経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

居場所のトリガー

2014年10月31日 | Weblog
これまで長い間、自分の脳に経営思考のシクミを作るため、
たとえば旅先で泊まったときのホテル、街で買い物したお店、
食事をした店などで、「この店で売れて儲かる手だてないかな」、
ということを考え、見つけだすことを習慣にしてきました。

しくみ作り、つまり脳の回線づくりのために始めたことですが、
他のうまくいく方法を考えることは、自分の脳が「嬉しいこと」で
満たされることに気が付きました。

「情けは人の為ならず」といいますが、
なんてことはない。そうしたお店や企業、
そしてそれらに関わる人たちのことを考えることは、
畢竟自分の喜びの仕入れ、イコールになっていた。

少々大袈裟かも知れませんが、これぞ私の旅(人生)の目的、
生業(なりわい)、生き甲斐ぞ、と思いました。


話を経営のことに戻しもう少し続けます。
旅の途中、徒然にそうしたアプローチで経営を考えるのが、
とても楽しみでした。生き甲斐になりました。

そんな中で気が付いたことがあります。
最初はちいさな気づきでしたが、やがて確信になりました。
それはそうした場合、「経営の視点からみてはダメ」だということ。

これもまた私にとっては大発見でした。
自分では自分の大部分が見えないように。
内にいると、内より外が見えるように、
経営にいると見えない経営が存在する。
世界の中に経営があるのであって、経営の中に世界があるのではない。

偶然は、多分に後付けの意味づけ、こじつけもありますが、
偶然、舟木一夫の唄「君たちがいてボクがいた」が有線で流れていた。
福井駅前商店街、昭和町でしたか。夕食をしている食堂の中だった。

「日常生活があって、お店がある」。
日常が主流、その中の支流の1つとして経営の存在がある。

その時のメモには、こんわけがわからないことを記しています。
ですが、これらのメモが、経営を日常というとてつもない
だだっ広い海に浮かべてみる、つまり経営を日常生活から考える、
そうしたことに私を至らしめてくれたトリガーになったのです。

このことが正しい。これが本来だ。そもそも経営とは、と
粋がるつもりも、ましてや誇る気持ちなどさらさらありません。

只、胸を張っていえるのは、「自分の居場所が見つかった」ということ。
これで人を追いかけることもない。
競うこともない。
比べることもない。

なぜならそれは私の世界だから、といった思いです。

出来合い弁当

2014年10月30日 | Weblog
著名人の講演にかたっぱしから。著名人の経営書を買い、
経営講演テープ、経営講演ビデオ、経営講演CDを聞きかじる。

それも無名人のいうことには耳向けないのに、
著名なカリスマ型の講師のいうことには、
何でも丸呑み、追っかけといった経営者に
何人もお会いしたことがあります。

その殆どが、業績不振。
それもその追っかけ病から脱できず、
最終的には事業をダメにしている。

少し昔の話。
私へ相談に見えられたMさんもその一人でした。
Mさんは、13.7億円あった売上げを、
脳をハイジャックされてから3年で5.4億円まで急降下。
それでも、やはり勉強不足のせいと妻や専務まで同行させ、
せっせ、せっせと追っかけに精を出しておられた。

たまたま友人の税理士のご紹介で私の所へ。
私の事務所の書棚にほとんど経営者がないのに驚かれた。

頼りなくても、自社の経営は自分の脳にやらせるよう
ほぼ3年かけて、ハイジャックの追い出しにかかりました。
社長室、それに「自宅の」書斎から、経営関係のものを全部一掃。
それから10年、今16.3億円です。

どうしたか。
経営カリスマより、お客様に夢中になること。
特殊性より普遍性。非日常より日常性。専門用語より普通の会話・・・。

そして、何事も自分で行動し、体感する。
体感して、嬉しいか嬉しくないか、楽しいか楽しくないか、
気持ちいいか悪いかを分別し、前者を無意識に選択する。

行動が先、立派な人の言うことより、自分の脳を信じ使うこと。
こうしたMさんの習慣作りの結果が、売上げ回復させたのです。
元々、14億も自分の脳で売り上げてきた方ですから、
人の脳を借りることは、まったくなかったのです。
自分の脳と、他人の褌で十分だった。


出来合いの総菜や弁当も時にはいいが、
これに頼っていては栄養のバランスが崩れる。
出来合いの経営手法になどに依存していては、
自分の経営力など身につかず、経営のバランスを崩してしまう。

