経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

美しい国の行方

2007年09月30日 | Weblog
頭の中でいろいろ仮設を考えて、それを立証する作業を行う、このことを師の城野 宏
生から教わりました。なるほど自分のうすっぺらな脳が、なんだかメキミキ厚みを増し
くるような、もちろん錯覚に過ぎませんが、思えてきて、これ一途にやってきました。

問題は問題そのものが起きないこと、起きても消えることが一番だと、それまで思ってきましたが、問題は仮説のたたき台の一つ、進歩発展のための情報として受取れば、自分の脳力開発のツールになる。自分の進歩発展になる、と確信しました。これは、我ながら、大きな収穫でした。

 さて、仮説はさまざまな日常上の出来事から、なんでもヒョイと取り上げていいのです
、とりわけといわれれば政治などが、案外答えが出るまで早いですし、なにより人間的
素が強いので、私としてのお薦めです。

 先日、たまたま霞ヶ関に行ったのですが、この街を歩いていて、まず頭を占めたことは、
国の首相が、不在で代理も置かない、他の国では考えられない自体、それをサポートす
人たちも、次の総理選びに忙しくしている。

 それでも、この街の、官僚が政治?、日本?の舵をとっている、という思いです。
や思いというより、驚愕に近い驚きです。

 仮説と仮説の間を、連想でイメージを広げてみるのも、私の学びの一つです。

 日本は、当然のことですが三権分立の民主主義国家です。総理の入院中、あるいは決ま
まで、二権分立。事実、立法の府、国会は機能停止状態です。
このことを余り問題にしないメデァ。「政治の空白」などとのどかなことを言っている。

 これは怖い。
 少なくとも政治家抜きで国政を動かせられることを、なんども学習したた僚の恐さを、私たちは今一度歴史の中に学び、確認しておく必要があります。先の大戦の開戦、これで決まったのですからね。

 それに、 政治家は票で落とせるが、肥大化し図に乗った官僚組織には誰も手がつけら
ないし、DNAが確実に引き継がれる組織ですから肥大・増殖していく。その先は、人類の三葉虫化です。

 昨日、安倍首相がやっと国民の前で謝意を示しましたが、痛々しさは伝わっても、そのことに対すことの重大さ、責任は、まったく理解されていない、という思いがしました。

 事務所費がどうのこうのもゆゆしき問題ですが、国民に与えた損害は、比較にならない
ど、莫大です。

「取り立てて、何も起きなかったからいいじゃないか」という考えは100%誤りです。高速道路を酒を飲んで200キロで走り、同じセリフで許されるわけはないでしょう。

 ですから、会見ではきちんと説明し、謝罪し、議員辞職する。これが常識です。期待していただけに、惜しいな、という感じもします。
 
 美しい国を理想に掲げた首相に、美しいという概念の範疇には、明快さ、透明性、潔さも含まれていることを、申しげたい。

 ともあれ次の組閣も今日中に終わり、新しい政権もスタート。何も急ぐ必要がない。今後
ためにも、ゆっくり療養してたくましく成長、再チャレンジして頂きたもの。

 美しい国、なんだったんでしよう。長期政権だったらその行方、見えたのでしょうか。

個でもって、国民が失ったもの。

2007年09月25日 | Weblog
 一昨日のこと。

 ラジオを危機ながら仕事をしていた。

「各部門の競争心、熱心さのあまり店全体から孤立し、結果として店舗力を
低下させてしまう。まさに当店の現状はその典型的見本である。
 また別のところでも触れるが,はみ出し陳列なども,部門優先,全体売上無視の姿勢の現れで、店の売上げの天敵であるといってよい。

 個々の売場の売上増加より、店全体の売上増が優先されなければならないのは、言うまでもない。こうしたことを防ぐには社長が戦略思考を身につけていることが不可欠。
 その強いリーダーシップの支援のもとに、店長に強力な権限を与えて、全体効率優先のための調整を指せなければならない。

 その場合、当然 各部門の長に、全体売上のために、個々売り場のレイアウト、商品構成、あるいは販売促進に妥協を願うことになるわけだが、当店の現状は組織図もなし、職務分掌もなし、権限すら不明であり、現店長にその責任を問うことはできない。

 言い換えれば、「自分の売場を伸ばせば、良し」とする部門単位の考え方でなく、店全体が増収増益体制になる為に、わが売り場はどうあるべきか、という戦略思考にもとづき社長なり店長がその役割・機能を担い、またそのことを理解できる部門責任者、全体志向,戦略志向のできる人材を,教育で育てていかねばならない。」

