真実歯1つ、という言い方をする。その通りに違いない。だがそのための証明は争いを生む。
真実は一つ、というのは、一神教同様、排他的である。排他的とは、他を廃するということだ。廃される方の面目丸つぶれ、と言うことになる。
なにごとにしろ、一つの真実の発見に達する過程で、無数の真実をみることになる。そのたった一つの真実でさえ、それが普遍性あるたった一つの真実であるかどうか、各々の意見で分かれる。
分かれたものを、他を廃すると、廃された方の怒りを招き、または統一しようとすると、そこにあいまいさが求められる。さらにあいまいさによって統一された真実は、最初に主張した真実とは異なるものになる。その結果そこに二つの真実が存在することになり、真実は一つという定理そものを否定してしまう結果になる。
また歴史の過程で自然に、あるいは恣意的に変質させられることを考えれば、これが本当のたった一つの真実であるということは歴史過程に存在する人は断定しえない。したがって人は歴史の過程に存在しているから、真実の証明すら永遠にできないことになる。この真実の証明も結果として争いになる。