経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

老眼鏡を掛けて遠くを見る

2009年05月28日 | Weblog
私の関心分野の経営は、演繹的、学問的なアプローチではなく、
市井の日常の営みの中に経営を位置づけて考える、といったこと。

市井、日常、普遍性、といったことをスタンスに、
このライフワークとして生業をしています。

元来勉強嫌い学問に疎く浅学で、現場経営が長い。
こうしたことが理由です。

最初から積極的にこうした考えでといったことではありません。
が、今はこうした自分の経営スタンスが気に入っています。

ですから集まりとか会議室とか、経営から離れた場所で、
経営者にお会いするより、企業現場をご一緒頂きながら話を伺うことが、
とても好きです。趣味と言ってもいいぐらい楽しいのです。


企業には二通りあります。
業績がいいところと、悪いところとです。

現場を見たり聞いたりするとき事前に自分でどっちかに決めます(仮説設定)。
たとえば「業績がいい」とみたら、なんでや。なんでや、と
理由を探し、考えながら現場を見るためにです。

「仮説」というのは、勝手な思い込みみたいなもの。
あの人はいい人と思い込んで会うとその人のいい所だけが目に付く。
磁石効果。それです。それをやる。

重要なことは、次に必ずその反対の仮説設定もきちんとやることです。
思い込みとは、片面思考ですから、必ず両面を見る。
正面から見たら反対面を。反対面から見たら正面をみて、
初めて全容がつかめ、仮説の判定ができるからです。

それでも、「なんであんなにうまくいっていないのか」、
といったことは、まず明快につかめるのに、

「なんであんなにうまくいっているのか」ということは、
具体的につかめない思いことが、時折あります。

だからといってすごい経営者だ、彼は特別なのだで終わらせては、
私の仕事にはなりません。

ましてや「天才経営者」、「経営の魔術師、「経営の神様」」
としたのでは、そこから学ぶことは何もできない。
ですから、こうしたタイトルの本や、講演が役に立たないのは当然です。

多くの経営者は、天才ではないし、魔術師、神様でもない。
またカリスマといったレッテルではなく、その中身が知りたいのです。

なにゆえカリスマなのか。1にこれ、2にあれ、3に、それ。
と具体的につかめて、私たちは学べる。

それで、「なんであんなにうまくいっているのか」と調べたり、
考えたりするのですが、わからないことが最近多いのです。
それでまた、このことについて、「なんでやろ」と考え出す。

これもやがてわかりました。

37歳の時からこの仕事を始めましたが、
以来たくさんの現場を見ている。
経験を積んでいる。これが関係している。

そうした経験がかなり蓄積され演繹(さび、しがらみ、しばり)となり、
それにとらわれて、現場を見ている。

青い色眼鏡で、物を見ると青に見える。
それで世の中、青じゃないか、といっている。
これ、今を見ているのではなく今のつもりで過去を見ている。
「ここ」を見ているつもりで、「別」を見ているのと同じ。

こうしたことに気がついて、かなりショック。愕然としました。
年取ったことは悪いことではない。
経験を積むことも悪いことではない。

だがそれらにとらわれ、世を見たり、考えたりすることは、
明らかに上の「青い眼鏡」と同じことです。

でも目が悪いのではない。青い眼鏡が悪いのではない。
青い眼鏡を掛けて見ている、そのことに気がつかなかった
自分の選択が間違いだったのです。

老眼鏡を掛けて、遠くを見てかすむのは、
かすんだ世界がそこにあることでも、老眼が悪いのでもない。
遠くを見るのに老眼鏡で見た自分の選択、判断の誤りなのです。

「なんでやろ」と考えて、自分で手が打てる答えが掴めたとき
まず1日は最高の爽快な気分に浸れる。

100円玉に揺れる

2009年05月27日 | Weblog
五木村では風呂に入れる時間がとれなかった。

で、帰路途中川内駅近くの「温泉平佐城」へ寄る。
市内には、高城温泉という古くからのひなびた温泉郷がある。
が市内でも温泉があることは、市民以外には存外に知られていない。

実は市内温泉の発掘者第一号が「温泉平佐城」の現主人迫良一さんの父親である。
他の施設の多くが循環、加熱しているのに対してここは昔から元湯、掛け流し。
しかも大衆浴場より安い入浴料で、一般にも解放している。
旅館もお城とは反対で旅籠、民宿に近い。

