経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

美学的なもの

2006年06月18日 | Weblog
だれかが曰く、「敵の敵は味方、強力な反対者は、強力な協力者」。
 
 異論、意義、反論、不賛成も、我が戦略を達成するための、戦術(材料)の1つ,、と考えるの真のリーダー。

 
 そう考えると、1に、入ってきた瞬間に、良くない{情報)、それは吉報、と分別している。これではリーダーとは言えません。
 真のリーダーは、情報をひたすら集める。えりわけなどもっての外。できるだけ多く集めて、それを広げて、そこに潜む、あるいは語りかけてくる本質をえぐり出し、吟味する。

 
そう考えるとの2ですが、なにかをやろうとする真のリーダーは、高邁な理念と目標を掲げ、その実現の構想と成功までのシナリオを動かす戦略を構築し、そのための戦術を広く集める。こうしたプロセスにその真価が発揮されるというところにあると考えています。構想とは長期戦略的。

 でも、それだけじゃない。 そう考えるの3として、そこに、なんとなく美学を感じる。ほのかな甘いものを感じる。そのなにかが必要じゃないかと、うまく言えませんが、最近痛切にそのことを感じている。

 手段を選ばず、プロセスを短縮した、最近の成り上がり組には、そうしたものが感じられない。欠いているからだ。

 何事でもそうですが、人がことを為すためには、大衆、消費者の支持が絶対要件ですが、それには、そうしたおおよそ合理性などとは無関係な、いわば美学的なものの存在が不可欠な気がしてならない。

観るスパン

2006年06月17日 | Weblog
長い時間軸、スパンで、企業をみたら、「消費者接点を減じる企業は、企業の存在基盤を減じる」、ということがわかる。

 たとえば人件費を削減し自販機を入れる。ここでのコスト削減は消費者にプラスしない。

 それだけではない。消費者接点を減じることは、すなわち消費者の発する「情報源」を減じることだ。その分企業の対応が疎になる。これは消費者にとってもナイナスである。

 こうして消費者はその企業に背を向け、結果として企業の存在基盤を減じる。


「成長する方法」

2006年06月16日 | Weblog
 「いやぁ、こんなに雨ばかりでは、商売、あがったりですわ」は、たしか昨年のこの頃もきいた。その前も。そしてその前も。
 いうのは自由だが、雨をあがったりにするのは、雨に迷惑というものだろう。

同じ頃、お百姓さんは、「ありがたい。恵みの雨だ。これで週末は田植えに入れる」と、祝杯を挙げているのだ。

 そもそも「雨だ。売れない」は、刷り込み。これを「雨だから、よけに売れる方法はないかな」と式をたてる。
 式を立てたら、解きたくなる。ここが肝心である。式を立てずに、答えを出している。出来ないことをやっているから、出来ないのだ。

 とにかく式を立てる習慣を作る。「忙しい。この忙しさを、楽にする方法はないだろうか」と式を立てる。「金がない。金がなくてもできる方法ないか。」、「暇だ。この暇を活用する方法は」、といったように何でもかんでも式を立てる。こうした習慣を3月続けた
ら愚痴を言わなくなった自分に気づくに違いない。それだけではない。商いをやっている人はちゃんと売上げも上がる。だから飽きないでやり続けることだ。

 こうした話をすると、したり顔して言う人がいる。「それって、プラス思考っていうの
ですよね。脳力開発では陽転思考。ボク、S先生の講演で聴いたことあります」。

 このタイプは、まずだめだ。私は「式をたてる習慣を」という行動により脳の回線づくりの話をしている。だが、このしたり顔さんは、「自分は知ってるぞ」といった知識の手持在庫にひっつけて、「俺、こういうこと知ってるんだ」と誇示している。
つまり前者が流動資産タイプとしたら、後者は固定資産タイプ。
 知識を仕入れて、それ他者に見せびらかせて、自分はえらいのじゃ、と自慢する人である。このタイプには成長はない。
 対して知識を入れ、それを行動することで自分の血や肉に取り入れ、脳の回線を構築していくタイプこそ成長する人なのである。
 この「ねぇ、君、こうした情報、知っている?」といったタイプと、「そんな、エエ方法ありますかいな」と、刎ねるタイプ、両者とも、行動しない点では同じである。

動かない限り、現状は代わらない。動く倍には、式を立てる。脳力開発でいえば、戦略を立てる。そうしたら答え(方法、戦術)はいくらでもあつまある。いくらあっても困らない。金がかからずすぐやれることから、一口ずつ一歩ずつやっていく。これが人や企業が、進歩発展、成長する図式である。も

やれるかな!

