経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

先情後理

2010年07月31日 | Weblog

「人は皆一人一人違う」という自明に理に逆行する
あり方にいかに正義を付加しようと権威でオブラート仕様と
消費者との乖離を生じさせた元凶に変わりはない。
その事例として、スーパー業界の雄ダイエーを例に取り述べてきた。
その背景にあるものは「チェーンストア理論」である。


そうした自ら信奉する高邁な理論により忠実であろうと努力する者は多い。
が、自らが消費者との乖離を縮める方向への革新をしょうとする、
消費者の視点に立ち行動する商業者は、存外に少ないのが実態である。

私から見たらその理論が正しくとも、
それは消費者を背にする姿勢に違いはないのだ。

やはり商いは我が身を消費者におき、その位置から自らの姿勢を見る。
これが真のあり方と思う。

商圏によるニーズとその変化、時間経過に伴う二ーズの変化、
男女別・年代別によるニーズとその変化など、
様々な変化に焦点を当てて対応するといったことは、
その限界を意識しつつ不十分かもしれないが、
我々は必死の努力をしてきている、
といった反論は、当然ある。
それらは、大きく次の2つに要約できよう。

1-それらはマクロで潮流変化を捉え対処するのに、
ミクロを足して全体潮流とし、それを割り算して平均を求め、
その平気値に対して対応対策を打ち出すといったアプーローチである。
個々個別対応は理想であるが費用対利益を考えると採算に合わない。
だから平均モデルを使うしかない、といった考え方である。

2-しかも変化のスピードが速くなっていて、
情報を掴んで、対応した頃には、それらは過去になり、
また未来から新たなものが、この今に押し寄せるといったことで、
とても追いつかない状況である。
 
そうした考えに対して言いたい。
「だからこそ、考えそのものから変えなければならない」と。

継ぎにその内容、申し上げたいことを骨太に言おう。
これまでの対応の主流は「理」である。
これをまずは、「情」先行。
そうした対応へ転換させることである。

複雑なかつ微妙な変化を即つかみ、
即対応するには、「理」では難しい。
人はまず五感で感じるからである。
端的にいえば、「情」で感じたものを理である。

理で捉えて、情で対応は、あり得ないことと私は思う。
「先情後理」なのだ。

いや私がどう思おうと、そうでなければ、
とうてい対応に無理である、ということである。


単純なんだ!

2010年07月29日 | Weblog
経済だけでなく政治的にも
大変な時、と言われています。
だれがそう決めたのか、
大変と大変でないときとを何を基準に決めたのか
私にわかりません。知りません。

かりにわかったとしても、
「その通り。私も従います」、ということにはならない。

そもそも、そういうことは、自分で決めたい。

自分で判断したい。
不景気を景気が良い。政治混迷を政治正常というのではない。

不景気、ならばこうしよう、ああしよう、と
自分にとって良い方向へもって行くということだ。

どこのだれかが不景気だといったから、不景気なのではなく
自分が不景気と感じ、本当に不景気と思ったら、
ああして、こうしてうまくいくようにもっていくよう考える。


マスコミや他の人の流すことを鵜呑みにしない。
かといってそうじゃないと頭から否定する、といったことではなく、
流されず自分できちんと受け止めはする。
しかし「ほんとうにそうかな」と自分の体感で検証、
そして、本質を突き詰めて、考えてみることが重要だ、と思う。


政治も経済も人が為しているものです。

この国は専門家のものじゃない。
この国は政治家や経済家が動かしているのではない。
国民、国民一人一人のもの。
国民が動かしているのだ。

そうしたものが複雑で難しいものであるはずがない。
政治にしろ経済にしろ人のやること。それに複雑にではなく、
うんと単純なもの、というのが私の理解だ。

たとえば、経営など実にシンプルです。
ハンディのない世界だ。
そしてどんな世界にも、通用する普遍性ある、

1に、繰り返すがすべからく人がやっていることだからだ。
2に、次の3つの公式で成り立っているにすぎないからだ。

  ○購買=売上
  ○売上=購買客数×購買額
  ○収入(売上)-支出(経費)=利益

上の3つを理解し、実践すれば誰でもうまくいく。


真贋見極め

2010年07月27日 | Weblog
名人とそうでない人
身なりの良い人と、悪い人
美人とそうでない人
イケメンとそうでない人。
地位のある人とない人。
肩書きのある名刺を出す人と名刺を出さない人
大人と子供
王様と子供
国会議員と町議員・・・・・

こうした対比は無限にあるだろうが、
これを前者と後者どちらの方を信用しするか、
という質問をされたら、むろんケースバイケースなのだが、
ここは一般的にということで極く常識的には前者ではなかろうか。

