経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

いいわけない

2006年10月31日 | Weblog
以下、長いいいわけである。

朝、ほんの少し仕事をし、10時に銀行へ行くためにパソコンを閉じた。
1時間で用を済ませ、パソコンを立ち上げる。
 ところが久し振りに、あの青い画面に白い文字。即、回復コンソール。これで解決すると思った。ところがだめ。では久し振りに、上書きの再インストロール。これはうまくいってやれやれ。無事成功を確認し、メール2通書いて送信、閉じる。

 昼食後、さあ、久し振りに仕事と張り切ってパソコンのスイッチ・オン。ところがまた、あの青い画面。即、回復コンソール。これで解決すると想った。ところがだめ。ここではじめてびっくりした。回復コンソールを始めたのは、外付けのHDで、Cではない。

 では本命のCデスクは?サブのDデスクは?ない。見あたらないのである。こればかしは押し入れをごそごそ探して見つかるものではない。何度繰り返してもハードデスクが認識されない。見つからない。電源、配線のチェック、サーバーボックス内のハードデスクは、まだ暖かい。死んでいるとは思えない。

 ただごとではないとおもったのは、立ち上げを繰り返しているうち、立ち上げ画面が短くなり、さらに立ち上げ時の音声が不明瞭になり、画面の文字に飛んだり乱れがで始めたことだ。4回目、動かなくなった。

 これはもう自分では無理と思い、修理に持って行った。前回8月3日にHDを取り替えてもらったところである。前回と同じ担当の青年は、持ち込んだ私のパソコンを立ち上げてみて、「こんな画面初めてだ」と同僚に話している。私もその画面をのぞいてみると、薄い青の壁紙に、ピンクのボックス、文字は薄黄色。私が閉じた画面と違っている。それが上下に揺れている。気持ち悪い画面に変わっている。
「とにかく、お預かりして、みてみます。」。

 メルマガ「白圭通信」の愛読者の皆さん。こういう訳で、10月1日号。配信できません
 メルマガ「白圭通信」をご迷惑な皆さん。こういう訳で、10月1日号。配信されません。ゆっくりお休みください。

 長い、いいわけですが、私としてはいいわけなぞありません。また大枚が飛んでいくのですから

戦略の諸刃性

2006年10月30日 | Weblog
常に自分は一人。だから、
他者=(すべて)ー1(自分)
である。

これが、この世が自分の思う通りなる、ならないを左右する根本の数式である。
 だから当然ここに戦略の要諦がある。あるいは戦略の誤解が生まれる理由がある。戦略は、我が意、我が企業の思いを通すことではない。なぜかは上の数式により、多勢に無勢の原理が働くからである。
 
戦略の本質は、自分の意にどうしたら自分以外の他者の協力を取り付けるか、にある。だから経営戦略立案の要諦は「どうしたら自分の企業を消費者が選んでくださるか」の要件を具体的に示し実践することに尽きる。尽きるという意味はそれ以外の方法はないという意味である。売上目標の1億円が達成したという結果は、消費者の中で、その企業を選択し買う人が存在し、合計で1億円買ってもらったという事実が起こり得て成り立つ。

その買ってもらったという事実が具現するための戦略、構造、体質を構築するにはどうしたらいいかを考え、その仕掛けのシナリオをシュミレーションをするのが経営戦略である。

ところが、ほとんどの経営者が行っているのは、どうしたら売れるか、どうしたら利益がでるか、といった内輪サイドでの経営計画である。ところが売上を形成してくれる買い手は企業の輪の外にいる他者である。外にいる他者の意思決定を、こちらの思うとおり出来るはずがない。だから一部の偶然を除けば計画倒れになる。
それを恐れて「売り」に無理をする。その無理が、さらに背を向ける消費者を増加させる。たいていの企業はこうして自らの意思決定と行動により消滅するのである。これを自滅という。あるいは自業自得ともいう。