 こうした診断報告書を書きながら、個のがんばりが全体を壊す、といったこと。いわばシステム論の常識に改めて感じ入っていた。

 それは自民総裁選報道に際して、だんだん腹が立ってきたからである。

 個人の都合で、どれだけ国益を損なうことになったか。
 自民の内部選挙で、国の議会が止まる、といった自体をどう思うか。

 自民総裁の誰が勝ち負けたかの報道はあっても、肝心な国民の失った莫大な損失に触れるものはない。
 
 改革、改革とここまで積み上げてきたものが崩壊、元の木阿弥になるかも知れない選択を、国民不在の選挙で選択賞という儀式への報道の後、次のメディアの関心は、はや組閣である。

自宅前の道路に車を止めていとしたら、他の車が迷惑する。だからすぐ移動して、「ごめんなさい」と謝る。これが民の常識である。

 安倍総理と次の総理 福田さん、そして自民幹部は、国道という大幹線を停滞させたのである。
 「ごめんなさい。国民の皆様方に、金額概算で、○▲億円の損失をおかけしました。」と謝ってしかるべきではないか。
 
 その損失は、自民から、国庫に弁済させてもおかしくないのだが、そこは日本国民、鷹揚に、「謝ってもらうだけでいいよ。やむ得ない事情もあったんだろうからね。だが次は許さないからね。衆院選もあるし」と、チクリとやって、一歩譲る。
 これが形式的であっても、システム論を取り出さないまでも、一般常識的な民主主義国家というものである。個で全体を止めてはならない。これを破ったのである。 昨日、ラジオを危機ながら仕事をしていた。

「各部門の競争心、熱心さのあまり店全体から孤立し、結果として店舗力を
低下させてしまう。まさに当店の現状はその典型的見本である。
 また別のところでも触れるが,はみ出し陳列なども,部門優先,全体売上無視の姿勢の現れで、店の売上げの天敵であるといってよい。

 個々の売場の売上増加より、店全体の売上増が優先されなければならないのは、言うまでもない。こうしたことを防ぐには社長が戦略思考を身につけていることが不可欠。
 その強いリーダーシップの支援のもとに、店長に強力な権限を与えて、全体効率優先のための調整を指せなければならない。

 その場合、当然 各部門の長に、全体売上のために、個々売り場のレイアウト、商品構成、あるいは販売促進に妥協を願うことになるわけだが、当店の現状は組織図もなし、職務分掌もなし、権限すら不明であり、現店長にその責任を問うことはできない。

 言い換えれば、「自分の売場を伸ばせば、良し」とする部門単位の考え方でなく、店全体が増収増益体制になる為に、わが売り場はどうあるべきか、という戦略思考にもとづき社長なり店長がその役割・機能を担い、またそのことを理解できる部門責任者、全体志向,戦略志向のできる人材を,教育で育てていかねばならない。」

 こうした診断報告書を書きながら、個のがんばりが全体を壊す、といったこと。いわばシステム論の常識に改めて感じ入っていた。

 それは自民総裁選報道に際して、だんだん腹が立ってきたからである。

 個人の都合で、どれだけ国益を損なうことになったか。
 自民の内部選挙で、国の議会が止まる、といった自体をどう思うか。

 自民総裁の誰が勝ち負けたかの報道はあっても、肝心な国民の失った莫大な損失に触れるものはない。
 
 改革、改革とここまで積み上げてきたものが崩壊、元の木阿弥になるかも知れない選択を、国民不在の選挙で選択賞という儀式への報道の後、次のメディアの関心は、はや組閣である。

自宅前の道路に車を止めていとしたら、他の車が迷惑する。だからすぐ移動して、「ごめんなさい」と謝る。これが民の常識である。

 安倍総理と次の総理 福田さん、そして自民幹部は、国道という大幹線を停滞させたのである。
 「ごめんなさい。国民の皆様方に、金額概算で、○▲億円の損失をおかけしました。」と謝ってしかるべきではないか。
 
 その損失は、自民から、国庫に弁済させてもおかしくないのだが、そこは日本国民、鷹揚に、「謝ってもらうだけでいいよ。やむ得ない事情もあったんだろうからね。だが次は許さないからね。衆院選もあるし」と、チクリとやって、一歩譲る。
 これが形式的であっても、システム論を取り出さないまでも、一般常識的な民主主義国家というものである。個で全体を止めてはならない。これを破ったのである。
昨日、ラジオを危機ながら仕事をしていた。

