経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

D店の退店をよむ

2006年09月30日 | Weblog
予想通り、今回のチラシは、完全閉店売り出しになっていた。それで店を見に行った。薩摩川内市には、5年前までは大型電気店が5店あった。それが3年前4店。それが、市内唯一のSCの核テナント「D」が、これは退店するかも、とメモをしたのは1年目の9月初めのこと。

 決算書など数字を見たわけじゃない。結果を見て判断するのは、手品の仕掛け(ネタ)バレしているようなものを披露するようなもの。プロはそんな馬鹿なことはやらない。

 子供でもできることで、つかめるからだ。 
 人が買えば売上になる。その数が増えているかどうかで、上がっているか下がっているか、だれでもわかる。
 もうひとつ。一人のお客が買う買い上げ額が増えているかどうかで、上がっているか下がっているか。これも買い物籠を眺めていればわかること。

 そんなことは本にもない。部屋で考えても出てこない。
人の動きは、常に現場。ここではお店。売り場なのだ。

 売り場を歩き、落ちているレシートを診る。それでその店の売り上げ額もおおよそ(万の桁程度)はつかめる。
こうした方法もある。
 たとえばチラシに掲載されている価格を総計し、それを1年分も時系列的に並べれば、下降か上昇かわかる。また宣伝コピーが、追うごとに過激になっているようであれば、こりゃ値段落としても売れていないのだ、ということになる。
下降線であればやがて損益分岐点を切る。こうなったら赤字の垂れ流しだから、必ず、1に改装、次に店長の入れ替え、最後に退店の順で動く。さらに下降線の角度を見れば、おおよそのその時期を、我々に教えてくれる。

ハウツー、手段、道具にあれこれこだわるようではヤブ。現場から目や耳にはいるもの、肌で感じる自分の五感を信じ、そこから素朴な問いかけをしてみる。こうしたことを繰り返えす。現場と状況から学ぶ。それを現場に返していくことで、職人は育てられる。

 この世界でも職人が少なくなった。
 9月30日。D店撤去。このSCからサブの核が抜けた。

つながりの両面性

2006年09月29日 | Weblog
 世の中のすべては、「つながり」でできていて、つながっているからこそ生きることができると考えています。これを逆に言えば孤立していたのでは生存できない。一人で生きられないということです。

 なんらかの縁で数々のつながりができ、その中でとりわけ親和性の高いものが、群れ、あるいはグループやネットワークをつくる、といったことになります。そして群れは群れとして、相互に情報交換を行い、連携性を高め、群れの整合性の確率や精度を高くしていくことで、群れとしての機能性、目的が生じるとそれは有機的に結合され1つのシステムになる。個は、個として完全に独立を保ちつつ、こうしたシステムのもとに生きていくことになります。

 ところが、家庭や企業もその一つでしょうが群れなりグループなりの関係が緻密になればなるほど、他の群れなりグループなり②対して、排他的になり、今度はグループ単位で閉鎖性、孤立感を高める、といった減少が見られるようになります。自民党のある派閥が孤立化して、自民を飛び出した、あるいははじきだされた。いずれにしても、このわかりやすい事例になります。

 企業を診るのを仕事にしている私は、企業診断や経営のアドバイスをするとき、この点をとても重視して診るようにしています。すなわち、「この企業は、社会システムとの調和が計られているか」。「この発案は、全体システムに貢献するのか」。「この経営者の社外とのつながりはどうか」、といった見方を意識的にするようにするわけです。

 その結果で、他者、他社、社会、地域との接点、つながり、ふれあいを小さくしている、孤立しているという要素があれば、これは黄色、あるいは赤信号と、と見ることになります。

 もう一方、今度は逆に、時として社会システム、外部、他者、他社から、制約を受けたり、仕切られたりが巣がないか、という観点から見ることも忘れないようにします。これはたとえば国の規制、反古の強い業界、同業組内の圧力、統制、しきりといったこが強い業界に、その例を見ることができます。

 このように利点もあれば弊害もある。両面思考の大切な所以(ゆえん)です。
いずれにしても個が全体システムのネックになるし全体が個の制約要件になる、といったこと、それが同時・並行的に発生する、といったことも珍しくはありません。

 だからといって、私たちは個とシステムの関係を否定しては生きられないのです。両者の関係が両面的にうまくいくように努力し続けなければならない。このことが社会を進歩発展させてきた原動力なのですから。
話が大きくなりましたが、こういうことを念頭において、人や組織を見つめ直してみると、存外に創発されること、革新のありどころが多々発見されるのでは、と考えています。

