経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

サービスのあいまいさ

2009年02月23日 | Weblog
商品とサービス、良く使われる対語である。
いうまでもなく商品は貨幣によって購買される
使用価値を持ったモノ=ハードである。
これは目にみえるからよくわかる。

しかし、サービスとなると、ちょっとあいまい、難解である。
たとえば「商品だけでなくサービスを添えて」とか
「サービス精神で」といった風にしばしば使っている。

ではそのサービスの中身・本質は、と問われたらハタッと困る。
そもそも中身がわからず、具体的に表現できなかったら
第三者に伝えることができないではないか。

実際に確認のため、次のことをやってみたらいい。
「今日は1つサービス精神でもってお客様に応対しなさい」と
従業員に命じてみてください。

閉店後、やったことを聞き取る。
命じられた彼らや彼女たちは、何をどうしただろうか。

やってみてのお楽しみだが、
かりに何も変わらなかったらなぜだろう。
投資対効果は?やりもしないことを命じた責任は?
まあ、こんな風に考えるのも、の二八の楽しみではなかろうか

ところで、サービスというとまず頭に浮かぶのは価格サービスであろう。
「サービスしなさいよ」とお客が店主に迫る。
これは値引きの要請である。
同じ使い方で「誠意を見せなさいよ」といった言い方もする。
とすればサービス=誠意であろうか。
しかしこの誠意という言葉もどこかあいまいであやしげである。
この誠意は、損害賠償、それも金銭がらみすら連想される。
だからサービス自体もあいまいになってくる。

そもそもお客やその折の気分でサービスとか誠意を見せる
とかいって値段をまけるというのは一物一価の原則に反しており、
近代的商法から外れている。

「モーニングサービス」や「サービス定食」はどうであろうか。
喫茶店が、手軽な朝食を用意するといったこと、
またばらばらのものを組み合わせ(セット)にしたサービス定食は
便宜性の提供といったサービスになろう。
が、サービス定食はそれぞれ単品で注文するより若干安くなっている、
というのであれば一種の値引き。
しかしそれがそれなりの味、量なら、なにもサービスしたことにならない。
サービスランチの食材の仕入れ先は、昨日の折り込みチラシを見れば
わかる。多くはスーパーの特売品、ということもある。

こうした曖昧、意味不明のことばに、消費者は踊らされ、不快を感じている。
だからこれを明快にしたら、違いなく売れる。
これは私が実際、現場で実践済みである

当然のこと

2009年02月22日 | Weblog
人はだれしも、わかっている当たり前のことではなく
未知のことを知りたがる。今の風景より、先を夢見る。

それが、人をして人類がここまで文明を進めて、
発展してきた原動力である。
だが一方、そのことがまた当たり前のことを見過ごし、
普遍性を疎かにするというマイナス的側面を生じさせている
この事実を知るべきである

当然のこと、旧知のことを見過ごし、
あるいはないがしろにしている、という向きが多い
と言いたいのである。

日常性が大切だ。一人の人間として考えよ。
経営者としてより消費者の一人として経営を観てみよう。

そう言ったことを申し上げたいのである。

脳力開発では、当然のことを普遍性がある。
そうでない方を特殊性と呼ぶ。
あるいは前者を主流、後者を支流という。
そしてどちらが物理的面積、価値的に重要視し、
優先すべきかを常に自らに問いかける習慣づくりを言う。

たとえば事業を伸はしたい経営者には次のような問いかけを行う。
「売り上げを上げるのは、誰ですか」
「売り上げは、消費者が購買した結果でありませんか」
「事業側の計算をして買い上げ客数は伸びますか」
「経費は惜しむものですか。それとも最大成果を得るものですか」。

こうした問に対する経営者の答えはほとんど正解だ。
だが実際思考や行動になると、この正解ではなく誤解をやる。
「売り上げを上げよう」
「経費削減」
「会議で詰めようか」

言葉尻を云々ではない。何気ない言い回しに、

「それって意義、意味があるのかな」
「それで、人は動くのかな」

と、クエスチョンを付け、考えてみる習慣を付ける。
それが極めて大切なことなのである。
経営革新は何かこれまでやっていないことで
革新を図るという考え方と、
これまで見過ごしていたことにクエスチョンを付し
そこから革新を産む
この2つに大きくは分けられよう。

