経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

想定外減少法

2012年01月31日 | Weblog
言い訳や予防線を張ることで、

問題を問題として捕らえようとせず、

あるいは問題を他に押しやることで、

せっかくの対策、解決の途、機会を

逸している、そうした機会損失をしているのでは、

というの、私の気づきである。



以下、別の話を織り込んでおきたい。1

●「○○さんのアドレスを教えてください」

●「この前話されていた◎△って何県にあるんですか」

●「明日、12時頃に電話させてください」



この3つの例に、共通するものは何か。



相手の方の手を煩わせることである。



目くじらを立てるわけではない。

立てるほどのことでもない。



だが、相手の手を煩わすことには間違いがない、

ということは、心のどこかに意識しておくことだ、と思う。



おもてなしとか心遣いとか、私たちは、かねがね口にしている。

しかしそれらは、多分に営業上のセリフの上であって、

実際面では、「そんなことを考えていたら、営業はできないし、

携帯などかけられはしない」、ということであろう。



事実、私が、電話は受信はできても、発信はなかなかできない、

といったことになったのは、このことを考え始めてからである。



それで、何気なくであるが(これがくせもの)、

何か困ったことがあったら、手近の第三者だけではなく、

ブログの向こうの人たちにまで、尋ねごとをし、

多くの方々から答えのメールをいただいたりしている。



このことはその人たちの手を煩わした、ということ。



とすると、結局、

「物事はほどほど」とか、

「まあ、時と場合によるよな」

ということで、問題は何ら解決しないまま、放置、

ないしは先送りされてしまう。



もちろん人にものを尋ねることで,

一種の阿(おもんね)り、といったこともあろうし、

また答えてくれた人の中には、「この際、良い機会だから・・・」

ということで、なんらかの思惑をもって、新設に回答する人も

いないとは言えない。



しかし、自分のことで他の人に、

「余計な手を煩わせてしまう」

という事実に変わりがないことは、心しておくべきだと思う。



そして、自分でグーグルでもすれば簡単にわかることでも

気軽さからか、第三者にものを尋ねる、

それを「便利な世の中になったものだ」とは公言しないまでも

そうしたことが「当たり前のこと」と、

意識に留めない自分の「うかつさ」が、繰り替えされることで、

第三者の、こちらを見る評価が、固定化される可能性は高い。



あれこれ考えること。

これを脳力開発では「多角的に考える」と言っているが、

自分の心、ないしは脳の中で、あれこれ考えて

想定内の範囲を広くとる習慣作づくりは

「しまった! でも想定外のことだから仕方がないか」



と臍をかむリスクを少なくする有効手段と考える。



諧謔好き

2012年01月29日 | Weblog
 根っからの諧謔好き。

そのため落語にも凝ったことがある。
テレビの中寿番組の一つ「笑点」もできるだけ見ている。

永年続けているから、今や
仕事で、書いたり話したりするときも無意識にでる。


たとえば、「男はつらいよ」の寅さん。
お葬式の後、親戚一同の写真撮影を頼まれる。

「ハイ、みなさん、笑って!バター」

ほとんどの人が眉をつり上げる。
だが、中には、うっかりニコッと笑う人もいる。

三重にしくまれた諧謔である。

落語に精通している山田監督の脚本・監督のシナリオには、
随所にこうした諧謔がちりばめられている。
その長いシリーズの中でも、これは最高傑作だと思う。

「ハイ、皆さん笑って。チーズ」
これは、写真撮影時のおきまりになっている。
だから葬式の時も、トラさんでなくとも
うっかりやりそうなことだ。
だから観客は大笑いするのである。

こうした諧謔好きは、薩摩人の特徴でもある(司馬遼太郎説)。
また、私の習慣、クセにもなっている。


新潟・十日町の友人が大臣賞を受賞した。
その祝辞。

「馬でさえ天皇賞を狙っている。だから、次は是非、天皇賞を」
これにはもうひとつ。
馬でさえ、次の天皇賞を目指す。ぜひあなたも!
(大臣賞ぐらいで天狗になるなよ)
が組み込んである)。

