経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

学びの貪欲さ

2006年04月30日 | Weblog
 他山の石という言葉がある。
 どうも人は、成功事例に学ぶことには熱心でも失敗から学ぶことは苦手らしい。自分の失敗はつくろうし、他者の失敗には俄(にわか)評論家になり多弁する。また先のことは語っても、過去のことには寡黙になってしまう。

 企業犯罪や社員不正、たとえばNHKのカラ出張旅費や請求書の水増しなどが問題になっても、「この際、うちでも徹底的に調査してみよう」といった積極的な動きになることは少ない。

 ことを荒立てるという意味ではなく、こうした機会を活用して、自らのインターナルチェックシステム(内部牽制制度)が機能しているか、組織のよどみはないか、再確認してみることが、組織の浄化作用と学習効果を高める絶好のチャンスと考えている。 

 「化信頼している社員を疑うのか」という声が聞こえてきそうであるが、とんでもない。「当社ではそういったことは一切さいない」と、従業員が胸をはれる、誇れる社風作りの一貫として行うのである。それに調査はなにも疑惑解明の専売ではない。清廉の証しのための手段でもあるのだ。

過去の成功事例からも学び、また失敗事例からも学ぶ、他の成功からも失敗からも学ぶ、あらゆる機会、出来事から学ぶ姿勢と意欲、いわば学びの多角化といった学習姿勢、そうした貪欲さ、しぶとさが、企業や人を大きくする、と考える。

私はちっぽけなお店に助けられている

2006年04月28日 | Weblog
爾来、小は中になる前の前段階、中は大になる前の通過点といった意味で中小企業をとらえ、弱者保護という観点が中小企業対策の中心思想であった。これすなわち、「弱者は救ってやらねば生きていけない」。
 吐き気がします。

「君は俺の援助なしには行けていけないのだ」
と、人から言われたら、喜びますか。嬉しいですか?

 郊外にはメガ・スーパーセンターなどがでて、商店街はナカヌケ。その中で、こな小さな店のままでいけるのだろうか、中小企業は生き残れるのであろうか、といった不安はある。ない方がむしろおかしい。

 事実、郡部の殆どは、商業統計がでるたびに中小店での購買率は低下し店舗数も激減していることは事実である。危惧は理解できないわけではない。

 しかし、たとえば4人以下の商店数が減少していることは、必ずしも「消滅」という暗い側面だけではないのだ。なぜか。声高らかに言いたい。

 「中には消滅どころか店を大きくし従業員が増え、統計上の1つや2つ、ランクアップした店も多くある」と。

 詳細に現場をみれば、こんな例いくらでもある。統計は、必ずしも現実を捕らえていない。その場合、優先すべきは統計ではな句、現実なのだ。

「大駐車場を持つ大型専門店とSC(ショッピングセンター)が充足したら、中小店の役割は買い忘れ補充、近いだけが便利だけ、それもコンビニエンスストア(以下CVS)が果たしてくれるから中小商店は不要」といったように、危機感をあおるタイプのコンサルタントもいる。「だから頑張りなさいよ」と好意的に受け止めたいが、その彼らがいうCVSですら中小商店の明るい一面の一つではないか。

 あんなちっちゃな店でも、やり方ではやっていける、いいモデルとして見るとらえ方もあるのだ。

 中小企業不要論者が「元来商店は、地域社会を構成する住民への利便性を求める二一ズがあり、その利便性をより幅広い形で充足してくれる大型店には、いわゆる“包み込みの理論”により存続をゆるされない」といったことをいう。

 これも論理的に理解できるのは前半だけ。「ではCVSは包み込まれないのか」。私の質問に、某カリスマは答えられなかった。論理矛盾,実態無視の論。

 なぜか、大であろうと小であろうと、現状に対応していく姿勢があれば、知恵が出る。人間の力はすごい。それが次々新しい業態を生んだ。CVSもその1つ。

 だがもっとすごい現実がある。
 もう一度、手許の商業統計をみて欲しい。
 消滅した数と残っている数とどっちが多いのか、確認してみて欲しい。圧倒的な数の中小商店が、どうどう現存している事実があるではないか。どうして消滅した方を見て、残った方を無視し、あるいは彼らを今後の消滅予備軍とみるのか。

