経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

リーダーの真贋

2010年09月28日 | Weblog
組織では、当然組織の一体性、統一性を求められる。
逆に言えば組織の意向に逆らってはならない、
という暗黙の不文律、それらはしばしば「組織の掟」と
やや揶揄気味に呼ばれているものだが。

いずれにしても、
大なり小なり、良かれ悪しかれ、私たちはそれらとの関係、
かかわりから逃れることは難しいことになる。

日本人なら日本という国、社会ら
鹿児島県人なら,鹿児島県、住んでいる地域、社会
所属している団体、それが趣味の会であろうと、
家族、夫婦、友人といったものであろうと・・・。

すべからくものごとには二面性がある。
それらは、様々、いろんな表現ができようが、
たとえば
「縛られる側面と力になる側面」
「組織の弊害と組織の効用」
「組織内と組織外」
「組織の功罪」・・・
といったように対比的な者以外にも。

それは先に触れた組織を動かす人間の持つ二面性である。
この二面性を意識して組織を考えることが極めて重要と思う。

たとえば、
野球チームでは、そのティームが一丸となって戦いに勝ったとする。
組織力の成果であることは誰しも疑わない。 

では戦争、組織ぐるみの犯罪、といったいわば組織の暴走はどうか。
それが一体化したときに皮肉なことだが、そのことが始まる。

この両者の違いを「野球」と[戦争]の違い、と片付けてならない。

組織内の善は、結束は組織の外にとっての悪。
組織の一致団結は、組織の外の者にとっての驚異になる。
そうしたことでは、野球であろうと戦争であろうと、
本質的には変わらないからである。

組織(内))の論理が組織外にどう影響を及ぼすか。
どう受け取られているか、といった両面からみて、
内の組織活動のあり方を決めることができる、
といった「真のリーダー」が求められる所以である。


理念は、組織外の人の幸せも内包されなくてならない。
そして、組織内部の人たちの胸を躍らせ,血を沸かせるとともに、
組織外の人々のにも受け入れられること。
それに満足せず,彼らの自発的な協力、支援をなさしめる、
というレベルが望まれることになる。


戦略は、組織の行動に方向性と勢いを付けるものである。
その戦略が組織外の人々に刃の矛先を向けることであってはならない。
組織外の人々のに受け入れられ、協力、支援を、
彼ら自らの意思でなすということを内包したものでなくてはならない。


戦術は、戦略の範疇内で、部下にすべてを委ねるべきものである。
その夥しい戦術の1つとして、組織外の人を傷つけたり、不快にさせたり、
といったことが一切排除されていなくてはならない。


畢竟、真のリーダーは大衆を、背に付け,味方とし、
組織の内外の諫言にも聞き耳を立て、甘言を避ける。

悪しきリーダーは,
組織内と自分の目的具現のため,組織外を仮想敵に見立てて
特定の権力者と談合、そして甘言を好み,諫言を嫌う。





情報の怖さ

2010年09月24日 | Weblog
100対100、10000対10000、100000000対100000000

皆、 ヒフティ対ヒフティである。


2対1。

それを「50%の人が賛成」とすれば、地球上の人間の半分が賛成
となるではないか。

賛成側から見れば、2人の内1人が賛成すれば、
「50%,半分もの人がが賛成しているぞ」
反対者から見れば、2人の内1人が反対すれば、
「50%,半分もの人が賛成しているぞ」


賛成側から見れば、1万人の内5千人が賛成すれば、
「50%,半分もの人がが賛成しているぞ」
反対者から見れば、1万人の内5千人が反対すれば、
「50%,半分もの人がが賛成しているぞ」


これを賛成者側も反対者側も,エクセルで、
棒グラフ、円グラフで、自分お立場の方に目立つ色を付けて、
パワーポイントに貼り付けて,プレゼンテーション。


あの名ドラマ「北の国から」、、たしか"98だった、
父の死後、バブルを追い風に、
牧場の規模拡大に勤しむ北村草太のやり方に対して、
黒板五郎が、「2分の1も、200分の100も同じことじゃねえか」