これは、自画自賛ながら、うまくいった方である。

だが、このように受ける打率は、案外に低い。
むしろ それで数多くの失敗をしている。
他の人に不快を与えたこともしばしばだ。

受けて当たればいい。
だが、外れたら寅さんなら喜劇。
私の場合は、悲劇である。

だから、ほどほどに、ということであろう。

以下、言い訳。
否、なにごとでも理屈を付けたがる私に言わせたら

一つの言葉から、あらゆる連想するものを、
瞬時に考えて、その中から、おかしみを創り出す作業が
不可欠な「諧謔」は、私の脳力開発での
貴重なトレーニングになっているのだ。

しめたもの

2012年01月27日 | Weblog
最近は固有名詞をとってつけたように自動的に挿入した
メルマガやメールが主流になったが、
あれで感激した人がいるだろうか。
むしろ、怪訝さ、不審なおもいが、先に来るはずだ。


私が初めて固有名詞入りの広告メールを見たとき、
どきっとしたのは事実だ。でそのあと、
私だけにではないことがわかるからである。
で、冷めて、「こんなソフトができたんだ」。
以後は,迷惑メールへ振り分けである。


お客からみたら、「私だけに」こそが。
作り手、売り手に言わせたら、「○○さんだけに」こそが。

「とって」、「こそ」、「だけに」の言葉の裏に、
相手を思う気持ちがその相手に伝わること
その「とって」、「こそ」、「だけに」こそが、
接客の本来だと思う。


商店主は、何気なく「うちの商品は・・・」
といったいい方をする。
そのこと自体はかまわない。

しかしその商品を食べるなり着るなり消費するのは
作り手、売り手ではない。お客にとっての商品、サービスである。
作り手、売り手のものとして、
作り、売り,消費されるものではないもの。
それが製品、商品、サービスなのだ。

だから、ここは強く、
「お客様からの」お預かり商品,サービスと意識しておくこと。
できれば「お客様からの」に,一人一人のお客様の固有名詞が入れば
そしてその固有名詞付のお客様の嬉しそうな顔が、
頭に浮かぶようになればしめたもの。