「各部門の競争心、熱心さのあまり店全体から孤立し、結果として店舗力を
低下させてしまう。まさに当店の現状はその典型的見本である。
 また別のところでも触れるが,はみ出し陳列なども,部門優先,全体売上無視の姿勢の現れで、店の売上げの天敵であるといってよい。

 個々の売場の売上増加より、店全体の売上増が優先されなければならないのは、言うまでもない。こうしたことを防ぐには社長が戦略思考を身につけていることが不可欠。
 その強いリーダーシップの支援のもとに、店長に強力な権限を与えて、全体効率優先のための調整を指せなければならない。

 その場合、当然 各部門の長に、全体売上のために、個々売り場のレイアウト、商品構成、あるいは販売促進に妥協を願うことになるわけだが、当店の現状は組織図もなし、職務分掌もなし、権限すら不明であり、現店長にその責任を問うことはできない。

 言い換えれば、「自分の売場を伸ばせば、良し」とする部門単位の考え方でなく、店全体が増収増益体制になる為に、わが売り場はどうあるべきか、という戦略思考にもとづき社長なり店長がその役割・機能を担い、またそのことを理解できる部門責任者、全体志向,戦略志向のできる人材を,教育で育てていかねばならない。」

 こうした診断報告書を書きながら、個のがんばりが全体を壊す、といったこと。いわばシステム論の常識に改めて感じ入っていた。

 それは自民総裁選報道に際して、だんだん腹が立ってきたからである。

 個人の都合で、どれだけ国益を損なうことになったか。
 自民の内部選挙で、国の議会が止まる、といった自体をどう思うか。

 自民総裁の誰が勝ち負けたかの報道はあっても、肝心な国民の失った莫大な損失に触れるものはない。
 
 改革、改革とここまで積み上げてきたものが崩壊、元の木阿弥になるかも知れない選択を、国民不在の選挙で選択賞という儀式への報道の後、次のメディアの関心は、はや組閣である。

自宅前の道路に車を止めていとしたら、他の車が迷惑する。だからすぐ移動して、「ごめんなさい」と謝る。これが民の常識である。

 安倍総理と次の総理 福田さん、そして自民幹部は、国道という大幹線を停滞させたのである。
 「ごめんなさい。国民の皆様方に、金額概算で、○▲億円の損失をおかけしました。」と謝ってしかるべきではないか。
 
 その損失は、自民から、国庫に弁済させてもおかしくないのだが、そこは日本国民、鷹揚に、「謝ってもらうだけでいいよ。やむ得ない事情もあったんだろうからね。だが次は許さないからね。衆院選もあるし」と、チクリとやって、一歩譲る。
 これが形式的であっても、システム論を取り出さないまでも、一般常識的な民主主義国家というものである。個で全体を止めてはならない。これを破ったのである。せめてお謝りなさい。


 ここで、閉じた。以下、昨日の追記。

 昨日、入院中の総理が、謝罪した。絡むようだが、それを見ていて、また「謝罪とはなになのか」、わかっていているだろうが、それをうまくかわして、謝罪といえるのか。そんな思いがまた加わったが、そのことはまた触れたい。

霞ヶ関にて

2007年09月24日 | Weblog
霞ヶ関周辺を歩いている。 首相がいなくても、この街は、日本を回しているのだ。そのことを思うと、話をそちらへ転じたくなったが、「街」に留め置きたい。

ローソンがなぜ多いか。ドラッグストアが一店もないのは、なぜか。
銀行が少ないのはなぜか、病院は歯科医が目立つ。なぜか。

 こうしてわかりきったことも、「なぜか」の仮説を並べて考えると、その街が頭の中で大きくふくらみ、深みを増す。実に楽しい私の遊びのである。

 ビルの地下にスーパーが1つあり、そのなかに小さな100円ショップがある。品揃えは文具に絞られている。客はいない。

 マクドナルド、なか卯などもあるが、閑散としている。昼間の稼ぎどきも並ぶ、といったことはない。ずいぶんと外れに、「吉野家」もあるが、同じである。そもそも人通りに比べて店舗が小さい。だがドトールやスターバックスなど喫茶系は100メートル歩けば一店はある感じで、こちらはけっこう賑わっている。

 外から見える中の中高年のおじさんやおばさんが、孤独と疲れをいやしている、といった風情で、それが街のもつ喧噪さが、この街からは覗えないことと相まって、ビジネス街との大きな違いである。

 街を歩いている人たちは、この馬鹿暑に男女ともスーツ姿が多い。特に女性の服の色が地味なダーク系なのは、よその街ではみられない光景かな。

 高齢の女性も案外に見かけるが、彼女たちの服装は、すれ違うだけでわかる高級なドレス。豪華だが、これまた地味系、ダーク系が多いことから、式典や会への参加者かな、と思われる。

