経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

何かが間違っている

2010年12月31日 | Weblog
社員や店員に売上のノルマを課すると
来店するお客は、彼らから見たら獲物。
お客から見たら、彼らは危険野獣。

お客は背を向け逃げればいい。近寄らなければいい。
野獣、珍しさに近づくのも、
君子危うきに近寄らずもいい。
その選択は、あくまでお客だ。
しかし、迎える方の売り手は、獲物が得られないと
たちまち食い上げになる。

困るのは売り手側である。


合理化という名の下に、人を減らし、
不必要な言動を減じると、店舗はお金と物の交換場になる。

人が物を言えばコストがかかる。
一歩動けばこれもコスト。
挨拶をすればこれもコスト。

こうして挨拶する自販機。
自動で開閉し、店員に変わりご挨拶する自動ドア。

良い子がいなくても遊ばないように、
優しく注意するエスカレーター。

販売員に代わって、商品説明してくれるビデオ、DVD.

最近先進遅視察に行くと、
会議室に案内され、そこで自社宣伝のビデオを鑑賞させ、
その間、その企業の人は消える、といったところが珍しくない。

それならビデオを有料でいいから、
貸してしてくれたらと、言いたくなる。


あるシンポジュームで、
自分の発言の代わりに、その都度、
パワーポイントで作成したDVDの然るべき動画で、
会場の人に見せるといったパネリスト(経営者)がいて、
会場の人たちを唖然とさせていた。



何かが間違っている。

その間違いは、道徳的、倫理的といったこともあろうが、
そんなことは問題にならないぐらい大きな者を失っている、
といった意味での「間違い」なのだ。

つまり、得るべき利を得られないに加えて、
長期間、大きな損失を引き起こしている。
そのことに気が付いていない。

それは、この今見え、計算できるコストを惜しむことにより、
この今、見えず、計算できない、
そして将来(さき)に大きな利になるものを
失っていることに他ならない。

情報に耳を

2010年12月29日 | Weblog
営業の本質は、すこし乱暴な言い方をするならば、
ほっておいても売れる状態を構築することにある。
それを理想として営業を考える。

そうすると、そもそも営業努力をして売るのは、
何か問題があるからだ、ということがわかる。

売れない、という現象を情報として解する。
このことが極めて大切なことだ。

大切だ、と強調したのは、ほとんどががんばり不足、
それいけどんどん、気合いを入れて、ノルマ必達となるからだ。

そもそもノルマを課することは、
普通の営業努力を持ってしてもこちら都合の目標には達し得ない、
ということを認めていることになる。
無理な売上というというシグナルでもある。

そのシグナルを無視すると、
必然的に強引、無茶、無謀な営業となる。
そのことで、それはその時の成否如何を問わず、
以降消費者が背を向ける要因を積み重ねることになる。
嵩じるとアウトローに入り込み、企業にとって命取りになる。

個人犯罪だけではなく、組織ぐるみのケースでも、
ほとんどこうした情報無視に始まるといってよい。

1つの情報無視、信号無視が、以降組織を挙げて、
このように企業を消費者が反感を持つためのシクミができあがり、
ますます購買して貰えない方向に向かって、
さらに一致団結、努力し、ノルマ達成に精を出すことになる。

繰り返すが、そのプロセス、サイクルでなすことやることが、
クライアントの喜びや感激、感謝にならないどころか、
不快感や苦痛感、嫌悪感をもたれることになる。
それは不評のクチコミとして世間に広がって、
世間の多くの消費者が、その企業、そのお店、その商品に
背を向ける、購買しない、という決断を下すための、
貴重な情報になっているのだ。


売上げ不振は、まずはその営業のあり方に、シクミとして、
あるいはそのシクミのどこかに、「改善すべきことあり」、
というこうした警告のシグナルなのである。

こうした消費からの善意溢れる情報提供を読み取れない、
あるいは無視して突っ走るアウトローの確信犯的、
経営者を見逃し、のさばらせるほど消費者は甘くないのである。

営業の本質

2010年12月27日 | Weblog
営業の本質は、「売れない」ということにある。
売れれば営業など、不必要だからだ。

営業の主要業務は、人が困っていること、やりたくないこと、
いやがること、といったこと。こうしたことをなすことにある。

人は自分が一番可愛いから、楽をしたいから、
そうしたことを提供してくれたら喜ぶし、
それを自分に代わってやってくれる人を、求める。
人の喜ぶことをなすということで、営業の存在が認められる。