なにが「しめたもの」なのか。

言うまでもない。
商人、あるいは営業マン、あるいは販売員・・・
になった喜びで満たされるのだ。

固有名詞とお客様

2012年01月24日 | Weblog
かねがねからの馴染みのお店、その常連客が、

しかもなじみの店員から、不特定多数のお客として

扱われたとしたらどうだろう。



いかに言葉や態度が丁重であったとしても、

いな、だからこそいっそう自分が無視された気分を感じ、

結構気になるのではなかろうか。





こちらは知っている。店員は覚えていない。

店員は気がつくまいが、お客はしらけ、傷つくものである。





もっとも初めてのお店はもちろんなじみの店でも、

固有名詞でやたらに話しかけられたら、

逆に気持ち悪く思われるだろう。



そこには、いわゆる「その前提となるもの」が、

必要なのではなかろうか。

その前提とは、「かねがね」、「日常」、「普段」といった

ぼんやりしたもの。 そうしたものを背景に、

接客の妙が生きてくるのでは、と考える。





お客として私は、ときおりホテルのフロントの人や

店員の名前を会話に入れて、

「○○さん、これ、これお願いをできますか」とか、

「△○さん、助かりました」といったように。



一瞬「えっ、なんでや?」と怪訝な顔つき。

その後一応に嬉しそうな顔をされる。



怪訝な顔つきは、「かねがね」、「日常」、「普段」に、

そうしたことがないからである。





とにかく名前まで絶対に、とは言わないが、

接客は不特定多数ではなく、言葉に出すかどうかは別にして

お客一人一人の固有名詞を頭に入れて対応すること。

最低でも主語を特定した接遇に近づけることである。



この世界に、「お客様」という個人は存在しないのである。

存在しないものへの対応ができるわけはなかろうに、

と考えていただきたいのだ。





最近は固有名詞をとってつけたように自動的に挿入した

メルマガやメールが主流になったが、

あれで感激した人がいるだろうか。

むしろ、怪訝さ、不審なおもいが、先に来るはずだ。



としたら、ソフトをかけてやったことが、

マイナスになっている、といえる。

経営と料理人

2012年01月21日 | Weblog
皆そのトップと同じ意見しか言わない。
トップが喜ぶ、都合の良い情報だけを伝える、
といったように、周囲が今度は情報を分別、
取捨選択するようになる。



そうなると今度は
「うちの連中、おとなしくて困る。
もっと積極的に発言して欲しいものだ」
などといっている。
 

まるで茶番劇なのだが、
この茶番が死を招くのだから、
茶番では済まされないのである。


もう数年前の話。
マスコミで知られる某社長が、

「社員の意見など聞いているようなトップはダメ社長だ」
とTVで発言したのをみて、私は、ブログに

「部下の意見を聞かない彼こそダメ社長だ」と書いた。



事実、この社長は雇用関係に関する法規違反を起こして、

マスコミを賑わし、彼は逮捕、会社は他者により

再建中で、彼は退任。その後を知らない。
残っているのは、リサイクルブックセンターで、

105円の値段が貼られた彼の著書だけである。





戦略にもとづき、意見、情報は広く多くの人から集める。
逆に言えば、戦略がなければ、情報は集めようがない。

料理が決まらなければ、材料の集めようがないのと同じである。



集まった情報を元に、戦略にもとづく決断をトップが行う。

集まった材料で、料理を作るのは料理人であって、材料屋ではない。



意見、情報は広く多くの人から集める。
かりにその数が少ないことがあっても、

それらから最適の判断を下す。

これが経営者だ.経営のプロだ。



料理人は、材料を広く求め、その中から選ぶ。

限られた材料、といったやむを得ない場合があったとしても

それらを活用し、いい料理を作る。

これが料理人だ。料理のプロだ。





馬鹿殿はこうして出来る

2012年01月19日 | Weblog
情報は、ことの判断材料である。

だから、
自分の好き嫌いで、入ってくる情報を分別し、
採ったりはねたり、といったこと。
あるいは自分にとって都合のよいものと、
都合の悪いものといった基準で、分別するといったこと
こうしたことは、ありえないのである。
なぜなら、判断は、明暗、生死、盛衰、功罪、損得といった
ことを決めるからである。

だから、こうしたことでの事例は、枚挙に暇がないが、
有名なのは、桶狭間合戦時の今川義元である。
休憩中、信長勢か急襲されたのに、
「兵隊どもがさわいでおるわ」
で、貴重な第一報に、予見を加えたうえで一蹴している。

「騒いでいる」と理由に対して、
「身内のじゃれあい」といった予見を加えてしまい、
織田勢来襲という可能性を最初から切り捨ててしまっているのである。

こうしたことは義元がかねがねから、
要するに、自分によって都合の良いものだけを採り、
そうでないものは捨てる癖を持っていることを、
如実に現わしている。

義元だけではあるまい。
企業でもよく見かけることである。
情報、情報といいながら、集めるときに
自分にとって都合の良いものを、「ウエルカム」
と、鵜呑みして、都合の悪いものは、最初から見ようともしない。
あるいは一別する。

そうした取捨選択を行いつつ、さらに自分と同じものを集める
部下なりが、そういうのを持ってきたら、
「そう、そう、それはいい」
と嬉しそうな顔をする。

自分にとって気に入らないのがあると、

「なんじゃこれ」、
「誰だ、こんなつまらんこと報告したのは」

と、不快感を言動に露わにする。

だから、
次から皆そのトップと同じ意見しか言わない。
トップが喜ぶ、都合の良い情報だけを伝える、
といったように、周囲が今度は情報を分別、
取捨選択するようになる。