はっきりいって豪華ではない。
20年前から宴会などを一切やめた。
その折週1日、定休日を設けている。

1-奥さんや従業員に負担を掛けたくない。
2-宿泊客に迷惑を掛けたくない。

宴会の稼ぎで、なんとかやりくりしている同業者がほとんどというのに、
上の理由ですぱっやめた。
宿泊客は常連客とそのお客に紹介されて、といった人たちだ。
それで毎日ほぼ満室である。
風呂は早朝6時から23時まで。それから社長以下家族で風呂の清掃をする。

この迫さんことは、以前、ここに株のことで書いた。

古いロッカーがある。色ははがれ、鍵の壊れたところもある。
これは100円入れロック。出すときは100円戻る、といった方式だ。だが、ほとんどの人がキーを掛けずに使用している。風呂場に100円持ってくる人はいないということもあろうが、この銭湯もほぼ常連客。盗難の心配などない、とみな思っていることもあろう。

私は、何事でも4とか9とか。
できれば42とか49といった番号を選択している。
理由。空いている確率が高いからだ。

昼間だからどれでも選べたが、この日は4。
無意識にキーを回して気がついた。100円玉が入ったまま。
むろん私が入れたのではない。前の人が忘れたのだ。

瞬間、思った。「儲かった」。

だがその本心とは裏腹に、おもむろに外にある番台へ、
「これ4番に忘れ物」。

湯につかりながら考えた。いろいろ考えた。
100円得した方が良かったかな。むかし俺、
ここに忘れて100円損したこともあったし。

考えている内、はっと思った。
「私が忘れたのは、うっかり。だが、
この人は次の人のために使ってもらおうと
そのままにしておいたのではないか。
そして次の人も。そしてその次の人も。
さらにその次の人も。そしてその何人目かが、この自分。
善意の人のチェーン。ありえる。

としたら100円ぽっちを番台に届けて、
自分のいいかっこを感じることなど、まさに小賢しい。
またその人にとって善意を踏みにじる余計なお節介だ。

うん、そうだ。忘れたのではなく善意に違いない。
それに違いない。


風呂上がりで、大げさではなく身も心もすがすがしくなったのは、
我がふるさと、この街、薩摩川内にそんな人がいるといった思いでだ。

年齢、いや年月か。年を重ねると言うことはなんとすばらしいことか。
自分のどろどろ、おぞましい心を洗ってくれているのだ。

一方、市井、日常性の中でささやかなゆらぎに、
いつまでも心揺らす未熟なままの自分を笑える自分でもありたい、
とも思った

汗水流して

2009年05月26日 | Weblog
考えた。

考えるときの私なりの信条は、それが何なりとも
良い方向、良い物になるように考える。

積極的思考と言うより、意識してそうしないと
悲観的な考えが、頭を占めてしまう。
これが怖いから、といった方が正直なとこころ。

考えた。

事務所の机や書棚などを入れ替えたり、
保管義務の切れた帳簿などを手で裂きながら考え続けた。

長く考えたら、長い答えが、
あるいは深く考えたら立派な考えが浮かぶというものではない。

が、考えた。その結論。

「仕事とは、虚数を実数に変える仕組みをつくること」

これが、1日、文字通り汗水流して、得た収穫である。


数字に裏付けがあれば、人は信用する。
なぜか。今は虚数だが、これが実数になると思うからだ。
これが人をして、期待を持たせ、夢になり、その間わくわくする。

では、裏付けとは何か。

親戚の大金持ちから遺産が入る、と言われたから、
金を貸した、といったのは話にならない。
これにもまた1つ、1つ、裏取りが必要になるからだ。
嘘は、嘘でつなぎ続けることで、嘘になり、
そしてつなぎが切れた時点で露見する。


いかなる真実も嘘で上塗りした次から
虚のドミノが、露見するまで続くことになる・



数字は、関連する人が、どう動いたかの結果が実数(実績)になる

どう考えたかは、人の頭の中のこと。解剖しても解らない。
またどう言ったかは、々でもいえるから、これもわからない。

頼りになるのは、これまでどう動いたかだけ。
だがこれとて過去のこと。先を担保するとは限らない(後述)。

それでも実数がでているし、容易に知ることも出来る。


だから、判断のよりどころとしてはどう動いたかである。

だがここで、これからどう動くかを聞いてもあまり意味がない。
どうでもいえることを尋ねても、それは虚数であるし、
社外の人間が、その裏をとるだけことはまず難しいからである。