思うにほとんど前者。だが私は後者を薦めている。
理由は簡単である。
世の中のこと、大半以上が普遍性で占められている。
企業も事細かく見てみたらほとんど普遍性で構成されている。
大きいところに着手する。この方が遙かに成果が大きい。
当然である。この当たり前のことを、当たり前に無意識に行う。
これが、私の「経営の目指す域」です

自画自賛

2009年02月21日 | Weblog
本来は、理念など唱えなくても
商人の存在そのものが社会貢献でした。

旅の商人が峠を超えて、山里に来てくれる。
そのことが村人にとっては、どんなに有り難かったか。
まるで今の子供達が、クリスマスを迎える気持ちで、
村の人は彼らを待っていたに違いないのです。

商人は、商品だけではなく
各地の情報も伝えてくれる。
村の人たちは、むさぼるように商人の話す都の話に
耳を傾け、目を輝かしたに違いがないのです。

一方、商人も自分の存在が、人々に役立ち、
有り難がられている。それだけではない。
そうした村人達のお陰で、自分の生業が成り立っている。

商人もそうしたこと頭に描けるからこそ、
重い荷物を背負って村から村への長い道、峠を越えられた。
峠の向こうに、私を待っている大勢の人たちがいる。


村内に酒屋がないことが、どんなに困ったか。
そこへある人がみんなが困っているのならとお店を出した。
酒だけのつもりが、あれもそろえて。これもおいてよ。
で、よろずやになった。郡部に今も残る30坪の百貨店だ。

「俺の村に、お店が出来た」
「俺たちのお店だ。なんでもあるよ」
「もう峠を越えて、酒を買いに行かなくて済む」。

村の人は、どんなに喜んだか。有り難かったか。
私の頭には、その小さなお店を見て喜ぶ村の人の顔が
ありありと浮かぶのです。おらが村の「百貨店」。


これが、街作り専門の先生が麻生風の口調で言う

「ここ、自然発生的商店街」
「この町、非近代的商店だらけ」
「取り残された地方商店街の典型事例」
「最寄り品店しかなく、専門店がない」」

といった街です。その「原点」です。


私は、こうした自然発生的商店を贔屓にしています。
大好きです。そして人口的商店街が嫌いです。

商いの原点に戻れとは、
このようにその存在そのものが意義があり、
歓迎される、ありがたがられる、頼りにされる存在である。
商人は元来そうした存在そのものとだ思っています。

そして、その意味で堂々胸を張り、
またお客様に支えられて生きて行っている
という意味で常に謙虚である。それが商人の原点なのです。

そうした自意識を常に忘れないでほしい。
そうした商人との出会いを楽しみ、そうした商人をはぐくめる
そうした生業を得た私をほんとうに幸せ者だと、
これはもう自画自賛しているのです。

最小の宰相

2009年02月19日 | Weblog
ものには、大小がある。人にも然り。
宰相にも、大と小が。
以下、最小の宰相を、大の人と対比してみた。

国民の代議・代理業務遂行者たる彼らの多くが
国民全体への奉仕、サービスと言う観点からみたら、
疑問がある言動があまりにも多い。

「国民にとって,何が益か」

といった視点が欠け,ほとんどみられない。
こうした輩の茶番劇で、国会が空転どころではない。
開かれなかった。一人の男のために。
その国家的損害、その責任はだれにありや?


以下「演義」より。
馬謖は諸葛亮の愛弟子、蜀の武将・馬謖が、街亭の戦いで
諸葛亮の指示に背いて、敗戦を招いた。
この責任をとり馬謖は処刑されることになる。
他の武将からも「馬謖ほどの有能な将を斬は惜しい」と慰留の声があがる。
しかし諸葛亮は「軍律の遵守が最優先」と涙を流しながらも処刑に踏み切った。

では、「何故泣くのか」と蒋?に訊かれた諸葛亮は、
「馬謖のために泣いたのではない」と答えた、という。
劉備の生前、諸葛亮は「馬謖を重く用いてはならない‥口だけの男」
という忠告をされていたにも関わらず、その言葉を守らなかった
自分の不明を嘆き、泣いたとされている。
諸葛亮はこの責任を取って自ら丞相から右将軍に降格した。

