年03月18日 | Weblog
客体験を実際やってみればわかるが、
経営者は、まずできない。

ご本人は、お客になったつもりでも、全く駄目だ。


ついつい経営者の視点
ついつい競合店調査モードになっている。


そもそも歩き方、目配り、身体の動き、
そうしたものがとても一般の買い物客には見えないのだ。
動画でとってもらって、見てみたらいい。

仕事、職業に応じた歩き方、考え方が、
身体に染み付いているのだ。
それだけどっぷり、主観、売り手側の論理に
汚染されているのである。

そのことがわかるだけでも、最初は、「良し」としよう。



次に、家庭サービスのつもりで、
奥さんや子供の買い物について行く。
大型スーパーか百貨店がいいだろう。

この場合、「おい、あの売り場にいってみよう」
といったようにリーダーシップを発揮したら、

もうそれだけで駄目。失客。


子供の走り足の後に付いていく。
奥さんの手を引く方についていく。


彼ら、彼女たちこそ、消費者であり、
あなたこそ消費者失格者なのだから。


どこの世界に、買い物をするに、
ぎんぎらぎんの経営的視点で、
売り場や商品を見る買い物客がいようか。


家族がいやがって一緒してくれなかったら、
それだけで消費者落第の印を押されたと見てよい。

が、仕方がない。
無理に一緒せず一人で街に出かけて、
他の買い物客の後をついて行けばいい。


そんな暇があれば、経営書でも読んでいた方が、
といったことが少しでも頭を過ぎるようなレベルでは駄目だ。


やがて、自分は、消費者、お客様のことなど
まったくわかっていなかったんだと気がつく時が来る。

必ず。

もう一度戦略共有

2015年03月17日 | Weblog
戦略の共有


大願、戦略は、単に個人的欲求を果たす、
ということでは、その望み、戦略に他の多くの人たちを
同調させることはできない。


家康だけではなく、戦略を知るものは、
その個人的戦略を、他の人が共有できるものに転嫁している。

さらに言えば、共有とは、こちらの戦略を共有、
といった側面で語られるのが一般的だが、
これこそ片面思考である。


それはそうだろう。

組織を構成する各人にしてみたら、戦略の共有と言うが、
俺個人の戦略は、いったいどうしてくれる、といった疑義が
起きるのは当然である。

この疑義が存在する限り、共有、統一は
危うさが残る、といって良い。

ここである。
ここに真の戦略共有の要諦がある。
この点を避けて、戦略の共有は存在しえないのである。


家康に限らず、個人的大望、戦略を、
可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行く。
これが組織拡大の命題になる。

可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行く
これが第一である。

加えて、それは可能な限り多くの人たち各人の個々の戦略を
内包、組み込まれていなければならない。これが第二だ。


多くの「戦略の共有」には、この第二の側面が、はなから欠損、
考慮されていないのである。


錯覚してはならない。

組織力は、雇用数が多いこと、店舗数が多いこと、
資本金が多いこと、といったこととは次元が異なることだ。


戦略を共有しあっている人の数の大きさが、
真の組織の大きさであり、強さである。

ここで「戦略を共有しあう」とは、
全体の戦略と個々の戦略が統合、融合されている、
という意味あり、単に合算されたものではないということ。
念押ししておきたい。

本稿の総括。以下の3点。

1に、人に勝ちを譲ってそれを戦術化することで戦略の実現を図る。
2に、戦略は共有された員数で組織力となる。
3に、できるだけ多くの人に共有できる大望、戦略を掲げること。(了)



めいだい

2015年03月16日 | Weblog
命題について考えている。
書きながら考える。いや考える前に指が動いているのかも。

とにかく、これを書きたくなって、
念のためにネットでしらべると、
これ、命題とは、
~一般に「何々は何々である」といった平叙文が
表現する意味内容のこと。

良く混同されるが、命題は文そのものではなく
文の意味内容である~とある。

なんじゃこれは。
書いた本人、わかっているのか。まるでチンプンカンプン。
これにとらわれれば、書けなくなるから無視して、
ここでは、学者から誤用じゃ、とのそしりを恐れず
文字通り、私は「命に与えられた題(テーマ)」と
定義して、考えてみたい。


