経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

自慢と他満

2004年11月29日 | Weblog

 自分を自慢したり、讃えるのは自分へであって、けして他者へではありません。
なぜなら、本来それらは他者からのも与えられるものだからです。つまり人によって賞賛されてこそ価値あるそれを、自分で自慢した分、価値が減じられるどころか、逆の効果、つまり非難に変わってしまうのです。
 徳行、それが善意であれば、だまっていれば夥しい人々が、間違いなく気づき賞賛してくれる。ですが、それを本人が少しでも誇ると、彼らは逆に非難に回り、引きずる下ろしに転じます。
 昔の人は、これを「陰徳」といいました。
 この原理を、特に経営者は常に頭に入れておくことです。経営は、経営で動くものでなく、「人によって動かされているもの」、というのが私の考えです。
 卑近ないい方をすれば、このコツを掴んだら、楽をして人々から讃えてもらえるのです。でも「俺が、俺が」をだすと、彼らだけでなく歴史が、引きずり下ろすのです。
 
 偉大な人物とは、周囲の人から押し支えられる人だと思う。功を譲り、人を立讃え立てて、人の欲求を満足させるなら、人がその人を支え押し上げる。その人がいなくなったら困る、と人々が思ったら、彼らはそうするに違いないからです。

 その結果として労少なくして、大きなものが得られる。これはお説教や道徳ではありません。歴史における真の成功者のなしてきた原理です。
 

弱者戦略は開放系

2004年11月28日 | Weblog
自分は一人、それに対して自分以外の人間は、60億人-1人、いるのですから、こちらが
組織を大きくしても対等、つまり等式が成り立つことは、絶対不可能です。
 これは1≠60億-1
 仮にこれを閉鎖系と呼ぶことにしましよう。これをわかりやすくするために、水の温度にたとえて説明することにします。封鎖系の不等式を
 1度≠60度
とおきます。これが等式として成立するためには、開放形にしなければなりません。すなわち両者を仕切っている堰をはずせばいい。そうすると、右辺から左辺に流れ込み、
 
 29.5=29.5
に落ち着く。解放すれば、上の如くになります。

 すなわち弱者のとる戦略は、開放形になる、具体的には外部にできるだけ多くの協力者を得る、外部の知恵を活かす、といったことです。たとえばクチコミなどその代表的戦術の一つといえましょう。こうしたことを目指せばいいのですが、でも相手、すなわち右辺が解放系にしてくれるわけはありませんね。ですから、左辺側、つまり自分が解放することになります。
 それで温度が上がるのは左辺、下がるのは右辺。このことで左右同じ。これで相手の温度と共有(等式成立)できます。

 私は、いわゆる人・モノ・金のない中小企業の戦略を寝るときなど、この考えを下に敷いて考えることにしています。
 当然ですが、作用があれば反作用あり、大きなリスクがいくつかあります。 たとえば、水1度≠お湯100度を、解放したら50.5度、やけどする。=という堰を一度に切ったらこれはヤバイです。ですから少しずつ、様子を見ながら、といった工夫は必要です。
 これは、量での説明ですが、これを質に特化し考えると、左辺の戦略はいっそう際だてます。
戦いの事例に置き換えたらわかりやすいと思いますが、広大な草原で戦うと、数の多い方が有利ですが、狭い細い永い道での戦いとなると、一対一に限りなく近づきますから、数の論理でなく、個々の質の勝負になります。
 ここで論理に矛盾が出てきました。開放形にする、ということと間口を狭くするということは、相反することではないか、という点です。この点、後日。

勉強

2004年11月25日 | Weblog
 私は、道徳とか倫理、宗教の論理と資本主義とは対峙関係にある。つまり相容れないものである、と思っています。ですから、あくまで永続的に儲け続けるためにどういう理念をもったらいいか、というスタンスで経営や人を見ています。
 