良きお百姓さんは良き作物を育てるには、
土を育てることが一番大切だという。

でも大抵は土をいじって壊しているだそうだ。

営業も、然りだ。

もっと、「売れる土壌作り」に関心を持ち、
それを実践しなければならないのである。

今のように日々の営業成績を上げるやり方を続けていると、
売り先は、へきへきし背を向ける。
売れる土壌が疲弊してしまうことになる。

ますます土壌を、次第にだめにして、
やがて土が死んでしまうように。


体質を直さなければならないのに、
あれやこれや肥料や農薬に頼る。

販売不振の体質転換しなければならないのに、
流行するいわゆる〇〇法を次々追いかけ、
やる気だけで動き回り、その努力がお客から嫌われる因になる。

こんな無駄で、むなしいことがありますか。


ノズルに水を入れたら水が出る。
ミルクを入れたらミルクがでる。

同様に売上は目標ではなく、単に「出てくるもの」、
すなわち「結果」。

重要なことは、結果ではなく結果を確実に生み出すこと。
そのために何を成すか。何を入れるか、である。

それを一言で言えば、「お客の感謝」。
お客様がら「ありがとう」といって戴けることを
積み重ねるることで「結果」が大きくなる。
当然である。

こと、こと、こと

2010年12月25日 | Weblog
寒い朝である。
寒さ、と体感し、それを「朝」につけて、
寒い朝と感じたのはこの私。実感だからである。

エスキモー人なら、「暖かい」と感じ、
エスキモー語で、「暖かい朝だ」というだろう。
彼の実感だからだ。



お互いの言葉がわからないとして、
私が、寒いと叫んでも日本語はわからないエスキモー人は、
ポカンとするだけだろう。

エスキモー人が、暖かいと叫んでも、私は何のことかわからない。

同じ朝が、一人は「寒い」、一人は「暖かい」。
この二人が、体感を言葉に発しても、わからない。


お互いの言葉がわかるとして
私が寒いと体感し、「暑い」と言ったとしたらどうだろう。
汗をかいた彼がシャツを脱ぎ寒いと言ったらどうだろう。

私が寒いと体感し、震え出すとどうだろう。
汗をかいた彼が、シャツを脱ぎ始めたらどうだろう。


この話から、いくつかのことがわかる。
1-寒い、暖かいということは区々人に取っての評価であること。
2-それらを情報とするには、両者の評価が一致、
共有していることが前提。 
3-言葉ではどうでも言える。
4-体感は、言葉以外が、真意を伝える。


以前書いたが、情報はコト。
情報にコトとフリナガをつけて、
情報イコール「コト」と考えるのである。

そうすれば、頭に「嬉しい」と付ければ「嬉しいコト」。
「悲しい」を付ければ「悲しいコト」になる。

つまり「コト」そのものが変わるのでなく、
付する形容詞によって変化するということである。

しかし、そのコトを他の人がどう受け取るかは、
まったく別のこと、という理解を絶対に忘れてはならない。

念押しするのは、そのことを忘れるから、

誤解、売れない、不信感、などなど
諸々も問題が発生している、と考えるからである。

これでいい。これでいい。

2010年12月23日 | Weblog
バカは長生きするという。
だから与太郎は、長生きする。

天才の代表アマデウス・モーツァルトが、
1年で5を成すとする。

35才でこの世を去っているから、35×5=175

私が与太郎を目指し、1つずつ。
これを96歳までで積み重ねるとする。

1×96=96

やはり天才には追いつかない。

でも他の人知らず、私は迷いなく後者を選択する。
理由は、次のようなこと。

1に、積み重ねるということは、厚みを増すことだ。悪くない。
2に、積み重ねたいという自我の欲求を果たすためには
1日でも健康で長生きせざるをえない。これも悪くない。
3に、天才は名声と言っても生きている年数が、
短いがためほとんど死後だ。

