経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

対策とか対応とか言いますが

2006年02月28日 | Weblog
 経営の中で、何気なく、対策とか対応とか言いますが、対する相手、対象は、断言しておきますが、情勢や消費者へであって、コンピューターやそのソフトや計画や予定などでは絶対にないのです。おわかりいただけないかもしれませんが。
 本来、仕事の対象が、社長や上司ではなく、消費者に対してでなくてはならないのと同様、経営の対応の対象が「計画」に対してでは、絶対にあってはならないのです。
 こうした憤りとじれったさが、「田上式経営計画」を作った動機です。おこがましく自分の名前を付けたのは、単に他と区分するため、の符号とご理解ください。なんならX式経営計画でいいのです。これまでの大きな違いは、1に、経営そのものに、革新(創造的破壊)性が存在する。否、シュンベーターが言っているように、革新こそ資本主義の命なおだから、革新性抜きの経営計画は、あり得ない。あり得ないのに、計画に縛られ、革新性を拘束、制約する経営計画がまかり通っている。この矛盾、裏切りに対する挑戦であること。2に、「最小自乗理論」と将来のあるべき姿から今の行動を決める「未来還元ナビ」の考えを組み込むことで、計画と実績の乖離を生じさせる要因を最初に除去しておく。3に経営者の想い・理念が組織末端まで浸透、共有化を織り込むことで、組織全体が外部へ変化に自分の判断で自由に敏速かつ伸びやかに対応できる、4に、5年間の中期経営計画ですと楽しい作業で5時間で完成。しかも過去の数値、決算書は持参不要。パソコンも電卓すら不要。5、MMAPとの連動性、この5点です。
 要は、本来の経営計画の目的、「対応」に重点を置く、やたらな縛り、ルール、約束事、決まり、数字といったものが、逆に阻害要因になるのでこれを極力排除、それに驚くぐらい単純、ということです。


この種の経営革新ゼミを辞した理由

2006年02月27日 | Weblog
夢は伸びやか。ここでは私は飛べます。思うこと何でもやれる。かなえられる。しかしその夢も「現実」に制約され、ときには現実と等身大に成ってしまう。
 計画もまた同じではなかろうか、過去にとらわれ、過去と現実の延長先に線を引いてしまう。さらに実施となると、計画に制約され拘束を受けている。
 この点、どう考えても、私には腑が落ちず考え込んでしまうことでした。組織や人の可能性、行動の伸びやかさや柔軟性を、発揮する以前から縛ってしまう。
 「あなたは、お父さんとお母さんの子だから、お父さん、お母さん以上の言うとおりやればいい」と「俺の言うとおりやれば問題ない」とどう違うのか。
 経営革新で、未来への可能性を叫びながら、その後、パソコンのはき出すソフトのフォーマットに、せっかく膨らんだ夢を、また元の現実に還元し、チマチマ記入している受講生を見ながら、私の気持ちは複雑でした。
 
 革新に夢を語るのは私、フォーマットにインプットさせるのは、別の講師。
これが、この経営革新ゼミの分担です。しかし受講生にとっては、一貫した流れでなければならない。
 それぞれの専門の講師が、分担で、というのは、あくまで思想的に一貫していてでのこと。
 経営革新には、理念と戦略の浸透と共有が不可欠、といいながら、この経営セミナーのあり方には、それがない。

 「理想が広がれば、現実は狭まる」。
 「現実を固守すれば理想が狭まる」。

 どちらかを選択して生きて行かざるを得ないとしたら、私は、理想の伸びやかさに引き込まれ、前者を選ぶことにした。
 
 以上が、この事前にすり合わせのないこの種の経営革新ゼミを辞した理由である。

 そういうことです。

縛られて恍惚

2006年02月26日 | Weblog
 計画は、厳密であればあるほど、対応を拘束する。綿密な計画を立てても、そのときの予測通り変化することの方が、稀れだが、計画の遵守には固執せざるを得ない。でなければ現場ほど、上から叱られる。だから現場の対応は必然的に、過去の予測時点で固定的変化への対応を是とし、この今への対応を非とする。
 としたら大まかなな流れ、方向と言った程度のというニュアンスの戦略をたて、あとは現場の状況に臨機応変、かつ細かに対応していく、ことしかない。
 計画を長期に、綿密に立てることは、企業の対応力を制約するから、厳禁。理念と戦略を徹底的に浸透させること。その上で変化に対応に関する戦術は、一切書各人に委ねる、といったことでないと、間違いなく企業は存亡の危機に立たされることになる。計画に縛られて恍惚というべきか。