 若い人が少ない。子供を見かけない。いわば爺と婆だけの街。この点は、我が鹿児島の郡部と変わりはない。違うのは着ている服装と建物の大きさ。それにこれが一番大きい違いだろうが、前者は生活感がなく人工的。この点は我が町が大いに勝る。
 
 ホテルの部屋の窓から、下を行き交う人々を見下ろしながら、こんな自然のない(事実緑のない街だ)、生活感のない街、ビルの中で、日本の行政が行われていることのあやうさを感じた。

 それは、かって私が、大手スーパーの本部にいて、行ったこともない、見たこともない街のお店の商品を仕入れていたことと重なり、今見ている風景からその「あやうさ」を、感じ、冷や汗が出そうな思いがした。

 たった3日。それもほんの一部の体験。それを、「である」と断定するつもりは毛頭無い。かりに全部を見て体験したことだったとしても、それが正しい風景とはいえないであろう。
 だが、小さな糸口から、大きな空間をキャンパスにあれこれ推量と空想し、街を組み立てる作業は、独りよがりであればこそ、こよない旅の楽しさに思える。

アイアム 総理。

2007年09月23日 | Weblog
 敬老の日のことである。
 当自治会では、75歳以上を老人としている。予算の都合である。それでも25世帯に16人の敬老対象者がいる。これは日本国高齢化の先進地として誇るべきことである。最高年齢は女性で92歳。残念ながら3年前から入院中。男性は91歳。此方の方は一人住まいながら、健壮そのものである。

 実際の所、この敬老の日だけで、我が「うえの自治会」は、財政がピンチに陥っていまうので、来年から80歳以上を対象に、と検証してみたが、それでも対象者は2人しか減らない。
 
お祝い金は落とせるところまできていている。まさか500円玉1枚というわけにもいかない。今朝プリントアウトしたお祝い文、100円ショップでかった祝い袋、それに新札ながら1千円ぽっきりいれて、副会長と回るのであるが、大の大人ふたりのやることとしては、どうも軽くて様にならない感じだ。

 わずか1000円で、それでもどのお年寄りも、大喜びしてくれる。曲がった腰を地面につけて拝んでくれる人もいる。だから、嫁に渡してもいけない。息子に渡してもダメ。本人に手渡し。これが大切だ、ということを、自治会の仕事をするようになって、初めて学んだ。
 看板等には贅沢なぐらい補助金が着くのに、お年寄りには、敬老の日、と謳うだけでこんな実態だ。政治が悪い、とぼやいても、考えてみれば、私たちは政治が良い、という実体験をしたことが、実際あったのか。これからあるだろうか、とふと考えた。
 
 政権が変わっても、お風呂で言えば上の温度だけのこと。底の水は冷たいまま、といった政治に変わりがない。そうしたことだけは変わりなく続いている。
 福田氏、麻生氏、どちらがいいだろうと考えてみたが、今回ばかりは、どちらとも判定がつかない。残念なことだが、それは、「両雄合い並び甲乙つけ難し」、といった緊迫感があるのではなく、「誰にしろ変わらないのでは」といった、冷めをとびこえ、「どっちも選びたくないのに、選びたくないという選択すら出来ない」とぅたもどかしさが覗えるのである。そのことは政治にとってもっとも危険な兆しといってよい。

 小さな集落だが、都会と違って一軒一軒が離れているので、お祝い一回りに1.5時間かかって、いい汗をかき、いい気持ちで、パソコンに向かったが、政治のことを思ったとたん、暗い気分になった。国民に、一言も謝意を示さず、入院中の総理。
 敬老の日、代筆、代読でもよし、敬老のお祝いぐらい流して欲しいものだ。
 まだ、現職の首相であり、月給を国民からもらっていることを忘れているようである。
 これでは、国民に対し、非礼、無礼ではないか。
 個人の責任だけではなく、自民政治家は、国会開催中、また国際会議に参加できない、著しい国益を損じることが、頭にあるのか。いわば私党の総裁選びで国と国民が失うものの大きさを思う者が、一人でもいるのか。4-5日の入院と報じられ、その後、何の情報開示もしない総理。まだ総理なのだから、アイアム、ソウリーといって、せめて国民に謝罪して欲しい。
 


そば談義のそばで

2007年09月22日 | Weblog
 小林さんとその師匠 蕎麦の達人、田中國安さんが話しているのは、むろん蕎麦の話である。それもうまい卵焼きは、味醂は何処のに限る。これを◎ミリリットルとか、師匠が小さな、それもくしゃくしゃなシミだらけのメモ帳を元に、弟子に話している。