ゴッホがその典型だが、映画「アマデウス」を見る限り、
モーツアルトも似たようなもの。

仮に私が死後何とか賞という世界的な名誉を頂いたとしても、
肝腎な私は知らないのだ。喜べないのだ。

死んだ人間にメールや電話で知らせることができる、
といった世の中になれば、別だが。
買った宝くじが特等に当たったことを知らない。使わない。
これとおなじこと。なんと悔しいではないか、思うのだが
これも生きているからこそのこと。

まあ、こうしたように、あれこれ理屈やこじつけをしながら、
私が決めたことは「積み重ね」と「長生き」、
それに「人の褌活用で」の3つ。

繰り返すが、「積み重ね」と「長生き」ということになると、
80歳で引退というわけにはいかないのである。

90歳でも足りない。それで95歳にしようと決めたが、
あれこれしているあいだに1年経たから、
今年の5月、誕生日に改めて96歳に伸ばした。

なあに先は長いのだ。96で難しければ100歳に伸ばせばいい
150歳,200歳、望むところだ。
なにせ今日日、坂本竜馬と同じ年の人がいるのだから。


「人の褌で」ということになると、
「どうした生き方をしなければならないか」といった
生き方の基本姿勢が必然的に決まるのである。

おおざっぱな流れを言えば、「人が喜ぶこと」を成す。
そうしたことであれこれやる。

あれこれやるから当たり外れがある。
試行錯誤している内、当たる確率は増える。
だから、加速する。ハズレが多くて足りないときは、
また余命を1年延ばせばいいのだ。

これだ。自分の人生だから、
自分で自分の生き方をすればいいのだ。

これでいい。これでいい。

アイアム タロウ ウラシマ

2010年12月21日 | Weblog

「売れて儲かるしくみ」、
この仮説の実践で、5-6年も経てば蔵が建つ。
メデタシ、メデタシ。
と、まじめに考えたのである。


こうした考えが、当時の私なりの確信にシナリオであり、
相当の確信を持って、そうした生き方に踏み切ったのである。

以来、15年。まだ蔵は建っていない。
7-8年は順調だったが、これはこれまでのやり方の余韻。
その後、考えられないようなことだが、
これまで書いたクチコミが、青森まで飛んで、
6年間私の仕事場の中心は青森県に。


鹿児島県薩摩川内市の片田舎、
全世帯26、人口57人の田舎に住む、
この私が、東京を飛び越えて、片道6時間、
交通費10万もかけて、青森で仕事へ。
多い年は年間200泊ぐらい。
これが6年も続いた。

「考えられない!」
「やはり、自分の仮説は正しかった」。


しかし、青森での仕事が一区切り終えたその後、
私は愕然とすることになる。
これはプロとして致命的なミス、恥ずかしいことである。

6年間、ほとんど青森で仕事。ということは、
それ以外の地での仕事をしていないことになる。

縁が切れてしまっている。

1社取引は危険、と言っている私が、
青森とのいわば1県取引をやっていたことになる。

子供の頃から知っている浦島太郎の白髪になったときの思いを
この私が、いやというほど味合うことになろうとは。

「縁が切れてしまっている!」

以前から親しくしていた鹿児島県の関係部署、商工会議所、
商工会、中小企業団体中央会といった関係先の人たちは、
ほとんど現役を退いていた。
後任の職員には、それぞれ、人の縁ができている。


それより、なによりも、様々な体制が変わっていた。
まさに、私は浦島太郎。

世界中の褌を

2010年12月17日 | Weblog
人類は、人類だけでは生きていけない。
人は、一人では生きていけない。
自分は、自分だけでは生きていけない。
自社は、自社だけでは生きていけない。