これ以外にないのに、これ以外の対策では

2006年02月25日 | Weblog
「なぜ他人は言うことをわかってくれないんだろう。どうしたらいいだろう。いろいろ対策しているのだが」といった問が多いので、簡単に、ここでまとめておきます。

 考えるべきことは、「自分は一人、他人はたくさん。自分の考えは自分の判断で変えられるが、多くの人の意思決定を変えることは難しい」ということです。
 
 人が思うように動かないといった場合、理由は大きく2つに分けられます。
 1はあなたには重要でも、他者には受け入れがたいといったこと。
 2に他者それぞれ固有の戦略をもっていること。しかも他者の固有戦略が、全部同じということはまず無い。あっても稀有です。

 経営の場合、経営者が戦略、部下が戦術と置き換えてみたらわかりやすい。
 部下が思うように動いてくれないのは、経営者の戦略と部下の戦略が違う。共有されていない。これは経営者が戦略の浸透と共有化のために動いていないからだ、ということが自明の理です。
 
 戦術には良いも悪いも、正しい、間違い、といった概念がそもそも存在しない。メスは医者が使えばメス、恐いおじさんが使えば凶器。水は冬は「冷たい」ですが、夏には「きもちぃー」。子供でもわかることです。
 戦術に良しも悪しもない、のですからうまくいかない元凶は戦略、つまり経営者にあり、ということになるわけです。

 戦略は、こちらの狙いに他者に協力してもらうことです。協力するかどうかは、他者の意思決定です。その意思決定を変えてもらうためには、どうしたらいいか、ということが、経営者の戦略、やるべき事です。

 そもそも、戦略の本質は、そもそも他人は、こちらの思い通りにならないもの。ここから始まるのですが、このことを理解していない。やってない。
 それは戦略を戦術に、戦術を戦略と取り違えているから発生するのです。

 この2点、すなわち戦略と戦術の違いを理解し、行動していただく。これ以外にないのです。これ以外にないのに、これ以外の対策をされてもうまくいかない。当然です。

虚数×実数

2006年02月24日 | Weblog
売上は、売上=客数×売価で示されるが、この場合、売価は再販価格指定商品を特例として経営者の裁量で決めることができる(これですらITの世界でみられるオークションのごとく、お客の裁量に移りつつある)。だが客数の方は、個々客、買い手の意思決定領域であり、経営者が決めることは絶対にできない。

だから放置しておく限り売上が作り手・売り手の経営者の思う通りいくことも決してない。その絶対に思う通りにならない虚数に単価をかけて算出する売上げも虚数になる。当たり前である。しかし経費その他は内輪でコントロールできるのだが、おおむね計画に基づき費消されるから、減益になる。これまた当然である。

 売上げという言葉の云々の問題ではない。消費者の意思決定により購買が決まっている。その相手の意思決定をこちらの都合にいい方へ持って行くためには、という重要な戦略的アプローチが欠如しているのでは、と指摘しているのである。

がんおやこ

2006年02月23日 | Weblog
時代は人が作っている。ある意味では各自が勝手に作ったものの総和が、総和の中の特徴的なものが、その新しいものを代表する形で、未来がこの今を構築していく。だからそのやってくる常に新しい時代に対応した企業を経営していく考え方が大切なのである。

 その意味では、改めて革新という考えではなく、事業そのものが生成された瞬間から革新的存在なのである。
 ある若手経営者の会議を見ていて、せっかく出された新製品なりのアイデアや提案を、彼とその取り巻きの若年寄たちが、既存の価値観で、革新的なものを削り取って過去の形にあわせる作業を行っているようにみえ、そのことがものすごく気になった。
 