外から内へ、よどみ

2006年09月28日 | Weblog
 これから、鹿児島市のある企業の診断に行きます。

 企業を見る場合、まず周辺から見ます。立地、環境、業界といった、それも大きくそとから大洲加味します。内は外とのつながりの内なのですから、当然です。

 風呂敷は外から包み込む。定置網はああ聞く広げで、だんだんつぼめていく。みな同じです。

 次にそうした外と、内とのつながり、接点状況、温度差などを、内(企業)を見る前に、概ね想定しておきます。
 
 約束は13時半からなのですが、外を見るために、今から出かけます。中に入ったら、ある程度問題が想定されている。思いこみではなく。それでなくては2時間で、本質的問題を掴むことは難しいと思うからです。

 そうした上で、内(企業)を見ます。診断といいましたが、診断はあとです。全体をぼーっと眺めます。
 
商品にしろ、組織にしろ、情報にしろ、人にしろ、レイアウトにしろ、工程にしろ、企業にはたいてい「よどみ」があるものです。
 それがどこか、なにか、どうしてか、と見ていくのです。

 たとえば単に、在庫を絞る、といったことではなく、流れを早くする、というところに力点を置いて、全体の流れを見てみると、必ずよどんでいるところがあります。それを見つけたら、そのよどみがネック(溜)のせいか、商品自体のせいか、その他か。まず理由を突き止め、そこを改善する。

 要は、診断は、改善、すなわち、血液さらさらへもっていくことです。

 

つながりとがんばり

2006年09月27日 | Weblog
 他とのつながりを、損得とか利害とか、効率とかいった、おおよそ非人間的要素でしか見ず、他との関わりをいわゆる打算の論理、そうした関係上にしか構築できない人は、世間から孤立するだけではなく、そうした人が率いる企業は、他の企業体にとっては、「困る」存在になる。それで結果的に排除される。
 社会は有機的システム。個はすべからずそのシステムに内包されている一有機体と考えたい。

 だから、ある意味では皮肉なことだが、自分一人ひたすら頑張り、努力するタイプと言うのは孤立する。それが講じると、実は死へまっしぐらしていることになるのだが、その結果が出るまで本人にはわからない。
 だから、こう言う。
「一所懸命がんばってきたのに。どうして!?」。

 正常細胞を死に至らしめたガン細胞に待っているのは、自らの死滅。その寸前にインタビューしたら、同じように、「僕らは、正常細胞より遙かにまじめにがんばってきたのに、どうして!?」と言うに違いない。

 そこに怖さと、他者から見たときのお気の毒さがある。
 そうした観点から極端を言えば、友達がいない人が率いる企業体と言うのは、その意味でまずうまくいかなくなる危険性は高い、と、私は、企業を診断するとき、そうした俗論も仮説のひとつとして、大事にしている。


触発について

2006年09月26日 | Weblog
 人にしろ、企業にしろ、進歩発展には、いわゆる「触発」が不可欠と思う。

 触発は、「触」だから、触れる相方が不可欠。ふれたら何か感じる。何か思う。これは創発と言う人もいる。ようは「思ったこと」は、間違いなく,イコール触発を受けたことなのである。そのふれあいがなかったら出てこなかった。
 「思いつきでものを言うな」とか「それ思いつきじゃない?」と、否定的意味合いを込めた言い方がありますが、もしそうなら、世の中みな過去のものや他者のコピーになる。新しいものは生まれない、と思っています。

 世の中のすべては、「つながり」でできていて、つながっているからこそ生きることができます。これを逆に言えば孤立していたのでは生存できないということです。なんらかの縁で数々のつながりができ、その中でとりわけ親和性の高いものが、群れ、あるいはグループやネットワークをつくることになります。そして群れは群れとして、相互に情報交換を行い、連携性を高め、群れの整合性の確率や精度を高くしていくことで、群れとしての機能性、目的が生じるとそれは有機的に結合され1つのシステムになる。個は、個として完全に独立を保ちつつ、こうしたシステムのもとに生きていくことになります。

私の仕事で言えば、企業診断や経営のアドバイスをするとき、この企業は、社会システムとの調和が計られているか。この発案は、全体システムに貢献するのか、この経営者の社外とのつながりはどうか、といった見方を意識的にするようにしています。
個の発展過程で、社会とのふれあいを小さくしている、孤立しているという要素があれば、これは黄色、あるいは赤信号と、いった見方をするわけです。

時としてシステムから制約を受けたり、仕切られたり、といった弊害も発生しますし、逆に個が全体システムのネックになる、といったことも発生します。だからといって、私たちは個とシステムの関係を否定しては生きられない。両者の関係がうまくいくように努力し続けなければならない。このことが社会を進歩発展させてきた原動力だ、と思います。
話が大きくなりましたが、こういうことを念頭において、人や組織を見つめ直してみると、存外に創発されることが多々発見されるのでは、ということ。
これが私の言いたいことです。


