経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

幼児性

2005年05月31日 | Weblog
偉い人が、あるいは多くの人があっち向いてホイする方向へは、一所懸命ついて行こうとされる人は多いのですが、自分で方向やルールきめて、自分で動ける人は、ほんとうに少ないと思っています。ナンバー1,オンリーワンを目指して、といいながらその実は、前に人がいて、後ろに誰かがいなければ不安でたまらない。なんという幼児性でしょうか。


おもしろい時代

2005年05月30日 | Weblog
これまでのことを、ほんのちょびりでも捨てるだけで、実におもしろいものが見えだす、なんだかたまらないぐらいわくわくしてくるというのが、この今と少しだけの未来への、私の実感と期待です。

それはおそらく、自分で自分のことを判断できる、いわば縛られない、とらわれない、こだわらない、といった素朴なことが出来る人たちだけに理解していただけることだ、と思っています。
自分で考え、自分で見る、自分でやることが、出来る人たちだけが体感・体現できるパラダイスではないかな、とほそく笑んだりしています。

 まだまだこうした楽しいことはありそうですが、それは示唆、触発によって創造される産物ではないか、というのがMMAPを創案したときの、私の心の中にありましたが、今いっそうその思いが強くなっています。

対話、対談、メール交換、チャット、そうしたものが経営のキーワードの中に組み込まれると、どんなに組織やその組織の中の人たちが、わくわく、生き生きしてくるか、あくまで私の仮説、夢のな中での思いですが、そんなふうに思っています。

良い時代、おもしろい時代にいきてうな、ってほんとうにそう思います。


成功条件の1つ

2005年05月24日 | Weblog
 急いでも忙しくてもいけない。ゆっくり一口ずつ、一歩ずつ。マラソンより長い人生を100メートル競争している人たちみたいに、若くしてゴール、それも挫折や死のゴールへ、ひたすら、なんてこと、いっぱい例が有るじゃないですか。成功し続けるためには、あわてない、急がないといったことも条件の1つと思いますが。

誕生日

2005年05月23日 | Weblog
土日、ほんとうに、ほんとうに久々の仕事。名古屋の新しい空港のターミナルに入ったとたん、もう身動きも取れない雑踏。ターミナルが「街」になつているためだ。

 ところで、最近の4年間、十日町商工会議所青年部に招かれ、十日町市での誕生日でしたが、今回は名古屋。
 21日、第一回「カムサ 真・商人塾」を終え、懇親会の席上で主催者の朴さんが、明日(22日)の誕生日のお祝いとともに、クロスの万年筆の誕生祝いをくださった。
 朴さんも含めて、この会の参加者43名、この日が初対面なのだ。こういう場面になると私はどう対応して良いかわからなくなるが、とにかくうれしさより、朴さんやこの仲間達、どういう人たちだろう、と感激がそちらへいってしまい、御礼の言葉が出ないほどであった。

 定員40名を上回る参加者、それもすばらしい経営者ばかりでやりがいも手応えも期待以上のもの。力がいったが、5回シリーズで次回のこともあるので、後半ペースを意識して落とした。

 22日夕方帰宅。メールを開くと、高松の雅さんから誕生日の祝い。それに関連し年金の話。 
考えてみると、自分自身、還暦、老眼鏡をかけた日、年金をもらう日、これは思いの外のショックを感じたことを思い出す。特に年金をもらうのは気が引け、いやで拒否していたのですが1年遅れで、妥協した。振込で入金確認しないようにし、またそれを契機に、気が進まない仕事を減らし、やりがいのあること、より社会・地域貢献に寄与できることへ絞り込むようにし、また不用な会や事をどんどん削ることにし、自分の生活をシンプルにすることとした。

 すなわち、戴いた年金を私への投資と理解し、その何倍ものお返しを求められているのだ、と理解することにして、心の葛藤を納めた。
 
 また単に年金を、お金をもらう、ということでなく、その後の生き方とのパッケージとして受け入れ、これからの人生のギアチェンジの契機としてとらえなる必要があるのでは、と思った。
 


「仕事着と仕事場」

2005年05月19日 | Weblog
なりふりなど、他のことにかまっておられないぐらいこの仕事に夢中、というのが本来の中小企業経営者のありかた、理想だと思っています。