生まれたと云うことは、死というゴールがあると云うこと。
つまり「生」の達成点は「死」であるが、
これでは人生は寂しく、つらい。

だから、この死にいたるまでを帯体を命と設定。
この帯体にタイトル、すなわち各自、自分の目標を設定する。

それも楽しく愉快なものとし、死に置き換える。
この帯体で、死を包み隠して生きるためのもの。

これを「命題」と考えることにしている。

事実、この死を覆い、包み隠している目標を失うと、
「死」がのそっと顔を出し、恐くなる。

死を覆い隠す以外に、死の恐怖から逃れる考え方としては
死の先に、天国あり、という考え方が広く布教している。
しかし、一方では地獄もあるぞ、としている。
死者に選択権があるのなら、まず心配ないが、
例えば天国が満席で、ということになれば、
あるいは神仏が機嫌悪くて、この私を地獄へ
といったこともあるから、どうも穏やかではない。

で、戻すが、命を、命の帯とし、この帯のデザイン、
柄などの織りなしのテーマを、各個人に与え、
あるいは設定させ、すばらしい帯を織りなされ、
これが、まさに命題であるぞ、と、
私は、この思いつきに、悦に入っているのである。

なんでも自分の都合にいいことに、楽しいことに
嬉しいことに、愉快なことに、こじつけをすることも
また、わが得意とする命題である。

ちなみに、出た学校も明大。



どっちが大きい

2015年03月15日 | Weblog


組織は、機能分担である。

それぞれが、共通の目標具現のために
役割分担するためのシステム構成である。
だから戦略の共有が絶対要件になる。

戦略を一部の者にしかに知らせない
といったことは、あってはならないことだ。


ところが、現実には、
経営陣だけが知っていればよく、他には知らしめない。
管理職までは知らしめるが、一般社員には知らせない。
社員までは知らしめるが、それ以外例えば契約社員、
パート等には知らせる必要はない。

が、当然視されている。
こうしたレベルの差は、例外なく存在している。

そんなことを言っても、
組織には企業秘密というのがあるので、
情報漏洩があるので
契約社員や派遣社員などには、とてもとても。
と、いったことを良く耳にする。

そして、ここで戦略の共有は、事実上建前に終わってしまい、
次の論議がなされることは、まずない。

○確かに、間違いなくリスクはある。
しかし、何事でもリスクはあるのではないか。

○漏洩といったことは管理者にも、
否、経営陣にも起こりえるのではないか。

○もっと踏み込んで考えてみたら、
戦略が外部の漏れたとして、失うものはなにか

○いやむしろ、外部の人たちにも共有してもらったらどうか。
理念、社訓では、むしろ積極的にそれをやっている企業が多いではないか。

等々・・・・・・・・・・。


物事をなすに当たり、リスクはつきものと考えたら、
上の議論に決着を付ける考え方として、

全員が戦略共有できていないことにより失う損失と、
戦略が外部に漏れた場合の損失と、どちらが大きいか。

そして、
全員が戦略共有できていうことにより得る利益と、
情報が内部だけに止めおかれた場合の利益と、
どちらが大きいかを秤にかけた論議が必要と考える。

そしてその上で、共有すべきことと、、
そうでないことを、きちんと区分し、前者は
全員に徹底的に共有を図る。
少なくとも、このレベルには、というのが
私の思いである。

ちなみに、決算書、日々の部門ごとの売上等を、
お客さまにもみてもらおうと、壁に掲げているお店を
幾つか知っている。

それは、お客さまを、売上を上げてくださるために、
絶対不可欠な購買者と定義し、その意味で
心的には仲間だという、そのお店の経営者の信念に基づく。

頭かくして

2015年03月14日 | Weblog

これまで客対応と言いながらその逆、
内実は、内部の内部による内部のための対応であったこと。
それを「お客様第一主義」といったきれいな包装紙で上手に包装。

さらにそれに
美辞麗句や気の利いたキャッチコピーやトークを添えて、
といったことが上手な販売といわれ、努力、精進の目的とであった。

要は、外部の消費者のお金を如何に内部に取り込むか、
そのために、あの手、この手を講じること。
それが「消費者に対応すること」ではなかったろうか。
その考え方の一つとして、「お客様第一主義」ではなかったか。


しかし、実態は「頭隠して尻隠さず」だ。
消費者はその尻からちらちら垣間見える

しっぽの動きから、売り手側の本音を知ることになる。
こうしたことで頭隠したこと自体が無意味になってくる。

事実,今時、お客様第一主義」と、声高らかに唱えて、
感動する人などいやしない。

無意味な対応に苦心してどうなる。
無意味な対応に工夫と改善を加えてどうなる。

対応とは、対するものに応じる、ということであって、
対するものに、こちらの思惑に応じてもらうことではない。

対するものに応じるには、対するものの動きを知らねばならない。
こちらがこちら都合に動いてもらうように仕向けることではなく、
対するものが、自分いしで、こちらの思うつぼと合致するよう
言動をしてもらうようにすること。これが「応ずる」ということだ、