これを裏返し、さらに積極性を加味すると、
そうしたことをもっと考え、活かしたらどうか、
といったこと。こうした話になろう。

そのためには、どう考えたらいいか。
具体的にどうするのか、

自分自身の生き方、生業を通じて、考え続けてきた。

自分たちだけということは、我が家の場合、
夫婦2人(W)ということである。

とすると、世界人口総数68億(2006年7月推定)だから、
68億-2人が自分たち以外の存在、協力者、購買者の存在があり
その存在により、生きられる。生かして貰っている、ということだ。


だったら、数の論理から言っても、自分以外の数を、
コスト論理からみても、彼らの褌を活用しない手はない。
いや、むしろ積極的に、それも戦略的に活用するべきだ、
と、まあこうしたことを、述べてきた。

そうしたことを、露骨な表現で著せば、
1-クチコミ効果で、知名度や売上はもっと上がるではないか
2-費用低減の法則で限りなく費用ゼロに持っていけるではないか
ということになり、身内で頑張るより、自社で頑張るより、

人は今よりうんと楽をしておだやかに生きられるのではないか。
戦い抜くぞ、敵をたたきつぶせ、死を賭して目標達成、
といったぶっそうなことを言わなくても、
企業は、大勢から、信頼され、押し上げられ
伸びていけるのではないか。

日本という狭い視野で見れば、人口減少。狭い国土。
しかし視点を持ち上げてみれば、世界人口、68億、
おびただしい数。それも増え続けている。

どんどん活かす、活用する。
世界中の様々な褌を借り受ければいいのだ。

そのための大基本戦略が、「仲良くすること」。

経営を日常に

2010年12月15日 | Weblog
「消費者中心主義」とともに、
これもかねがねからの思い。「経営を日常性で考えること」。

私の気持ちをぶっつけていうと、難しく専門的、
次々横文字用語が流行語のように氾濫、
それを経営者が必死に追っかけをやる、といった風潮に、
強い疑問、不信感を覚えていた。

これは「日常の経営から遊離している」。
だから「経営を日常に取り戻そう」、と。

日常の中の生活をしているとき、
投資対コスト、費やした時間に対していくらの見返りが
あった、なかった、といったことを強く意識することはない。
健康な子供が健康のことや老後のことを、
強く意識することはないことと同じである。

それにもう一つ。
消費の中心は、日常生活にある。
その日常生活の中の消費者が生活するものの
生産、販売を担っているのが、製造、販売する企業である。

それらのいわば経営社会が、こんなにも日常社会から
離れたものであっていいものか。

否、良い悪いではなく、その乖離こそ、
「作ったもの、仕入れた物が売れない」理由ではないか。

経営を日常生活に取り戻そう。
経営を日常生活の方から、見てみよう。
そう考えたのである。


そうしたことで、以来、徐々に、いつの間にか、
私から生産性対コストといった意味での、
仕事の効率、時間概念、採算性という概念が失せてきた。

1つの仕事を、1時間で仕上げる、1週間掛けよう、
といった計画性はまったくうせ、誤解される表現だが、
気が向けば、いくらでも続けたい思いに駆られ、
事実そうしたことがしばしばある。

しかし現実には相手先から締め切りを指定されるから、
それが限度になるのだが。

自分はおもしろくあれば、夢中で、相手企業、経営者の
先にいる消費者なりの喜ぶ姿、顔が、
私の頭を占めてしまうのである。

消費者中心主義の舞台下

2010年12月13日 | Weblog
ボランタリー的精神の芽生えではない。
年齢を重ねて人間が変わり角が取れたためでもない。

これは劇画風に言うならば、
私なりの野望と戦略、そしてしたたかな計算である。
そして、取らぬ狸の皮算用でもあった。

自分でやれないこと、やらないこと、
他人の受け売りならオウムかレコーダー、ビデオの方が、
再生能力は、私たち人間を上回るからこれは人の仕事ではない、
といった人間としての自負、気負いもあった。