 私は小林さんの隣に座っている訳だし、ふたりは声を落としているのではないから、全部内容が聞こえる。聞こえても私には、まったくわからない。そば屋ではないからだ。

 だが、蕎麦以外のことならわかる。わかったことは、大きく次の3点。
1に、ふたりが相互に信頼視あっている師弟で、それも私が入り込めないような親密な関係だ、ということ。
2に、あの「俺が、俺が、」の小林さんが、きわめて自然な形で、聞き役、教わる姿勢に入っていることに、いつもと違う彼を発見したようで、感服したこと。
3に、蕎麦のことはわからないし、聞こえないが、田中翁は、私に商いの神髄を話してくれている気がしたこと。
 小林さんには、蕎麦の話。私には商いの神髄、まるで二重音声の講話を聞いているような、そんな錯覚さえ覚えたぐらいである。

 翁は、もちろん商いの神髄とか、商い秘伝とは、について話しているのではない。
だが、私の耳には・・・・・。
     こんな最低の立地で、
     こんな小さな、狭い店舗で、
まったく宣伝もせず、
     ひっきりなしにお客が来て、
週休二日、一日5時間の営業で、
従業員と自分たち8-10人を養い、
かつ繁盛店であり得る、
それは、なになのか、
が聞こえてくるのである。

 それは私が、このお店に入ってすぐ仮説を立てたことに対しての明快な答え、それが、翁の口から流れ出ている。しかも明快にシンプルに、である。

 飛行機の時間が、17時でなかったら、と少し後ろ髪を引かれたが、うまい蕎麦を頂いて、ばたばたとお暇した。

暦の縛り

2007年09月18日 | Weblog
暦の話である。

昔は、日めくり。
1日をそれこそ一所懸命生きたら1日が終わり一枚捨て、それが364回続きると大晦日。そしてお正月。正月の意味は、「1を止める」、すなわち除夜の鐘を合図に、過ぎ去ったことを帳消し(改め)。
 その証として、また新しい日めくりの暦が始まる。それがいつしか月めくりになり、最近は2ケ月めくりも増えている。
 これはどういうことだろう、とふと考えてみたくなったのは、「理由(わけ)」がある。

 日めくりは、1日を考えて生きるには、都合がいい。昨日もなし。明日もなし。今日の1枚を、一所懸命生きるためには戦略は1日分で十分だ。いや戦略という概念すら不要であろう。
 
 1ケ月めくりになると、その月の初め1日の朝は、たとえば9月を一覧して、「今月のメルマガの配信は今日(1日)と15日。13-14日は博多へ出張だから、13日までには原稿を仕上げて・・・」と考える。やや戦略味を帯びる。

 つまり1ケ月を俯瞰的にみて、段取りを考える。今日、明日の仕事の優先順位を検討する。こうしたことが少し大仰だが、戦略思考だ。

 だが9月15日を過ぎると、見えるのは残り15日。その先は見えないのである。それも月末日が近づくにつれ、徐々に戦略視野が狭くなってくる。将来(さき)は存在(ある)のに、である。

 「2ケ月カレンダー」だと、どうだろうか。
 8月1日に立つと、60日分が見通せるのである。より計画的、戦略的に物事を考えることが出来る。だが日を追い、これまた9月15日を過ぎると、見えるのは残り15日(16日)だけ。やはり先の視野は狭く見えない。
 次の月10月を見ることが出来るのは、9月30日を終えてから、ということになる。
 
 手帳も様々な種類はあるが、この点では似たようなもの。
 そうした「全体を見通せないことの問題」を指摘し、それを改善するために考案されたのが、「超整理手帳」(野口悠紀雄氏創作)であることは、大方氏の著書などで周知の通りである。

 手帳の宣伝をやろうということで書いているのではない。思考は、こうした日々何気なく使っているもので、知らずして縛られているのではなかろうか。そうだとしたらとんでもないぐらい怖いことではないか、といったことが頭によぎったからであである。

 考えてみたら私たちは柱時計や置き時計には縛られることは少ないが、腕時計には様々な意味で拘束される。そのマイナス面は、日めくり暦の段ではない。とりわけデジタル表示はアナログと比べてダントツ思考視界が狭い。極端な言い方をすると、秒単位の狭く、短く、せわしい思考視界なのだ。