寅次郎の声

2006年09月25日 | Weblog
○×式のアンケートをとって、お客様の声とは、全く論外である。「男は辛いよ」の寅次郎が、市役所にあった「市民の声を聞かせてください」という、投書箱に向かって、[俺、寅次郎」とかいって声を上げているシーンがあったが、あれより意味がない。

 以下、ICレコーダを利用して、寅さんのように自由に声を吹き込んでもらったお客の声の一部である。これ以外に生の声から、語感、調子、その他文字に表せない、ましてや5つの中から1つを、といった試問形式からは絶対つかめない五感の情報を得ることができる
                   *
 Aさん:「店にいって、いきなり何をお求めでしょうか?と言われるほどいやなことはない。あなたの店は買わなければ入れないのって言ってやりたいぐらいです。何か素敵なものはないかと思って入ったのにあれではお客を追い払っているようなものです。」
                    
 Bさん:「店で気に入ったものがあったので嬉しくてそのままレジに掛け込んだら、”お客さま、念のためにお召しになってみられたら”と、店員さんに声を掛けられた。急いでいるのに余計なことをと一瞬思いましたが、試着室で着てみて驚きました。私の思っていたムードと全然違うのです。がっかりもしましたが、後での後悔を考えると本当に助かったと思いました。」
 
 Cさん:「どんなものが好きだとか、ワードロープにはどんなものがあるのか、しっこく尋ねるのです。そんなことよりスーツを早く選んで欲しいなと思いました。少し煩わしかったのです。しかし、かなり時間をかけてお姉さん(店員のこと)は、あっちの売場、こっちの売場と掛け回って3着のスーツと何枚かのブラウスとパンストを選んでもってきてくれたんです。どれも私にぴったりでした。いま着ているのがその中のひと
つです。」。

 Dさん:「店員の中に一人だけ、私がどの服を試着しても、”お似合いですよ”という子がいるの。その子に当たったときは別の人に代わってくれとも言えないし。接客する人を客が指名できる制度を考えてくれないかしら」。

経営トップの戦略レベル

2006年09月24日 | Weblog
自分で自分の自慢する人には、どこか人格的欠陥やあせりがあるといわれる。 
では強引かつ極論をあえて許していただけるとしたら、自分の会社や店、ものをあえて強くPRや宣伝するのは、どうみたらいいだろう。

もちろん知らしめること、消費者に浸透させることは、必要不可欠なことだから、微妙なところで、そのこととは区別されなければならない。
それを承知の上で、あえて重ねて問いたいのだが、自画自賛性向の強い、PR、宣伝はどうなのだろう。ここで「どうなんだろう」の意味は、道義的、倫理的問題ではなく、経営をトータル的にみて、是か非か。あるいはもっと露骨に、どちらがより得になるか、という意味である。

消費者に支持され、売れてしょうがないところでは、そうしたことは無用である。売れて行列、催促が殺到する企業に必要なのは、宣伝はない。営業パーソンでもない。配送係である。
 このことを考えたら、そうした早い話が売れてしょうがないものを創ることにフィードバックした方が企業としてのプラスなのか、ほっておいたらなかなか売れない商品せっせと作り、それらを宣伝力で売りさばく方がよいか。企業としては、この択一、戦略問題なのである。

 一方、買う消費者の是非、幸福度、満足度という方から、この問題をみたらどうなのだろう。通常、この消費者にとって如何、という側面が考慮されていない。
PR,宣伝といった部門的、あるいは方法的戦略以前の問題として、経営者は、「企業として」という側面と、「消費者として」という側面を、併せて判断するという戦略の根幹を忘れがちなのでではなかろうか。人の自画自賛には嫌悪感を覚えても、自社の自画自賛に消費者がどう感じ、どう思い、その結果どう動くか。経営トップであるなら、このレベルの戦略に力点を置いて欲しいものである。

判断如何

2006年09月23日 | Weblog
今朝、寒さで目が覚めた。
 何となく浮かんできた言葉のメモを拡げる。以下、それを記す。
               *
歴史は、私たちに「人を喜ばせ、その喜びを自分の喜びとする人だけが、成功者となる。」ことを、教えている。

 だから、置き換えれば、「消費者を喜ばせ、その喜びを自社の目標と糧にする企業が、成功する」。

 なのに倣う者は少なく、さらに実践する者は限られる。原理に普遍性はあっても、実践するかしないかは人の判断に委ねられる。

 これで盛衰の分岐を決めているとしたら、人の判断の重要性を思わざるを得ない。

新・抵抗勢力

2006年09月22日 | Weblog
政治の世界だけではない。
組織外部に対して組織内の人々は、良き味方、心強い協力者であるが、内部のとっては最大の保守的抵抗勢力にある。みなまだ手に入らない将来(さき)の果実より、今手にしている果実を将来(さき)も持ち続けたいからである。
 そこに事実上、改革の二代目となる、安倍総裁の大変さがある。