 最近は体裁や、かっこ、ミエなど、どうでもいい余計なことをしたがる経営者が多く、私は好きではありません。

 仕事着より、高価なスーツを仕事以外の場で着る、その感覚に危うさを感じています。仕事場、仕事着に誇りとお金をかける、そうした経営者でないと、ユーザーは良い仕事をしているとは、見てくれない、と思うのです。

 セミナーに集まってくださった中小企業経営者の皆さんが、それぞれの仕事着で机に座っておられる。講義中に仕事のお疲れで、うとうとされるのをみると、なんともなくほほえましく、嬉しくなってしまいます。もっとも私の講演は、声が大きく、「うるさくて、眠れない」と評判が悪いのですが。

 仕事場を戦場に見立て、「がんばれ、がんばれ」、「戦い抜こう」といったような考え方も、嫌いです。楽しく、穏やかに仕事に夢中する、そうした空間が仕事場。こうした場を作れたら、もうこれは最高だと、思っています。

「プロでありたい」

2005年05月17日 | Weblog
 3日に一度の腹筋運動を毎日に改めた。というのは、5月中旬以降、ぼちぼちながら講演の仕事が入ってくるからだ。この前偶然見たTVで、ビートたけしさんが40数回腹筋をやって、そのことに皆驚いていた。彼は58歳である。

 私は毎日実施しているいる頃は70回まではやれた。ところがここ2年3日に一度にしてから、せいぜい50回。べつにたけしさんを上回ることを強調したくて書いているのではない。
 なんのために腹筋を、ということを、書いてみたかったのである。答えを先に書くと、声を使う仕事をしているからやむを得ず、腹筋を鍛えているのだ。動機がある。

 もうずいぶん前の話だ。歌手の「声帯ポリープ」のことが話題に取り上げられ、車いすでゲストに登場していた淡谷のり子さんが、「最近の子は、皆のどで歌って、お腹使ってないもの。当然よ。それからトークが多すぎるから喉に負担かかるのよ」、と例によって辛口のコメントしていた。
 ちょうどそのころ私も、霧島のホテルで、タバコ専売公社の営業セミナーで、800人という人数に圧倒され、初めてマイクを使用してしまい、それが原因で喉を痛めていたので、淡谷さんの話でピンと来た。

 以来何はさておいて、仕事上の当然のこととして、腹筋を鍛えることだけはを怠りなくやってきた。私は、鹿児島弁でいう。「ずんぐりむっくり」で、おまけにお腹大きく出ていて、皆からは、ブヨブヨと思われているのだが、どうしてどうして、腹筋だけは自信がある。
 この腹筋と、散歩や運転しているときの簡単な発声練習、これを怠ると、やはり喉にくる。喉は大切な商売道具だから、プロとして道具は大切にするのは、当然である。
 
 それだけに70が50に落ちたのは、やはりショックである。腹筋が落ちたということは、それだけ喉に負担がかかるということになる。だから腹筋が何回やれるかという問題ではなく、その分声量が落ち、喉に負担がかかってくることが問題なわけだ。

 だからこそ、若いとき以上に腹筋を鍛えることで、喉の負担をなければならないのに、逆に怠けてこのていたらくである。情けなかった。
 
 そこで散歩を2日に1回とし、腹筋とアレイを使っての筋肉運動を増やすことにした。
今日でその3日目だが、朝は床から立ち上がれないほど、全身が痛く、これまたショックを受けている。

 「放浪記」の森 光子さんを見よ。舞台で10代の役。跳躍なしでとんぼ返りをやっているではないか。彼女は86歳。私とは親子ほどの年齢の差。私も、86歳になって800人程度の会場で講演をしたいと思う。一生プロであり続けたい、と思う。気と声は大きく保ちたいものである。

「シンドラーのりスト」をもう一度

2005年05月14日 | Weblog
 この映画の題名の重きは、シンドラではなく「リスト」にある。散歩しながら、そのことを考えていた。

 シンドラーが、部下といわゆる「シンドラーのりスト」を作成する場面で、すごいなーと思ったのは、少なくとも千人を越すユダヤ人従業員の名をフルネイムで確認しあっていることである。それだけではない。私もよく年賀状のことで、何度か書いたことがあるが、名刺をやり取りしたぐらいでは、ほとんど記憶に残らない。1万を越すリストの中から、記憶のない人の大半をリストアップするぐらい難しいことはない。つまりシンドラーがリストを作れたということは、一人一人の従業員の名前だけではない事情まで多少なりとも知っているということになる。選択には、何らかの基準が不可欠であるからである。シンドラーの場合、その人道的行為から見て、あみだやジャンケン、ABC順、あるいは「60歳以下の者」とか「健康な者」といった基準でふるいにかけることは想定しにくい。