 そうした論者は、そのことに気づかない、無知か、なにか意図があってのことか。堂々生き抜いてきている中小商店に失礼だ。

 行政人口が減少する中で、一握りの人々に支えられて生き抜き続けていること。 何度でも繰り返す。すごいではないか。私は、そうしたけなげなお店を見ると、涙が出てくる。誇りに思う。

 それは「大には大の、中には中の、小には小なりの機能と使命がある。それぞれの規模においてその機能と使命を果たすことで小といえども堂々と存立できる」
 と、ただひたすら25年間も主張してきた私の心の支え、生きてきた証にもなるからである。彼らの存在がなかったら、とっくにまた元のサラリーマンに戻ったか、挫折して年金待ちの生活をしていたに違いないのである。

 「有り難う」と、過疎の町を歩くたび、ちっちゃなお店に頭を下げている。

情報と立場

2006年04月27日 | Weblog
情報には、通常その情報を流す人の意図や恣意性、そこまでいかずとも情報には提供する人の立場かある、ということを承知しておかなければならない。
 
 簡単な例えで言えば、Aという商品を売りたい人は、その商品の良い点は情報として積極的に流すであろうが、不利な点、短所は伏せるであろう。金を借りにきた人は「必ず期日まで返す」というに決まっている。
 
 相手の都合や立場から発進される情報を鵜呑みにすると、結局ばかをみて後悔することになる。手形詐欺や結婚詐欺に引っ掛かった人は決まって「あの人を信用していたのに」と泣き言をいう。騙した人も悪いが、一方的な情報を検証せず信じた方も悪い。
 
 情報は、手と足と口を使って自分で確認することである。表の見せてくれる面だけをみて判断するのではなく、手に取って見せてくれない裏も見せてもらう。疑問や矛盾があれば,口でを確認することで情報は精度が高くなる。

迂闊をお詫び

2006年04月26日 | Weblog
パソコンのHDの掃除をしていたら、以下のような文章を見つけた。いつどなたの文章だったか、確実に記録していたはずなのに、それがみあたらない。どうしてだろう。その理由もわからない。コピーした直後何かがあって中断。そのまま、と言ったことかも知れないが、憶測すると言い訳になる。

 私の思想、理論の裏打ちにぴったりので、最初は、自分が書いた文か、と錯覚したぐらい、再発見を感激した。書いた方がわからないのだから、ご披露することもためらった。

 だが、このままでハードデスクに眠らせておくには実にもったいない。
 私たちが営業、販促、接客といったことに関して、如何に売り手の身勝手を主張し、実施しているか、そのことにご体験から気づかれ、これまでの愚を指摘しておられるこの文章は、私にとっては感動の一文である。
 無断掲載をお許しください。もしこのブログ、ご覧になっておらたら、よろしければメールでも、ここにでも、ご一報いただけたら、嬉しいです。

 私みたいな理屈屋は、こうした実践で捕まれたもの、ほんとに有り難いし、勇気が頂けるのです。お詫びとともに、心中より感謝を申し上げます。
                  *

     ある日ある時、一つの結論を出しました。顧客情報を元にあれこ
    れ販促を考えるのは、結局売り手の論理の押し付けではないだろう
    か。お客様はもっと別な動機でご来店しそしてお買い上げになって
    いくのではないか。最初にお買い上げになったお客さまに忘れても
    らわないようにDMを打ち続けることは意味があっても、それらのDM
    で過大な売上増の期待をしてはいけないのではないか。シャツをお
    求めになったからといって、次にはボトムスのご案内を、と考える
    のはまさしく売り手の勝手ではないのか。お客さまにとってそんな
    ことはどうでもいいことではないのか、などなど。
    そのような「仮説」を立てたのち、サンクスレターとクローズドセ
    ールの案内以外は顧客情報を元に販促を行なうことを一切やめてし
    まいました。そして、それよりも商品の質的充実、店頭接客販売の
    強化を実施しました。結果、売上は減るどころか増加することとな
    りました。それまでの販促経費が大幅に削減できただけでなく、顧
    客情報を細かく分析する作業もなくなり「小売」に徹することがで
    きました。ソフトのカスタマイズ費用や膨大なDM販促費用、それに
    携わる人件費など多くの授業料を支払った上で学んだことでした