爾来、任命責任の範とされる故事である。

ここで劉備を国民。馬謖を中川氏、諸葛亮を首相と
置きかえたら、彼から「馬鹿にするな」と怒られそうであるが。

戻す。

よく話題になることに、サービス有償論がある。
サービスとは奉仕の心を行動という形で現わした一種の商品である。
ならば有料でも、というニーズがあれば、有料は当然だという解だ。
それで以前から国会議員には税金からお金が支払われている。
国民が雇用している、ということだ。(共産党は辞退している)
サービスも有料が存在する、ということだ。

サービスが有料である根拠は、
「商品=モノ=ハードの価値」に対する
「サービス=ソフトの価値」という解である。

当然この価値に見合う価格が生じるということを
前提にしている。要は金を投じても得たいという価値を
持っているサービスであるべきという考え方である。

これはハードの価値もソフトの価値も、私たちの生活を支え、
豊かにするといった秤にかけたらば等価である。
そのことを考えれば当然と考える。

問題は何を基準に無償か,有償かということだろう。
国民は税金と言う形でその対価を支払っている。
有償にもかかわらずサービスはない。
ローマに行き、行かして、国民が得たものは
何も無いどころか、国辱である。
本人は、ワインをたらふく飲めたからいい。
任命者は、お友達だからかばえばいい。

でも費用を出している国民にしたら
どうしてくれる、
株まで、下がったじゃないか
こうしたことではなかろうか。

サービスが有料と言うことは、
それだけ付加価値を生むものでなければ、
支払った者は、騙され感が強くなるのは、
モノ以上であることを承知しておかねばならない。

生と加工

2009年02月18日 | Weblog
先に、五感で感じることは意識で操作できません
と書いた。少し気になったのでその後いろいろ考えていた。

五感で感じたことを、とかく意識で自分にとって
都合の良い方へもっていきたくなるのが「意識」。

だからこそそのことを意識して、感じたことを
そのまま受容し、受け止め、それで対応する。

「感じたこと」そのまんまが、情報。
それを意識で「判断する」と、情報の加工になる。
加工は意識的、無意識的に係わらず、自分(加工者)の考え、判断が入る。
だからこそ「加工品」であって、そのこと自体を云々ではない。

しかし、それはもはや生情報ではないということと、
それゆえに加工されているということを、
承知しておかねばならない、ということだ。

この場合、前者、自分の自分の五感で感じたものを確度1といい,
明快に他人を介した情報(自分が見聞きしたものではないもの)と分離する。
これが師の城野 宏から学んだ情勢判断学の手法の1つである。

長い間、ここを私の不肖故に誤解していたことに気がついた。

それは「他人」の解である。あるいは定義である。

フランスの詩人、ランボーだったかうろ覚えだが、
「私はひとりの他者である」、といった言葉を思い出した。

つまりは、私は私であって、他の誰でもない。
私は私の意志で自分の生き方を選んでいるのだから、
というのが普段の私たちの意識で、「私は私である」のは自明の理。

しかし、それはそれとして、じゃあほんとうに私は私なのか?、
「親の意思にしたがってといったことではないのか」、
と考えはじめると、訳はわからなくなる。

さらに、セラーピー達が口癖で言う「もうひとりの自分」というのもある。
これは潜在意識のことだが、このもう一人自分存在は、
顕在意識上の自分から見たら、広義の他者に含めて良いのではないか
神の意志、といった言い方もあるし、・・・・。
こうして、また判らなくなる。

元に戻す。
私は、師の言う「他者をとおして得た情報=乙情報」を
自分以外の他の人間として、解していた。

それが最近、生情報で感じたことを、
「加工する(無意識も含めての)意識」をも、
他者に含める解が、師の本意ではないか、ということに気づいた。

自分には、感じる自分と、それに意識的、無意識的に
評価を加えて加工する自分がいる。

製造販売、生産直売の類である。
工程、あるいは流通プロセスからいったら、
左の、製造、生産が先で、販売、直売は後。時間差がある。
また製造と販売、生産と直売は別の業務である。
それをこの私が一人でやっているからといってイコールではない。
つまり分けて考えるべきだ、ということである。