総菜、出来合い弁当ブームと時が重なる頃から、
出来合い経営を求める傾向が強くなったこと。
私には偶然には思えないのです。


なんやかやの締め切りでばたつき、
それでいてなにも手つかず。
頭の「もやもや在庫」を、
外の空気と情報に入れ替えてみたらと、
数日前から、外へ。

山積みのデスクワークは、
さらにうず高くなっていくけれど、
我ながら、とてもいい判断でした。

今日も、快晴、快晴、宮崎県庁へ。

メスとドス

2014年10月29日 | Weblog
米沢藩主の上杉鷹山、信州・松代藩の家老恩田杢の
エピソードをはしょりにはしょれば次のような会話だ。


「みんなが、あのことについては快く思っておりません」」
「みんなとは、だれとだれじゃな。ここに名を示して申せ」

数日後。
「みんなというが結局おまえ一人が反対と言うことではないか」


今、政治家が使う。
「国民は、今皆、苦しんでいる。」
  ・・・・・ちなみに今、私は楽しんでいる
「国民の反対を押し切って」・・・・
       ちなまなくても、私はそれに反対したことはない。

人は自分の思惑、意図に荷担させるために,
自分以外のものに情報を共有させることが組織のセオリーである。
この典型的例が「企業」である。

良い、悪いにかかわらず政治家たちは、
自分の思惑、目的具現のため、協力あるいは荷担させるべく
国民に向け、情報の共有、戦略の統一を企てる、

その場合のこの大義名分が、おなじみ、判で押したような、
「国民みんなの幸せ、国家の幸せ」と言ったことであり、
選挙時のマニフェスト、公約の類になる。


誰ひとり、そこにある意図を糺せないまま、
その結論が雪だるま化し組織としての暴走が始まる。

それが「平和をかちとるための戦いを勝ち取ろう!」,
「これ、」聖戦」、といったことで戦争まで、
正当化し、させてしまうのである

良い、悪いにかかわらず経営者たちは、
自分の描く目的のために協力あるいは荷担させるべく、
情報の共有、戦略の統一を企てる。
その場合の大義名分、錦の御旗が、
「みんなの幸せ、社会貢献のため」といった経営理念。
朝礼等でのみんなで唱和するといったことになる。