デフレのさきに見えるもの

2006年04月25日 | Weblog
需要を供給が上回ることで伸びてきた経済が、同じ理由でデフレーを引き起こた。今、ようやくデフテ基調から脱却の兆しが、と報道されていますが、デフレ構造そのものは、全く変わっていないことを見落としてはなりません。

ものを作り始めた頃は、自分が必要なだけ創っていました。少し進んでも、自分の販売量だけを製造していたに違いないのです。しかし、もっとよけいに売りたいという欲は誰にもありますし、よけい売ることで単価を下がればお客に喜んでもらおうという優しい気持ちもあったことだろうとおもいます。

そういう意欲が機械を生み、その発展を押し上げていった。そのたびに生産性は上がり、効率化が進み、製造能力が増す。作れば作るほど効率がよくなり、作ったモノは完売するるのですから、自分の販売能力を越す商品を製造することを、「魔がさした」などとは言えません。自分で売る数量を上回る分は、他に卸せばいいわけです。こうして卸という新しい仕事を生業とする人が増えました。自分も売り上げが上がり、投資した機械代はたちまち返せる。卸屋さんが増えれば、大型機械に買い換える。機械屋が儲かる。鉄が経済を押しあげ、カーネギーだけではなく製鉄所。それを焼く石炭産業が、経済をリードしてきました。

 こうして皆が必然的に需要に応じて生産するという概念を拡大していって、見込み生産が主流となっていったことだろうと思います。

 ところが、製造した数と卸す数が一致するという最高の効率レベルに達したとしても、卸した数と小売店で実際に販売された数とは、まず一致することは奇跡的確率になります。どんなに厳密に計画を立てていても、買う人は、作り手ではないし、卸屋さんでもない。小売店でもない。どこかのだれか知らない不特定多数の人たちです。

 そこでたいていは卸した数量が小売店での販売数を上回り、その差が返品や廃棄されることになります。あのコンビニの残った弁当はどこへ行ったか、と考えれば、このことがイメージできるのと思います。

 逆に販売数が卸し数を上回ることが明らかになれば、これ増産のチャンスとみて工場はさらに製造能力の大きい機械を導入し増産するにちがいないです。ですから仮需である製造数は、実需である小売販売数を、常に上回ることになりましょう。たしかに「見込み」は需要を押し上げる役割を果たしたことは事実ですが、反面、「見込み違い」というリスクも大きくしていったと考えてみてください。

 こうした繰り返しで大きく成長したメーカーもあり、消えていったメーカーもあるわけです。そう考えると受注生産オンリーでは、大きくなれなかったことは間違いがありません。規模の利益(メリット)は、機械化が進んだ装置産業ほどで出ますから、少しでも大きくしたい。機械も次々より効率的なものが出てきます。だれしも流行には「乗り遅れ」たくはありません。

 これが、私がイメージしている、画一化・効率化を生み、発展させてきた土壌と過程です。そしてまたそのことが、デフレを生み、進行させてきた理由でもあるわけです。

 この構造自体は、変わらない。変わっていないどころかますます進んでいく。ここにデフレ脱却の困難性があるわけです。輸出を止めたらいい。オール計画生産にしたらいい。いずれも暴論です。こうした暴論も含めて、いろいろな方法があると思います。でも口ではいくらでも言えても、不特定多数の人々の心の動きを制御することは出来ません。またやってはならないことです。
 では、どうしたらいい。あるのです。表では言えないこだけで、だれでも知っていること。

 哀しいかな。過去の歴史は、本能的にデフレ対策を見つけて、無意識的か、意識的か、過去幾度もなく繰り返している。  それは「戦争」です。

 デフレの、さきの先の将来(さき)には、戦争が見えてくる。原油価格の高騰、それも一過性ではない。そのさきにみえるもの。それが一番木々していることです。
 関連は、ブログ「奔るジャッドンタノウエ 追っかけ帳」に記しています。合わせてご一笑ください。

