経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

諫止(かんし)

2007年02月28日 | Weblog
上に立つもの多くは、甘言者と身びいき者が組織を崩壊させると承知していながら、いつの間にか彼らを周りにはべらせ、諌止者を遠ざけ、時にはその首を切り、そして裸の王様となっている事例を私は仕事柄、数多く見てきている。
古来、有能な指導者は、自分の周囲にそうした輩(やから)がはびこるのは、自分の器量からみて止むを得ない。だからこそ自分の誤りや行き過ぎについて、諌止する者をあえて左右においた。それだけではない。たえず口癖のように、彼らに対し、自ら自分への諌止、苦言を求めた。
これは、私の本「羊たちの探しもの」のはしがきに書いている文章である。

「その有能な指導者は、きっと精神的に強い人だったんでしょうね。私など諫止されるなど耐えきれません」―――Kさんから、こうした質問を受けた。良い質問である。
答えは、「ノウ」である。弱いから、諫止が身にしみる。いや諫止がなければ暴走するかもしれない自分を自制できない弱い心の持ち主だからこそ、あえて左右においたのである。
その意味で、有能とは、弱い人間である自分を認めるところにある、と考えたい。
こんな風にお答えした。Kさんは、なんどもうなずきながら、聴いていた。
お父さん以上の良い経営者になる、と嬉しくなった。

互恵

2007年02月27日 | Weblog
息を吸うにも、歩くのにも、水を飲むのにも、手を洗うにも、教えを請う人がいて教える人がいる。請う人がいなくても、教えたがる人もいる。
もっともそうした中には、教えることが本当の目的ではなくて、「おい、おい、おれは物知りだぞ」といったことを吹聴するため、といった大人子供も少なくないようが。
 もちろんそうした場合、「ああ、教えてもらってありがたいな」と思う人も大勢いるのでしょう。未知のことを学ぶきっかけは、自分の子供の頃を思い出しても、親戚のお節介お兄さんがお陰だ、といったものも少なくないことは事実です。
だからといって、教える人がいなければ学ぼうとしない人たちがふくれあがってくることが、良いことなのかどうか。学ぶという背景には、関心を持つ、好奇心、といったものがあるのでは、と、私はそう思うのです。
 いつも事務の人にコピーを頼んでいたM社長が、あるとき自分でコピー機を使おうとしたが、どうしても操作出来なかった、という話を、ご本人から聞きました。
「ボケがでたのかな」といわれていましたが。それは違う。
私もそうです。もはや鉛筆で文章を書くことは至難の業(わざ)化しています。漢字を書けなくなっているのもそうですが、文章が出てこない。頭が働かないのです。バイパスが出来たため、元の国道がぺんぺん草、あれです。
 教える、教わるといったことに対する問題は、上に上げてきたこと以外にもあります。教えた人が、「おれは物知りだぞ」といった自己充足感の類(たぐい)から、「おれはこうして成功した。これで億万長者になれ」という類まで含めて、教えた人に得があるように出来ている、ということです。端的に言えば体験が売り物になる。それは商売ということで、目くじらを立てることではありません。
ですが、商売なら謙虚さがなくてはならないのでは、と思うのです。成功することは素晴らしいことで、うらやましいこと。ですがその体験を売り物として扱うとなると、それは商売。ならば商人としての謙虚さがあってしかるべきでは、ということを申し上げたいのです。
 でないと。他の多くの商人が迷惑です。「もみ手をして・・・」、と昔から揶揄されているぐらい商人は、謙虚さを飛び越えて卑屈なぐらい低い姿勢をとおして、商いに努めてきているのです。
 売る側は卑屈になってはいけません。ですが尊大になることはもっといけません。ほんとうにお客様に役立っていると誇りに思っている商人は、けして卑屈でも尊大でもありません。「教える、教わる」の関係も同じことだと思うのです。
 そもそも本物であれば、神にしろ、教祖にしろ、カリスマさんにしろ、威張る必要は全くないのです。金をもらって威張るのでは、まさに二重取り、ではありませんか。威張りたかったら、金を払って威張る、これが正しい。
 学びの本質は、学びあい。その解は、
「自分は知らないことがいっぱいあるが、これについては人より知っている。あなたが知っていることで、私が知らないことを教えて欲しい」
「私は、そのことには専門だが、あなたの専門のそれについては無知だ。この際、お互いに学びあいましょうか」
といった互恵思想の上にあるのではないでしょうか。
人は一人では生きられない、といったところに互恵のそもそも(本質)があり、群れや組織や社会が生まれ、また個はそうした全体から学び、相互に進歩発展していく。
これだ、と私は思う。ですからこの「これ」に即しているか、外れているか。 こうした視点で、見れば企業の行く末も見えてくるのです。