 そうおもって、以来、腕時計を一切使用しなくした。戦略を専門にしている私が戦略眼の思考視界を狭くする道具を使うことは、けして「やってはならないこと」だからである。

 今、ここで短期経営計画を作成するとする。手近に最低でも過去1年分、今年1年、来年の分、3年分のカレンダーが欠かせないはずだ。これが10年を単位とした、長期経営計画になると、過去の10年、今年の1年、先の10年分、合計21年分のカレンダーがなければ創れない。現実は過去のカレンダーは保存しておけばいいのだが、未来の分は、存在していないから、ほとんど頭の中での空想のカレンダーになる。

 「これは、あぶなかしい」、「ここに経営計画の落とし穴みたいなものがあるのではないか・・・」と今朝、ベットの中でそのことを思い、今パソコンに向かい思いつくままメモを打ち出しているところだ。
 そのまとまりのままの創作メモである。ご容赦願いたい。


普遍性とは、当たり前のことなり

2007年09月15日 | Weblog
不思議といえば不思議なことだが、多く人は、わかっている当たり前のことではなく、未知のことを知りたがる。今の風景より、先を夢見る。そしてそれでいて将来(さき)の利益より今の利益に目を向けたがる。

 こうした取り合わせで、ここまで文明?を進めて来たことは確かだが、当然のこととか知っていることを、やったかと問われるとなんだか心許ない返事しかできない。むしろ見過ごしてきた、やり過ごしてきた、というのが圧倒的に多いのではなかろうか。
 
 脳力開発では、当然のことを普遍性がある、そうでない方を特殊性と呼ぶ。そしてどちらが大部分で、どちらを優先すべきかを、常に自分に問いかける習慣作りを提唱している。
たとえば事業を伸はしたい経営者に、次の3点を問うてみたい。

1 作り手・売り手が得をすることの計算や計画立案と、買い手・消費者の得をすることの計算や計画立案、前者と後者のどちらが売上を上げますか。

2 人件費を含めて経費は惜しむものですか。それとも最大の成果を狙うためのものですか。

3 考えたり、計算したり、会議したりで、成果は得られますか。やればうまくいくかいかないかですが、前者と後者、あなたはどちらを優先していますか。

  こうした問に対して、ほとんどの経営者が正解する。だが現実そうしているか。また今後も、正解の方ではなく、誤解を選択四、実践する。

 素人の釣り人は、100の撒き餌を惜しみ、19に減じ、これまで以上の200匹の成果を狙い、実際は150匹の成果貳終わる。 次に、しからばと、撒き餌を10に減じて、控えめの100匹の成果を目指すが、成果は50。
 
 だが、上手い人は100撒いて80匹釣り、次に120撒いて100匹を狙う。そしてその間に100の餌で100匹を確実に釣れる方法を考える。だがその合理化は、撒き餌を惜しむ為ではない。最小費用を狙いとするのではなく、最大効果を狙いとしている。

 後者が得、当たり前のことだとはわかっても、自分の経営になると、後者を選択する。 
その判断の分岐はなにか。どこにあるのか。
魚にも人間にも、通じる普遍性は、「相手に得な条件を与えれば、相手は近づき、自分の得な条件を提示すれば相手は逃げる」である。

 この普遍性こそ、組織に浸透させなければならない肝要なことである。なぜなら経営者以外の者は、ほっておけば「企業が得な条件、自分が得なことを考えるのが仕事」。これが体質化して、消費者に背を向けさせることにひたすらするからである。
 意識的に、その体質化から、脱却させ得るのは経営者以外にない。だから、叫び続けなければならない。こう!「それはお客様にとって、得になるか。お客様が喜んで行列することか」。

 ちなみに消えていくような企業では、経営者自身が、「俺が儲かることのためには、他者の痛みなど厭わず」の特殊性を、普遍的に内蔵している例がほとんどである。
 
 彼らには、釣りをしたとき、釣り針ではなく餌に魚が集まる、この普遍性のことのことがわかっていないのである。

こども政権

2007年09月14日 | Weblog
 「いなくなっているかも知れませんよ」。

 12日、2時。薩摩川内市庁舎の五階 会議室で、街作りがテーマのセミナーで、開口一番、私は話した。
 その頃、すでに安倍さんが劇的な辞任表明をしていたことは、会開始直前まで商工観光部の皆さん方と打ち合わせなどをしていたので、まったく知らなかった。

 一方聞いている委員(商店街代表、銀行、諸団体役員)たちは、13:30頃からこの会場に入ったから臨時ニュースで知っていたに違いない。まさに私の話はオクレ。タイミングを逸していたのだが、皆が笑うのを聞いて、そのときの私はジョークが「受けた」と思った。