2006年06月15日 | Weblog
ソフトの代表である「サービス」は、その概念からして、あいまいで捕らえがたい典型的モデルといえる。

 試に、朝礼ででも「商品にサービスを添えて」とか「サービス精神でもって」といったことを、従業員に言ってみたとする。いつもの通り、「ハーイ」と皆、元気に、明るく応えてくれるだろう。

「うん、これで良し」と、満足げで朝礼を終えず、どうだろう。彼ら、彼女らに名指しして、尋ねてみようではないか。

「あのね。君。サービスを添えて、といったらハーイと返事したよね。君は、何を添えるのかな.ここで皆に、きみの添えるサービスを実際に添えてやってみてくれる?」。

価値組を目指せ!

2006年06月14日 | Weblog
 勝ち組という言葉が一人で歩いています。いつかは、転んで負け組になる。なぜなら同業他社に勝つことが、生き残りの条件にはならないからです。


売り手や作り手は、消費者の支持によってのみ生存できます。その支持者を敵に回して繁栄できるわけはないのです。

だから、どうすれば多くの店・事業所・商店街といった買い場の中から自店を、支持し選んでもらえるかを、皆さん自身が一生懸命考えなくてはいけません。お客は皆さん経営者の幸せを考えて行動してはくれませんからね。選んでもらい、買ってもらえるような状況を作る以外に手はないのです。

ではその「手(手段)」とは何でしょう
お客は自分が得することは歓迎します。もうお分かりでしょう。お客が得する状況をつくることが「手(手段)であり、経営の本質です。値引きせよといったことも、その手段の一つではあります。同じものであれば、お客得するわけですから、当然です。しかし、この廉価路線は、長く続かない。また大資本ほど大きいほど有利になりますから、大手に有利、中小企業に不利です。中小企業が選択する手段ではありません。やる方が苦痛なこと、できないことをやっては駄目です。

あまり痛みを感じない、例えば、頭を10度下げるのと45度下げるのとでは、かかるお金には違いが出ません。ではお客はどちらを気分良し、と受けとるでしょうか。

こうしたことを考えて、お客の方に価値を付加することを考えればいいわけです。お客様の方にプラスになる価値を付加する。これが付加価値なのです。今までは逆、粗利益のことを付加価値、なんていっているわけです。
消費者に、価値を負荷する企業がいきのこる。ですからこれを価値組という。同業他社に、打ち勝って勝ち組では、そのうち書かされて、負け組になる。

手暇こそ

2006年06月12日 | Weblog
車の駆動は、まず負荷のかかるローギヤでスタートする。同様、消費者中心主義を実際やるとなると、最初はやたらと手暇、時間、負荷がかかる。だからいいのです。その理由は、後ほど述べます。

 多くの経営者は「消費者接点を増やそう」と、朝礼などで叫んでいるはずです。
いくら叫んでも実際の行動としては、実は手暇をのかかる小さな面倒なことを繰り返し積み重ねていくことでしかなし得ない。
 またこうした手面倒をすることで、消費者のことを中心に言動をとる脳の回線づくりができる。学んだことを身体に落とし込み、意識せずとも行動できるようになる。組織の体質・風土づくりは、これ以外に術(すべ)がないのです。

これ以外に術がないににやらない。やらないだけでなく、逆行している。自動ドアが叫ぶ店主が黙る。自販機で、お客が店主と会わないですむようにしている。セルフストアもそう。すべからく、そう。それでここまで来という感じ。

 手面倒は、非効率、非能率、それにかっこよくない。
 だから他者もお客様のいやがる、そうした手暇を、拾い集めて自分の仕事に加えていく。これを考え積み重ねていったら、ライバルのいない独壇場になる。しかも積み重ねは、追い越すことが不可能なのです。 あなたが、親父さん年を越せないのと同じ。
 手暇を継続し消費者接点(ドット)が増やす。このドッドが点になり、線になり、企業の形になる。こうした企業は、年数とともに盤石になる。
 
 人生は、このドッドでどんな風に自分の思いを形にしていくかの楽しい作業だというのが、私の考えです。

ゆらぎこそ和

2006年06月11日 | Weblog
先に、第3の共生の道があることを示す事例がある、と述べた。
共生における和への仮説に関する本稿の最後に、第3の教訓となるであろう一つの仮説を述べて論を閉じたい。

 それは「組織拡大にはそれぞれがもつ限界があり、その限界の範囲を越えたら、分裂もしくは消滅せざるを得ない。分裂によって残った規模がその組織の本来持つ適正規模である」、のでは、ということである。

 これを是とすると、それに逆らって拡大・縮小をやることが、消滅する因になる。つまり適正規模の許容範囲(ゆらぎ、あいまい)の揺れの状態が”和”である」ということである。