だめじゃないかな

2007年02月26日 | Weblog
薬屋は薬を売るのが仕事ではない。消費者は薬を買うことを目的に薬屋に行くわけではない。消費者にとって、購買は手段にすぎない。手段だから選べる。いな選ばないこともできる。作り手、売り手にとっては、購買してもらうことは目的である。だから選択の余地がない。購買してもらえなかったら消えるしかないのだ。
 多くの作り手・売り手は、このこと。つまり自分お仕事がわかっていないし、消費者が自分たちに何を求めているかもわかっていないのである。
 企業が増収増益を目的とすることは自由だが、その目的を果たすためには消費者の支持が不可欠であるのだが、さてそうした自分良しの目的で、消費者が支持してくれるであろうか。
 繰り返す。
 両者の目的の乖離で、泡を食うのは常に作り手・売り手側であることは、考えずともわかるはずである。それでも、これまでも,これからも「今期の売上必達3億円!」の絶叫を根気よくつづけるのだろうか。
 「おい、そこの君、元気を出して拳をもっと突き上げなければだめじゃないか」。こんなことを言っている経営者こそ、ダメじゃないかな。

やらねば分からないことを

2007年02月25日 | Weblog
思いこみ、レッテルやラベルといった刷り込みによる既成概念が、人をして判断の阻害要因になる。それを払拭するには、「まずやってみること」である。もっと正確に言うと、「やってみないで、とやかくいっても始まらない」、さらに辛口で言うと「行動を躊躇する、あるいは保留したいがためにやらずに、なにやかや」・・・。といったことではなかろうか、というのが考えていることである。

それは、よく揶揄的に使う、私の造語、「遠回りの経営」のことについて考えを書いているときに、思い当たったことである。

バブル期のある大手不動産会社をモデルにした「集団左遷」という映画がある。その中のシーンで、左遷させられた特販部の連中が、宅地の草刈りを自らするシーンがある。
 それまでは専門業者に外注していた作業を経費削減のため営業部員がやる。それはその方が安上がり、ということを前提にしている。
 だが それは本当に安くあがるのか。それは事前に検証されたのか。そもそも単にリーダー(映画では篠田特販本部長)の、カン、思いつき、考えにすぎないのではないか、という見方もできる。
 それは、「だから、営業が草刈りする時間に営業に出て、目標の15億の必達に精出すべきだ。」とか「営業に出た場合、ナンボ稼げるかの一人 当たりの平均値をとって、それとの得るべき利益と失う経費を勘案して、それに草刈りを外注に出した経費と対比させ・・・といった試算をした上で結論を出すべきだ。経営は浪花節ではないのだからね」、といった考えもあろう。

それはそうだ、と頭の中ではうなずきながら、一方では果たしてそうだろうか。そうした計算にかかるコストも考慮しなければならないし、社員が草刈りしているということが宣伝効果になることも考えられるし、何をもって何処まで含めて、得るべき利益、逸する不利益を捻出したらいいのか」。 「まてよ。それに草刈りを外注に出す費用が、この会社にはなかったのであるから、外注に出すにはこの金を捻出しなければならんな」、といったように、私の頭は混乱してくる。

こうしたことを考え出したらいったい何処で打ち切って良いか分からない小田原評定になる。北条家は、この長々続いた評定によって滅亡したことを考えれば、実はこれが一番高くついたことになる。

こうしたぼっとしたイメージを、私は「遠回りの経営」と名付けてみた。やらねば分からないこと。期間計算は、期間限定という範囲内での損益であって、それを長くしての損益とは、異なるのである。
 ここに書いた1年間を良し、とみた判断が、長い目で見たときの命取り、ということはマスコミを賑わしている企業だけの固有性ではあるまい。
 要は、分からないことだ。 ならば遠回りやゴッコはいらぬこと。そうしたことはやめて、どちらか、即実行。物事はねやるか。やらないか、どちらかである。やらないことには、評定も評価も出来ないじゃないか。議論をいくら積み重ねても、アウト(コスト)はかかるが、イン(プロフット)はゼロ。戦争における長期戦では、戦わない時間(待機)のコスト(戦費)が、実際に戦って失う戦費より高くつく、ということはよく言われることである。
 資本力のある大企業ならともかく、中小企業が採るべき戦略ではあるまい。