と、痛烈に批判するシーンがあるが、まさにそのことである。


極端な例を取ったが、こうしたところに
情報のもつ怖さ(それは情報自体ではなく、
情報を使う人の問題だが)が、存在している。
このことを,常に念頭に置いておくことが肝要と考える。

こうしたことは一人であろうと組織であろうと,
また極端な場合は犯罪の形として、見られるのはけして珍しくない。
こうしたことが1人での仕事の怖さ、危なさにはある。

意識しようがしまいが一人の場合、そこ恣意性が理由ではなく、
情報の少なさ、偏り等による判断ミス、あるいはその人の持つ個性等
により、いわゆる独りよがりが原因というのが通常である。

しかもまた、その一人あるいは数人で、恣意性をもって、
組織(社会も含む)に介入する、といった事例は少なくはない。

その典型的な例が、「みんなが言っている」の類である。
米沢藩の上杉鷹山、信州・松代藩の家老 恩田杢のエピソード
にあるように・・・・・

情報の話

2010年09月21日 | Weblog
まずは、情報と偏りの話から。

情報など本や資料などでも得られるじゃないか、
ましてや今、インターネットで、と思われる人がいたら、
それは、人のもつ可能性、情報の定義、キャパシティを
知らない人だと私は断定的にいいたいのだ。


様々な測り方があるが、それをキャパシティ
といった一面から見てみる。

本といった、小さな枠。事務所という小さな箱の中に、
どんなに詰め込んだとしても、その情報量は、散歩、人に会う、
といったことから得られる情報量と比較にならないぐらい少ない。
ちなみに、量が質を決めるから,
情報から得られる成果の質を左右するから,情報量の多寡は
存亡、死活を左右するといっても過言になはならない。


一人での行動は、自分の思うとおり動き回れる、
といって側面はあるが、個々人の行動範囲は知れている。
また一人一人が異なる、ことから、同じものを見ても体感が異なる。
それを持ち寄利、共有することによって、
「触発される」ものもまた夥しいものになろう。
これが組織力というものだ。

それだけに個人と比べて、
組織による情報キャパシティは莫大なものになる。

それに情報は採取した量が少ないと当然のことだが、
そこから派生される成果物に歪み、ひずみ、偏り、不透明さがでてくる。


その典型的な事例が、アンケートでよく見られる。
ここにある報告書の現物がある。
そのコメントに「50%の人が賛成」、とある。
それを帯びグラフ化している。サンプル総数をみたら、なんと6個。

3対3のコメントが「50%の人が賛成」。これはもう陰謀である。

100対100、10000対10000、100000000対100000000
皆、 ヒフティ対ヒフティである。

それを「50%の人が賛成」とすれば、地球上の人間の半分が賛成
となるではないか。

「私を当選させて下さい」
「皆さんの幸せな社会に,私を」

こうして人は、情報でだまされる。

井戸端会議とツイッター

2010年09月19日 | Weblog


なんどか、ここのブログにも書きましたが、
売れるか売れないかの死活を握るのは「クチコミ」。

これが本質、主流。これ間違いありません。
これからますますそうだと、私は確信しています。


昔からクチコミが主であったことは、あの赤穂浪士の話や,
落語の「ざこ八」などで、これも以前ご紹介しています。

そのクチコミの拠点が、洗濯機がない時代は井戸端、川の洗い場。
女性たちが集まる場所がその中心の場。今も昔も替らないこと。

そのクチコミの場と道具が,
最近はデジタル。
BBS,メール、ブログ、ツイッターと次々姦しく変わつている。
そして、これからも次々新しいものが生まれることは違いありません。