 これは、前に述べた仮想敵がいることによって保てる「和」の時代から、己の生きがいを見い出すという形で共生し得るという一歩高次元の「和」の時代への転換を意味し支えとなる仮説である。

 既に一部では裏付けられる事例がでている。もとより一部をもって、普遍性ありと断じるのも早計、かつ愚かである。ここは時間による濾過の過程で、実例が蓄積され、誰しも納得する期をを待つことが必要であろう。
 しかし、やがて「共生における和」を全ての人が実感できる日は近いと確信するものである。

機能分担

2006年06月10日 | Weblog

 ここで、中小商店の存在意義を例にとり全体と個の関係としての「共生の原理」について簡単に説明しておきたい。

 時計は大小様々な歯車の組み合せで動く。それぞれの歯車がそれぞれの機能を果たして一つのシステムを成している。同様に店舗も大、中、小、様々の規模があり、一つの商業機能を果たしていると見てよい。

 換言すれば、個々の機能が異なることが存在意義であるとしたら大と小の対立構図は存在せず、それぞれの機能を発揮して棲み分けられることになる。小店は大型店の下で身を細くしてもたれ合ったり、あるいは目こぼしを乞うて生かされるのでもなく、勇ましく大型店に戦いを挑むのでもない。小としての社会的、商業機能の役割分担を果たして生き抜くことが可能である。

 このような第3の共生の道があることを多くの実例が示している。
 いつも自問自答していることだが、小さい店は大きくなることだけが目的であろうか。 そうではないはずである。規模の大小は商人としてお客の生活をハッピーにするという商業活動共通の命題を果たす戦術の違いに過ぎず、小は小としての役割(戦略)を果たすことか重要と考える。

2つの教訓

2006年06月09日 | Weblog
 弱いリーダーは他との異質性を煽る。それは存在感を高めることを意図しているわけだが、皮肉なことに孤立化を高め、その組織は縮小していく。

 リーダーの器量がない会派は本能的かつ意識的に、他の会派との異質性を強調するパターンをとる。確かにこれにより自分の会派内の異質性を一時的には無視できるから他の会派との争いがあるときは、自分の会派の結束は固いように見える。しかし異質性に対する許容度やリーダーの度量が大きくなったわけではないから、乱が収まると自会派の異質性が取り沙汰さされ、争いの矛先が内部に向けられることになる。

 そして分裂する。分裂は組織を弱くし、外圧に弱く外へのインパクトもない。そこでまた大同小異を求め合体が始まり組織拡大へ向かう。
 
 
 以上の論から私達が群れて生き抜いていくための二つの教訓を引き出すことが出来る。 一つは簡単に言えば「俺が、俺がと言わずに自他共の違いとあいまいさを認めたあうこと。違う部分(特殊性)の強調ではなく、違いを認め合い、さらに主流である共通要素(普遍性)を認識し合えば、誰とでも仲良く楽しい人生を送れますよ」ということである。

 第二は以下述べる「共生の原理」である。
これは簡単に言えば「異質性(違い)」があるからこそ私達は生存価値がある、ということになる。

 実は、この世はこの異質性を因としての和と分裂の繰り返しによって安定が計られていることを見逃してはならないのである。分裂が限り無く繰り返されるとしたら組織は成り立たないし、また「和」を大義名分として組織が限り無く膨張し続けるのも危険である。その事例は、一党一派支配の弊害として旧ソビェット連邦ならびにアラブ諸国に数多くの事例を見ることが出来る。

崩壊の原因

2006年06月08日 | Weblog
 会派の崩壊や分裂や脱退の現象は異質性の集まりであることを忘れ、あるいは錯誤し、同質性を求めたか、組織が大きくなりすぎ、リーダーの度量の幅を越えたか、のいずれかになろう。
 
戦略は同じで戦術は個々異なる、という極く当たり前の原則を忘れた組織が存立し得るわけはない。 素晴らしい人生を過ごしたいと念じる人生戦略には共通性があっても、その実現の手段たる戦術はことなることの方が当たり前であり、同じである方がおかしいのである。なのに戦術のレベルで同質性を求めてしまい、自らの組織体を崩壊させてしまうのは本質原理をわかっていないか、度量の狭さが原因している。
 
繰り返すが、意見が違うから争ったり別れる、というのは正に本末転倒、戦略と戦術の取り違えである。共通要素は事前に認識したうえで、個々それぞれ違う部分があるからこそ、人は群れ、集まり、○○会派に参加してきているに違いないからである。

すべからく、戦略と戦術の取り違えが崩壊の原因なのである。