経営の場合、上の「対するもの」とは、消費者だ。
ああした場合、こうした場合、
消費者が、どう考えるか。どう動くか。
企業内外での日常のあらゆる
ああした場合、こうした場合の、こちらの思考、言動に対して
消費者はどう思うか、考えるか、どう動くか、を押さえることだ。

それには、相手になりきる。これ以外にないのである。
自分がお客だったら、そのことでどう動くか、
そのことはお客にとって、直接的、間接的にプラスになるのか、

消費者になり切る。お客になり切る。
なり切りって、考える以外にない。

では、そのためにはどうしたらいいか。
オススメは、以前個々に書いた「客体験」だ。
.

死の戦略

2015年03月13日 | Weblog


個があっての全体。全体があっての個。
そして両者が、独立個体としての「個」と、
独立個体としての「全体」の相互協力関係にある。

相互協力関係とは、理念、戦略を柱として、
その枝葉としての情報、これらの共有が図られる関係、
と言っていいのではないか。

そして、この関係は、そのまま組織のありかたに通じる。


組織という概念には、組織内(自体)と組織外がある。
以前にも別の原稿で何度も触れているが
内と外では、圧倒的に外が広いし、深いし、大きいし、多い。
いわゆる多勢に無勢の関係である、それが逆転することはない。

こうした理屈と費用対効果、もしくは投資対リターンの
経済の論理を合わせて、端的に言うと、
組織外に仲間、同志、友達の多いことこそ、その意に添えるし、
経済的にも有利になることがわかる。

もちろんそれらは数だけではなく質も関係する。
だから、極論をいえば人にしろ、組織にしろ、
成功は、仲間、同志、友達の友人の数と質によるといえる。


このことを逆に言えば、
孤立系、封鎖性の高い、他との連帯性の低い
閉じこもり系の企業がうまくいかなくなる確率が
高くなるのは当然ということだ。

同根、
「俺が俺が」の人もうまくいかない。
「自分中心の人」も、うまくいかない。
「自分で何事もやりたがる人」もうまくいかない。

その理由の根本には、
人は、自分の外部の存在である有機的システム、
社会システムに組み込まれていることがある。

個は全体を構成し、全体は個を内包する。
その全体もまた他の全体と、同様の関わりを持って
それぞれ宇宙全体を構成している。

畢竟、個は常に個の外部との関わりを有し、
他との関わりのない個は存在のしょうが無いのである。

時として個内部の論理で内部体制やシステムを
強く固めることが、外部との関係を疎にし、
時には切断するといったことが、
結果的に死の戦略になりかねない理由はここにある。

繰り返す。
企業内の結束や統制、打わ合せを密にするといったことで、
逆に外部との情報の流れを遮断するケースがしばしば起きる。
これは外部と孤立したため相互交流が分断されたためである。



組織の内と外のつながりを通じ、情報は流れている。
これは人の呼吸を考えればわかりやすい。
呼吸とは、内部と外部との空気の交流である。
この交流がとまった時が「死」。
これは,自然の摂理である。

人も企業も然り。
内と外との相互交流が行われなければ、「死」である。

その典型的な例が、「癌」

共有するということ

2015年03月11日 | Weblog



知識は固形燃料に似ている、その理由は次の2つ。

1に、いくら持っていても、使わなければ
まったく何にもならない。

2に、固形燃料は、すき焼きとか焼き肉とかを
煮たり焼いたりするときに役立つもので、
それそのものを使うものではない。

だから料理屋で、
固形燃料を料理やその材料として出すところはない。
知識も知識そのものが直接ひらめかしたり売り物にしたりはない。

企業であろうと、人であろうと、
「知識」そのものが役に立つことはない。


料理屋の冷蔵庫の中の材料と同じようなもの。
料理の材料がそのまま、お客に出下としたら
お客は、当惑し、怒るだろう。

知識も、そして「知っている」も「わかる」も、
自分の経験、知識の範囲内のものである。

ましてや知識が、外部の人の行動を動かすことにはならない。


そもそも自分以外の人は、
こちらの思うように動いてはくれない。
自分の思うように動いてもらうためには、
「戦略とその共有」が不可欠な所以である。

共有とは、世には大きく分けて、
自分が知らない世界と知っている世界とがあって、
「知っている」、「わかる」は
自分の範囲以内でのことにすぎない。

だから言葉を発したり行動したりするときは、
自分の知らない世界がいっぱいある。
それは自分が知っている世界とは比較にならないほど
広い世界なのだという謙虚さ、
それに、自分の世界は、自分ですらわからないことがある。
ましてや他人が、私の世界をわかることは大変なことなのだ、
といった認識があってこそ、人を受け入れられる。