道具は、徒歩から,籠、人力車、自動車、新幹線に替りましたが,
昔から鹿児島から東京へ行く人たちは,今も昔も後を絶ちません。

デジタルになればなるほど、主流になればなるほど、
以前ここでご紹介した新潟・十日町市の高橋クリーニングの高橋新治さんが、
ながく、ながく続けている情報誌[リン]みたいなアナログが注目される。
なぜか。

脇役が増えれば増えるほど主役が引き立つ。
黒板には白いチョーク。
ホワイトボードになれば黒いマーカーが目立つ。
当たり前のことです。


流行が早いものは、とてつもなく広がりが早いですが,
次に取って替わられるのも、とてつもなく早い。
山高ければ谷深し。これも自明の理。

流行を追うより,アナログ、今のありかたを極めることです。
このことは新しいものを否定しろ、受け付けるな、
といいたいのではけしてありません。

 たとえば、ツイッターを追うことではなく,
 1に、その良さ、考え方をアナログ、今のありかたに,応用すること。
 2に、ツイッターの次を考え、それをアナログに進化させること。

こうしたことを考えてみること。

戦術の前に,戦略。戦略の前に理念、思想です。
ところがどこでもだれしも方法だけにこだわっている。
これはまず、うまくいきません。失敗する。

戦略、理念、思想、こうしたことが,デジタル進化の過程で
だんだん希薄になっている。


どうかこのことを深く,真剣にお考えになりますように。



そうなんだ!

2010年09月17日 | Weblog

脳を刺激し脳に刻印されるような充実感があるかどうかが
時間が長いか短いかの実感を決めているのではなかろうか。

そこで意義あること、欲を言えば良いことをいっぱい脳に放り込む。
これを無意識になるまで,強く意識して行うことだ、と考えた。


ここで「意識して」とは、対応は、受動的な意味と、
自ら「する」という 2つの側面がある。

たとえていえば、風には2種類ある、ということ。
どこからか吹いてくる他者の風。
もうひとつは、自ら起こす風。

これまでの前者に身を浸し、それをなんとなくうまく捌く、
といった対応に加えて、後者、自ら強く意識して風を起こしてる。

そうすれば,その風にふれた、人の反応がわかり、
それを学習効果とし、次のやることの確率、精度を高めていく。

そんな繰り返しで得た体験を活かし、さらにら新しい風を起こす。

まあ、あれこれ浮かぶイメージを「形化していく。

そこで、これまで幾度となく繰り返していること。
その放り込む良いこと、喜びの材料、ネタは自分にはない。
としたら,方法は一つしかない。

新しく開業するお店は,手持ち商品在庫はゼロ。
としたら,方法は一つしかない。

外から仕入れる。仕入れ先は他人だから,
他人が1つもっているとして、世界人口ー1の仕入れ先がある。

その世界人口は米国勢調査局と国連データからの推計で
68億8052万8679人10.7.1(2010年.7月.17日9時57分現在)

それも1分に152人、1日で22万人、1年でなんと
8千万人も増えているの計算になる。

一人から一つ喜びを仕入れるとしたも、これはもう無限近く、
意義あること、喜びのネタが存在ぢ続けることになる。


さらにである。
仕入れた材料で野菜炒めを作って,胃袋に入れたとして
胃では、この異なるものは長野の嬬恋のキャベツ、
この異なるもの愛媛の小豆島のタマネギ、肉は鹿児島・大隅の黒牛、
と分別しているわけではない。
おいしい料理として一括消化されて自分の血肉となっている。

喜びも然り、と思うのだ。

わかったぞ。そうなんだ。わかったぞ。

最近、自分に充実感がないこと、喜びの材料がないことは、
人との関わりに関する動き、行動がデスクワークの多忙さ故に、
極端に減少しているためだ、と自分の現状の因が掴めた。