 一時的な優しさは結局は人を殺し、経営、国すらダメにすることは、歴史が証明しています。。
このことを思えば、千丈の谷に我が子を突き落とす。旅をさせる。その方が真の愛です。人生は長さなのだから、その瞬間の好悪、善し悪しで判断してはならないのである。だから、儲ける、でなく「儲け続ける」、というのが戦略で、そのために相手がそのときに好悪するか善し悪しとするか、喜ぶか悲しむか、そうしたことでなく、言う、行う。その内容が砂糖であろうと辛子であろうと、そういうことは全く別の問題である。

 要は最終的に相手に喜んでもらう。感謝されるところに、心しているかどうかである。昔の真の臣は、死を賭して、王に諫言した。王からどう思われるかでなく、いい王に成って欲しくて。あるいは愛する国のが続いて欲しいために、だ。

 ところがたいていの取り巻きは、甘言を弄し、主と国(会社)を滅ぼしてしまう。後者の彼らこそ偽善者である。あえて嫌われても言う。これこそ真の人材。いい技能をすれば人材と思ったり、イエスマンを可愛く思うようであれば、経営者やめたがいい。

 だがあえて嫌われるように言う必要もない。また諫言が理解できないような人に言っても意味がない。昔とちがって、今は「去る」ということが出来るのだから。こうしていい人が去り、悪い人が経営者を取り囲むことになる。ハテ、あなたのところはどうだろう。
 
 人生は人気取りではないのです。

 嫌われようと好かれようと、といったことを意識することなく、言動出来る。。また痛い話を痛いと感じても傾聴できる人間、そうした人、そうした職場風土をつくる、そうした真の本当の「経営者」をめざしてほしい。
 もう一度言う。偽善者とは、甘言を喜ぶ経営者に、甘言を弄する人のことを言います。

 ところで冒頭に書いた、宗教、とくにキリスト教は、商売、資本主義を認めていないという論に対しての研究は、東大の小室直樹博士の「資本主義のための革新」(日経BP社)に詳しい。痛快な本です。
 
 正論異論は、多数決では決まらない。自分の考えを堂々と言う。その吐く言葉が真理になるために、勉強です。

若年寄

2004年11月23日 | Weblog

教えることの残酷さ、ということは、しばしば書いています。それは自分で発見した喜びを、先取りしてしますからです。それだけじゃない。そうして育てられた人は、自分で考え行動することをせず、いわば人頼りの人生を送ってしますことになる。
 
 宮大工の世界も落語の世界も、師匠が弟子に教えると言うことは、弟子に見込みなしの烙印を押し、破門する前夜だけとされます。

 答えは自分の中にある。そのことに気が付かないことは、部品の在庫調べをせず発注し続け、おかしくなった整備工場の話と同じです。この事例は先日、下関・長府商店街での講演でお話ししたことです。この街は、講演の前にちょいと歩いてみたら、歴史がある分、そうしたことで陳腐化した商品がいっぱい詰まっていたから、それを具体例として、整備工場の実際事例に置き換えてお話ししたんです。直接、みなさんとこ、といえばやはり懇親会で、まずいでしょう。
 「やっとおまえも大人になったな、って亡くなった母が笑ってますよ」。

 でも、その話を、皆さん、自分のお店のこと、話している、その話が自分の店のことと気づいた人、何人おられたか。おられた数が多い分、街の活性化は早くできるのですが。

 経営講習会の参加者は、経営同様、意志決定、投資をしてきている。なんとか投資に加えて利益を得てお帰り願いたいと、私なりに工夫はしているのですが、やはりまだまだ未熟で、申し訳ないと思っています。

 一つには、講演聞きすぎ、勉強しすぎで、肝心な自分の店のこととして考えない、見つめない。そんなふうに世のコンサルタントが「皆サン、勉強しなければ、、大変だ、大変だ」と自分の職域拡大に努めていることもあるでしょうしね。

 それに言わせてもらうと、いろんなコンサルの話、聞いてその数をどこか誇るといったとこあったり、評論することを楽しみにしている人もおられる。おかげで私たちも踏ん張れるのですが。
 「あいつにまけちゃいかん」、とね。(^_^)
 