こうして企業のトップは、義元同様
取り巻きに囲まれ、事実を見ない馬鹿殿となる。

売れない理由の中に

2012年01月17日 | Weblog



なんだ、かんやいいながら、言っていることは

使い捨て論であり、手間暇をかけない、

といったことを擁護しているんじゃないか、

と、言われるかも知れません。



擁護ではありません。そうではないのです。

大手を中心とした潮流を申し上げたのです。



こうした潮流から、私たち中小企業の、今後取るべき

あり方が、見えて来るではないか、それを示唆するのが、

この原稿の狙いです。



例えば、一番わかりやすい方向は、徹底した手間暇をかけること。

修理に力を入れる、といったこと。





繰り返しておきます。



ここまでみてきた、いわゆる「現象」は、大きい所ほど

起きている、と私は見ています。 



こうしたことが大手の現状で、ある意味では限界。

ということは、これだけ多くの大手が、

手つかずの大きな市場、機会、対応があるじゃないですか、

と中小企業の皆さんに、示唆したい。呼びかけたい。



これが私の言いたいこと.本意です。

なんということはない。

潮流にのる彼らがこぞってマーケットを広げてくれる。

手間暇のかかる面倒なことはやらないといった

本音、手の内をみせつつ、新たなビジネス・フォーマットを作った。



それに対して、中小企業である私たちは。どうすればいいかを

あれこれ考え、新たなビジネス・フォーマットを作ればいい。



コツは、1に大手のあり方で消費者が不満に思うことに着眼。

2に、中小企業の得手を活かすこと。

3に、自分の役割を見定めること。





これ3点です。



後は他人のふんどし、それがいやなら渦中の金栗拾い、

漁夫の利を得たら、やったらすごいぞと、いいたいのです。



脳力開発に、

「売れない理由の中に、売れるという要素を見いだせ」

とあります。

あのヘーゲルも言いました。「否定の否定」と。



今、すごいチャンスなんです。

ごいっしょにやろうじゃないですか。

中小企業の経営者の皆さん!!



この稿、この追記をもって了です。

妄想

2012年01月12日 | Weblog
新品5000円が、修理で50000円、
なぜこうしたことが、まかり通れるのか。

あれこれ、考えてみました。
その妄想の中の1つ。

こうした場合のハードデスクは、人質。
新規の空のハードデスクがいかに安くとも、
そこにユーザーの「ソフト」が入っていると、
おいそれと新しいものに、というわけにはいかない。

ユーザーは修理代が高くてもユーザーはまず断らない。
事実そうです。
私の場合約30年分の仕事が、すべてではないが、
その外付けに入れている。
その中に何が入っているかがわからない。
だからこそ変わりがきかないのですから。

これは、つまり価格競合性がないということです。
ここへ着眼した確信犯といえば言い過ぎですか。

ところで、その中間に入っている会社の1つは、
メーカーのデリバリー会社で、旧財閥系著名商社の子会社。
その定款、業務歴をみても、たかが500ギガのハードデスクが、
お世話になるようなところではない「名門」様なのです。


「おや?」と思ったことは、ある程度納得がいくまで
調べてみたくなる、この癖と、暇人であるからこそ、
おおよそながらでも、こうしたことを調べ、知ることができる。

まず一般の消費者はできてもやらない。
時間をくってばからしいことですから。


以下はさらなる私の仮説、妄想、あれこれ。


上に中に、これまでの仕事が入っているから、人質に、
と書きましたが、もう一つ。こうした仮説も考えられます。

「そんなに高ければ、新品買った方がいいい」、とおもわれるでしょう。
それが、彼らの狙い。戦略ではなかろうかと。

修理は、手間暇がかかること、個別的で合理化ができづらいこと。
後ろ向きのこと。こうしたところへ金をかけたくはない。

そのためにはユーザーにとって修理代は高くつき、面倒なこと、
という意識を浸透させることが必要です。

私が、彼らの立場であればそう考えるかも

なんでぇ?