フィールドチェンジ

2006年04月24日 | Weblog
「フィールドチェンジ」                  田上康朗
「昔は良かった」と嘆く人がいる。よかった理由は、その本人の経営手腕ではなく、「昔」にあること。それに「今」は悪く、そのせいで彼の業績が、今は低迷していることを告白していることになる。

 「近くにSC(ショッピングセンター 以下SCと略称)、が出店したため売上げが悪くなった」といって、いつもぶつぶつ文句を言っている人がいる。最近そのSCの核になっていた大型スーパー自体が倒産し、撤退した。では彼は喜んでいるか。否、今度は「町に核がなくなった。早くなんとかしろ」といっている。これも経営を上下させているのは、経営者である彼ではなくその「SC」だということになる。

「この町の人は変わっている。昔から地元でなく他の町で買い物する。そういう人情のない土地柄なのです。ここは」と、ある町の商工会役員が真顔でいわれた。これも悪いのは自分ではなく「土地柄」である、ということだ。

 彼らにとって、良かった時代は常に過去。そして今のこの不振や売れなくなったのは、SCなど大型店がお客を奪ったため。そうした外部で買い物をする消費者や土地柄が悪いのであっで、自分は消費を奪われた善意の被害者という論理である。しかし自分だけがそうであっては、世間に対し説得力に欠けるから、その論理に普遍性を加えるためには、中小企業はすべからく弱者であり被害者でなければならない。だから大型店出店阻止といった組織活動には、熱意を見せ、ときには阻止運動の先頭に立つこともある。

だが、苦境なり不振なりが、自店の固有の問題や自分自身の固有の問題とされることに極端な不安と恐怖感を抱いているから、それを思い知らされるような研修会や経営講習会には、滅多に参加しない。

彼らは、まさかたくさんある消費者の選択枝から、自分の店が外れているといったなどとは思っていないか、思ってみたくないか、どちらかだろう。だがそのことが決して強がりだけに思えないのは、「店が存在すれば、人は買いにきてくれ売れる」といった思い、それも信念みたいなものに支えられているからであろうか。彼らには頑迷で、外部の人の話を聞きたがらない共通性がある。

彼らの頭の中には、商店が少なく、ましてやスーパーもコンビニもなく、消費者側に購入先も購入する商品すらも選択の余地もなかった時代のことが、鮮明に記憶されているに違いないだ。その頃は、メーカーや問屋の持ってくるものを、店頭に並べていれば売れたし儲かった。それが彼らのいう「昔」であり、過去の成功体験なのだ。

 「中小商店は頑張りが足りない。努力が足りない」と檄を飛ばしている識者や専門家も大同小異である。たとえば、「大店立地法」の施行(H12年6月1日)された直後、多くの識者は、すでにその時点がデフレ下にあり、大型店やSCに倒産や陰りがみえてきていたにもかかわらず「今後毎年100カ所以上の新規SCが開発され、2010年には最大4000のSCになる。これは過去30年分のSCが、わずか10年でできることになる」(業界専門誌S H12年7月号、某氏論文)。といったように、多くのが、「大店立地法」はSCの開発のピッチを速め、大型化を促進すると予測。その理由として、市町村が大型店を誘致することの「事業税増」、「雇用確保」「地域の利便性向上」などのメリットが挙げられていた。

 さてその後の現実はどうであろうか。そのSCの核となるべき、百貨店や大型スーパーがこぞって不振を窮め、倒産、退転続出の有り様である。誘致側の行政にしても然り。むしろ退店・撤去阻止の方に躍起というのが実態である。

 識者・専門家もまた無競争状態に競争が生まれた場合、大が強者、小は弱者。それを小からみると大が加害者で、小は被害者といった既成概念、それに過去の成功体験を右の彼方へ伸ばして、将来(さき)を診る手法に依存している限り、さきに述べた多くの商人たちと大同小異といってよい。