そこで、私たちは(不本意ながら)過去の実績で
自己の想像力に依存して、虚を実にイメージ、
先を読むことになる。

これが「信用」の効用である。


大きくなったという実績は小さいところより信用しても良い。
老舗は長い間の信用の積み重ねでここまできた。
だから信用しても良い。

なんということはない。

きちんとした身なりは信用される→
           私は信用されないが、詐欺師は信用される

大同小異 本質的にはこれと同じこと。


200年の歴史を持つ企業が、これまで一度も不始末をしないという
過去の実績があれば、これからも、という過去の実績の延長線上に、
幻想の信頼を消費者なりが抱き、イメージすることになる。

だから創業間もない企業より信用される。で続いてきた。
だがそれとて、確実ではない。

このことを消費者が思い知ったのは、数年前の老舗企業の偽装事件。
以来、消費者はその思いを強くしたのである。

冒頭に書いた、昨日一日掛けて得た小さな結論
「仕事とは、虚数を実数に変える仕組みをつくること」
で、彼らに照らしてみると、彼らは

「仕事」の定義から逸脱した、といえるのではないか。

メスとドス

2009年05月24日 | Weblog
経営者が消費者にむけて、たとえば、

「当社はお客様には効率第一、コスト削減を旨として対応しています」
「お客様の家を造るに当たって効率第一、最低コストを心がけています」

と言うことはまずなかろう。

だが、社内に向けては、
「効率第一、コスト削減を旨とせよ」
「建築に際しては効率第一、低コストを心がけよ」

これは、まずよく言われ、きかれることである。

同じ会社が、前者と後者、使い分けている。
これを矛盾と言うが、実際は矛盾しない。
なぜなら、実際は後者で行われているからである。
本音と建前では、まず本音が勝つ。

では、矛と盾とではどうか。
矛盾という言葉の語源である矛と盾も、
現場では同時に使用されることはない。
攻防で、使い分けられている。これが「矛&盾」。

矛と盾とは使い分けて使うものだ。
それが同時併用されたら。「どっちやねん」、
といった戸惑いが起きる。

だが答えは、尋ねる方も解っているし、答える側も、
「我が社の建築は効率第一」
「手間暇かけず最低コストで作っています」

とは言わない。相反するなどとは、たぶんに思わずに

「当社は、手間暇かけてお客様に対処します」
「お客様の家を造るに当たって懇切丁寧を信条にしています。」

といった言い方をするだろう。

言葉通り受け取る消費者ばかりであれば、有効だ。

だが昨今、これだけ消費者が裏切られる経験を蓄積をすると、
言葉の「手間暇かけて」が、実際行動で「念入りしました」
と受け取る人は少ない。

消費者には、慇懃過ぎる態度、きれいな言葉は
むしろ裏、すなわち前者に聞こえる。


盾を矛に似せることはない。盾は存在価値を失うから。
矛が盾に似ることはない。 矛は存在価値を失うから。

畢竟、両者を似せるから、問題が起きる。
偽装商品には、「これ偽装商品です」といった
ラベルを貼って売ればなんら問題は起きないのだ。

相手が存在する限り、当方も存在していること。
当方が存在する限り、相手の存在もある。

和の概念は、戦いが存在してのこと。
戦いは和を求めて起きる。


矛が強くなれば、盾を強くしなくては。
盾が強くなれば、矛を強くしなければ。

こうした考えが、毛沢東の「矛盾論」。
消費者が賢くなれば、企業も励む。
企業が励めば、消費者が支持を強める。

唯物弁証法を根底においている
この論を、はしょってはしょって一言でいえば.