ラベルあるいはレッテル

2007年02月24日 | Weblog
ほとんどのことは、けして難しく始まるのではない
それを難しくしているのは人の方である。それは難しいことを知っている人ほど難しく始まり、難しく終わり、難しいことを考えない人は、簡単に実行することからも明らかだ。
 たとえば、自分の部屋にいつもはないバケツが置いてある。前者は、だれが、何のためにこんなところにバケツなどと考えるが、後者は、ひょいとバケツを部屋の外に放り出し、いつもの通り仕事に入る。
実験をして見たらいい。
 ここに、「誰にでも出来る超簡単」と「まず出来る人はいない超難解」と二つのラベルを用意する。難易度同じ程度のパズル、2つにそれをはる。従業員に好きな方を選んでもらい、やらせる。
 どちらかに並ぶだろう。食べたこともない料理が、うまいかうまくないか判定できまい。それなのに、彼ら、彼女たちは、やったこともないにパズルを難易度で選択している。
 、他人が勝手に決めた判断のレッテルないしラベルを、選んで並ぶ。
 そこで、確認のため、選択の理由をきいてみよう。
 大多数は、つぎの2つの類で、答えるだろう。
 「私、難しいこと苦手なんです」
 「やさしいことへ、挑戦っておもしろくないじゃないですか」
 二つとも正しくない。どちらも詐欺の被害者候補になる資格あり、ビジネスマンとしての資格を疑う。
 「どちらが難しいか優しいか、自分でやってみて判断したいので、とりあえずこちらから先に」、これが正しい。


それって仕事

2007年02月21日 | Weblog
そのことが、消費者からみてほんとうにプラスになることかどうか、これが「仕事」であるか、そうでないかの分岐です。
ここで、その意味での仕事をしている人は、我が社にはいったいどれだけいるだろうか、考えてみてください。まずご自分自身はいかがでしょう。自問自答して欲しい。
 なぜこんなことを申し上げているかというと、そもそも買い手、消費者にとって得にならないもの、すなわち作り手、売り手だけがプラスするものをもって仕事としたのでは、経済行為そのものが成立しないからです。消費者は、作り手、買い手のために経済行為をなすことは、あり得ないから当然ですね。
 このことを前提、物差しとして、自分の企業が為していること。経営者として為していること。従業員にやってもらっていること。経営計画、組織、スローガン、チラシ、POP、電話・・・・など企業や企業人として行っていることの一切を点検してみる。私の仕事、経営革新のアプローチは、ここからスタートです。
 たとえば、
 電話するのに、相手先に訪問するのに、お客様にとっては1番忙しい時期、忙しい時間を抑えているだろうか。人はとかく、相手様の都合、忙しさなどを忘れるものです。
 ソーラー販売で著名なA社では、社長が営業にこういっていました。「朝駆け、夜がけ、お客の所へいってこんかい」、これでこの会社は、今どうなったか。ご承知のはずです。
理由も、皆さんのお宅へ、朝駆け夜がけでこられたらどうか。感激しますか。どうですか。
 自分たちの段取りで予定をたて、事を進めて、それが「効率的」とか「段取りがよいこと」と思っていませんか。こちらの計画に、他人をはめ込んで、計画を立てていませんか
対応という言葉を、日常当たり前のごとく、何気なく使っていますが、企業内を見回したら、この対応が全く出来ていない。対応というのは、相手に合わせて応じる、ということです。対のさきに相手、消費者、お客様がいるのです。
  自分たちの都合を不便してでも、お客さんの都合を優先する。もっといえば自分たちが手暇をかけてあげることで、お客様の手暇を解消してあげる、これが仕事が成り立つ本質なのです。
 きれいごとで申し上げているのではありません。企業が儲けるためには、このことが組織全員が理解し、組織の体質になっていることがきわめて重要だ、と申し上げているのです。(「福井中小企業大学校講演録」より)