 これを私は「若年寄現象」といっていますが、年寄りが病気や飲む薬の多さを自慢しあったり、医者を比べて、余生を楽しんでいる風景、待合室で見聞きする。あれですよ。ね。
 高齢化社会と言うことは、60だい、うまくいったら70代まで青年という時代がくる、ということ。それをそんな早くから、若年寄りになることないのだとおもいます。


システム

2004年11月21日 | Weblog
人間は、神仏と違って、不完全であることをもって生きることを前提に、作られています。
不完全だからこそ学び補う必要がある、という風にほとんどの人が受け取られていますが、これは違う、という説があります。なぜなら人間が完全を目指せば、他人を必要としなくなり社会システムが崩壊する。またこれは神仏に近似することで、神仏が嫉妬するので、そのため人は早死にする。こうした説を、もう20年近い前、産能大経営学部教授 石尾登先生の遺稿「片の哲学」で知ったとき、驚きました。そしてその瞬間「システム」の意味が理解でき、躍り上がって感激したことを覚えています。
 この生命システムといわれているものが、モデルになって企業のシステム、組織という概念ができていることが理解されたからです。

 人の生き方そのものが社会システム。すなわちお互い不完全な同志が有機的に結合し(助け合って生きていくように作られている、という理解です。つまり自分が完全な人間になるのでなく、不完全だからこそ、繁栄のために男は女が必要とし、女は男を必要とする、ということです。
 他人、友達や仲間や社員と、有機的結合を計ることが、生きる上にも企業の繁栄と長生きにとっての根本なのです。これが生命システムの概念だと私は理解しています。

 こうした理論を背景に論を考えると、友達の多いことこそ、その意に添えることになる。つまり極論をういえば成功は、友人の数と質による、といえる、ということです。だから閉じこもり系の会社は、うまくいかなくなる。「俺が俺が」の人もうまくいかない。「自分中心の人」も、うまくいかない。「友達の少ない人」もうまくいかない。人は総て有機的システム、社会システムに組み込まれていますから、たとえばドタキャンはドミノで思いがけない人、思い掛けない人まで、多大な影響を与え、一つのつながりが分断されることで、総てが崩壊しかねません。これは数珠のヒモが切れたことを思い浮かべて頂ければわかりやすいと思います。

  あるいは、落語の与太郎が、なぜ長生きするのか。あるいはまた白圭が、死の床で,「助けた人が、助けられた者によって生きることが出来たのだ。」と孟醤君にいって逝ったのか。根拠はすべてここにあるような気がします。

 そういう意味で、私の周囲を見ると、若いときに勉強よりも、いっぱい遊び友達がいっぱいる人が成功している人がほとんどです。これからでもおそいことなどない。支える、支えられる気をおけない友達をいっぱい作って欲しい、そういう願いを込めて、この文章を書いています。

閉じこもり

2004年11月19日 | Weblog
社内と社内のつながりで、情報は流れています。ですから社内の結束や統制、打合せを密にするといったことで、逆に外部との情報の流れを遮断するケースがしばしば起きます。これは社内が、外部に対して孤立化したため外部との交流が分断される、といった原因で発生する現象です。
 つまり 社内で発生する問題の殆どのは外部との関係、つながりがあります。ですからその対応を社内で打合せに留め置くと、逆に外部との情報乖離が開き、同じ問題が繰り返されるだけでなくかえって問題が大きくなることだってしばしば発生するのです。正しい対応は、外部との打合せを密にする、外部との情報交換を刻々やる、外部へ情報公開をする。この3点です。むしろ外部に社内の温度を合わせる、外部の風を入れて風通しを良くする。
 こうしたことが効果的な対策となります。念押ししておきますが、社内の風通しより、優先すべきは社外との風通しが大事だ、ということです。密閉度の高い会社は外部から孤立し、やがて内部崩壊する。こうした事例は枚挙に暇がありません。最近の事例ではコクドなどがそのタイプですね。これを私は事業の「閉じこもり」と呼んでいます。