そのことを痛烈に風刺したのがアンデルセン「裸の王様」である。

だからといって子供が嘘をつかない、といったことはない。
グリム童話の中にある「嘘をつく子供」の例がある。

これは『オオカミ少年』というタイトルで知られ、
少年の「狼が出たよ」という嘘に、村人がだまされる話である。

一般的、普遍的、常識的な見方が主流であることを背景に
なり立つのが、詐欺師の仕事であろう。
肩書きや権威を笠に着た犯罪も然り。

だが、国会議員は嘘つかない、という常識が崩れてくると、
国会議員の名刺を出されるだけでうさんくさく感じるようになってくる。
そうした兆候が政治不信という形で満ち始めてきた、というのが昨今。

そうしたことはさておいて、ここで言いたいことは、
虎には虎の衣装は不要ということ。

虎には虎の衣も威も不要という事実。
そうした真贋の見極めこそが、
一般市民である私たちに求められるということである。

もちろん恣意性があろうがなかろうが、人をだます人の方がよくない。
しかしそうした人の真贋を見極める眼を
持っておくことも、強く求められるのではないか。

ここまで書いて、随分以前にコラムに書いた話を思い出した。
再掲しておきたい。

昔、アンルイスという歌手が、徹子の部屋で語ったこと。
以下、彼女の話の概要。

売れない頃、背伸びをして、高価な宝石を身につけていた。
だがだれも注目しなかった。親しい先輩が言ったそうな。

「アン。だめよ。あんなケバケバの安物、身につけていては。
売れっ子になれないわよ.。無理してでも本物をみにつけなくちゃ」。

何年か後、売れっ子になった。
彼女が身につけているのは安物の宝石である。
みんながアンに、こう言ったそうだ。
「アン、すごくすてきよ。あんな高価なもの身につけて。うらやましいわ」。
(この会話、田上の意訳)

子供の言うことと、大人の言うこと パートさんの意見と、営業部長の意見>
英国製78万のブランドスーツをきている紳士と、作業服の人の売る時計・・・・

さてさてどちらを信用するか、というのがアンから学んだこと。
人は実ではなく、虚をみて判断してることが、わかる話である。

さて政治家はどちらか。政治家によって異なるのか。
政治の舞台を、虚々実々の世界と思うことは、
国民にとっては哀しく不幸なことである。



体感無しの共感なし

2010年07月25日 | Weblog
「おいしいですよ」、「健康にいいですよ」とか連呼する。
TVなどのCMもそう。

しかしこうしたことはお客の判断。
それを店員たちが勝手に決めつけている。
その判断すら店員自身の実感かどうか。
ほとんどは、そうではないだろう。

消費者には、そうした体感、実感のないセリフは、
売りたいがための絶叫にしか聞こえない。
へきへ期している。
それも皆判で押したように、どのお店でもそうした言い方をしている。

売り手から見たら、こうした無意味なことを給料を払って
店員に言わしめることが果たしてどれだけのメリット、効果があるのか
といった視点で見直して欲しい。

そのためには、自分でお客になり、
どこかの観光地のお土産品店街へ行ってみることをお勧めしたい。
昔も今も、おそらくこれからも見られる光景、
そこで貴重な体験、学びを得られることと思うから。

では、具体的にどう考え、どうしたらいいのだろうか。
考えてみたい。

1に、そうした言葉は、体感、実感があって発せられる言葉である。
前もって想定し、いわゆる聞いたようなセリフとは縁遠いものである、
という認識が必用である、ということだ。

2に、おいしいという実感を作り手、売り手と買い手が
共感、共有することが必定であるということである。

まだあるかも知れないが、上の2つ。
こうしたことを有史以来ほとんどの商人達が
なんら疑いも持たず、ごく当たり前の如く続けてきている。

それらが堆積し、徐々に消費者はお客店主や販売員が言うこと、
笑みもお愛想もお世辞もすばらしい接客もサービスも値引きすら
売りたいがためではないかと疑心暗鬼に陥り、
最近ではまず疑ってみるようになった。
売り手のすべての言動に不信感をもちだしているのである。

この不信感こそ、不振の元凶だと私は思っている。

ではどうしたらいいか。ことは簡単である。
1に、売り手側が、売るモノを消費者として体感、実感し、
その思いをそのまま消費者にお伝えする。これが1。
2に、食べ物であれば「どうぞ召し上がってみてください」と
実際にその場で食べてもらえばいいのである。