おかしなるその理由

2007年02月20日 | Weblog
 気象予報士は、先の天気を予測し、伝えたから尊大になることはない。だが、教師はどうか。親の子供に対してはどうか。占い師はどうか。
 自分が一生懸命、考えているとき、先に答えをいわれたとき、がっかりした自分の気持ち。いっている人の、誇らしげな顔をみて不快に感じた、そうした思い出が頭に浮かべながら、書いている。
 教え込むのでなく、それぞれの人に自由に個々のやり方で実践してもらい、個々に自ら成功体験も失敗体験も得てもらう。その中から普遍性の高いものを集約してルール化していく。こうしたものが、学びの本質だと思います。本質というのは、みな本来持っているもの。ここまで書きながら、ふと「補導」という言葉が、頭に浮かびました。言葉尻を捉えていうならなんと傲慢な言葉か、という思いです。
 とこあれ、成功にしろ、失敗にしろ、個々の体験を積み重ね、そこから学ぶことが本来であると同時に、それをお互い共有化することで、組織の学びになるのではないでしょうか。
こうして人は学び、組織、社会も学ぶ。さらに社会、組織から個々人は学ぶ。こうした相互の交流の繰り返しで、螺旋状に知恵、文明、経済、といったものが進歩発展した源であろうと、私は思っています。
 つまり、帰納的アプローチとともに、お互い学び合う相互関係の存在であること。学んだことは個人財産であるが、同時に組織、社会の共同財産でもある、と関係だ、という理解です。
それを、教えを外に求める。他人に求める。神仏に求める。それを請う。そのニーズを受けて、教え込む人が氾濫しています。需要と供給の関係、しかもバランスがとれて良いではないか、と思うかもしれませんが、申し上げたいことはそのことではない。
 教える人、教えを請う人が、専業化してきている。役割分担化してきている。勝ち組と負け組、くっきりしてきていること。
 こうしたことを憂いしているのです。

息を吸うにも、歩くのにも、水を飲むのにも、手を洗うにも、教えを請う人がいて教える人がいる。請う人がいなくても、教えたがる人もいる。
 
もちろんそうした場合、「ああ、教えてもらってありがたいな」と思う人も大勢いるのでしょう。ですが。だからといって、教える人がいなければ学ばない世界のシェアがふくれあがってくることが、良いことになるのかどうか。私にはそう思えないのです。

いつも事務の人にコピーを頼んでいたM社長が、あるとき自分でコピー使用としたが、操作出来なかった、という話を、ご本人から聞きました。私もそうです。もはや鉛筆で文章を書くことは至難の業になっています。これ、いいことではないはず。
 
それだけではありません。教えた人が、「おれは物知りだぞ」といった自己充足感の類の無邪気なものから、「これで億万長者になれた」という類まで含めて、教えた人に得があるように出来ている、ということです。それも商売、ということでいいとしても、
 
ならば、謙虚さがなくてはならない、と思うのです。
 でないと。他の多くの商人が迷惑です。「もみ手をして・・・」、と昔から揶揄されるぐらい、商人は謙虚さを飛び越えて卑屈なぐらい低い姿勢をとおして、商いに努めてきているのですから。
 
そもそも本物であれば、神にしろ、教祖にしろ、カリスマさんにしろ、威張る必要は全くないのですから、その尊大こそが自己否定、そうでない偽物の証、という見方も出来ます。それにしても金をもらって威張る。まさに二重取り、ではありませんか。
 
学びの本質は、学びあい。その解は、俺は知らないことがいっぱいあるが、「これはわたしは知っている。あなたが知っていることで、私がしらないことを学ばして欲しい。わたしはあなたの知らないことで、お役に立ちたい」といった互恵思想の上にある。

わたしは一人では生きられない、といったところに互恵のそもそもがあり、群れや組織や社会が生まれ、また個はそうした全体から学び、相互に進歩発展していく。これだ、と私は思う。

だから尊大も、卑屈も、そうした考えから見れば、おかしいのである。だから尊大な人はおかしい人だ。だからおかしくなるのもおかしくない。後者も同様。


発展の要素

2007年02月19日 | Weblog
 私は、企業を見るときに、発展の要素として
  1-消費者が支えてくれる要素があるか
  2-それを具体的に消費者に伝達する行動がなされているか。
  3-仕入先、取引先、従業員の協力を得られる風土と組織力がみられるか
 
 の3点を頭において、さらに経営者と事業そのものの二面から見るよう心がけ
ている。

 詰まるところ個々企業における業績如何は、好不況といったマクロ的外部要因
などにあるのではなく、そうした状勢変化などへも対応し得る、正しい理念、戦
略、そして消費者(エンドユーザー)に見え、支持される戦術を選択し、それを
取引先や従業員の協力を結集し具体的に示しえるかどうかにある、と考えている。
それらが経営者の手腕(うでまえ)だと思うのである。