繰り返す。情報の是非ではない。
戦略に善悪があるのではない。

ある刃物を外科医が手術に使えば、それは[メス]
医師が男性でもメスだが、愛人をそれで刺せば凶器。
やくざが使えば「ドス」

情報(こと)に問題があるのではない。
そのコトを扱う人の問題なのだ。

本質の極め方

2014年10月27日 | Weblog
組織の外の人間が、組織内の戦略を

垣間見ることができるのが、現場である。



現場には、経営者の理念、思いが、戦略として方向付けられ

組織のそれぞれに共有され、その戦略を現場のそれぞれが、

それぞれかつ次々と戦術として形化している。



心の思いは見えないが、形化されていれば見える。

言葉は見えないが、形化されていれば見える。



しかし形は、何とでもなる。

言葉なら、何とでも言える。



形からそれを見極めることは難しい。

事実、その形と言葉で、これまでなんども、なんども

消費者は裏切られてきた。

否、それは今後もなくなることはなかろう。



ならば見極めが付かないじゃないか、

と考えるのは早計というもの。



裏切られる度に、消費者の選択眼は磨かれる。

自分が裏切られなくとも、他山の石を

拾い、学習する。





そして掴んだことは、大きくは。

1に、きれい事、美辞麗句は疑ってみる。

2に、情報開示が少ないところは疑ってみる。

3に、時間軸と俯瞰的に観察する。

4に、一事が万事、そして他山の意志的見方をする

5に、消費者同士のネットワークを活かし見る。



といったことになろう。

こうなると、

これまで企業の論理を押し通す企業が有利であった

それが、消費者の観点から、消費者の物差しに対応する企業が、

消費者から選択される、といったことで有利になると、

まさに攻守所を変えるところとなった。

ところで、上の「企業の論理」とは、

1に、画一化、標準化といったこと。

2に、情報不開示、企業側からの一方的情報提供

3に、売れれば良し。あと知らず

4に、自分だけ良し。他は知らず

5に、建材苦情への個別対応にとどまり、本質的原因解明は避ける。



といったことが挙げられる。





しかし世界中探しても、画一人間、標準化された人間は存在していない。

それでも売れていたのは、人間様が、画一化、標準化といった

企業の論理に合わせていたのである。



こうしたことで、今や、

1に、きれい事、美辞麗句は敬遠される。

2に、情報開示が少ないところは敬遠される。

3に、一度ことを起こせば、次から長く敬遠される。

4に、一事が起きれば他も、同業他社まで、敬遠される

5に、消費者同士の情報交換による評価で,ノウとなれば、敬遠される、



といったことになったのである。



そうしたことによる売り上げ不振を、「景気低迷で」なんてことで、

すり替えているようではその企業の起死回生は難しい。

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のどかな時代

2014年10月26日 | Weblog
昔、昔、その昔。

町に、おじいさんとおばあさんが,小さな店をやっていました。
おじいさんは、毎日川へ魚釣り、
大きな町から問屋の営業マンが来たときだけが彼の出番。

おばあちゃんは,お店の奥の居間まで、
近所の友人、おヨネさんと馬鹿話しているか、孫の相手の片手間にお店番。

それでも息子や娘を一人前に育てることができました。

そして二人は,今、この孫3人を
大学まで出してやろうと夢を見ているのでした。

だからといってそれでチラシを蒔こうとか、店舗改装をやろうとか、
そんな頑張る気持ちはありませんでした。

そんなことを考えずとも,客は来てくれたからです。
なぜなら、この町にはこのお店の他に2つあるだけ。

このお店、A店は煙草と酒、塩といった専売品を中心に、
ちょっとした食品、駄菓子など。

もう一つのお店B店は、下駄と靴など履き物と呉服小物。それに火薬。
もう一つC店は、文具、本など、

皆、小さなお店でしたが、
それぞれ棲み分けと強みがあって共栄共存。
それなりに潤っていました。
ちなみにC店なぞ、3階建てのビルをつくっていました。
1階は、店舗兼居間。?階は、在庫置き場の倉庫。3階は住宅。



Aは,専売品の強み。
Bは、シューズや制服を学校などへ納めている強み
Cは、官公庁への納めと,学校への教科書独占です。

この小さな町にも、物を売る側にとっては
平和で、おだやかで、良い時代がありました。

売らなくても、商品を並べておけば売れた時代。


その時代のなごりか,今でも,鹿児島の田舎では
客が,店に来て挨拶。
「ごめんなっせ、すんませんが、パンば,ちっとわけったもんせ」

共通語に翻訳すると。

ごめん下さいませ。もうしわけありませんが、
パンを少々でも分けて下さいませんか。

補足。
分けて下さいませとは、只で,と言う意味ではない。
売っていただけませんか、の一種の謙譲語である。


分けていただいて,帰るときの客の挨拶。
その商品を,自分の額の上に惜しい抱き、
客;「あいがとうごわいもした。またたのんみゃげもんで」
店:受け取ったお金を,手提げ金庫に,投げ入れながら、
「また、きゃんせ」

これも通訳。
客;「ありがとうございました。またぜひお願いをいたします」
店:「また、おいでなさい」

昭和30年前半ののどかな,商店の風景です。


人生黒字化論

2014年10月25日 | Weblog
脱サラし、なんとかこの仕事が軌道に乗ったかなと
思った頃、私(w)がこの考え方、やりかたで
この仕事を、生業(なりわい)にして、
続けていくためにはどうしたらいいか、
あれこれ真剣にと考えてみた。
あ、20数年前のことである。


診断士の資格試験のために、
初めて簿記に出逢い、その中に「全部原価方式」
というのがあることを知った。
唐突だが、これを思い出したのである。

結論を言えば、上の問題が解けたのである。

こじつけ的にこの全部原価方式の考えで、
あれこれいろいろと、置き換えて検証してみた。

それで、まず時間をコストと見なさなずゼロ(0)と置く。
その理由は後述するが、そうしたら、
この「-49(49の赤字)」のほとんどは、
かからないのでは、という仮説を得られた。

考えてみれば、ちなみに(ちなまなくとも),
部屋の電気代、パソコンを使う電気代、それにパソコン,
その他の減価償却費の案分額程度は、
確かに費用としてかかっている。