考えてみたらいい

2010年07月23日 | Weblog
今朝は金曜。週で一番チラシの折り込みが多い。

あれもそう。これもそう。
全部、自店、自社のPR、売り込みのあれこれです。


自社、自分も、取引先も、客先も、消費者も、
例外なく自分の幸せ、自社の得を考えて判断し、
ことを成しているいるのです。

仮に他人に協力といった場合もその真意はどうでしょうか。
本音は他者のことを考えてといったことではなく
あくまで自分、自社のことを考えての手段の一つとしてである。

だれも他者の売上を上げてやろうなんて、
本気で思う人は、まず希有です。

そうしたことを咎めているのではありません。
ここに昨今の経営の閉塞感を払拭し、
起死回生を図る考えがあると思っているからです。

つまり、今までのフィールド内で、
いくら売上不振、経営不信の答えを求めても
現状打破できなかった。
なぜなら答えはこれまでの内のフィールドではなく、
その外にあるのだから、とそう考えるのです。


繰り返し繰り返し述べていますが、
言葉では分かっていても相変わらず変わらないこと。
それは売上はお客が選択し、購買するという
企業外の行為であるものを、内部の経営者や店主、従業員が
作ることはできない。できようがないのです。
それが本来、当然です。

その本来に関わりなく売れたのがこれまで。
むしろそれがおかしげなこと、といったとらえ方が
極めて大切だと思って何度も申し上げているわけです。


よく土産店などでお客が「おいしいですか」と聞いている光景を、
目、耳にしますが、店員は必ず、「おいしいですよ」といいます。

聞かれもしないのに「おいしいですよ」、「健康にいいですよ」
とか連呼するようなことをやっているお店も多い。
TVなどのCMもそう。

考えてみてください。
おいしいかどうかはお客の判断する問題。
それを店員に勝手に決めつけさせている。
見逃して成らないことはそれがそう言っている
店員自身の実感であるのか、これすら疑わしい。

こんなことでお客を共感させられるのか、ということです。
続く。

めでたし、めでたし

2010年07月21日 | Weblog
日本全体の景気といったマクロ、全体的様相に関し、
「不景気で大変だ、大変だ」と自分のところで全体を背負って
自分のことだけを考えて、対応してもその状況からの脱皮は図れない。

ここは「消費者はさぞ大変であろう」と思うといった
消費者との五感の共有があってこそ、
消費者の支持、喝采を得る対応が図れると考える。

つまり消費者、それも手近のお客観の「大変」を
解決するためには、私たちは具体的にどう動いたらいいのか、
何を成すべきなのか、といったこと。
もっと卑近にお客が得になることを考えやればいいである。

それを「この不況、我が社の危機、その起死回生は・・・」
と我が社、自分を中心に置いて、自分を主語にアプローチする。
だから、どうしても自分が得することになる。
自社の得を考えても、消費者が支持する形にはならない。


買上=売上の等式は、
買う人がいての買い上げ、その結果の売上である。

舟木一夫を主演に1964年に東映が作った映画に、
「君たちがいて僕がいた」というのがある。

まさに企業の存在認識も、消費者がいて自社があるのである。

買上=売上 この等式が成立することを条件として、
契約が成立。モノとお金が交換されるという形で動くのである。

ならばこの動きを活発化することが、売上拡大のための要諦になる。

例えば、
中心街では突然の雨。しかし郊外は晴という状況を考えみる。
こうしたとき中心街では傘を店頭に出すと売れる。
消費者の中で傘を一本も持っていない。
それで行列してでも傘を手に入れたい、といった今時皆無であろう。
にもかかわらず売れる。

結果から見たら店の売上は、ものである傘から得た物である。
だかお客は、ぬれる惨めさから免れるために買ったに違いないのである。
一方、晴れている郊外店では出す必要はないし、出しても売れない。

それはなぜか。大きく理由は2つある。
1に、売る人と買う人に、雨が降っているという共通認識がある。
だから傘という商品が動くということ。
つまり、売る人と買う人の立場・心が一緒になった時に
初めて等式が成り立ち、売る努力とは無関係に買ってもらえるわけである。

2,買った物、売れた物はハードとしてはモノとして、
そして結果的に見えるものとしての傘だが、
ソフト的には困っている事を解決し、喜んでいただく、
という売り手の思いという見えないものが、結果がでる前先に
存在しているといった事実である。