それに他人の考えを自分の口を通して、
自分の考えであるかのように自信を持って、
人に説く度胸は私にはない。

ということで自分の仕事先の企業現場で、
検証を積み重ねてきた。

そうこうしているなか、ある朝、
中小企業診断士資格試験受験者の模擬試験の採点中、
設問の中に、「ジョハリの窓」のことがでていた。
自分の受験時代の記憶が懐かしくなり、確認の意味で、
ふと検索して調べ直してみた。

これは自分から見た自分、そして自分以外の人たちから見た自分
この2つをそれぞれ「気付いている」「気付いていない」
という2つの面からみることで、計4つの窓から、
みることで自分をより客観的にみることができるとするもの。

ここでの「自分」を自社、自分以外の人たちを、
「消費者」に置き換えてみて、いろいろ考えてみた。
だんだん、はっきりしてきた。

だが、このジョンハリの窓ですら、自分を中心に置いている。
自分の心をのぞくための4つの窓だから当然のことなのだが
だから、そうした自分を、企業に置き換えても、
自企業を中心に置いて、他の3つの窓を見てしまう。

これではだめだ。
これでは、これまでの、(自社のための)お客様第一主義、
(売るため、売れるための)顧客優先主義と同じだ。
これではダメだ。

ということで、それから考えに考え、
これまでの地動説的経営を捨て自動説に依る経営
すなわち、消費者(G)を中心にその周囲をぐるぐるまわる
企業群、といったイメージで、経営を再構築してみたら、
という新たな仮説に取り組み始め、

そして、この考えを「消費者中心主義」と呼ぶことにした。

脱、俺、俺

2010年12月11日 | Weblog


1の投資で99の成果を得る.

これはすごい成果だが、
現実株式投資の世界では、珍しくはなく起きている

人が人を呼ぶクチコミ。人が人を遠ざける悪い噂も、そうである。

落語「ざこ八」で、つぶれかかった雑穀商「ざこ八」が、
庶民には秤を甘くしたことが、江戸中に広まり大繁盛店になったのも、
新オープンした小料理屋「ふねや」にお化けが出た、という噂が、
江戸一番の飛脚が触れ回るより早い、スピードで広まったという
「あかんべえ」(宮部みゆき著 PHP研究所版)の話など、
別に落語や小説だけの話ではなく、現実日常茶飯事、
見受けられることである。


1つの「こと」に対して、人がどう考え、決断するか、
経済行為を例に採れば、投資するかしないかの意思決定は、
言わずもがな。自明の理、人はより大きいリターンが、
確実に見込まれる、といった判断基準で決められる。
それはみんながそうであるから、これは普遍性を帯びる。

露骨に言えば、人は自分が儲かる話に飛びつき
損する話に背を向けるのである。

多数決の論理も、この露骨な論理で決まる。
これを「売上」に置き換えたら、
売上の多寡は、他者の購買の多嘉。
その購買の多嘉は、他者各人が、儲か話に飛びつき
損する話に背を向けた結果なのだ。

くどくど繰り返しているのには、理由がある。

例によって、
なのに、現実はどうか。
なのに、多くの企業ではどうしているか。

上で見たように、
間違いなく他者の判断、意思決定、行動に関わることなのに、
自分、自社のことだらけ、これは如何!
と、切り返したいがためである。

そこで、再度その切り替えしの矛先を、
「私自身」に絞り、まな板にのせて、話を続ける。


昭和57年12月、脱サラ以来、
それこそ家庭を忘れ、ときには寝食を減じ、
かつ仕事の粗製濫造を厭わずがんばってきた私が、
そのあり方に疑義を感じ始めた。

○経営計画書など、自社の欲望・願望だらけじゃないか。
○主体であるべき他者を無視したものではないか。

これは、経済の原則に反する。
ならば、これを逆に大いに活かしてみたらどうだろうか。

○事業経営における経費は、まったくゼロは無理にしても、
限りなくゼロにちかくなるのではないか。
大、中小企業ならともかく零細・個人企業ならできるのでは。


こうした仮説を検証、証明する生き方に転じた。
このことは、先に述べた。
仏心からボランタリー的精神が芽生えのではない。
年齢を重ねて人間が変わったためでもない。

脱俺、俺だ。