2012年01月09日 | Weblog
命、ごわさん、流す(ゲーム用語)、生まれ変わりたい、
一から出直す・・・・・・・。

これらの語に共通する心は何でしょうか。
部分手直しより全体を換え方が楽、やりやすいという考えです。

そういえば大型家電店の修理センター。
実は修理はなく、修理の取次所なのです。

だから受付けの人に事情を話しても聞いてはくれるが
それだけのこと。修理する人は別の人。
この人にまた同じことを話さなければならない。

これはコールセンター^でも同じだ。
ところが、その人もまた実は,自社で部品交換をやるか、
メーカーに委託すか、その判断係にすぎないのである。

その判断基準は、どっちの方が時間と人件費かからないか、
といった観点から作成されている社内マニュアルです。
それに担当は自分の修理となりますと、
後で問題と責任が、自分という個人に来ることは避けたいですから、
たいていメーカーの修理センターへ送る。

修理する、直してあげる、ということより、
どこへ、このババ(婆ではない)と責任を振るか、
というマニュアルと思った方がいい。

 保証期間内であれば、ユーザー負担は、
部品代を除いてないわけだがそうでないと
ユーザーから料金(手数料等)を取ります。

ほとんど何もやらないで、取り次だけで、
このもらう手数料?なるものがどれぐらいベラボーか、
ということを調べてみました。

2年ほど前のこと。

古いパソコンの外付けのハードデスク(500G)の修理を依頼した。
依頼先は、メーカーです。

修理は、動かなくなったものを物理的に動くように、

ということで、データーの移行、コピーではありません。



これで、修理代が5万円(消費税別)。
今新しいのを購入したら5000円前後。
あるいはそれより安いかでしょう。

なんで?  でしょう。

で、これは良い機会だと、調べて見ることにしました。

以下、続く 

羊たちの沈黙

2012年01月07日 | Weblog
ほとんどの会社が、

消費者に対する戦略でなく競争相手に対しての戦略で、

そちらに、関心がいっている。

姿勢で言えば自社やライバルの方を向いている。



このことを、わたしは、拙著「羊たちのちんもく」という本で、

お客が背を向ける本当の理由は売り手、とくに経営者が

お客に背を向けていることにある。

これが売れない理由なのだということを述べました。



お客は、自分が金を出し、消費するのですから、

購買決定までにいろいろ比較するのは当然です。



評価は、常に相対的です。

選ぶということは捨てるという反面があるということです。 



では売る側が、相対的であったらどうでしょう。

たとえば値段が安いという強みは、よそでもっと安い店があれば、

瞬間に高いという弱みに変わる。



また品質的に劣っているものが安くても「強み」にはならない。

その結果、選ばれない、捨てられるという反面が自社を襲うことになる。

恐怖ですよね。 



相対的という概念には常にこうした不安と不安定があります。

これでは事業としては困るわけです。

事業の強みは、消費者に対してのもので無くてはならない理由(ゆえん)です。

それも絶対的でなければならならないのです。



 もちろん起伏というか上下があるわけですが、

それも戦略の範疇内、想定内的に取り込んで対応することで、

最小限化を具現し、自立的な安定方向へもっていく。

これが事業ですしこれを考えるのが経営者です。



ですから「雨続きで売れませんわ」といっているようでは、経営者失格。

天気は、こちらの都合通りにならないのですから、

数ヶ月も雨が続くことあるかもしれない。 



どうします? 

晴れても売れ、雨が降っても売れるように戦略を練る。

これが経営戦略です。

つまり、売る側が、事業として存続し続けるためには、

相対的な戦略であっては危ないのです。

会社は生存し続けることが絶対。

ですから、波に乗ったという一度限りの成果ではなく、

乗り続けることが求められるわけですね。



繰り返しますが、店の強みとは

その店が個々の客に喜ばれ、得させ、感謝させうる具体的行動、

それも絶対的なもの」と言えましょう。



あなたは背を向けたお客の理由がわかりますか? (了)