 私が、年賀状を出すとき、いつも苦しむのは、私にとってはどの方もご縁がある方なのに、経済的な理由(かりに名簿登録数2万と私の稼ぎの推定で想像あれ)で取捨選択せざるを得ないことである。そして基準になるのリスト作りは、言葉を置き換えたら、何らかの基準を設けての取捨選択なのである。ここに基準たるものがないと、この作業は絶対に不可能であることは、実際直面したものでないとまったく理解できないことなのである。 そこで無意識なりとも基準を想定することになるわけだが、やっていて自分の醜さに直面することになリ、自己嫌悪に陥るのである。大の男が一人パソコンの画面上の名簿とにらめっこしていることだけでも、おかしなことだが、そのリストアップの基準として、よく仕事をくれるとか、くれる可能性があるとか、要するにえげつないぐらい打算的なのである。逆に、捨てる方からみると、この人は恐らく一生うだつがあがらず、したがって私の本1冊だって買ってくれることないだろう、とかこの人は、私を好意的にみてくれていないとか、これまたせこく、打算的、醜態そのものである。

 そうした記憶(情報)がない場合、どうしているかというと、これはもっとひどい。要するに仕事につながりそうな人を選択肢、そうでない人を捨てているのである。もう自己嫌悪に落ちるぐらい私自身のいやらしさが露骨に出てしまうのである。それで苦しくなって、何年か前だが全員出さないことにした。これは決断自体は楽であるが、決断実施の後が、大変で1回でやめた。(やめた理由は本趣旨に外れるので割愛するが、千葉にいる85歳になる父から「今年は賀状こなかったが、死んでるのでは」と便りが着たことで想像願いたい。)

 話をシンドラーに戻す。彼の苦渋に満ちたリストヅクリが終わった瞬間、千二百人の命が救われた。と同じにそのリストに載らなかった人達の死が予約されたことになる。リストとは、そういう両面性があることだ。本来、人の生き死にかかわる問題がリストでふるいに掛けるといったことは存在してはならないことである。だから、彼のリストづくりに基準などほんとうは存在するはずがない。なぜなら、シンドラーはすべての人の人命を救いだしたかかった人間にはずである。(そうでないとしたら、この物語そのものが存在しない)。存在しない基準を確立して、他の人の生死を決めるリストを作ることの残酷さこそ、この映画のテーマではなかろうか。

 一方、ドイツ軍にとったら、ヒットラ-がいう「虫」であるユダヤ人を、いい虫、悪い虫といった選択基準で分けるといった概念があるわけはない。すべて撲滅すべき虫なのだから。収容所長の何とかが、無差別にユダヤ人殺すのは、私達が、ハエや蚊を良い蚊、子供の蝿といった分類なしに殺すことと、心理的には同じといってよい。人は、狂いでもしない限り人間を無差別に殺せるわけはないことを信じたい私の気持ちもある。
 だからこそ、ヒットラーはユダヤ人を「虫」にみなし、おびただしいユダヤ人と殺したし、某教祖は、死を美化して人を殺した。やくざは、因縁をつけた後、人を撃つたり刺したりする。
 よく耳にするリストラとリストづくりが連想になって、数年前に見た「シンドラーのリスト」のシーンを思い出しながら、思いつくまま文字を連ねている。

 最後の方で「あと一人だけでも救えたのに、、」とシンドラーがもだえ苦しむシーンであるが、あの苦しみは、リストづくりを自らやった人だけにしか、理解できないとおもうのである。
 人任せやパソコンソフトに依存している人々からみたら、選ばれた人の幸せの部分しか見えないからである。戦争の1番の悲劇性は、生き残った人の喜びや悲しみは伝えることができるが、死んでいった人の悲しみや苦しみの声は、生きている私達が強い意思で思いをはせなければ、聞こえてこないという点にあるのではないだろうか。