しかし仕事をしなくても、只生きているだけかかる費用だし、
自分と妻の人件費といっても生きている限り、
何をしていようとかかるのであるから、
これを仕事の場合だけ、コストとして取り出し、
あえてコストとして計上する必要はないのではないか。
(家計簿に妻に人件費を計上されたら、えらいこっちゃ)

何も自分の命の維持にかかるコストを、
この際とあえて仕事上の経費なりと上乗せすることもない。

元来、生活と仕事の区分がファジーな性格が幸いし、
こうしたコストを生きていくための生活コストに組み入れれば、
零細企業では仕事上のかなりのコストはゼロに近くなるはずだ、
という考えには、さして抵抗なく至り、受容できた。

とすれば、▲49の赤字は、年に利益1の仕事を
49件こなせばゼロ。50やれば1の利益が出る。
(1×50)ー(50-1)=1

これを50年続ければ、初期投資を回収。
だが私は113歳までは働けないだろうから、
50ではなく倍の100をこなすことにするとしたら、
25年かかって、89歳。

おおむね90歳まで現役でこの仕事を続ければ、
葬儀代ぐらいの貯金を残すこともできる計算になる。

20数年前、こうした屁理屈をあれこれ考えたことが、
人生事業30年計画というプログラム創案に結びついた

人生と事業を重ねて、損益表なり決算すれば、
まさに先達のいう、「人生無駄なことは1つもない」
全て経験として、人生黒字化という思いに至ったのである。


なにかおかしい

2014年10月24日 | Weblog
社員や店員に売上のノルマを課すると
来店するお客は、彼らから見たら獲物。
お客から見たら、彼らは危険野獣。

お客は背を向け逃げればいい。近寄らなければいい。
野獣、珍しさに近づくのも、
君子危うきに近寄らずもいい。
その選択は、あくまでお客だ。
しかし、迎える方の売り手は、獲物が得られないと
たちまち食い上げになる。

困るのは売り手側である。


合理化という名の下に、人を減らし、
不必要な言動を減じると、店舗はお金と物の交換場になる。

人が物を言えばコストがかかる。
一歩動けばこれもコスト。
挨拶をすればこれもコスト。

こうして挨拶する自販機。
自動で開閉し、店員に変わりご挨拶する自動ドア。

良い子がいなくても遊ばないように、
優しく注意するエスカレーター。

販売員に代わって、商品説明してくれるビデオ、DVD.

最近先進遅視察に行くと、
会議室に案内され、そこで自社宣伝のビデオを鑑賞させ、
その間、その企業の人は消える、といったところが珍しくない。

それならビデオを有料でいいから、
貸してしてくれたらと、言いたくなる。


あるシンポジュームで、
自分の発言の代わりに、その都度、
パワーポイントで作成したDVDの然るべき動画で、
会場の人に見せるといったパネリスト(経営者)がいて、
会場の人たちを唖然とさせていた。



何かが間違っている。

その間違いは、道徳的、倫理的といったこともあろうが、
そんなことは問題にならないぐらい大きな者を失っている、
といった意味での「間違い」なのだ。

つまり、得るべき利を得られないに加えて、
長期間、大きな損失を引き起こしている。
そのことに気が付いていない。

それは、この今見え、計算できるコストを惜しむことにより、
この今、見えず、計算できない、
そして将来(さき)に大きな利になるものを
失っていることに他ならない。

あーせー、こーせー

2014年10月23日 | Weblog
)機能性の違いとは、自己充足感を満たす表現の違いのこと。

デザインをデザイアー(欲望、戦略)の形化、具現化と考えたら、
機能とはそのための副次的な戦略(目的),もしくは役割であろう。

その役割を果たすための方法、手段、ツールを、
脳力開発では「戦術」という。

この戦術は、役割に応じて、また役割ごとに無限に存在する。
したがって戦略が一元化、共有化されていることに対して、
戦術は臨機応変に、かつ様々な戦術を組み合わせて行う。

しかもその選択はその役割を担う者の判断に全面的に委ねられる。
だからアーセー、コーセーと現場に指示をしたり、されたり、
指示通り、といったように拘束性を持たせたとしたら、
そもそも戦略は成り立たなくなる。
その彼はリーダ-としては失格者である。