戦略は、正しい理解で使えば、世界中の人々の協力、エネルギーを取り込み無限の力を発揮できる源であるが、誤った理解で使えば、世界中の人々の反発を買い、そのエネルギーで奈落の底まで引きずり下ろされる。まさに諸刃の剣である。

癖(へき)、偏り

2006年10月29日 | Weblog
講演などで、これまで幾度となく、「日本で、登坂と下り坂はどっちが多いですか」と尋ねてきた。脳力開発の研究のため、20年以上観察している。

答え、おおよそ6割が、「上り坂が多い」の答え。とくに女性は、一生懸命考えたり隣の人と話し合った結果、ほとんどが「上り坂です。近くに坂があって、毎日の買い物でしんどい思いしています。とマジに答えてくださる。

各階にトイレがある20階建てビルの10階のホールで講演しているとする。休憩時間、その階、10階のトイレは行列になる。休憩顔終わった後、質問してみる。8割が10階で行列だ。並んでいてしびれを切らした人がどこへ行くか。

大半が11階に行った人と9階に行った人に分かれるわけだがどちらが多かろう。なんと99%が9階、下りを選んでいる。

朝のニュース番組。男女のアナウンサーが並ぶ。ああいい女、いい男と見るのも悪くないが、私は、ご両人の両肩のどちらかが、上がり、どちらが下がっているのをみる。まず一直線は滅多にいない。としたら靴屋さんでなくても、彼と彼女の靴底の減り具合が読める。あるいは鍼灸師の人なら、どちらの方が凝っている、といったことがつかめるはずだ。理由や言い分はある。科学的な根拠もある。が、ここでは割愛する。

寛容なことは、人はこうした偏り、習性、あるいは癖を持っている。そのことを云々ではなく、つかみ、承知しておくことだ。それが対応だ。

私は、いつもトイレは最初から、上の階に行く。日曜の駐車場は、もっとも不便なところを狙う。私が尊敬する紳士服の仕立て屋のEさんは、それで左方へパットを多めに入れてくれる。k真の気配りとか心遣いは、こうしたものをいうのである。

 ドラマで、自分の夫が帰宅。妻が「コヒーにしますか。それとも紅茶?」という類のセリフがあったとしたら、その脚本家は独身か不幸な結婚をしているに違いない。もっとも、うちでは、どちらにしろ自分で出さねばならないが。

頭痛に足ヨウチンはない

2006年10月27日 | Weblog
多くの経営者には、ひとつの偏向がある。それは自分に関わる以外のところに、問題がある、と無意識に思いこんでいることである。
 「幹部教育に力を入れたい」の場合、対象は自分を除く幹部であり、「社員教育に力を入れたい」というのも然り。
 経営革新についても、自社の問題として、MMAPなどを使って書きだしてもらうと出るは、出るは。それらはほとんど戦術レベル。経営レベルの課題、問題、すなわち戦略に関するものはほとんどない。経営革新は、問題の在り所を把握した上で、対応して行うわけだから、必然的に、そうした会社の、経営革新は、戦術レベルの革新にとどまる。これでは革新の成果があがらないのは自明の理である。頭痛に対して、足に赤チンぬっても効果、上がらないのである。
 問題は自分にあり。経営力なり戦略に関わる判断がまずかった、と経営者が、ごく少数だが、この企業は伸びる。ちなみにひとつの戦略の誤りは、100や1000の戦術を罪かさめても取り戻しができないのである。

 それで、私は、経営革新のアプローチとして、まずMMAPで、当社の問題は、理念、戦略、戦術、その他、この4つのどこに一番多いのかをまず把握する。全従業員から集める。MMAPでやれば、4つのマトリックスにきちんと分類されて出てくるので、それを見た経営者は唖然とする。ほとんどの問題は、戦略。次に理念。これで90%超える