さまざまな事物の矛盾を観察し分析し、
矛盾の解決方法を指し示すことで須く物事は進歩発展する。
したがって矛盾という法則を日常に用い、
それを考えてみることは非常に重要なことである。

とまあ、こんなことになろうか。

言葉は、矛盾を暴くが、その矛盾を消しもする。
神を創り思想を作る。人を育て、人を殺す。


だがその言葉を発するのは、人。
人の命を救うメスを、怖い人が使えばドスになる。

人と亀

2009年05月23日 | Weblog
Sさんのこと。

Sさんは、小さな温泉旅籠の亭主だ。
昭和60年になくなった先代のあとを引き継ぎ
奥さんと二人三脚で、この家業をやってきた。

大衆旅館を貫き、また市内唯一の掛け流し温泉を
大衆浴場として低料金で町の人たちに開放している。

そして何よりこれぐらい人の良い、そして敵の少ない人も珍しい。
そのことは反面、人が良い分だまされやすく、優柔不断。
そんな彼が、タノウエ脳力経営塾に入ってきた。

行動的な他の塾生の中で、ゆっくりの彼は目立った。
私も、じれったくなったことしばしば。恥ずかしい。


その彼が株をやってみたいと、仲間に言い出した。
理由が、彼らしい。
1-この仕事は、お客様を通じてしか外を伺う機会がない。
2-僕は自他共に認める優柔不断。判断する訓練をしたい。

それで家業の宿屋をやりながら、上の2つを充足できるのは「株だ」。
まるで、落語の中での三段論法だ。


情勢判断は、行動学である。
そうした師、城野先生の受け売りの話をした直後のことである。

彼なりに、思うことありか。
それにかねがねから決断力がない。何を考えているか解らない。
本を読んでも実践はしない、と仲間からいわれていたから
彼なりに考えた末であろう。

後日談。
そのことも、考えに考え、踏ん切りが付かず、奥さんに、
決めてもらったことだという。

その後、この人の良い夫婦に、なんでや、と
他人の私すら思うぐらい次から次にトラブルが襲う。
先代の遺産相続問題、
従業員の不慮の事故死。
娘さんの交通事故による植物人間化・・。

それだけに、昨年5月の長男の結婚式はSさん夫婦にとっては、
万感お思いがあったに違いない。招かれたものみな、そう思った。
そういう思いをのせて、「Sさんは、亀だ」と、いったことを話した。

私たちウサギの後方をノロノロ追いかけていた彼が、
いつの間にか、一番先頭にいた。それが私の実感だった。

披露宴の2次会で、酒を飲まない彼が言う。
一番時分に似合わない株をやってほんとに良かった。
儲け、損といったことではなく、情報のこと。
それに対しての判断しなければならないこと。判断は株価を見てではなく、
それを動かしている人の動きをみなければならない。

相も変わらず歯切れの悪い話しぶりを、要約すると上のごとし。

株には、無知無学私にも、この彼の言いたいことは解る。
それに、やっている彼と、やったことのない自分を並べてみると、
彼の話に、言葉や話し方だけでは出てこない一種の迫力が感じられるのだ。
いや、あるいはこちらの気後れかもしれない。

教えられた。嬉しかった。

考えた。

言葉に行動が伴ったとき。
そして行動からでた言葉で語られたとき。
こうしたとき、人の迫力は生まれるのではないか。
そして、迫力とは「人間そのもの」ではなかろうか、と。

朝から浅ましい

2009年05月22日 | Weblog
今朝、ささやかに株をやっている塾生のSさんが
「情勢判断学を学んだおかげで、株ではなく考えを見れば
うまくいくことを体験しました」とメールをくれた。

ずいぶん以前のこと。
今は亡き愛犬、元野良犬ジルと散歩していて、
あっと気づいたことを思い出しています。

それは、散歩道を無意識に近道していたことがあったんです。
いつもの道を先に行っていた、ジルの怪訝な顔で、気がついた。

今、企業に関する原稿を書いていて、そのことを思い出したのです。

本来の効率はそうではないと思うのですが、
私たちは無意識に効率を求め、近道を考えているのではなかろうかと、
そう思ったのです。

散歩を楽しむ。あるいは運動不足解消でもいい。
そうした目的があって、手段としての散歩が、
効率を上げるということにすりかわっている。

散歩にまで、効率を求めている。
これを置き換えると、人生に近道を求めていることになる。

人生100年として、これを近道するということは
人生の始まりと終わりの距離を詰めることになる、
終わりが目的なら、自殺が一番効率的だ。
これをひっくり返すと、究極の効率は短命の具現。