この2つがあって、ハード的には、モノが売り手から買い手に、
金が買い手から売り手に動くことになる。

そしてソフト的には、
買い手の「困ったところを解決して貰った。ありがとう」
売り手の「お客様にお金を頂いた上に御礼まで」

めでたし、めでたし。

どこから。閉塞感

2010年07月17日 | Weblog

タブレット型コンピュータiPad(アイパッド)の例に代表されるように、
常に技術革新の最先端を走っていた日本が、どうも追従型に落ちたと言われる。

それはなぜか。私はこの閉塞感は単にテクノロジーの問題、
技術者の問題ばかりではない、と考えている。
以下、そのことを考えてみたい。


インターネットは戦略的ツールである。
汎用性の高いツールである。
しかもどちらが発信者、どちらが受信者といった
区分のない双方通信型である。

それも過去や現在ではなく未来に向かって
新しい価値と機会を創造する進化するチャレンジャーといってよい。
             
インターネットの世界では、
「最初にビジネスモデルを作り上げた者が成功者となる」
といわれてきた。
その伝説が今なお続いているのである。

これは「創業者利益」という言葉に置き換えられるから、
なにもインターネットビジネス固有のことではない。

しかし違いがある。
それはスピードが速く、その受益期間が短いことである。
だからそのノウハウを真似して二番煎じを狙っても無駄になる。
この点が、追従グループもそれ相応に利益を得てきたという
従来型のノウハウやツールと違う。

これは他の業界では進歩発展、進化とよばれるものが、
それがあまりにもスピードが速く、その受益期間が短いことから、
新たなものが出現するたびに、これまでのものの否定、
あるいは廃棄せざるを得ない、といったことが当然の如く発生している。
この点、革命と言われる所以である。

こうしたことはインターネット固有の世界といってよい。

ところで傾向的に、日本人はすぐノウハウやモデルを
アメリカや過去の成功者などを先進地、先進者として求める。
著名経営者が主催する塾や囲む会が盛況だそうだ。

少年少女の親衛隊もどきに信望する経営者を
追っかけまわしている中小企業経営者も少なくないという。

しかし本来ノウハウとは真似ることではなくて、
「自ら創り出すこと」であり、独自性が求められるものである。

独自性とは、演繹ではなく帰納的であり、
「机上の理論と議論」から生まれるものではなく、
「現場の発想と決断」の産物である。

インターネット時代に入った時点から、
先進地、先進者、先例優先主義が、役に立たないだけではなく、
むしろ足枷になってきた、と私はみている。

未来は、この今に向かって流れ込み、やがて過去となる。
その過去の成功事例の展示場である先進地、過去での成功者、
に学んで、未来に活かせるものを創造することは難しい。

このことは過去から学ぶものがない、ということではない。

学ぶべきものを間違えている、といいたいのである。
過去から学ぶべきものは、人間の生き方といった、
過去も今もこれからも変わらぬ普遍性あるものである。
 念のため。                  

大公 望の大望

2010年07月15日 | Weblog
「戦略」に関しての最終稿である。


そもそも戦略が現場隅々まで周知徹底されない状態では、
適切な戦術が出てくるわけがない。

戦術は、あくまで戦略にもとづくもの
という絶対要件があるからだ。

だから出てこない。出てきたとしても
本人達はその時には気が付くまいが、どこからか持ってきた借り物。
原因に対しての策にはならないトンチンカンなものだ。

繰り返すが本来、戦略なき組織というのはあり得ない。
そして戦略がないところに戦術も存在しない。

ところで、釣りをして魚ではなく国をつり上げたという話から、
釣り好きの人を大公望というのは次のような中国の故事から来ている。

彼、望は子供の頃、父母を殺され 国を滅ぼされ
敵の追求を逃れ3人の孤児ともども逃げだす。
その時彼らは、自分たちの国を創ると誓い合う。
凄い大望だ。

国の創ることを戦略としてもち、20数年後には国を作った。
これが大公 「望」の話である。すごい。

彼は、大望をもち、仲間3人と戦略を持ち続け、
その戦略を共有する人数をじわじわ広げて、氏の数が国を為す。
なんと大望。なんと凄い大望。

[大望」とは文字通り、大きな望み。遠大な志のこと。
戦略は心の広さと関係すると考える。大きな望み。
遠大な志を具現するには大きな心が不可欠と考えているからである。

大きな心とは、たとえば「ここは勝ちと功を相手に譲り戦略を得る」
といった度量のことを意味する。

否、大望をもち、その具現のため戦略を講ずるものは、
他人から見たら度量があるように見える、ということかも知れない。

対大望を持てる者は、
いや大望を持っているからこそ臥薪嘗胆を厭わない。
一回一回の勝ち負けで一喜一憂しない。
人に勝ちを譲って、それを撒き餌に戦略の具現を計る。

こうしたことができる。
要は、性格が短気だとか気が長いではなく、
大望があるかないか、戦略を持っているかどうか、である。


以上3回ほどにわって、戦略について申し上げてきた。
最後に次の4点に要約しておきたい。

1に、戦略は、それを為すと行動が不可欠であること。
2に、戦略があっての戦術であること。戦略なき戦術は無意味。
3に、戦略はそれが共有された員数で組織力となること。
4に、戦略の前提として「大望」があり、それが大きいほど戦略が生きる。