因が掴めれば、対策は簡単である。

デスクワークを縮めて人との関わりを増やす。
そして意義と喜びを仕入れるワーク。これである。

久々の大快晴。まずは外へ出てみたい。


時間の長短

2010年09月13日 | Weblog
いつ頃からだろうか。

とくに年度末近くにならなくても、年中、周囲からも
「1年が年々短くなっている感じがする」
といった声が聞こえるようになった。

それは私自身の実感でもある。
事実そう感じているのである。
1年ということより、1日が短く感じられる。


朝におきて、やることをTO-DOリストに記して・・、
といったことは以前は時折やっていたが、
もうとっくにやめている。

その1つか2つ消し込んだ頃には、もう夜といった感じが
なんだか自分が消し込み人生を送っているようで、
怖いというか、おもしろくない。
そうした思いはなんとかく、いやでなんとなく落ち着かない。


とにかく1日が短い。
それでいて、たとえば1時間、1分は長い。
矛盾するが、実感としてはそんな感じである。

私が生来、鈍いせいか、怠慢なせいか、と思った。
むろん、それもあるかも知れないが、
振り替えるに、パソコンのない時代はそんなことなかった。
その頃は若かったから、パソコンではなく年のせいかも知れない。


明治維新の時代、例えば、薩摩~江戸は片道だけで60日かかった。
そうした時間空間の中で志士たちはあれだけのことをなしている。
短時間に意義あることを為している。

それに対して、スイッチポンでパソコンが稼働し、
あっという間に北海道へメールができるこの時代に、
自分は何をしているのだろう、とかなり深刻に考え込んでしまう。



ブレと経済影響

2010年09月07日 | Weblog
今、国民は、あらゆる"もの"や"こと"に対して、
「不信感」を募らせ、蓄積している。

たとえば、「ぶれる」。
言うこと、為すことがコロコロ変わる、
これほど不信感を招く、ということ象徴する言葉はあるまい。

誓い、約束、遵守、信頼、友情、結婚、守る、実行、契約、約定、
規則、ルール、安全、車、待ち合わせ、殺されない、食事・・・

もうこの世のほとんどのことが、「信頼」を前提で成り立っているから、
それがぶれると人は、不安、恐怖に陥ってしまうのは当然である。

だから。
いつも申し上げていることだが、不信は不審、そして不振を招く。
国民、イコール生活者であるから、このことが
消費不振に直接的、間接的に影響を及ぼすのは当然である。

とりわけ人命に直接関わる商品やサービスについては、
消費者はきわめて過敏である。

たとえば、かねがねから政治や政治家に、
不信感をいだいいているところへ、
「今回は大丈夫。マニフェスト、守る。有言実行、」
などと、いくら「大丈夫」と太鼓判や大声を出しても。
なんで太鼓判か、なんでそんなに大声で力を入れるのか?
と、逆に不信を募らせるのが落ちだ。言い訳も然りだ。

言葉は、言葉の中身より、それを発する人のかねがねが
裏打されていてこそ、生きてくるのである。
だから、かねがね政治、政治家、その政党、その人物に、
強い不信感を持っていたとしたら、言葉は不信を拡げることになる。


経済取引は、需要=供給である。
この等式が成り立つのも信頼関係である。
信頼関係が、それすなわち売り手と消費者の取引関係といえる。
お互い相手がごまかすだろうと思えば、この取り得引きは成立しない。

その取引関係は、両者の人間関係的要素が主流である。
つまり、企業の人的要素、とりわけ経営者に対する人間的側面、
換言すれば経営者が信頼できる人であるかどうかが、
企業の死活を左右するといっても過言ではない。

かねがね、普段、日常性に疎遠な政治家
かねがね、普段、日常性に疎遠な企業人

彼らが、ハレの舞台で吐く言葉には
かねがね、普段、日常性の裏打ちがない。

そのこと、かねがねからの遊離、あるいは軽視、
こうしたことが不信の土壌として存在している、と考えている。

風の盆と町

2010年09月04日 | Weblog
昨日で、あの「風の盆」は終わった。
残園なことだが、今年もまたいけなかった。鹿児島から、八尾は遠い。
以下、10余年前、雑誌「商業界のコラムに掲載した原稿を再掲。
                 