なにだったけ。
古典落語に、これを皮肉った話がありましたよね。

考えて自分でぞっとしました。なんとおろかだと。
楽しい旅は長いほどいい。なのに旅を駆け足で、効率優先で
駆け抜けたがる自分が、ここにいる。

話がそれます。
私は考えていることがあるから書くいうより、
考えるために書く。書くことが目的ではなく考えることが目的だ。

書いていると考えがまとまるといった感じで、
この稿も、企業の対応について書いている間に、
ジルのことを思い出し派生的、脱線、横道にそれて書いている。


企業のことに戻します。
創業が起点。極端ですが終点が倒産ということにすれば、

この道のりを近道し死に急ぎすることは、まず考えられない。
出来るだけ、長く、出来るだけ充実してといった思いが本来だ。

畢竟、判断も長期的視野から。戦略も刹那的ではなく、
長期戦略的に、近視ではなく俯瞰的に、ということにある。

ですが、この不況に対しての、多くの企業の判断はどうか、
対応はどうか。 ありかたはどうか。


Sさんの久々のメール。
思うによほど儲かったに違いない。
よほど嬉しかったに違いない。

私もメール、嬉しかった。
が、私とて、もっと嬉しいものがある。

朝から、浅ましいことにいつか贈ってもらった銘酒が
頭をよぎる。

晩熟を嗤う

2009年05月19日 | Weblog
声をかけて頂かない限り、自ら仕事はしない
という典型的な怠け者としては、かねがねも毎日が日曜日。

それでもかねがねは、外からの電話やメールも結構あるし、
やることはいっぱいあって忙しいのだ。
だが、GWなどまさに、毎日が日曜日が毎日続くと、
電話もメールもまったくないに等しい。


で、時折やることを失いぼっと過ごしてしまう。

こうしたときやらなくてもいいこと。
たとえばパソコンのハードデスクなどの整理などをやり、
先月みたいにパソコンをぶっ壊す、といった事を引き起こす。

それで、今年のGWは、これから忙しくなってもすいすいと仕事がすすむように
大きな期待を込めて、使い勝手を念頭に事務所のレイアウト、
本や資料の配列替えをやった。

そうした作業をしながら、不要なものを捨てる。手が届かないところの掃除。
これまであまり使っていないものを、机近くに配置、
それに運動不足解消をやった。

性格だろうが、これまで振り返っても私の場合は、
仕事をするための必要なものが見つからず、仕事をする時間より
それらを探し回る時間の方が遙かに多い。
あるいは、仕事をしたくないために探探しまわるといった方が近いか。

だから探し回るものになりそうなものを想定して、
それらをわかりやすいところに配置し、名札をつけていく。

まあ理屈をつけての時間つぶしをして長い「毎日が日曜日」をやっと終えた。

今朝(7日)、さっそく五木村から電話あり。
「五木村よかもん創りプロジェクト」が、この19日に立ち上げ。
その連絡だ。2年目の予算がとれたのだ。おめでとう。ありがとう。

入れ違いにメール添付で、計画書が送られてきた。
おそらく、この休みの間、彼は休日返上で、
これだけのすばらしい計画書作成の作業をしていたにちがいない。
たいして、私は、しこしこ事務所の大掃除で時間つぶし。

彼の熱意に答えるためにも、このGWの私の掃除が
無駄にならないためにもがんばらなくちゃと思った。

頑張ることが嫌いで、言葉としての「頑張る」も好きではなく、
ほとんど使わないのだが彼の熱意に打たれ頑張る気になった。

はっ、と気づいた。「やる気」は自分以外の人に対して「やる」、その気、
はっ、と気づいた。「頑張る」とは、自分以外の人に対して「頑張る」、その意味。

自分の晩熟(okute)を笑った。

これ、大声で

2009年05月17日 | Weblog
国際会議などの終了後、

「両国は、○○に関して意見の一致をみた」

といった記者発表がなされることがある。

とりわけ最近は目立つておおい。
これは結論から言うと、会議は決裂。
会議や会談における所期の目的は達せなかったということである。
つまり、こうした報道は繕いのメッセージに過ぎない。