畢竟、生情報を受けた感じを重視。
生情報ではない場合は、その加工された部分を除去して「感じる」。
感じたことをもって、次のステップへと言うことではないか。

書きながら、難しい問題だ、と実感。
当然これは未完原稿。
一生かけても結論など、私は得ないのかもしれない。

傾く理由

2009年02月17日 | Weblog
頭の中が一杯で、新しい情報はなかなか入りがたい、
ということがあります。
またキャパシティのこともありますし、
中に入っているものが新しいものを受け入れない
という保守性の原則が、頭の中で働いていることもあります。

インスタントラーメンで満ちたお腹には、
美味い鹿児島ラーメンを受け付けない。
同じものには飽き来て受け付けないということもあります。

お店も、頭も同じです。
どんな大きなお店であろうと同じです。
陳列台やゴンドラ、平台を上回って陳列は出来ません。
通路が空いているからといってここに陳列しては命取りです。
陳列できない分は、倉庫にしまい込むことになります。
倉庫にしまい込んだ商品は、実は「ないのと同じ」です。

情報や知識も経営者の頭の中に綴じ込まれたままではないのと同じ。
能力も才能も行動として発揮されて、初めて「ある」ということ。

またまだ在庫として山積みされているものを、
新に仕入れる訳にはいきません。
新しいものを入れたら、今より売れると思っても、
今の在庫に見切りを付けて、捨てて、
それらを入れるのには躊躇します。

情報も同じです。
経営も同じです。

経営のこと、戦略や目標、数字は、パートには知らせない、
といった会社があったら、その会社、というより、経営者は、
おまえ達を信頼してないんだ、という情報を流したことと同じこと。
口で上手の情報より、実際行動のほうが情報量は多いし
確実性が高いのですから、彼らは後者で判断します。
実際は信頼されていないことを。
これを実感した従業員は力を発揮できるでしょうか。

そもそも経営は、理念に内包される戦略を経営者が打ち出し
その戦略を全従業員に浸透させる。
それでもって従業員は戦術をあれこれ行使して、
形と成し、その形をみた消費者が、購買の意思決定をする、

という一連の有機的システムです。
戦略に基づいて形を成さねば、消費者に伝わらないのに、
その戦略が伝えられていないでは、従業員も、消費者も
どう行動したらいいか判らない。
だから、従業員は無意味な行動を取らざるを得ない。

「仕事をしたフリ」。
「階段の上り下り」で、忙しくし、汗を掻く。

こうした人にも賃金を払っている。
だから、ダメになる。
消費者は、背を向けざるを得ない。

二度目の「そもそも」。
そもそもそういう意味で情報開示は信頼の表しになる。
自分の会社の従業員にすら、情報開示しない、
従業員すら信頼していないところが、
第三者の消費者にまっとうな情報開示をするわけはない。
消費者にしたら何を考えているか判らない。
疑心暗鬼な会社の疑心暗鬼な商品が売れるわけはない。

「いやいや」、消費者には十分情報は流していますよ」と
いった経営者がいた。その物証を見せていただいた。

パンフレット、チラシ、リーフレット、CM原稿等々。

笑った。こっそり笑った。

自分にとって都合の良いで満載。これを右の車輪としょう。
消費者の知りたい情報。これを左の車輪としょう。
その会社を車としよう。

「ああ、これでは御社が傾いてきたのは当然ですね」

晒す

2009年02月13日 | Weblog
人が考えていることは、文字、言葉、それに絵、音楽など
形として表現されなければ、自分にも、
ましてや他の人にわかるものではないし、
伝え、伝わることはありません。

そうした当たり前の話を、30年近く以前に、
師の城野先生から教わり、以来自分の思うこと、
考えることを毎日、書き続けています。

当て所もなく書いているのですが、
文章を書くときには、頭に「相手」がいます。
いつの間にかその人に対して書いている、
といった言い方が近いかも知れません。

そのことを強く意識したのは、メールを書くとき、
あるいはいただいき返信を書くとき、
頭に浮かんだことが考える切っ掛けになったり、
あるヒラメキが生まれたり、といったこと。
こうしたことを、しばしば体験したからです。

そのことから、文章を書くには読んでいただく相手が必要だし、
その相手を意識して書けば書きやすいということに気がつきました。
だから、私はメールを定型文で埋め込むことや、
打ち返しは、エチケット云々の問題ではなく、
場や機会を捨てることになりますからやりません。