 戦争にかこつけて、つい最近まで最近大手企業で当然のごとく行われていたリストラという名の「首切り」のことを問うている。
 やめさせられた人の悲しみが、首にしている人達の悲しみになっているとは、到底思えない。そのことの怖さと、そしてそれはなぜだろうということを考えてみたかったのである。一つのささやかな仮説として、自分で基準を持っていない人、あるいはその実行を、間接的にしか行使しない人には他人の喜怒哀楽が実感できるはずはないということである。
 
 ところで、シンドラが経営した陶器の工場はなにはさておいて儲ける事が必要(目的)であった。なぜなら、数多くのユダヤ人を救うためには。おびただしい金が必要であるからである。

 見落としてならないことは、「会社が儲けることの目的は儲けた金の使い道にある」という点である。シンドラの工場の目的は、一人でも多くの従業員を幸せにしたい(死から守りたい)という点にあリ、そのためにはその手段として、儲けることが必要だったのである。

 では、今、人員整理(リストラ)に熱心な会社の目的は、何なのだろう。
 毎朝、経営理念、たとえば「一つ 社会貢献 一つ 現場第一、社員こそ宝 一つ お客様第一主義」といった奇麗事をとなえながら、実は儲け、会社を大きくする、そして昇進しトップへ這い上がり、その地位を死守するといったことが目的になっていないか。絶対そうではないと言い切れる経営者がどれぐらいいるだろう。

 数年前までは人財と煽てていた社員の首を切る、環境問題を起こし、知らん顔、見解の相違と自称する脱税、政治家や官僚の不祥事、企業犯罪、総会屋との癒着、、といったことが、依然として発生してる。口ではいくらでも立派なことを言える。そのことを思い知った消費者は、立派な念仏を唱える人こそ、胡散臭く感じるようになっている。この不信感こそ消費低迷の本質的理由である、と私は思っている。

 すべからく目的と手段を履き違え、行っていることとやることが正反対であるところに起因する。会社が幸せになるためにの手段とし、従業員やお客様が存在するといったさかさまの論理を、いかにもっともらしく正当付けようとも、その自分だけ良しの姿勢はミエミエである。従業員からもお客様からも、自分の保身しか考えず、仮に誤解であろうとうそつきと思われている経営者の経営がうまく行くわけはなかろう。

 人間の人格より法人格を大事にする、それも経営者自身保身のため、といった経営者のの人格こそ狂っているのである。
 人々の幸せに貢献することこそ企業の目的である。身近の従業員すらの幸せを守れないだけでなく、不幸せにするようなトップが、今またなにをいっているか。
 「企業は人なり」。
「シンドラーのりスト」を,もう一度見てほしい。
   

「誤解と正解」

2005年05月14日 | Weblog
誤解とは、他人それぞれから私を見た、あるいは判断した認識結果の結論である。だからその人にとっての正解である。他人が自分を見ていての感じと、自分自身が自分をどう見ているかにそもそも完全な一致があること自体不自然である。

人は、大なり小なり誤解をし合いながら付き合っていくものである。だから私には、私を他の人がどう認識しているか、すなわち誤解の数が多く集まることで、自分で自分自身が理解されることは有難いことである。自分が見た自分だけが自分ではない。他の人から見た自分が、自分とのかかわりのある人の数だけこの自分が存在している。この感触は、私にとっては、むしろぞくぞくするぐらい嬉しいことである。

 これを逆に表現すれば「ああ、同じことなのにこんな風に受け取る人もいるんだな」と、その人を私が認識することになる。そのことにももちろん正解と誤解が含まれている。

 断言する勇気はないが、私はこの世には絶対正解も、絶対誤解も存在しないと考える。 だからといって、誤解を歓迎するとか、野放しにしておいてもいい、といっているのではない。誤解の存在を肯定し、だから、こそ少しでも誤解されない配慮や理解してもらうための努力は必要である。だが、誤解されることを恐れ、自分自身を縛ったり、他人におもねたり、必要以上の慇懃な態度でふるまったり、では人生がおどおどしたものになる。むしろその方のリスクを恐れたいと申し上げたいのである。

いい時代

2005年05月12日 | Weblog
ものがうれないという。売れるものがつかめないという。さらには消費者の好みについていけないという。皆、同根である。
企業は、さまざまな意味で世間が狭い、世間とのズレがある。業界、という「界」という垣根を作っているからである。