典型的な事例。

「両国は、こうした会議を継続して行うことで意見が一致した」

といったメッセージである。

これは本来なら、「何も収穫なし」といった報道をすべきなのだが、
そう書いては番記者たちは、次の取材から相手側に意地悪される。

そこはお互い波風を立てない形で、といった持ちつ持たれつ。
なれない妥協の産物なのである。

また国としても、国民などに対するメンツがある。
一国の首相の会議となれば随行員など100人前後。
かかる軽費は100億円近く、とされる。

一方迎える方も、歓迎会の費用を割り勘とはいえないから
莫大な金を負担している。警護コストの負担も馬鹿にならない。


投資に対して見返りなし。
これは国と手、企業と同じに困る。
国民の税金だから、気にしない人たちでも
何も決まらず収穫なしでは、
自分の顔が立たない。これは困る。気になる。


とりわけ国民からの不信感が政情に影響する
政権不安定な国の場合はなおさら、自分が困る。
この点お互いさまだから利害が一致。相互に気を遣い合う。

そんなこと、あんなことの思惑、かばい合い、なれ合いがあって、
よっぽどのことでない限り、たとえ1点でも。
レセプションでのワインが旨かった、
といったことでも「意見の一致をみた」形を実績として作りたいのである。

だが報道を受け取る方は、そのまま上のようなメッセージ、
すなわち「意見の一致をみた」といった文面だけで物事を見ては、
まったく反対の情報を頭に入れることになる。

かといって、「あんた、正確に事実を報道しなさいよ」と抗議しても、
「ハイ、そうします」とは言わない。それに少なくとも
「一致したこと」があったことは事実なのだし。ずるいなあ。

何事にして、情報発信者側には、その情報発信に対する意図がある。
「正直に書いてくださいよ」と、お願いするより、
意図を承知していて、情報を読む方が早い。

ただし、lここが忘れられることなのだが、
情報を受け取る側にも、受け取る側の意図なり思い込みなどがある。
人は大なり小なり自分に都合のいいように受け取りがちの人もあれば、
逆に悲観的に受け取る人もいる。

だから、1つには悲観的な見方からと楽感的な見方からの
2つのシミュレーションを用意して査証してみる。

あるいは左右にそうしたことを尋ねる人を置き、意見を求め、
判断は自らやる名君のやり方をとるのもいい。

ITj時代に入り、入る情報の格差はなくなったとされる。
その通りだと思う。 元来、量がとられるのは、量が質を決める、
といった面があるからである。

反面、情報が多いということは選択肢が増え
それに埋没、振り回される。
といった主客転倒の現象も起きると言うことだ。

私たちは、情報そのものが目的ではない。
その中からどれだけ精度の高い事実をつかむか、
いかに本質をええぐり出せるか、

そしてそれを自分なりの生きることに活かすか、
といったかが問われることになる、と考える。

情勢判断学を学ぶ目的は、ここにある、
と私は大きな声をさらに張り上げている

蠅から学ぶ

2009年05月10日 | Weblog
さて、対策。

なぜ蠅対策が必要なのだろうか。

昭和58年頃の話。
西宇和島町商工会の人たちを、ご案内しKモールへ行ったことがある。
まだダイエーに吸収されない以前のスーパーユニードを核に、
拡散していた商店を、ここに集約してモールを作ったもので、
当時大変評判になった。

今でも当時のパンフレットを持っているが、掲載されている写真は、
身動きがとれないような人混みの写真である。
(あとで確認したところ、オープン初日に撮影されたものということ).