そのおり頭に浮かんだものを、そのまま書き連ねる。
それが相手の方に関係ないことに広がったったり
あるいは、長文になり目を通すにあたり迷惑になる、
と考えたときには、その部分をメールから削除し、
メモソフト箱に入れて、醗酵を待ちます。

ちなみにこの文章も、先日貰った知人へのメールの
返信の一部から、書き出したものです。


事務的、無味乾燥なメールのやりとりこそ、
私に取っては、時間の無駄、もったいないこと。
このことは、ここに何回か書きました。

また他の人に、自分のおりおり考えていること、
あるいはかねがねから思っていることなど、
さまざまな機会を通じて、自分を晒すこと
この効用が、私を仕事を支えていいるのです。

自分を形にし晒せば他の方から様々なことを教わる。
こうしたことで人と人は補完関係にある、といったことも、
この晒すことから得た大きな学びの一つです。

以下蛇足。
強い表現で言うならば、
自分を晒さない人には一歩引いてしまう。
自分のことを伏せて、聞く耳を研ぎ澄ましても、
その耳には真の必要なものは入ってこないのではないか。
私はそう思っています。

百年に1人の人

2009年02月10日 | Weblog
国会で嘘の答弁をする人の公約とは、なんだろう。
言い逃れでコロコロ言うことを、言いつくろう人が、
俺の言うことは変わっていない、ということを、
嘘をつくとはいわないのであろうか。

昨日の国会中継を聴きながら、こともあろうに国会で、
首相がころころ言うことを変える答弁をしているのを聴いて、
国会とはなんだ。首相とはなんだ、と思った。

国会ですら嘘を突く人に、質問しても馬鹿らしい。
出てくる答えは嘘に決まっているのだから。
これをお芝居、いや茶番劇というのでは?

首相の資質が問われる、といった
メディアのコメントがあったが、それは過大評価。
言い回しをずらし、時と人に合わせた言い繕いで
首相の座を得たのだから。正しくいうなら
人としての資質を欠いている、問われると言うべきだ。

人の資質の中で、聴く耳をもつ、ということは
もっとも大切なこと、と師から教わった。
人は、聴くことによって成長するからである。
聴く耳のない者は、子供時代の侭で、心が狭いまま。
劇画的空想と他者への言いつくろいに始終する。

ましてや政治の本質は、聴政なのだ。
彼の聞く耳は小衆の媚びに対してであり、
口に出す言葉は大衆への言いつくろいである。
政治の本質は、大衆からの聴政なのに。


そんな思いをこの中継を聴いていた
多くの国民は思ったに違いない。

明けて今朝。
新聞。支持率18.1%。「ウソー」
驚いた。まだ18%の支持者がいるのか。

「庶民諸君!みぞゆうだなあ」

彼が国民の立場に立てば、上のように叫ぶだろ。

未曾有をこの総理は「みぞゆう」とお読みに成られた。
漢字を知らないと、報道され私もそう思った。
ひょっとしたら、これも彼の嘘?いいつくろい?

こうした彼の繕いのやりとりで大切な国民のための
論議の時間が潰されること自体、
本来まともな首相であれば恥じ入り、
率直に、恐縮し、改めるはずだ。

彼の言葉からでた「身の錆」が理由で、
国家や国民の課題がないがしろにされている。

そうしたことにすら気付かない、いや気づいても
まだ言いつくろいをやめないこの首相。
もういちど、書こう。
「この人、100年に一度のみぞゆうの人」。
09.2.10

使わぬが美徳

2009年02月08日 | Weblog
朝、パソコンを立ち上げ、
ショッピング系のメールを見た。

500Gの
外付けのハードデスクが1年前には2万円。
それが昨年暮れ1万円に下落。それなら買うか、
買う人は当然いる。彼らは過去の価格として、
半額になった。安いと判断、買いに走る。

だが買わない人がいる。なぜ買わないかというと、
1年先には半額になる。それを基準として、
高いと判断、買わない。

それが正解。
今朝の価格、送料込みで4980円也。

人、同じものなら安い方が良い。
両者ともそのメルクマールで購買の判断をしている。
だが、安い高いは相対的なものだから、
当然どの時点を基準に安いか高いかが判断する。
その基準は、インフレー時には、過去。
デフレ時代には将来(さき)なのである。