 「今回の街作り新三法の認可責任者安倍首相です。皆さん方は急いで認可申請を上げないと、彼(の政権)はいなくなっているいるかも知れませんよ」

直前にインドで話したこと。
年金で「私が責任を持って・・・」
「職を賭して・・・」

こうして思い返せば、この1年間の彼の言葉のあまりにも軽さに愕然とする。というより呆れはててしまう。子供じゃないか、といったら子供から叱られそうだが。
言葉の軽さだけではなく、タイミング、間(マ)の取り方もそうだ。

健康問題だからしかたがない、という声も一部で聞かれるが、国を担う者にとった健康もまた自己責任が問われることであり、そうした理由で責任転嫁はできない。

責任転嫁といえば、辞任の理由を遠回しながら、ライバルの民主党小沢さんに振っていたが、これなど「ボクの点数が悪いのは、アイツができるせいだよ」と、いう子供のしぐさを彷彿させ、むしろ彼の人格の幼なさが感じられる。

素晴らしい才能の反面には、こうした未熟さが見られると言うことは、なにも珍しいことではない。これまで多くの経営者に接してきたが、経営者においても稀有なことではない。

しかし、ことは一国の首相ということ。
そうなると本人の問題ではなく、それを選んだ政治家たちの目もなんじゃ、ということになる。となるとむろん彼に改革の夢を託し身を引いた小泉さんも、この点では臍をかむ立場から免れまい。
あらためて人を診る目というものはむつかしいものだなぁ、と実感する。

以前、教師1人の目は2つ。生徒12人の目は24。1対24で子供の目が確かということで、「2の目より24の瞳」と題し、経営者は国民の目を免れることは出来ない、といったことを、木下恵介監督の名作「二十四の瞳」になぞって、コラムに書いたことがある。
やはり、一人之政治家の目より、国民の目の方が正しかったのだ。

国民の目を信じ恐れるなら、やはり参院選の大敗北の時に、やめればよかった。
この判断のタイミングの取り方のミスで、彼は政治生命を失う羽目になること確実であることを考えれば、なんだか複雑な思いるやるせなさを覚える。.

あわれと思うと同時に、国際的信用という観点からみても、日本国、国民の失う「信」は莫大なものがある。そして国民は、構造改革などの逆行を、小泉政権以前の政治への逆戻りの幻想におびえることになる。

あえて言うなら、この政治家のなしたこの失態は、日本国民に於いて、のちのちまでマイナスの尾を引き、歴史的損失を招くのでは、とすら思えてならない。

こちらの岸から、向こう岸-2

2007年09月13日 | Weblog
 首長がテープカットした、その日がこの街の入り込みのピークといった揶揄的笑い話は、実態に近い。一時的な賑わいが元の閑散さに戻っても、借入れ返済は元に戻らないのだから笑い話ではなく悲話である。

 そもそも新装なった商店街のにぎわいの裏には、その分、客を奪われた商店街が必ず存在する。衰退した商店街があれば、その近隣に活性化を果たした商店街がある、その商店街が活性化をやれば、今度は先に活性化した商店街が沈滞する。

 なんのことはない。シーソーゲームである。しかも商店街同士シーソーゲームをやっているうちに郊外立地に超大型SCなどの新しい商業集積が突如創成され、このシーソーゲームそのものが成り立たなくなってきた。こうしたことが、今度の三法(実質2法の改訂)改正の背景にはある。

 この現状自体が,従来型の街づくりが消費される立場からの街づくりのむなしさの証である。その証を積み重ねてきたというのが戦後の商店街近代化・高度化の歴史といってよい。

 ラーメンの器をいかに豪華にしてもラーメンそのものが、うまくなければ客数は増えない。商店街もお店も然り。

 もちろん器を豪華にすれば、中身もよい方向に変わるであろうと期待と願望を込めて、そうしたハード中心の活性化は目論まれる訳であろうが、たいていはこの期待は見事に裏切られる。

 そして近代化・高度化に乗り遅れ、取り残された商店街が、いわゆる発想・視点の転換というアプローチで街づくりし、脚光を浴びている例もけして少なくないのである。(著名なところでは、大分・豊後高田の「昭和の街づくり」)。歴史は年を経るごとにその重みを増す。アンテックは年数か付加価値を創成する。周囲が近代化・高度化するほど希少価値が増す。これほど自然の摂理に即したもの0は無かろう。

 もちろん、成功例がないといっているのではない。
成功している(ようにみえる)例も少なくはない。だが、新しさを誇るものは、年月が天敵。まさに花の命は短い。また新しさは、次により新しいものが出てきたとき、その価値と魅力は急速に激減する。成功要因が次の敗因なのである。こうした自然の摂理には、人智では逆らえない。