訪れたのは、土曜日11時。
みな一応に驚いたのは、通りには人がいないこと。見渡す限りいない。

商店の裏側にあるユニードの店頭で、
青空市が開催されていたが、ここで初めて人を見た。

30分ほど、立派な、そして無人のお店を見て回り、
食事のために、通りの真ん中にあるラーメン店に入った。
昼時というのに、人はいなかった。

その代わり、テーブルには無数の蠅とハエ叩きが。
ここで、私はヘボ句をみなに披露。そしてメモし、当時の一人新聞に掲載した。

  「客数は、蠅数に反比例」

「ハエ叩き、片手にすする、ソバ不味し」


人から見て蠅は不衛生を好み、人からみて人は蠅のいるような不衛生を嫌う。
蠅も人も、区々己が得する選択をする。
これは蠅も人も、貴店の胃客観様にも共通する普遍性。

だから、「蠅から見て」という視点が抜けると対応を誤る。


おかしなことだが、多くの経営者は、日常の府受けの中の
解っていることには関知せず、経営、経営と難しく考える。

経営者は不振理由を「不景気のせい」、「競合が」というが、
「蠅に好まれる条件が多いため」といった理由が
正解といったことが多いのである。

事実を認めないと、対策にならない。

蠅知らず、蠅取りが店においてあるお店は
対策を知らないばかりか、ハエいっぱい育てている、
という情報をお客に知らせている情報開示のお店といってよい。

ハエが生活できない。蠅から選択されない状態を創ること。
これが栄えあるお店の対策である。


衛生管理の話でもない。
 工場視察の話でもない。
 ましてや、ハエの話をしたかったのではない。

デフレ、不況、と総理やメディアがいおうと、
ハイ、仰せの通りとかしこまることも困ったと悲観することもない。

こうしたことを、私は先進企業先の一匹の蠅と、
先進地のKモールのおびただしい蠅たちから学んだ。

それら蠅の教えてくれた経営のポイントを、以下3つに要約。

1に、情報をとらわれずに受容し、対応すればいいのである。

2に、それで対応する。
だが対応とは、蠅知らず、ハエ叩き、はえ取り紙ではないということ。

3に、蠅知らず、ハエ叩き、はえ取り紙をもって、
お客に不衛生な店という情報を流している、ということ。
 (=金をかけて売れなくしている)


上り坂と下り坂がある。
上り坂だけ走る車はない。下りだけを走る専用車もない。

運転主の選択と操縦の技で、登りも下りも自在に運転しているではないか。
無理な坂道と分ければ迂回し目的地へ行っているではないか。

それが車は出来る。
その車を考案し、乗り回しているのは「人間」なのだ。
このことを言いたかったのである。

蠅の肩を持つ

2009年05月08日 | Weblog
ずいぶん前、メルマガに書いたことがある。
ある外食チェーンの支店で食中毒事件のこと。


たまたまその前の月に、ある所属する会で、
先進企業訪問という企画があり、このISO の認証企業を視察にいった。

会議室が使用中ということで、
14時から17時まで一時閉店しているお店内で話を伺う。
総務部長と工場長の挨拶と説明があり、新聞のコピーが配布される。
二人は簡単な挨拶だけで退出。
後はビデオでご覧ください、というわけだ。タイトル:
「 我が社はいかにして栄えあるISO◎△×の認定を受けたか」。

きれいなところだけ貼り付けた映像ほど退屈なものはない。
ふと外に目が。窓ガラスはぴかぴか。しかし動くもの一匹。
席を立って確かめる。ハエだ。虫の蠅えだ。

人間もハエも、一匹では生まれない。
ここより良い餌場の厨房にはいっぱいる。
それともハエ叩きで追われてここへ逃げてきたのか。
家族や、仲間は・・・・・・・・・。

1-著名人が推奨したのは、著名人の選択。
2-何とかが認証したのは、認証側の認証条件をクリアしたということ。
3-蠅がここに住んでいると言うことは、蠅の餌場として良し、としたこと。

私は上の1と2より、命をかけていい餌場として、
ここを選択し、所帯を持ったハエの選択、3の肩を持つ。

見せられたところだけみたのでは、事実を見誤る。

私がメルマガに指摘したことが当たった。と視察に一緒に行った
Mさんが電話をくださった。

当たったのじゃないよ。とMさんに。
この場合、ハエが、皆さんに的確な情報を知らせてくれていた。

立派だ、何と認証を受けている。売り上げが大きい
そしてその躍進ぶりの報道をまとめたビデオ・・・・・
そういった先入観で頭が満たされ、またかねがねから
身なりの悪い人よりいい人が事実を語る。
子供より、大人の言うことが正しい。

といった情報を受け入れる者の、ハンディをつける習慣、
そのハンディ似すら気がつかないでいること。

そうしたことが情報を見誤らせる。

立派な人の言うことに逆らえ、認証など意味がない。
とらわれてはならない、などと言っているのではない。

立派な人が右と言っていたら左を見てみる。
認証が太鼓判を押していたら、太鼓判を消してみる。
とらわれているのなら、とらわれを外してみればいい。
とらわれていないと思うのなら、とらわれてみる。
こうした両面思考ができて、対応対策ができるのである。