 彼らのつっこみは、彼ら自身の持っているセオリーにあうかどうかである。
 
 「その商品を作るとして、掛かったコストが取り返せるのか」とか、「そうしたもの、きいたことないんだよな」、「売れるという確信があるのか。」、「今迄に例がないから、もう少し現実的に煮詰めて出し直して欲しい」、「技術変更は難しい」、「利益性の不確実な試作品に研究開発費や金型投資などできるものか」。
と、いったことだ。

 「おいおい」、と言いたくなる。旧来の物差しで、これからの企画を潰していて、果たして革新ができるのか。
 
 彼ら若年寄は、実はもっとどこかでやってうまくいった実例、著名会社の成功事例、どこかの本で紹介されたこと」を、先読みし、その想定内で革新を求めているのである。
 だから、「もっといいもの探してみろよ」とか、「もう少し本でも読んで勉強しろ」とか、なかにはご親切に、この本にはこのような記事が載っていたとか、難しい経営管理数値の公式などを紹介したりして、自分の閑雅への中に誘導している。結局は、社員に対して自分の知識のご披露のだ。
 
 これでは、新しい製品企画や新しいマーケットに向いた製品づくりを提言しても、みんなの前で恥をかくか、大きく曲げられてしまうのが「おち」で、それなら、それとなく言われた研究や作業を行っていればよい、ということになる。

 ヘーゲルの弁証法を持ち出すまでもなく、「こと」の発展は否定から始まる。過去のものが活きると言うことは、この過去を否定の「台」として、叩き、「否定の否定」の産物を生み出すことである。
 だから、革新は、過去を無視することでもない。過去をそのままなぞることでもない。
さらに組織の本質は、個々の能力を最大限に引き出し、それらを有機的に結合させ組織としての最大限の成果を得ることにある。それを経営者が、組織の中の有効性を押さえ込むといったことは、彼自身が組織の癌であることを意味している。

 この2代目の癌を切除することは、簡単だ。辞めてもらえばいいのだ。だがそれは理屈であって、癌にかかり早々に経営をこの息子に委ねた、先代(会長)には、息子が癌だ、とは言えないのである。外科施術が出来ないのなら、コレだ、という薬の調合を今、考えているところである。

羊たちの等式-5

2006年02月21日 | Weblog
そして、「これだ!」と叫びましたね。

その瞬間、私の設問は氷解し、また「システム」の意味が理解できたのです、躍り上がって感激したことを、今でも覚えています。

 人の生き方そのものが社会システム。すなわちお互い不完全であるがゆえに、不完全同士が、お互いの足りないところを補完し合って(有機的結合)こそ、生きていくように作られている、という理解です。

 ここで重要なのは「不完全」というキーワードです。ここで不完全の定義を、「自分にあって、他人にない状態、および自分になくて他人にある状態」とする。そうすると繁栄のために男は女を必要とし、女は男を必要とする、自分は他者を必要とし、他者は自分を必要とするということがわかります。

すべからく完全でないことが、前提になっているということです。だから本能的に、自分が完全になろうとする、その気持ちはわかるが、それでは事実上排他的になる。「俺は、なんでも自分でやれるぜ」という人には、他人は手出しできませんからね。だから、そうしたなんでも自分でといった気持ちを抑えて、他人、友達や仲間や社員と、有機的結合を計ることが、生きる上にも企業の繁栄と長生きにとっての本来、根本なのだ、ということになります。
これが私のたどり着いた人間の有り様、生命システムの概念です。「なんだ、そんなこと」と笑わないでくださいね。このことを突き詰めた方向に、事業が繁栄する戦略がある、って言いたいだけですから。
たとえば、組織のあり方を、この視点から考え直してみると、ずいぶん糺すべきことがあるはず。
 
 長くなりました。ここでこの稿、おしまいです。ごきげんよう。


羊たちの等式-4

2006年02月20日 | Weblog
一対一の勝負に持ち込んだにしても、相手より弱かったんでは、どうしようもない。

 ところでこの協力関係、という言葉。これもずいぶん考えてきたんです。なぜ人は協力関係を是としなければならないかってこと。なんとなくわかったきはしていたのですが、私が欲しかったのは、自分が納得いくその根拠です。人はなぜ協力が必要か、って設問を立てて、そのことを考え続けてきました。それで次に、そのことに触れてみます。
 