 ところで脳力開発では、これを「つながりで考えよう」というフレーズで説明しています。
このことを等式で表すと、以下の通りです。

内部100=外部100 が一番良い状態、これを200=100、にしたのでは、コミニュは崩れますよね。間違いも間違い。いっそうひどくなります。

相手の100にこちらがあわせてあげること。これが基本。そのためには、相手とイコールの状態に持って行くことなのです。

人を知る

2004年11月14日 | Weblog
 男と女、夫と妻、父と母、アクセルとブレーキ、営業と経理、ツッコミとボケ、脅し役と慰め役
悪役と善人役、まだまだあろうが、これらに共通する言葉は何か。それは役割分担です。

 たとえば詐欺。豊田商法事件以来、この役割分担という同じ手口で何千人という人が、これに引っかかっています。

 同じ会社で悪役と善人役、脅し役、慰め役、これは経営担当、営業担当が、皆さんの会社に存在しているのと同じで当たり前のことです。父が子供を叱り、母が慰める。日常でみている当たり前の光景です。詐欺も役割分担をやります。

 詐欺の被害者は調べてみたら、何回も同じ人が、引っかかっています。これは被害者は慰め役が欲しい、損害を取り戻そうという欲(ニーズ)があるからなのです。。
 なぜ気づかないか。答えは簡単です。

 問題は、彼らではありません。こんなことに、気が付かない自分に問題があるのです。
詐欺は、詐欺に協力する被害者がなければ絶対に成立しない。売る人は買う人の協力で成り立つ。皆同じなのです。その証拠に、お金に無頓着、欲がなければ、まず金儲けの誘いの甘い言葉に乗るはずはありません。その意味では金銭がからむ儲け詐欺には、金持ちより金を持っていない人が引っかかりやすいのです。

 寂しがり屋には、話し相手が欲しいというニーズがあります。いじめられてる人には、慰める人が欲しい、優しい言葉といったものがニーズになります。善悪を無視すれば、これは商いと同じなのです。だから、きついいい方をすれば、詐欺にかかる人は商いには向かないのかな、とも言えます。

 ま、人は欲を捨てることは難しいですから、できるだけ人を見る目を育てないと、長い人生では同じようなことに何回も引っかかる事、確実です。

 ではどうしたらいいか。私は経営の勉強より大衆小説を乱読すること。落語か映画をいっぱい見ること、こうしたことで人を知ることです。でも立派なことが書いてある本は、役立ちません。経営の本はもっと役に立ちません。理とか利の本でなく、情、どろどろした人間の心を扱う小説が私の推薦書です。
 
 高塚さんも、本は立派な内容です。倒産した多くの社長もしかりです。オームの麻原某も実に立派な本を書いています。詐欺師も言葉は優しいはずです。丁寧なはずです。服装も然り。


後半不調

2004年11月05日 | Weblog
 4日17時、青森商工会議所の経営革新セミナー終える。珍しく自己採点100点だ。今日の出来に自分に乾杯したく、石沢さんに車で送ってもらって「花祥」へ。開いたばかりで店には大将と女将しかいなかった。一人で飲んでいると携帯に電話。渡部常務だ。5分もかからないうちに店に現れ、二人でひたすら飲む、食べる、しゃべる。あまりのピッチに7時半にはすっかりできあがってしまい、タクシーを呼んでもらう。いつもだと4キロ先のホテルまで歩いて帰るのだが、あいにくの小雨。愉快なおしゃべり好きの運転手さんで、なにやかや話をする。おもしろかったが、さて今、何をはなしたかな、と思ったが何も思い出せない。ゼミの途中から、少し喉に違和感を覚えたので、念のため葛根湯を買って飲む。