ピカソが弟子の絵描きに、髪の毛は赤で、花は何色でと、
筆遣いや色まで指示しているといったことは、
全くあり得ないことと誰しも思うが、

現実、そうした経営者や上司はごまんといるのではないか。


以下わかりやすくするために、
少々、極端で、穏やかではないな例えで示したい。

たとえば百円茶碗は、粘土で囲んだ空間でもって、
お茶を飲む機能を価値としている。

一方、百万円の有田焼の茶碗は、
こんな高いもの、素晴らしいものを持つ俺だぞ、
ということを高らかにアピールする機能で売れる、とする。

ところが、上司から、争いごとに勝つために
相手を傷つけたれ、という役割を担った部下は、
百円茶碗であろうと、百万円の有田焼であろうと関係ない。

これら両方とも、「相手を傷つけたれ」を具現するための
手段、ツール、道具、つまり「戦術」の一つに過ぎない。

それを相手に投げるときは、「安い方にしいや」と、
上司なりから指示を仰ぐ、といったことでは、
争いの目的、役割を果たし得ないことになる。

戦術は、その場、その場の状況に応じて、
当事者が自由に判断することを委ねられている。
これが前提で、戦略が成り立つ。

予測について

2014年10月22日 | Weblog
予測について考えていることを書いてみたい。

予測、予報を仕事として人はたくさんいる。
専業のそうした職に就いている人以外も、
予測といったことを抜きに生き、生活している人はいない。
 
だから経営指導ともうひとつの私の看板としての、
脳力開発&情勢判断学が、求められるのである。

予測が重視され、必要なのは、
1に、通常では予測し得ることを
予測し得ない人が多いことである。
前者を9,後者を3としたら、その6の差が、
プロの存在価値ということになる。
 
2に、予測できないことが存在する、という前提で、
予測は成り立つということである。 

だが、この2の場合、その見極めが難しい。
いや怪しげすらある。

実のところ、後々になったら起こるべきして起きた、
つまり予測できたといったことを、
私たちは多く経験しているからである。 
 
私のパソコンひとつ例にとっても、
予測してないことが時々起きる。
パソコンだからまだいい。
これが交通事故であったらどうか。
考えただけでもぞっとする。

そしてその予測なしに発生したことは、
「なかったことにする」ということには
絶対に出来ない。
あり得ないことなのである。

起こったことは「なかったことにする」ことはできない。
しかし、そのことが起きることを予測し、
起きないようにすることは出来るのである。

100発100的中ではなくとも、
かなりの確率で当てることは可能である。
それが「予測」というものだろう。

例によって二つに分ける。
予測には、当たりと外れがある。

例のホリエモンで有名になった「想定外」でいえば、
1は、想定対象から外していた場合。
2に想定エリアにあったが予測力が乏しく外れた。

MMAPについて

2014年10月21日 | Weblog
最初は、
田上か一度体験した人が3時間ほどの
他の研修の中で、同時並行の形で研修する。

つまりわざわざこの技法習得の研修は、一切不要、ということだ。

経営革新のセミナーでMMAPを習得できる。
創業塾でMMAPも習得できる。
経営計画を作成するときに、MMAPを習得できる。
社員教育、就活セミナーでMMAPを習得できる。

 それで、その日からやれる。
インストラクターだけがやれる。
インストラクターがいなければやれない。
そんな物ではない、ということだ。

一度やったら皆やれる。みなインストラクター。
飯を食うのにインストラクターは必要ない。
普段呼吸をするのに赤ん坊はインストラクターから学んだか

普遍性とはそういうものだ。

ところで、
なぜこのMMAPが出てきたかというと、
私は師 城野 宏の提唱した脳力開発の指導者である。
情勢判断学の指導者である。

この2つをひとことで言えば、「脳の回線づくり」
といってよい。そのためのツールとして創案したのがMMAP。

言い換えると、脳の働きをモジュールしたのがMMAP。

つまりMMAPをやると、脳の新しい回線が創れる。
その意味で脳力開発と
素情勢判断学を習得したことと同じことになる。

脳力開発の創案者、師の城野 宏は、
脳力開発のアプリケーションツールとして護身道を創った。
私はMMAPを創った。
いつかと向こうへいったら、
師匠に褒めてもらおうと考えている。

脳の働き、動きだから普遍性がある。
あれに使えてこれには使えないと言うことがない。
諫言すれば、手法(戦術、ツール)ではない、ということだ。

このことは、極めて重要なことなので、
稿を改めていつか触れてみたい。