違いがあるから、そしてわかり合えないところがあるからこそ
相互に補完しあえ、相互に学びあえるということを前提に、
他者と戦略を共有する。
ここに「共有すること」の意義と本質がある。



あっ向いてホイの国

2015年03月10日 | Weblog


自国民の内政への関心を、他の国にそらすやり方を、
私は「あっち向いてホイ戦法」と名付け、愚策として蔑んでいる。


本来は、自国民が自分たちを慕い、支えてくれる
状況を創ること。そのためには如何せん、
というのが国策の根本戦略なのだ。

それがやれないから、他の国に喧嘩をふっかけてくる
このあり方は、下の下策、誠に迷惑である。

そんことは彼の国の彼らも十分承知していて、
それでもあえてやらねば、ということだろうから、
人心が政権側から離れているか、内政上に
爆弾を抱えていてほっとけば政権危うし、
という状況とみてよい。

このことを逆に言えば、
他の国にその危うさ、窮地を自ら披露、
あるいは何かを懇願していることに他ならない。

では、その他の国の一つである我が国は如何せん、
というのが安倍政権に課せられた外交面の課題である。

ちなみに彼の国以外に、
我が国にはあっち向いてホイの矛先を
剥けてはいないが、上の彼の国よりやばい、
問題の国がある。

ロシアである。

国際的には、こちらが大きな問題。
私は、緊急性が高い、と読んでいる。
エリツイン政権というより反エリツインの要素が強いからである。
元親エリツインノリの離反者が、目立つことがそれを証している。

当面目が離せない。

戦略の達人

2015年03月09日 | Weblog
戦略の達人


秀吉の、「負けるが勝ちの戦略」、
家康の、「立ち枯れの戦略」を考察した。

ここで少し戻って、今一度
信長の桶狭間の戦いをみてみたい。


生きるか死ぬか。
今川義元に負けて死ぬことも選択できたのだけど、
死ぬのはいや、ということで、「生きること」を択一した。
生きるためには、今川軍に勝つことだ。

今川軍に勝つためには、今川義元の首をとる戦略と、
今川軍と戦い、勝つ方法。この択一だ。
前者、後者、どっちが勝利の確度が高いかを考え、
前者を択一して義元の首を取ることを考えた。


ワンマン経営者が、いなくなると企業は衰退する。
元々今川義元が、京を目指すのは、彼個人の課題。
組織全員の目標ではない。
彼がいなくなれば、京に行く目的より、早く故郷に戻り
妻子の元へ、となるだろう。

ランチェスターの「弱者の戦略」を勉強していなくとも
信長でなくとも、そうなる。


戦略は決まった。
次にその方法、戦術だ
その戦術は、アレがある、これがある、いろいろある。
あれとこれと組み合わせて、今川の首を取ってしまった。

ということで、一か八かの戦いに挑み、奇跡の勝利、でも
運良くでも、強運に恵まれ、といったことでは全くない。
ましてや一か八でも、ヤケクソでもない。

まさに信長は、「脳力開発」の達人。
戦略を立て、それを組織全員に共有する。


「生きたいか!」  

「オ-!」

「それなら狙うは、義元の首ぞ。他にかまうな!」

「オ-!」

その狙う首が、どこにあるか。
その首が、どこにある場合が彼の首を取りやすいか。
その首を取りやすい時間帯と場所は?

戦略を具現するためには、まずこうした情報収集だ。
信長は、他の武将にまして、
かねがねから「情報収集」の重要性を認識していた。

戦略を具現するためには、科学的計算にもとづき、
様々な戦術の中から、最適のものを組み合わせるのだが、
現場と相手の動きは流動的で、変化する。


だから、戦術は任せる、ことなのです。
否、任せる以外にないのです。

それを、アーセー、コーセーと上が仕切るから、うまくいかない。
方法、戦術まで指示命令する企業をみたら、
うまくいかない企業とみてまちがいない。

実際に城野先生に引きつられて、桶狭間、長篠を見てきましたが、
信長という人の戦略思考、並じゃなかったのだ、ということが
今の地形からも滲み、感じ取ることができた。