私は、かねがね、今後の存亡分岐の課題として、以下の3つを考えている。
  1-成長から、生存の持続へ軸足を移すこと
  2-環境に対し主体確立を維持しつつ有機的結合を計ること
3-変化に対し謙虚な対応姿勢と、フレキシブル(流動的)な組織体を構築する。
 
1は、成長を目標化せず、生存し続けることに重点を置く。結果としてそれが成長だ、という意味に解して欲しい。
2は、環境に逆らうのでもなく、かといって迎合するのではなく、常に主体性、主導性をもって、環境の持つ巨大なエネルギーを取り込むことを考える、という意味である。
3は、変化を捕まえるに、一番の基本姿勢は、変化に対して、素直で謙虚であるということ。私はそう思っている。古今東西、過ちは、「そんなはずはない」という思い上がりが根底にあることを、私たちは知っているからである。
また変化とはフレキシブルである。今決めたから、それを明日も、明後日も持続しようという身内の集団意識こそ、その組織体の存続にとって、抵抗勢力になる、と考えるからである。
 安倍さんの立場が、小泉さんと大きくことなるのは、小泉政権を支えてくれた、小泉シンパの存在である。
 安倍さんにとっては、小姑や姑よろしく身内が、新たに抵抗勢力に加わる。
 経営における二代目においても然り。

「天文館」

2006年09月21日 | Weblog
 鹿児島市の中心商店街の、そのまた中心の商店街のいくつかで構成されている地区を、一般に「天文館」と呼ぶ。
 「天文館」という商店街があるわけではない。どこからどこまでが天文館と、線を引くことも難しい。商店街かとそうとも言えない。飲み屋街、商店、遊技場、オフイス、ホテル、デパート、小さなスーパー、バスセンター、公園、マンションなどなど、実に雑多。ごちゃ混ぜの街である。私がここへ住んでいた40年前には、ストリップ劇場などもあったが、良貨が悪貨を駆逐し、いつの舞か消え、つい最近、シネマに押され、映画館が消えた。

 私は、この中心商店街を全国の商店街の中でも、いわゆる商店街としてはトップクラスの魅力をもっていると思っている。新幹線の開通で、鹿児島中央駅の商業施設 「アミューズ」を核をする新たなショッピングゾーンができたが、なんその。はっきりいって博多の天神や中州より、あるいは梅田や難波より、銀座より、この天文館が魅力的だ、と思っている。身びいきではなく、である。その理由を3つのキーワードで示せば、「ごちゃまぜ」と「自然淘汰」、「自然発生」ではなかろうか、と思っている。

 この天文館の特徴は、大まかに言えば、1に核なし、2に大型駐車場なし、3に区画整備事業なし、というところだ。
 まず1.山形屋百貨店、三越共に、この天文館からかなり離れたところへ位置していて、電停も別。昔から核ではない。昔はこの街に、大見高島屋という小さな百貨店があったが、核になるほどの力なく業種転換し、今はテナントビルとして栄えている。もちろんナショナルチェーンも量販店もない。ようは強力な核となる施設はないのである。2に、駐車場がない。相当離れた公園に、10年前に公営地下駐車場がやっと作られたが、それまでは100%、民間のそれも結構高い駐車場だけであった。3に桜島の降灰を避けるためにアーケードは整備されている。歩道も、カラー舗装もある。各商店街の振興事業は盛だが、道路を動かしたり、区画整備をしたり、といった街の新陳代謝を促進する事業をやっていない。少々オーバーな表現になるが、あくまで自然発生的で、ここまでたくましくなったのである。

 1に核、2に大型駐車場、3に近代化整備事業といった3つの条件が街作りには不可欠と思っている関係者からみたら、理論に逆らうまことに困った「天文館」だろう。
 
「核がなければ、人が集まらない街は弱い証し。この街は街自体が核で主役。だから百貨店も街に助けられているから、協力的。駐車場が安くなければ車の客がこないのであれば、それは弱い魅力のない商店街である。この街では900円のラーメン食べるために350円の駐車料金を払わせるほど力を持っている。中には、公安にべらぼうな駐車料金を払う人さえいる。お寺さんのあの副業、駐車場がはやるのも街のおかげ。」
 私は、きわめて乱暴な言い方だが、上のように考えている。

 ちなみに、自然発生的商店街である、といういいかたは自然発生が悪く、人工的を良しとするコンサルタントの常套文句だが、私はそれには猛烈に異論を唱えてきた。自然発生的とは、消費者のニーズによって経営された強い街でセオリーに則している。対して人工的な街は、コンサルや町の人が、よその箱を持ってきただけで、消費者のニーズではない、と考えているからである。