  *さらに関心ある方は をご覧下さい.

http://plaza.rakuten.co.jp/jatsudon/2000


http://jatsudon.in.coocan.jp/page013.html






もったいない話

2010年07月13日 | Weblog
一人で自分の戦略を果たすより、
違う世界をもつ人と戦略の共有を計ることでその力が増す、
というところに当然、組織の存在意義がある。

端的に言えば、俺は何でも知っている。
一人でなんでもできる、やれる、
といった人には組織は不要ということになる。

だが現実にそうした人は希有であろう。
そこで大方の人は、自分は足りないところが随分ある。
だから一人ではたいしたことはできない。
中には、自分でやるより、人にやって貰った方が楽ちん、
といった動機の人もいよう。

そこで人を集めムレて、行動することになる。
これが組織である、と考える。

これを人の側面からいえば、志を一つにする仲間の集まり、
「同志」という概念に近いものになる。


ところで組織を創る場合、大きく2つのタイプがある。
1つは自分時がある人を募る同好会タイプ。
いわば自分という人間をベースに考える人。

もう一つは、組織の目的を果たすことを主眼に人選するタイプ。
結果的に自分の違いのある人、様々な個性のある人を意識し、組織する人。


経営的に見なくても、誰しも後者を理想とするが、
建て前はともかく、現実はほとんど前者。
これが実態ではなかろうか。

中小企業に限らず大企業でも、
現実は戦略を現場の人たちには知らせない、
身内、取り巻きを中心に登用すしているのは、
何も政治の世界だけではないようである。

また経営者自身が、アレはダメ、これはダメ。
俺がいなけりゃだめじゃ、おれがやる、といったことで、
任せているはず、つもりでもほとんど部下に権限移譲していない、
こうしたことは、希有ではない。
否、そうしたことが当たり前、といった実態である。

そんなことはないといった企業を見てみると
徹底しているのは戦略ではなく、たいてい売上目標、
それもノルマである。

戦略は幹部だけ、あるいは正社員しか伝えないといった企業も多い。
その企業の パート比率は60%としよう。
この会社は100人で組織し、100人分の人件費を払いながら
40人に満たない人たちで仕事をしていることになる。

なんともったいない話ではないか。


意義を活かす

2010年07月11日 | Weblog
戦略を具現するためには、
科学的計算にもとづく戦術の組み合わせが不可欠なのはなぜか。
それを考えてみたい。

戦略は、風の方向に例えられる。
これは動き、行動が不可欠であり、「知識」だけではどうにもならない。
そのことを意味している。
なぜか。

「知っている」も「わかる」も、自分の経験、知識の範囲内でのこと。
つまり外部の人を動かすことにはならないからである。

繰り返し、おなじことを述べる。
自分以外の人は、こちらの思うように動いてはくれない。
他者は、動かせない。あくまでその相手の人の意思で動いて貰う。
それしかできないからだ。


1-戦略とその共有が不可欠。
2-こちらが動かすのではなく相手に相手の意思で動いてもらうこと。

この2点を見落としては戦略は成り立たないのである。

世には大きく分けて、
自分が知らない世界と知っている世界とがある。
1つは、「知っている」、「わかる」は自分の範囲以内の小さな世界。
2には、他は知らない、わからない世界でとてつもない大きな世界。

1と2と規模的に比べると、前者は粟つぶで後者が大海。

この当然のこと。すなわち、自分の知らない世界がいっぱいある。
それは自分が知っている世界とは比較にならないほど、
広い世界なのだといったことが前提にあり、
そこに組織の意義がある、と考える。

そうした自分一人では、たかが知れている、
といった謙虚さと認識があってこそ他の人を受け入れ協働する、
といった概念が存在する。

そして区々人は異なり違いがあるから、
相互に補完しあえ、相互に学びあえる。

区々個々異なるからこそ、
他者と戦略を共有することの必然性が生じることになる。
その戦略を共有したもの同士の集団が、組織である。

ですから、一人で自分の戦略を果たすより、
違う世界をもつ人と戦略の共有を計ることでその力が増す、
というところに当然、組織の存在意義がある。
その存在意義を100%させるには、
というアプローチが重要になる、と考える。