 もっとも理念、戦略といったことを考えなくても、一過性的に増収増益を得る
ことは難しくはないかもしれない。しかし繁栄「し続けること」は決して出来な
い。これは断言していいと思う。
 
もとより事業の成功は一過性のものであってはならない。また一過性的成功を
望む者が経営者の中にいるとしたら、それは例外であろう。

天国と地獄の分岐点

2007年02月18日 | Weblog
人口減少または過疎化を論じても研究を続けても、嘆いても喜んでも、売上は上がらない。
 売上を上げるためには、1に、商圏拡大(吸引力拡充)、2に、単価を上げる、3に購買点数を増やすか、3に、来店頻度を増やす、
 この4つをあれこれ考え、手を打つ以外にない。
 繁盛するか、衰退するかの分岐は、その違いである。
 購買人口減少はマーケット・パイが小さくなることだから、それを広げようという対策が1である。これは、過疎地で巨大店舗を作れば、いわゆるお隣商圏からも消費者がくる、という考え方である。
 当然、大資本、大型店舗が有利の戦略である。人口の少ないところで、小さな店を創って、低価格で集客したところでしれている。そのうち体力を失い消えることになる。だからこれは中小商店にとっては賢明な戦略ではない。
 ただし例外はある。たとえば、うまいラーメン屋など。例外は例外だから、誰しもうまくいかないから、例外的な対策として後に回す。距離感を超越する商品を作れれば、この戦略も例外でなくなるが、これは後に触れる。
 食品で言えば、納め先の胃袋が小さくなるのが高齢化。少なくなることが人口減少である。人口が減少し、高齢化人口が増えたから、胃袋が倍の大きさになる、といったことにはならないから、肉屋や総菜屋であれば、ジャンボパックを減らし、ミニパックで、ということが対策になる。
 それでは単価が落ちて売上の減少は避けられないから、購買点数を増やす工夫をするとか、いい肉を売る、といったことで販売単価を上げることになる。
 つまり、限られた数の、しかも小さくなった胃袋に168円のインスタントラーメンを納めるか、1680円のハンバーグ定食を納めるかで10倍も売上が変わる。
 このように、「では住宅ではどうか」。「車ではどうか」。「スーパーではどうか」。「ベビー用品店ではどうか」。と個別に、高くか数か、いずれを重点にしたらいいか、あれこれ考えること。その、「あれ、これ」の中から、「これっ」という手応えが出て売上が変わる。
それを、
 「安売りしなくては売れませんわな」
と言うから、
 「では、そうなさいな」
と答えると、
 「安売りでは、大手スーパーにかないませんわな」
と言う。
  「ほなら、やめときなはれ」。
  「やめたら、年金まだやし、やっていかれまへんがな」
 こんな、堂々巡りしている間に、ほんとうにやっていけなくなる。
 過去、様々な業界や商品で、高い方が安いものより売れた、といった事例はごまんとある。鹿児島には、同様の立地に、250円のラーメン屋と900円ラーメンがある。どちらの店に行列が出来るかというと、900円の方である。では来店頻度、喫食頻度はというとこれも900円の方である。ではボリュームはどちらがあるかというと、これは250円の方。
 こうした事例、つまり)、「高く売る戦略での成功事例を探すこと」である。それでなんでやろ。どうしてだろうと、考え、仮説なり結論なりを出す。それを自分の企業なり、商品なりに置き換えられるかどうか、それをとことん考えることである。
 結論は、二つに一つ。それが置き換えられるか、置き換えが出来ないか。それをはっきりさせる。置き換えが出来たら、置き換えてやってみる。置き換えられなかったら、それはやめて、次を探す。
 そうした積み重ねで、高価格でも売れる、換言すれば消費者が価格を決め手にしない世界を作ることである。どんなに遠くても、お客が来てくれる世界を目指し、一歩でも近づくようにすることである。
 「そな、えらいこと、難しいことできますかいな」
とよく言われるが、その難しさも実は、低価格競争の中で生きていくことと比べたら、遙かに容易なことである。倒産するより楽なことである。 
 死んだら皆、天国へ行くみたいに言われるが、それは誤りだとおもう。私はそのどちらも経験がしていないから断定は出来ないが、競争率は天国の方が高いと思う。需要と供給の経済の原理から見ても、天国が狭い門。天国は少数化の国。地獄は過剰人口の国。
 いろいろ工夫した、少数の人が、お客様から支えられ、良い思いをする。
 「あきまへんわ」、といったぐちを連ねる、お店がえらい思いをする。
 天国へ選ばれるか、地獄へ回されるか、その分岐も、同じだと私は思う。