これから消費者として如何に豊かに自分達が経験を積んでいるかどうか、ということがキーになる。その意味で、ごく普通の消費者の生活部分すら見えない業界、企業は苦しい。また一日の大半を、工場とか本社とといった折りの中に閉じ込めれている仕事の人はハンディがある。それに時間に縛られている。規則などに縛られている人もそうだ。縛られているということは、閉じ込められていることと同じで、自由活発できませんからね。
たとえば床屋さん。頭を刈るという事を自分の籍の中、店舗の中で、体の部分の頭だけをちょきちょきやるから、どうしても狭くなる。あの1時間~1時間40分の拘束が如何にお客様にとって辛いかという体感実感すらできていない。手錠をはめられて、剃刀などの刃物を持った人にじっと拘束されている、お客の苦痛がイメージできない。床屋さんは床屋に一番いっていないですからね。この話。S62年に理髪学会の全国大会の基調でお話したんです。千人理容師の先生がお集まりで。
でもこのことを実践された方、長崎の佐藤さん始め、5-6人ですよ。

 そうしたお客様の体感をいっぱい積むと、いろんな経営革新が見えてくる。事業というのはお
客様に合わせて、喜んでいただき、喜ばせのお駄賃として生きることしか出来ない。これが経営ですよ。ですから極端いうようですが、消費者の時間というものを増やすことによって身につけていくこと。これさえやっておけば十分なんです。それを時間、金かけて経営者の立場からの発案、やっている。まァ当たることないとはいいませんが、あたった方が具和胃が悪くなる。。外れる確立の方が多い。それで救われている。
 
消費者中心の世界から、経営をやる、という側面なしで、ここまでこれたのだから、その側面から経営やったらどれだけ大きく伸びるかしれない。本当に楽しみの多い時代到来です。

朝顔の種をまけば

2005年05月10日 | Weblog
セミナーはご参加いただいた方からみたら投資です。無料であろうと時間の投資です。投資は回収の見返りがなければ、経営判断の誤りと言うことになります。

 少なくとも経営講演会には講師も受講者の方も、そうした真剣さがあっていいのではないかと思うのです。そこが他の文化講演会などとの違い、と思います。

 私が云うのはおかしいのですが、招いた講師を甘やかしたらダメだと、本気で思っています。そもそも主役は受講者の方々であって、講師ではないのです。

 今は、私は経営セミナーは受講することはないのですが、昔参加した講演会の講師の態度をみて、ほんとに腹が立ったこと覚えています。まるで自分の自慢話に来ている。肝心な核心の話は全くしない。著名なタレント講師ほどそうでした。

 自分が、ああしたところへ立つときは、投資に対しリターンが明快に出る講演・セミナーをやろう、と決意しました。

 それが今どうか、という判定は私ではなく受講された方の判断に委ねるべきことですが、十分その思いが達しているとは、当然思えないです。まだまだ工夫を成さねばならない、と思っています。ですからそうした場と機会を頂けること、ほんとうにありがたいと思っています。
 
 それはそれとして、現実に主催者の方のリターンの問題もあります。セミナーで人が集まらず赤字ということは、私の信念からも、主催者のご好意、たくさんの講師候補の中から、この私を選択してくださった決断からも、避けなければならないことです。この点になると、私は小さくなってしまわざるを得ません。

 参加されるかどうかは各経営者のご判断です。こういうとき私がもしドラッガーだったら、あるいは著名タレントコンサルタントだったら、真剣に自分の小ささ無名が情けなくなります。
 やはり自分自身の実績・力のなさかが、集客が大変、という主催者の方のご苦労の原因、理由を招いているわけですからね。
 かねがねは無名でもいい。有名などまっぴらだ。でも集客のときには、有名人でありたいと、虫のいい思いに浸って、しばし苦笑いです。

 現実は田舎の無名人。それだけに主催者の皆さんが、「変なのを呼んでソンした」と人様から云われないよう、現実的な成果を、それもびっくりされるような見返りを、持って帰っていただこうと思って、一所懸命やるようにしています。

 一所懸命だけでは限界もあります。空回りをまねくことも少なくないです。で、加えてさまざまな工夫をするようにしています。

 5月21日に第一回が始まる、「カムサ 真・商人塾」では、その工夫の集大成を披露します。
 それは、次のようなことです。

 ご参加者の企業が、セミナー修了時には目に見える数字・形で業績を上げる、という試みです。朝顔の種をまいたら朝顔の花が咲く。増収増益の種をまいたらその花が開く。その開いた花を最終日には、みんなで愛でよう、という試みです。