 
今年も、越中富山、八尾の「おわら風の盆」の季節になった。
人口二万人の町に、今年も九月一日からの三日間で.
二十六万人を越す人々が全国からあっまっきた。

この祭りの凄みは、この町で生活をしている住民たちが、
観光客のためではなく、ただひたすら自分たちが楽しむために
歌い、踊るところにある。

徹底したアマチュアリズムを貫らぬき、
観光客への迎合はやらない、という戒めが、
きちんと守られているのである。


町に足を踏み入れた人々がまず驚くことは、
どこの祭りにも見られる喧騒さがないことである。
人々のざわめきすら薄闇にすいこまれてしまうのであろうか、
寂しく哀しい夜祭りである。

男は黒はっぴ、黒股引き、黒足袋姿で、直線的かつ躍動的な踊り。
女は揃いの浴衣に自足袋。そして編み笠を被るその陰影と、
白いあごを結ぶ紅紐の鮮やかさが醸しだすほんのりとした美しさ:。

しなやかな指先や腕の流れとともに膝から下、腰から背中にかけての
うねりが,闇夜に踊りの表情を映す。

八尾町には十一町があり,その数だけのおわら支部がある。
年配の地方衆(三味線、胡弓、太鼓)と唄い手と若い踊り子たちが同じ空間で,
三百年の歴史ある芸能を練り上げる。

見逃してならないのは、町を構成している店(たな)である。
この町には、よその町ではほとんど見られなくなった
和紙屋がある。
胡弓屋がある。
三味線屋がある。
指物屋がある。
染物屋がある。
それも祭りのときだけでの出店ではなく,昔からある老舗なのである。

その佇みは、他の店もそうであるが、「風の盆」と
町の人々の生活を支えている伝統と自信がそうさせるのか、
呼び込みも売り込みも媚もしないし、またお祭りだからといって
値段を吊り上げるようなこともいっさいない。

今は忘れ去られている商いの原点と商人の有り様が,この町にはある。
  


不安定と危うさ

2010年09月03日 | Weblog


政治が不安定である。

経済が不安定である。

企業が不安定である。



そこに共通するものは、なにか。



このことを、私の関心である企業の増収増益の体質構造づくり

に関する考え方から、普遍性がある共通要因を考察してみたい。

それは、危うい風潮の到来に覚えるからである。



ところで、上に言う構造とは「永続的に増収増益を生み出すしくみ」と理解したい。

だから、私は一過性の増収増益には、あまり関心がない、

が、起業・創業には大いに力を入れている。



なぜなら創業時に増収増益の構造を組み込んでおけば、

その事業は必然的に増収増益の途を歩むことになり、

これが私の理想とするところだからである。



それに正直言って既存企業の場合、たいてい一過性の売上げや利益を求めて、

散々カンフル注射や精力剤を用いており荒れた体質を持っている。

これを完全に取り除き、恒久的な増収増益構造に入れ替えることは、実に難しい。



一過性的なやり方で永劫的な繁栄は得られないことは、

みな承知はしているものの、それを「止めること」、「やらないこと」を恐れる。

誰しも先の恐怖より、今の恐怖を避けたがるものだ。



その結果今日の成果を求めて、一過性的な販売促進(以下販促と略称)を行う。

それが、企業生命を縮めていることには気が付かないし、そのゆとりもない。

 

今の売り上げのために有効的で高く評価された販促行為が、

将来(さき)の不振や、時には企業の死活にかかわる事態の起因になるとことを、

私たちは、いやっというほど見てきたのではないか。

 