 しかもその成功は長続きしないだけではない。一過性的成功を得たことで、1に本質をえぐり出すかけがえのない機会を逸し、あるいは商いを侮り、問題怪傑を先送りしてしまうのだ。2に、多大なエネルギー、投資により、次の街ずくりへの取り組みが制約を受けることだ。いわゆる負の財産を担う宿命にある。

 一時の栄華を得て一世を風靡、そしてたちまち衰退していったおびただしい事例を目の当たりにしていながら、次々とまたそのパターンへ入る。これを留めなければならない。次が見えなくても、この将来まで危うくする出血の戦略を破棄することだ。もうこれ以上、多大な財貨とエネルギーを投じて、小孫の代まで負の資産を担わし、むなしさの繰り返しを起こさせてはならない。

 まずは、すでに触れたが、どうして衰退したのかという本当の要因をえぐりだすことだ。さらけ出すことだ。それも「行政が何もしてくれなかった」、「郊外に流れは変わった」といった、外に因を求め手は、手は打てなくなる。そうした論議を排除することだ。
街、お店を選ぶのは消費者なのだ。断定をしていい。このことから離れた街づくり理論も論議もムダだ。

 今こそ、私たちは、事業における真の成功とは、消費者との対峙の概念ではなく、対(つい)の関係、すなわち消費者に支えられることで得られるということを、街づくりにおいても、明快に認識、活かすべきである。

 そのためには、こちら側が、消費者・生活者のいる向こう岸へ身も心も移し、消費者から学び、消費者から支えられ、協力を得ての、消費者を中心においた街づくりへ、転換を図らなければならない。
 このことを強く、提言したいのである。

こちらの岸から、向こう岸

2007年09月11日 | Weblog
2006年6月、いわゆるまちづくり三法が改正された。その要点を一言で言うと、1に郊外から中心地へ、2に、街づくりから、生活空間というニュアンスをおいた「まちづくり」へ、この2点である。

向こう岸にいる消費者、そっちのけで、こちら側で話題の重点を変えたにすぎない、それが初めて改正案を見ての私の思いである。
理由は、「早い話が郊外で買うか、中心支部で買うか、何処で生活するかなどなど、向こう岸の消費者、生活者の意志決定である。それを、こちらの岸で、ここで買って欲しい。生活はこちらの方へと鬼ごっこよろしく、と言ったところで、これまで通りむなしさが繰り返されるだけである」、と考えたからである。

現状、全国商店街の9割超が衰退しており、とりわけ中小零細商店の減少傾向は著しく、その対策は急務である。しかし対策の前に絶対必要なことがある。それは「衰退の本質的理由の究明、把握」である。

多くの場合、この理由の解明が置き去りにしたまま、いきなり対策、すなわち街づくりがなされている感がする。

それでは対策としての近代化、高度化とは何を意味するのであろうか。他の街にあって、当街にないものを補完することなのか。他の街に効果があった施策をうちの街にもということなのか。

前者は横並び、そして単に並んだにすぎない。後者は、異なる病気に同じ施術、投薬ということになる。衰退理由の異なるかもしれない病状に対して、これは無茶である。
 場合によっては病状はさらに悪化することだって考えられる。事実、高度化、近代化の後、時間をおかず破綻した事例すらあるのである。(まちづくり佐賀エスプラッツの破綻)

同じ施策が、異なる当街に処方されて効果が期待できるものであろうか。そういった素朴な問いを自らに問いかけることもないまま、支える民意(住民、消費者)からみたら街が他動的に作り替えられている。生活者からかけ離れた次元で、生活者への提言やものづくりが行われ、それを商業者はそのまま横に、あるいは上から下に流すだけで、付加価値と称する口銭を得ている。
 こうしたことに自ら疑義と反省をもつ商人が、いったいどれだけいるだろうか。

従来、活性化事業に取り組み、それなりに成果を上げたと評価されている既存の商店街の繁栄は、同一地域、たとえば隣の商店街との差別化による一時の勝利であるといってよい。

「〇〇事業に取り組んだ結果、わが街はこうして活性化に成功した」といった商店街をよく見てみると、事業本来の目的である購買力の流出防止や商圏の拡大に成功したというより、たとえば「アーケードもなく、駐車場もなく、シール事業もやっていない、なにより今まで街づくりだの店舗改装だのに関心のない遅れの近隣商店街との差別化が計られた」というに過ぎない、といったケースがほとんどである。 (続く)