 経営者は、経営がうまくいかない原因を、どうしても自分以外のところへ求める。あるいは自分は例外だ、と投げてしまいがちである。このことを口で言ってもなかなか。でも社内でMMAPでやると、一番気づくのが、さすが経営者である。

 だからMMAPで経営革新を、と私は叫んでいる。

「風が吹けば」

2006年10月26日 | Weblog
メルマガ「感謝通信~Kamsaは感謝、感謝はカムサ」は、友人のカムサの朴さんが、月3回配信しているメルマガである。
彼の仕事は、コンピーター関連事業なのだが、内容は、スタッフの小崎美咲子さんの趣味?グルメ店の紹介やら、自分がお取り寄せしたものの感想記がほとんど。
「そんなん、どこでもあるではないか」と思われる方も多かろうが、全然違う。それは自店の紹介であったり、スポンサー付きであったり、いわゆる自画自賛かやらせなのである。
以前、別のブログでも紹介した某タレントとの対談の依頼は、その内実は私の方が7万余円のお金を払うことが条件だった。その類である。だが彼女のものには、1に一切紐付きではない、2に自分で実際に食べたり、使ったりしたものである。
要は、カムサの仕事とは無関係、関連させようという意図が全くないのだ。ではどれで商売になるか、というと、やはり人というのは凄い。みな意識的か無意識的か、そのことに気づき、これがカムサのクチコミになっているのである。
多くの企業人は、消費者の、こうした凄さを、読み違えているか軽視しているのでは、と私は思う。
その証。
今、全部とは言わないがけして少なくないメディア誌やタウン誌における商品やお店の紹介が、実はちぁんと宣伝費を払ったものであること。それはよしとして、そのことを読者に明確に伝えていないことは、そのことだけでもフェアではない。消費者を錯誤させているからで。強く言えばだますことになりかねない。このことは善意のメディア関係者にとっても、迷惑な話である。

メルマガも然り。かつてたくさんのメルマガを購読していたが、小さな餌の先には大きな釣り針が見え、やがて矢が次々飛んでくるので、ほとんどやめた。残しているのは、私の理想の営業モデル、「風が吹けば、桶屋が儲かる」の、「風」に価すると思われるものだけだ。「エビでタイ、次に釣り針」のあり方みにすでに、消費者は背を向け始めている。
これからは、我田引水だが、「「風が吹けば、桶屋が儲かる」だ。

 【カムサのブログ】http://blog.livedoor.jp/tigerpark/
【小崎美咲子さんのブログ】 http://blog.livedoor.jp/goen151a/

脳力開発、誘(いざな)い

2006年10月25日 | Weblog
脳力開発(脳開)を20年、多くの方々へお伝えしてきた。
その中心思考、戦略の体得は難しいらしい。とりわけ戦術との区分ができない。戦術を戦略と間違えて著している学者すらいるぐらいである。本のタイトルや紹介に、「思考戦略」、「美肌戦略」、「信長は、奇襲戦術の達人」といったのをみると苦笑いせざるを得ない。

 言葉での戦略の説明は、師の城野先生の「打撃の方向」という説明が、定番になっている。これはゴルフをやる人は理解しやすい。それでも実感となるとなかなか掴みにくい。中には戦略を、目的とか目標と置き換えて説明する識者もいるが、それはちょいと違う、と思う。たしかに目標には方向性はうっすらと存在しているが、目的にはそれすらない。 すなわち戦略には、方向性と共に、流れ、勢い、動き、といった動態概念が不可欠だが、目的にも、目標にもそれが欠けているのである。ベタットした貼り紙のイメージである。
 
 貼り紙が出たついでに言えば、「明るい職場づくり」、「挨拶運動」、「「整理整頓」は、動きのない類(たぐい)。これを「明るい職場を作る」、「挨拶をする」、「整理整頓をやる」と動詞を付ければ、動きが出てくる。動きがでてくれば、「では、蛍光灯を増やそうか」とか「落研の学生を入社させよう」、あるいは「スキンヘッドの人を入れたら」とか、様々な戦略具現のための方法が出てくる。これが戦術である。