 結論から言いますと、人間は、神仏と違って、不完全であるがままをもって生きることを前提に作られている、ということです。だから補完しあうことが必要なのです。この補完関係こそ協力の本質なのです。
 
 人間は、不完全だからこそ、己を高め学び、足りないところを補う必要がある、という風にほとんどの人が受け取られています。足りないから、欲しがる。自分にないものを欲しがる。それが人間としての進歩発展。私もそう信じてきました。
 
 ところが、もう17-8年前、「それは違う、なぜなら人間が完全を目指せば、他人を必要としなくなり社会システムが崩壊する。またこれは神仏に近似することで、神仏が嫉妬するので、そのため人は早死にする」、こうした説を、産能大経営学部教授 石尾登先生の遺稿「片の哲学」で知ったとき、自己研鑽によって神仏にとは言わないまでも、少しは立派になれる、といった思いに挫折感を覚えていた私は、驚愕しました。そして、「これだ!」と叫びましたね。
 
 そして、その瞬間、私の設問は、、、、(次に続く)

羊たちの等式-3

2006年02月19日 | Weblog
とりあえず、メリットは左辺側にまちがいなくあることになります。 これで相手の温度。

 これで相手の温度と共有(等式成立)できる。これが、企業戦略を考えるとき、とりわけ人・モノ・金のない、ないないづくしの中小企業の戦略を練るときの、私の描くイメージなのです。
 
 当然ですが、作用があれば反作用あり、大きなリスクもあります。 たとえば水1度≠お湯100度を、解放したら50.5度、やけどする、といったこと。「=」という堰を一度に切ったらこれはヤバイので、ここは少しずつ、様子を見ながら、といった配慮と工夫は必要だろうと思います。
 
 以上は、数字の多寡ですから、いわば「量」を前提にした説明です。次に、これを「質」に特化し考えると、左辺の戦略はいっそう際だつたものになります。
 戦いの事例に置き換えたらわかりやすいと思います。広大な草原で戦う場合は、数の多い方が有利。狭い細い永い道での戦いとなると、一対一の戦いになりますから、勝敗は数から、個々の質の如何になります。このことは孫子の兵法でおなじみだろうと思います。
 
 つまり、弱者は量と質、どちらを戦略として採るかと言ったら、これはもう「質」だ、ということです。ですから、ここまでの述べた等式が成立する前提に、左辺に右辺を魅了する「質」の存在が不可欠になるわけです。一対一の勝負に持ち込んだにしても、相手より弱かったんでは、どうしようもない。
 ところでこの (→次に続く)

羊たちの等式-2

2006年02月18日 | Weblog
ですからここは前者の説のみしか成立しません。

 こうしたことから、弱者の採る大戦略は、戦いでなく平和裡、封鎖的ではなく開放的であり、右辺のエネルギーを左辺に取り込む形にならざるを得ない。とこう考えてみました。
 具体的には外部から多くの協力者を得ること。外部の知恵を活かすことになります。この外部には、むろん消費者も、仕入れ先も、広義には自分以外、全部含む概念、狭義には自分の組織以外です。売上げたいとすることに購買するという行動で協力しているのは右辺側、外部の消費者ですし、クチコミなども消費者の左辺に対する支援と考えるわけです。
 
 こうした仮説設定を行い、これまで主に営業面で様々な実験を試みてきました。営業を中心に考えたのは、経営の主管部であり、外部との接点が一番の多い部署だからです。
 これはまた、私の頭の中に、営業というのは、消費者が購買という協力関係をしてくれるためにはどうしたらいいか、これを戦略にすべきだ、というのが以前からの持論。経営コンサルタントとしての信念でもあります。
 
 ほっといてそうした協力関係を右辺が積極的にしてくれるということは、まず稀有ですから、ここは左辺側、つまり自分が戦略の主体になります。
 温度の違う左辺と右辺、温度を上げたい左辺は堰を切る。その結果温度が上がるのは左辺、下がるのは右辺。このことで左右同じ。とりあえず、メリットは左辺側にまちがいなくあることになります。 これで相手の温度 (以下続く