 部屋のTV、また音だけ出て画面が写らない。昨夜もこのトラブルで、映画を見逃してしまった。フロントは忙しくしていたので、気の毒だったが電話。すぐ直してくれた。「お掃除の時配線がゆるんだみたいです。申し訳ありません」。

 せっかく直してもらったのに、ひどい疲れを覚えて就寝。21時。夜中何度も気分わるく目を覚ます。慢心は体調に悪し、後半の不調はこれだ。

夫人

2004年11月04日 | Weblog
 青森の朝だ。昨夜から時雨れていたが、窓の外は一面もやにつつまれベイボートの灯りが美しい.
仕事がなかったら、一日中窓の外を眺めて過ごしたいところだ。
 
 TVはブッシュさんの勝利演説を放映している。左後ろに夫人が立っている。
彼女の表情に目がいった。夫の演説の内容に無関係に、無表情になったり、例の作りほほえみに変わったりたりしているのだ。これを拍手にたとえたらわかりやすいだろう。通常感動や賛同する場面で、お義理であろうと手をたたく。そうではなきところで不規則な拍手があったら、おかしいと思うだろう。それが今、彼女の表情なのだ。夫の話とは無関係にふと思い出したように、つくりほほえみを聴衆に取っているのだ。
 若く見えるが、表情を取っていないときの夫人は疲れ切った老婆そのものである。

 寒いときに寒そうに出来ない、楽しいとき楽しくできないだけでなく、しんどいときにも明るく、不愉快なときもにもおもしろく、といった生活が当たり前になると、脳の反応も何時しか狂ってくることにならないか。もし人を平気で殺せるとしたら、こうした当たり前の反応を押さえられ、あるいは逆の反応を身につけた人なのかもしれない。
 政治家や宗教家ほど、人を殺した人はいまい。

脳の輪切り

2004年11月02日 | Weblog
日記だから、断ることもなかろうが、日記なのだ。今回もプライベイトなことを書くことをお許し願いたい。病院に、「家族と一緒に来てくれ」と患者が言われたとして、「吉」をイメージすることはまずなかろう。それも妻が伝えられた病名は「脳動脈瘤」。
 
 インターネットで調べてみると、通常はこれが見つかる前に「クモナッカ」が突然起きてで、ほとんど助からない、と言ったことが実にわかりやすく書いてある。

  6年前、友人の奥さんが、宅配便の受け取り印をを押して、そのままクモナッカで倒れてなくなった話を聞いているから、なおさらのこと。この3日で、2種の手術のうち、足からのか、解頭の方か、どっちがいいか考えたり、万が一の場合、洗濯はどうしようとか考えていた。私なりに覚悟を決めて、二人で病院に行った。
 結果は吉。「ご心配だったでしょうから、最初に結論を、これ瘤ではありませんでした。ご心配かけて申し訳ありません」。

 「なんじゃ」とここでがっかりも飛び上がって喜ぶことも出来ない複雑な気持ちで、ドクターの話をたくさんのレントゲン写真を見ながら聞いた。「ここの脳の大動脈のカーブが、他人より鋭角なため、それを動脈瘤とみたが、そうではないこというのが結論」。
 
私が写真見ても、確かに瘤に見える。だが、このヤブ、まだ隠しているな」、といった気持ちは全くなかった。ドクターは続ける。「でも、このカーブに血液が強く当たるので、将来の瘤、くもなっかの発生がゼロというわけではないでしょうが、これが瘤ではないことは間違いありません」。
 
 それにしてもすごい写真だ。なにせ妻の骸骨、妻の脳の輪切り、阿蘇山に走る山脈みたいな妻の血管群などのおびただしい写真。おもわずとなりの妻の頭を見た。

 まずは一安心。そこで昨夜書いたライフスタイルのこと。お医者さんが、いい機会を与えてくれ、自分なりの反省したのですから、これを教訓として活かしたい。それでいい方向へ徐々にギヤチェンジしていきたいと思う。年寄り3人のドミノは、避けられないことだが、それに妻が加わらなくて済んだ記念に。