 戦略の話しに戻す。
 戦略は、二者択一性と方向性、それに勢い、動きがある概念である。少々朝から下品なたとえで恐縮だが、昨夕散歩の途中、数人の男の子たちが、コスモスの花を狙いオシッコしていた。この場合、花が目標、花にションベンかけるのが目的。尿器をそちらに向けて勢いよく放射する、それが戦略だ。これをうまく生かせるために、手で支えたり、事前に水を飲んだり、パンツをさげたり、といった様々なことが戦術、これならわかりやすいかも。
 
 しかしいかなる言葉の説明より、身体を動かして行動で示せば理解しやすい。また言葉からの理解より、身体を動かして身につけないと、実際に行動するとき、戦略的に行動できない。口で、さかんに「戦略、戦略」、「戦略に基づいて行動せよ」と言っても、言った本人も、言われた人たちも、実際行動で戦略思考ができているかどうか、疑問である。
 
 実際行動で、脳力開発を体得していただくために、私は、「MMAP」とか「脳開ゲーム」とかを創案し、実際通常の講演などでも披露している。
また、福井の嶋崎喜一先生が、創案されたものだが、「会社ゲーム(TG)」は、脳力開発と実に相性が良い。かつて中小企業大学高の経営者ゼミで、幾度となくこのTGと脳力開発をドッキング。嶋崎先生とコンビでやったが、すこぶる成果が高い。

 おおよそ、とりわけ経営者の研修会やゼミでは、参加者の事業の成果に貢献しなければ意味がない。
畢竟、戦略は、行動した結果、ビジネスシーン、日常生活での成果として、裏付けられる。ものでなければならない。

 ご興味ある方、詳細は、私のホームページや専用ブログを見ていただけたら、有り難いです。http://blog.livedoor.jp/jatsudonka/

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インターネットという器

2006年10月23日 | Weblog
過ぎ去った過去に対しては先達や、専門家やら、うようよいるけど、将来(さき)に関しては、みな自分と同じ未経験者、同じ素人。そうなのだ。この意味は、明日は、他者に倣うことはない。自分で作るものだ、ということです。
専門家として威張っている人がいても、それは過ぎ去った過去に関する専門家。未来予測の専門家が、いるとしても、その実は、明日生きた経験も、死んだ経験もない、自分と同じなのだ。
 
このことを、他の何よりこの今が過去になるスピードが速いインターネットの世界でいえば、ほとんどの人は過去をフォロー、追っかけている。前から変化が恐ろしいほどの勢いでこちらへ向かってきているのに、背を向け、過去を一生懸命追っかけている。新しいインターネットの器に、過去を載せている。
ここまで考えて、私は、そうしたことを自分もやってきたことが、とても可笑しく、不思議に思えて、しょうがないのです。そしてまた、映画、「カサブランカ」の名台詞「明日?そんな遠い将来(さき)にのこと、わからないわ」、それに「哀愁」の「未来は、向こうからやってくる」、ぜいたくにも二つのセリフを思い浮かべたのです。
 
 インターネットの例で続けますと、インターネットは、過去、つまり出来あいの総菜を組み合わせて並べているにすぎない。それは果たしてインターネットの本来なのでしょうか。籠より、人力車が速い。人力車より、飛行機の方が速くうえにキャパシティが比較にならないぐらい大きい。つまりそうした道具としてしか、インターネットを見ていなかった。これまでは良いとして、これからの仕事ではない。
材料であれば、腕を振るが、他人のつくった総菜ではそれができない。

こう考えていったら、インターネットの使い道は、1に、ツールとしての使い道。2に、インターネットを人間の友達としての方向(ロボット化)、3に、何かを作るインターネットを、1つ、もしくは複数の材料、部品ととらえる。