ではこの両者の認識に共通するズレ(要因)とは何か。
競争は、作り手・売り手におけるフィールド内の問題、視点であり、当事者にとっては歓迎したくないことである。しかしこれを消費者側のフィールドからみたら、多くの買う「場」、多くの商品を選択できることはハッピーで、歓迎である。とすれば上述した作り手・売り手の論理が嵩じることは、消費者の喜び・楽しみへの挑戦であり、消費者を敵に回すことになる。消費者を仮想敵にした論で、消費者に支持されるわけはない。

2点目は消費者の選択眼のことである。選択肢の拡大こそ、消費者の豊かな生活の背景を支えてきた最大の貢献者といってよい。選択肢が拡大すれば、買い手の方は数多くの中から、選び抜くということになる。これが消費生活の中で当たり前になれば、その選択眼は鍛えられる。野球の場合選球眼だが、たくさんの様々な業種・業態の中からお店を選ぶことを、かりに「選店眼」と名付け、様々な商品やメニュー、サービスから選択するのを「選品眼」と呼ぶことにする。それらが鍛えられ厳しくなればなるほど選択されないものが圧倒的に多くなる。消費者の「眼」に叶わない企業が存立できないのも、また自明の理である。この2点が、いまの構造的消費低迷の根底にある。

 そこから脱却を図るためには、これまでのフィールドでの努力ではなく、消費者を中心においたフィールド(消費者中心主義)へチェンジを計る以外にないことを知るべきである。

おかしなこと

2006年04月23日 | Weblog
 今日は日曜日。自治会の用があり、街へ。新幹線駅付近は、以前と比べて結構賑わっている。駅の近くにある観光協会は、定休日だ。
 観光客を一人でも多くという「口先」と裏腹に、客が必要としている日祭日は休みで、客がいない平日は開いている。役所が休みだから当然顔。その役場、勤務時間、さぼらないと利用できない。口先は、「市民のための行政」だ。このおかしなことに、気づかない。気づいても言わない。言っても変わらない。

  同様、あなたの店もおかしな店だ。
 売れ筋は売れて品切れで売れ残り商品でいっぱい。それで売れないとぼやくあなたもおかしな人だ。   
 それに,最近、自動販売機や自動ドアは挨拶するが、タバコかったぐらいでは店の人は挨拶しないぞ。それで子供に挨拶しろといっているのは、挨拶している自動ドアではなく、挨拶しない人間の方なんだから。

 おかしいね。でもこのおかしなことに、気づかない。気づいても言わない。言っても変わらない。

このおかしいぶんだだけ、まだ発展する。こうしたところにも革新があるじゃないですか。

契約は、共感の上に成立している

2006年04月22日 | Weblog
お客が得することをやれば、お客は得をしたいから得をさせてくれるところを選んで購入というこで、結果的には自分が得する結果を得るのです。

 ですからお客が喜ぶことで努力をすれば売上は必ず上がります。それを自分のところが得をすることやお客に関係のないことで努力したのでは、まさに努力の甲斐なし、無駄です。

「不景気で売れない。どうしよう」と自分のところのことだけを考えても、その状況からはなかなか抜けられませんが、「消費者も大変であろう」と思った時にヒントが出てきます。

 たとえば、「原油価格、高値避けられない」という見出しを新盤で見たとします。
「配達のコストが高くつくなぁ」と考える人もいるでしょう。
これを「お客様の来店負担が増えるから、これを軽減してあげれることないかな」とお客観の「大変」を解決して上げることを考える人も、少数でしょうがいる。
どちらを消費者は支持するかということです。

 お客が得になることを考え、やる習慣を創ることです。繰り返しますが自分が得することを考えても、お客から選んではもらえる理由には、まず結びつきません。

 いつも申し上げていることですが売上=買上の等式は、売る人=買う人と置き換えてもよく、この等式が成立することを条件として、契約が成立。モノとお金が交換という形で動きます。