思う。理想の経営

2007年02月17日 | Weblog
理想の経営を、あるお店を念頭におき、考えてみたい。

どんな事業であろうと、その間隔の差はあるにしてもリピートなしで存立することは難しい。

新規利用客だけで成り立つと錯覚しがちな観光事業ですら、例外ではない。ちなみに、観光関連業が、地域単位で盛衰の振幅が激しいのは、こうしたリピートがきかなくても、次々お客はわいてくる。エージェントが運んでくる、といった幻想を未だ捨てきっていないことの証である。
つまり、リピートがきかないことに対する怖さを、その実、実感していない。「この客に売ってナンボ」といった潜在意識が経営者に少しでもあれば、点灯の販売員は、顕在的に「売り込み」に励む、のは当然である。こうした「いちげん【一見】客で成り立つ、といった幻想が、未だ根強く残っているからに他ならない、と私は見ている。

ともあれ、いかなる分野の企業であろうと、一定以上のお客がリピートすることを前提に、物事を考えることが不可欠なのである。だから、どうしたら自分の店に一人でも多くのお客を引き付け、固定化し、リピート率を上げるかが、繁栄し続けるための命題になる。
当然、宣伝広告や販売促進の狙い、役割も、本来ここに置く。
 
しかし現実は多くの企業は、チラシとかイベント等の販売促進に、今の売上を獲得するため即効性を求めている。
そのため、1に、その反作用の怖さを忘れる。商品・サービスが悪い状況で、多くのお客が来店したらどうだろう。
わざわざ費用をかけてお客を集め、自社・自店に対する不満・不評をクチコミ効果により世間に広げていることにならないか。

こうした笑いごとですまされない事例は、「マスコミに取り上げられたお店、その後」で、よく見受けられる現象である。
こうした事例の内実は、もともとそれだけの力はなかったのに、メディアがのり、宣伝。行列の出来る店になったが、そのことが、実は多くの人を集めて不評宣伝になったというケース。またはそれなりに良い店だったが、多くの人が一時的に集中したことで、対応が十分に出来ず不評を買い、そのことを宣伝し、さらに見えない消費者を遠ざけてしまったか、いずれかであろう。
酒の強い人、弱い人にかかわらず、飲み過ぎると、誰しも不調になる。どちらにしろ繁盛し続ける秘訣の一つは、己のキャパシティ(分限)を知っておくことである。

 2に、それら一過性的集客効果が高ければ高いほど、お客の本当のニーズ、あるいは背を向けるほんとうの理由が、隠れてしまうことである。
売れるには売れる理由がある。売れないには、売れない理由がある。この理由を掴めないままで、企業存続は出来ない。苦心を重ねての試行錯誤とは、この「理由」を掴むところにその本意がある。

ほんとうに売れる店を調べていると、つまり自分の商品を売り込もう等といった気持ちは、さらさら感じられない。
その点、驚くぐらい謙虚である。一方自分の商品を実に信頼している。これは掘っておいても売れる、とこれまた驚くぐらい頑なに商品を信じ切っている。
こうした企業は、売れない商品の売り込みの努力が、最初から必要ないのである。売れる商品だけを作り、あるいは仕入れているからである。

もちろん、最初からその域に達しいたわけであるはずがない。なぜこれが売れないかを考え、売れるものが出来るまで試行錯誤を繰り返した結果である。  

だから売り手が商品に関して、あれやかれやとお客様に、こちらから説明する必要はないし、そんなことは、お客にとって迷惑なこと、と考えている。
お客が、お客自身の厳しい眼で鑑定してくれる。その鑑定眼に叶う商品を作り、出している。厳しいお客様の鑑定のお陰で、さらに良い商品が生まれると確信している。

そうした己に対する自負と、自分のお客様に対しての全幅の信頼が、そこにある。だからこそ。お客の勝手に、見えないお客まで引っ張ってきてくれるのである。

おびただしい消費者の厳しい眼に耐えられる、そうした商品を作り、あるいは厳選仕入れする、それがプロである、自分対の仕事であるというのが信念としてある。
 
こうした、見えない消費者が、見えるお客としてなだれ込む善循環システムの構築することこそ、経営者が、もっとも優先し、為さねばならない、本来の「経営という仕事ではなかろうか、と考えている。