今、上の3つはある。3つの中から、どれかを過去追いするか、3つ以外に、4,あるいは987,あるいは69293、あるいは18926793147あるのかも知れない。いまないから、先にないとはいえない。相手のスピードが速いから、追いかけるやり方では、永久に見つからないかも、あるいは追いつけないかも。だから、見つけて。待ち受けしない限りだめだ。では、どこに待ち受けするか。ここがこれから、です。

古い本ですが、糸井重里さんの「インターネット的」は、示唆に富んだ本。捨てるつもりを読み返してみて、改めて感服。そう思いました。




情報収集のコツ

2006年10月22日 | Weblog
情報収集について、一言。三言。
情報、意見の本質は、バラバラや違いにある。そうでなかったら、改めて収集する必要はないからである。だからまずは違いその”もの”の違いを認め、ただ並列すればいいのであって、評価は禁物である。またそうでないと情報や意見は集まらない。集まっても、後述するが偏ったものになる。

要は、日常性、普遍性の高いところでの違い、変化を見逃さない。逆に言えば収集のレベルで特殊性、特異なものに偏重しないこと。まずは数の多さ。違いを見つけて数を集める。これが第一義になる。
英国製の高級スーツを身につけた人や著名人のいう情報に重きをおいて、作業着の人や中学生の言うことは軽視する、といったことがあってもならない。情報は収集レベルでは、皆、平等。並列する、というのはその意味である。

「人間、考えること、結局はみな同じ」といったことでは、情報はあつまらない。その意味で、「ごもっとも」、とか「同感です」と、社長の意見に右ならいであれば会議は意味をなさない。

情報や意見は、「判断」の材料なのである。少なければ、「判断」に偏りが出る。だが実際現場を見ていると、上位者が自分の考えや思いと違う異見がでると、「それは違う」とジャッジしている。判断、というより私見、先見で、はねて材料を減らしたり、自分の考えに集約したりしている。だから自分と同じのが出てきたら、「そう、そう、それはいい」と嬉しそうな顔をする。気に入らないのがあると、「なんじゃこれ」、「誰だ、こんなつまらんこと書いたのは」と怒鳴る。だから次からみなそのトップと同じ意見しか言わない。そうなると今度は「うちの連中、おとなしくて困る。もっと積極的に発言して欲しいものだ」などといっている。
 
 「社員の意見など聞いているようなトップはダメ社長だ」といったことを、N社主催のセミナーで、あるタレント社長が行っていたがどうだろ。私には、彼こそダメ社長と思える。(事実、彼の会社は現在再建中である)。戦略にもとづく決断はトップが成さねばならないが、意見、情報は広く多くの人から集める。社員が100人いて、1つ異見を出したら100になる。101の材料で作る料理と、1つの材料で作ったものでは、どちらが勝るか。

 どんなすばらしいトップであろうと頭は1つ。目は2つに耳二つ。孟嘗君は食客を2千人かかえていたのは、2千と4千の目と耳からの情報と意見を収集し、1つの頭で決断するためであったことは知られるところである。

 様々な人の意見を聞く。なにげない日常性の情報を見逃さない。こうしたことが、トップの情報収集のコツと、考える。

本物と唱い、本物を通す人

2006年10月21日 | Weblog
 朝、彼、吉田さんのブログを開く。
「だめ! ダメ!! メイクをしては!!!」
のタイトルに、つられたためである。吉田さんとは、鹿児島県の異業種交流会84`プラザでご一緒。仲間である。

 彼はブログの頭にこう書いている。

 失われた物を取り戻すために『本物の追求をしたい』と考えます。
                       (株) 吉田アイエム研究所     
                                  吉田透