 例えば、中心街では雨が降っているが、郊外が晴れているという状況を考えてください。降っている所は傘を前に出すと売れますが、晴れている所では出す必要はありません。売る人と買う人に、雨が降っているという共通認識があるから傘という商品が動くわけです。つまり、売る人と買う人の立場・心が一緒になった時に初めて等式が成り立ち、売る努力とは無関係に買ってもらえるわけです。
売上=買上、これは売る人=買う人の等式、経済で言う契約は、両者の「共感」の上に成立していることを、見逃してはならないと思うのです。

商いのフロー

2006年04月20日 | Weblog
事業が成立、存続する前提としてその根底にながれているものがあるとしたら、「相手のことを想う気持ち」であろう。
 相手のこととは、一言で言えば、その相手の喜怒哀楽。思うとは共有と解したい。その上に「お客を知り、お客に思いを馳せ,お客が求める商品やサービスを製造ないし仕入れ、提供する」というフローが乗っかっている。このフローが商いであると考えている。

 地域住民と同じ町で生活している地方の近隣商店街ですら、何回も来店し買物をしているのに、お客の名前を知ろうとも関心もしめさなに、といったことは少なくない。なぜか。頭の殆どは自分の関心で一杯だからである。
 
 買うのはお客なのだから、そのお客のことに関心をもち、知る、といったことでなければ商いがフローとして流れないのにである。

 一見、お客との対話や接客がなされているようにみえても、内実は自社・自店にある商品を売ることだけに夢中。だから "売り"に偏っている。また接客がその都度、その都度の完結型に終わっている。こんな接客を何年、何回繰り返してもお客を知ることはできない。また顧客情報が蓄積されることはない。
 ここで顧客情報というのは、POSやレジや、あるいはそれらをコンピュータでグラフにしたもの、といったものではない。

 なじみの店が、お客から希望する商品を問われて、「申し訳ございませんが、」と、どんなに丁重に謝ったとしても、自分の欲しい商品が置いてないこと、すなわち自分に関心を持ってくれていないという、お客の疎外感を払拭できまい。接客に相手への関心が欠けては、商いのフローは停滞する。

 企業なり、商店なりの活性化とは、このフローを活発にすることに他ならない。

「商人考」

2006年04月19日 | Weblog
商品や人的サービス等の差別化により,まず一握りのお客が支持を死、自分の選択を区々他の消費者に伝えるという形で、さらに広がりを成す。その過程で、ごく一部がリピート。いわば固定客となる。こうしたプロセスの螺旋的繰り返しで、その企業なりお店、商品、サービスが他の消費者にクチコミを主媒体として伝わる、という善循環システムを構築する、これが私の仕事である。

 そうした25年で、学んだこと。いつも自問自答していることだが、「小さい店は大きくなることが目的であろうか。小は小のままでその存在価値を見出す。すなわち大と小の対比ではなく、また大を否定するのも小を否定するのでもなく、大は大なりの、そして小は小なりの社会的使命を果し得るところにこそ意義があるのでは」、と。

 そして、もう一度繰り返すが、大と小は社会というシステムを構築する上でのそれぞれの機能分担の関係であり、それを果たすことにお互いの存在価値がある。これが私の確信になり、持論になった。

 今、お客の生活を、それぞれの立場で、相互にハッピーにすることこそ、事業活動の命題である。賭するならば、規模の大中小もまた、1つの機能分担ではなかろうか。すなわち、小は小、中は中、大は大、区々の役割を果たすことが個々それぞれの経営者に求められているのではなかろうか。

 規模の大小は商人として共通の使命を果たす手段の違いに過ぎない、という理解をするならば、おおよそ競争、勝つの負けるのといった意識や嫉妬や不安は存在しないはずである。

 しかし誤解して欲しくない。こうした共生の形は決してもたれあいではない。
また共に生きると言う意味での競争は成長、発展の条件として不可欠であろう。
 しかし表面に見えるのは、ただひたすらお客の幸せを願い、淡々として商いの使命を果たす商人の姿だけ。それだけで良いはずである。

 今、こうしたことを書くのは、余計なこと、見せないで良いことをみせ、見せなければならないことを見せない、といった有り様を取る商人があまりにも多いことを、売れいているからである。