「お店で繰り返し買うお客を永続的に増やしていくこと」



これを、私は販売促進の要諦と定義としている。

キーは「繰り返し買ってくれる」という点と「永続的に増やす」



この2点にあり、この双方を具現することにある。



そして究極的には事業が繁栄し続けるための構造を構築する、

そのステップにのっとってなされるのが本来の販促であり、

それを具現する手段として科学的計算性に裏打ちされた数々の戦術がある

ということである。             



 ところが爾来、この販促は、

「どうしたら売れるだろうか」という企業の観点から思考、実施されてきた。



これは「何らかのフォローがないと売れない」ということを前提にしている論理である。



だから営業しなければならない、だから販促が必要だ、

ほっておいて、予算は達成できない」

といったニュアンスが先にあり、裏にある。

当然、その日その日をいかにして客を集め売上を上げていくか、

ということに関心が集中し、行動がそこへ始終する。



だから、そこには、

「どうしたら、このお店が、お客から選ばれるだろうか」。

「どうしたら買って頂け、その結果喜んで頂けるか」



といった消費者を中心、主体においた思考が生まれる土壌がない。



このことは畢竟、事業者自ら「永続的に増収増益を生み出すしくみ」

の構築を放棄してきたことを意味する。





こうした売り手側の論理でなされることに対する、

消費者の不信感からの拒絶意識は高い。

特に昨今のように国のリーダーであるべき総理大臣の存在が、

政党間ならまだしも党内の党利、個利の道具として

もてあそばされている、といった風潮の中にあってはなおさらである。



培う、育てる、このプロセスは、投資だらけで見返りがない期間なのである。

釣り道具を一式揃え、釣り場に出向き、餌を投じる。

ここまでは収穫、見返り、利がない。当然のことなのだ。

/



にもかかわらず、ここに利を求めたがる風潮にこそ、ものが育たない根本がある。



そのことが将来(さき)の国益、将来(さき)の企業の存在すら揺るがす

大本になっている「それは、危うい風潮」の到来に思えるからである。



バランスを崩す意義

2010年09月01日 | Weblog
大黒屋、おぬしまた金蔵が増えたな、ふふふ」、
「かくいわれる、代官様こそ」

こうしたところへ出てくる輩は、商人ではない。

経済学でいう「等価交換」の状態というのは、
シーソーで左右に全く同じ体重のものが乗っかった状態で、
静止のまま、動きがない。

動くとはそもそもバランスを崩すことで生まれるもの。
それで商人が商品を先に渡すことで、自らの位置を低くする。
これでバランスを崩れ、お客を高き上がり、
高い位置のお客からお金と情報が下の自分たちに流れてくる。
これでバランスがとれ、またもとの状態に戻る、といったことだ。

なんとすごいすごい知惠、仕掛けなのかと、
私はこのことを思うたびに、驚嘆するのです。

それを、金をもらい、さらに高邁な態度を取る
これではまさに二重取りではありませんか。
しかも万有引力の法則に逆らっている。

これでは、永く続くはずがない、というのが私の確信です。
事実私の周辺を見回すだけでも、「奢る平家久しからず」は結構います。

生きることは、学び続けること。そして学びの本質は、学びあい。

その解は、自分が知らないことは、実にいっぱいある。
だからあなたが知っていることで私が知らないを教えて欲しい。
その代わり私はあなたの知らないことでお役に立ちたい、
という互恵思想の上にある、と思うのです。

わたしは一人では生きられない、といった前提を
強く意識して生きること。そこに互恵のそもそもがあり、
ムレや組織や社会が生まれる。
また個はそうした全体から学び、個々連携、さらに全体とこの連携
全体同士の連携、つながりを拡げることで、相互に進歩発展していく。

これだ、と私は思う。
だから尊大も、卑屈も、そうした考えから見れば、
おかしいのである。尊大な人はおかしげな人といえる。
だからそうした人たちや、そうした人たちの事業が、
やがてはおかしくなることは、なんらおかしくない。