今、後者。これが消費マインドを縮小させ、
物が売れない大きな理由になっているのである。

投機は、インフレを前提にしている。
今、買ったものが上がるこれが前提だ。

これを、下がることを楽しみに投機をする人はいまい。
投機だけではない。購買そのものが、程度の差はあれ、
さきの楽しみのためであるのだから。

その前提が崩れると、いわゆる買い戻し、揺り戻し。
早く手ばなした方が損が少ない、みな一斉にということになる。
株も円も、いや日本や米国そのものも揺り戻しの下落。
これが、いわゆる「バブルがはじけた」ということだ。

購買が美徳とされた時代には、購買行為によって、
未来の慶び、幸、夢をも約束された。
だが、今は、いやこれからは、今の購買が、
将来(さき)に、後悔、嘆き合う時代なのである。

定額給付金を消費に回すか、回さないか。
答えは自明の理である。
デフレはものが下がることで
相対的にお金の価値が上がるのである。

すなわちお金使わぬが、美徳。

あすなろう

2009年02月07日 | Weblog
昨日、Gさんからこの提案、無料でいただくのは
もったいない。ご自分でやられたら儲かるのに、
と、いったメールをいただいた。

Gさんは、公共機関を通じて、新規事業の無料相談に
定期的に来らる人である。

讃辞だろうか。あるいは皮肉だろうか。
Cさんのことを知っているから、素直に前者と解し、
素直に喜べばいいものを、やっかいな性格ではある。

褒められたらたちまち木に登る自分との長い付き合いを
してきているので、むしろ後者ではないか、と自戒し、
自己点検をして置いた方が、と思ってしまうのだ。

事実、そうして自己点検をしてみると、
確かに最近ハイになるような嬉しいことが続いている。
こうしたときが、木に登り、落っこちることを
これまで、何回もやってきているのだ。

「人を儲からせるのがこの仕事」である。
ここのところを少しずつ、ずらしていけば、
「自分が儲かる仕事」になる。

だがそうなったら「経営コンサルタント」の
定義からはずれてしまうのである。

自分が儲かりたくない人がいないわけはない。
きれいごとだと言われるだろうが、前者の「儲かりたい」は
私も熱烈そうおもう。だが後者は違う。
断固きれいごとではない。

仕事としては、まったく異なるからだ。
だから、人を儲けさす仕事という看板を下ろしたうえで、
自分が儲かるという看板に換えてから、やるべきだ、
と私は思う。

お湯は氷を溶かす。しかし氷になったら
いけないのだ、と思っているからである。
知り得た内部情報で、といったことで捕まる。
あれと同じことだ。やったはならないことだ。

自分が儲けるのに、こんな理屈をいうこと自体が
自分が儲かる仕事に向いていないことが、
自分にはよくわかるのである。

それに、かりに一人で儲けるには、それなりの能力と
かなりのやる気が不可欠だ、と私は思う。
それが、私にはない。とにかくそうしたことで
忙しくなるのがいやなのだ。
そうしたことで能力を高めようといった
やる気がわかないのである。

映画が見たい。好きな本を読みたい。あそこを見たい。
これをやりたい、あれをやりたい。温泉へ行きたい

一つのことに集中することが苦手で、熱しやすく覚めやすい。
そうした自分が、こよなく好きなのである。

それに、私は怠け者で欲が深い。
たとえうまくいったとしても、1人の力は知れている。
それより、儲ける人を10人見つけて、育てて、
その10人にぶら下がって、一生を送ったほうが、
楽だと思っている。それにはこの仕事は、うってつけ。
ただ、いまのところ、私をだれもぶら下がらしてくれない。

でも、自分が人様に役立つ限り、生きられる、
という確証はある。
今、私がけっこう気分良く生きていることで
自信を持って、「ある」と断言できる。

この今時点ぶら下がらしてくれる人がいない。
だが、この今から将来は、長生きしているかぎり続く。
明日は、そうした人の行列が出来ることもあるのだ。

もっとも、ときおりは自分は「翌檜」であって、
諸葛孔明ではけして、ないと思ったりはする。