今朝の日記には、いかに彼自身が本物であるかを、証明しているエピソードが紹介されている。

「これだた!」と、思わず興奮した。一部をコピーここへ掲載、詳細は、吉田さんのブログをみたいただきたい。
 本物と唱い、本物を通す人は、案外に希有。身近に吉田さんみたいな友人が居る。このことを誇りに思う。

                  *
 2006年10月21日

 だめ! ダメ!! メイクをしては!!!
[ 綺麗になるために ]
「だめ! ダメ!! メイクをしては!!!」



「エエッ?」

「ほんとにスッピンなんですか?」


都内某スタジオで行われた、TVのビデオ撮影現場での、やり取りです。


18日、東京。

11月から始まる番組の収録に行ってきました。

 以下→http://plaza.rakuten.co.jp/sumadora/diary/

本を捨てると言うこと

2006年10月20日 | Weblog
本は時折すてる。捨てるということは、残すものを選ぶことでもあり、またそれらを厳選の意味で、ざっとでも読み返さなければならない。厄介な時間のかかる作業ではあるが、過去の想い出に浸れるという意味も含めて、実に、至福の時、有意義なことでもある。

 時代の進みが早いといっても、すべてが同じスピードで変化しているわけではない。今、本の捨てる作業をしていると、そのことがよくわかる。例えばパソコンやインターネットに関する本が実に腐りやすい。昨年買ったものは、ほとんど役に立たない。ソフトに関する。マニュアルやガイダンスの本など、とりわけその最たるものである。そもそもソフト自体が、毎年1回ずつ改定されるのであるから、当然と言えば当然である。かっては、事務所の大半を占めていた本類も、こうした作業を繰り返しているうちにたちまち減少し、今は本棚は7台に収まる。

ざーっと見回しても、その大半は小説である。パソコンやインターネットに関する本が、3冊しか残っていない。その中に、糸井重里さんの「インターネット的」(PHP新書」がある。これは、5年前、発刊され、購入したものである。捨てるつもりで、ぱらぱらと目を通した。10分も経たないうちに夢中で読み始めていた。そして今も、読み続けている。

 結局、この本は捨てられないな。そう思った。この類の本にしては、希有なこと。腐るどころか、ますます鮮度を増し、そんな感じを覚えた。

 要は、「インターネットにしろ、パソコンにしろ、HPにしろのログにしろ。そういったものは道具に過ぎない。道具の作り方とか中身とか、そんなことは知らないでも自由に活用できる時代になった」、ということ。それが題名の「インターンネット的」であるということ、と著者は、文明論の上にインターネットを据えて論じる。このインターネット的な人物の一人として、邱 永漢さんの事例を挙げている。彼は、糸井さんのHP「日刊イトイ新聞」に、寄稿原稿を送ってくるが、それが手書きでFAXを使っている。ここが凄い。何度も読んで頭に残っているところだが、改めてうなってしまう。強烈な衝撃を受ける。

 「俺もそう思いながら、実はいつの間にか、インターネットを誤解し、使われている」と後悔しきり。

 なるほど。いやさすが。この本は腐らないはずだ。経営の本でも、経済の本でもほとんどが腐る。だが中には、腐らないものがある。哲学の本、芸術の本。小説もおおかたは腐らない。だが中にはそうした腐りにくいものでも腐る。それは著者のせいだ。たとえば経営者の書いた本など、本が腐る前に著者が腐る。刑務所に入ったり、株が監理ポストに入れられたりする。腐ったものを食べたら食べた人に害が出る。時には伝染するだからそうした著者の腐る本は早めに捨てるべきだ。

 腐らない本は、本棚に置いておくだけでも、至らぬ自分の戒め、ときには支えの裏書きになるようで、気分が良い。それらを気が向いた折読み返す。読み返しに耐えられるほど、それなりの内容がある。あるいはその内容が、自分の至らぬところを突いている。動機はいずれかと見て、読み返している。

 あと30年ぐらい、これを繰り返し、残った本が、自分が生きてきての価とみて、数えてみるのが、楽しみである。