人や可愛がっているペットなどの体調は、案外につかめるものです。
私は、経営の勉強の一つとして、ホームページを眺めて、そこから画面の向こうの経営者がどういう人なのかつかむ練習を長く続けています。
実際のところ、ほとんどのHPが専門業者に作成依頼していますが、それでも眺め続けているとわかるのです。
それは、こういうことです。
普段(アナログの世界で)その経営者なり」が、目立ちがり屋ですと、HPでもやはり、まず画面のトップに、自分の写真をいれて、「年頭所感」にそっくりの挨拶文が掲載されているといった具合。かねがねの言い回しや文章の癖もでますが、それがHPではまったく異なるのであれば、それは本人ではなく、秘書か広報が書いたのかな、と当てずっぽうするわけです。
最初はよく知っている、知られている会社のHPで訓練の慣らしをやりましたから、思わずご本人を思い浮かべ、一人で笑ったものです。
なにであれ人が関係しているのですから、その人の動きは、程度の差はあるにしても、どこかに形になって出ているものです。形はぼやけてはいてもなんとなく窺い知ろうと意識していれば、形がでてくる。また人間は、見えない心を、見えないままにして過ごすことには耐えきれないってことがありますから、言動としてどこかに形として、表れるからです。
絵描きは絵で、肉屋さんは肉や店やPOPで、音楽家は音楽でということだけではなく、人はすべて何気ない表情、言動で、情報を発信し、また受信している。そうでなければ、信号機が故障したのと同じで、とんでもない混乱を起こすことになります。
私は、好き嫌いの物差しをとても大事にしていますが、その好き嫌いでいえば、スキを見せない人は、私はスキになれません。完全な人などいないのに、完全ぶってもしょうがないという気持からだけはなく、読みにくい分、怖い、親しく近寄れない。時々、運転席が全く見えないようにカーテンなどで隠した車を見かけますが、それと同じ。逆に隙だらけ、無防備というのも怖い。
昔、剣道をやっていたことあるのですが、相手が隙を見せたところを打ち込んで、見事に一本を取られたことがしばしばあります。
情報をださない壊れた信号機は他の人を迷わすだけです。弱さも強さも、信号(シグナル)。犬同士の喧嘩をみています弱い方が、おなかを見せ、片がつく。押さえつけていた犬もそれで攻撃をやめる。自分に関する情報でも、自分以外の人が読み取ってくれることで、余計なことをしなくて済む、ということもあります。
人間は、信号無視、突っ張ったりやせ我慢したり、見栄はったり、複雑ですから情報が交差し、読みにくくなる、というがあるかもしれません。
いつみても同じ。動かない、揺れないHPをみると、私はまさに壊れた信号機。人間の死体。HPの死体をみているようで、気持ちが悪いです。
この「動く」を、誤解してフラッシュつかって、動画に、というHPやブログが、これまたやたらに増えました。それは意味が違う。それも流れがないことでは同じこと。
ここで「動く」とは、変化に対応している、といった意味。流れがある。生きている。理想的には、画面の内と外と人同士が嬉しいことあったら喜びあう、寒かったら寒があう、といった意味です。
ブログは、HPより、書いてる人の心の動きがよくわかります。だから大人気なのだろうと思います。 が、これですら動きがないのや、定型文で固めている、といったものも少なくありません。そのことから、その人が見える。
セミナーやっていて、質問すると、顔を背ける人と、俺に当てろ、と明らかに意思表示する人がいます。時には表情がそれに読み取れない人も中にはいる。こうしたことは、少し意識して観察すれば、誰しもわかる。わかることが正常。あたりまえなのです。人は情報を発信しながら生きていると言えるのではないでしょうか。
ですが情報、情報とかしましい世の中にもかかわらず、こうした情報(基本情報)は、どんどん軽視されている感じがしてなりません。
身体が出す信号に、素直であれば、自分でわかります。わかったら、産婦人科へ行くか内科に行くか、外科に行くか、どこへ行くかを決め、行くか行かないかも決めるのは本人。内科ではないか、と外科好きの第三者が口出しすることではありません。
でも「お加減どうでしか」と、誘い水がかかると、実に助かることがあります。それが内なる自分に問いかけてみる、いいきっかけになるからです。とりわけ自分の気分は読めても、自分では読めない。他人でなければ読めない情報も多い。だから、「お疲れじゃないですか」といったような超えかけが、とりわけぼんやりすることの好きな私には、大変ありがたいです。私が書く文章の大半のきっかけは、多くの方々のメールが誘い水になって、書き出したものです。
たとえばぼんやり歩いていて、うっかり水たまりに足を進めるようなときは、「ちょいと、おかしな方向へ行っているよ」と、声をかける。お節介やってみる。
もちろん、それにのるかのらないかも、自分の選択。こうした意志決定の連続、その積み重ね、決定の結果が、この今までのこと。そしてこの「今」。今は結果。しかも瞬時に過去になります。どうしょうもない
ではどうするか。未来は、これからの意思決定で形成されるものと、自分、というより人間ではどうしょうもない災害など、この二つで形成される。後者は。どうしょうもないですから、将来(さき)は、この今からの意思決定で形成されることになります。不満の残るところでしょうが、ここは人間のはかなさ、仕方がないとあきらめ、そうとるより術(すべ)がない。
それを半分とみても、なんと楽しみ、すごいことでしょうか。自分の意思決定で、未来が、今になるその今を、この自分で作れるわけですから。
私は、経営の勉強の一つとして、ホームページを眺めて、そこから画面の向こうの経営者がどういう人なのかつかむ練習を長く続けています。
実際のところ、ほとんどのHPが専門業者に作成依頼していますが、それでも眺め続けているとわかるのです。
それは、こういうことです。
普段(アナログの世界で)その経営者なり」が、目立ちがり屋ですと、HPでもやはり、まず画面のトップに、自分の写真をいれて、「年頭所感」にそっくりの挨拶文が掲載されているといった具合。かねがねの言い回しや文章の癖もでますが、それがHPではまったく異なるのであれば、それは本人ではなく、秘書か広報が書いたのかな、と当てずっぽうするわけです。
最初はよく知っている、知られている会社のHPで訓練の慣らしをやりましたから、思わずご本人を思い浮かべ、一人で笑ったものです。
なにであれ人が関係しているのですから、その人の動きは、程度の差はあるにしても、どこかに形になって出ているものです。形はぼやけてはいてもなんとなく窺い知ろうと意識していれば、形がでてくる。また人間は、見えない心を、見えないままにして過ごすことには耐えきれないってことがありますから、言動としてどこかに形として、表れるからです。
絵描きは絵で、肉屋さんは肉や店やPOPで、音楽家は音楽でということだけではなく、人はすべて何気ない表情、言動で、情報を発信し、また受信している。そうでなければ、信号機が故障したのと同じで、とんでもない混乱を起こすことになります。
私は、好き嫌いの物差しをとても大事にしていますが、その好き嫌いでいえば、スキを見せない人は、私はスキになれません。完全な人などいないのに、完全ぶってもしょうがないという気持からだけはなく、読みにくい分、怖い、親しく近寄れない。時々、運転席が全く見えないようにカーテンなどで隠した車を見かけますが、それと同じ。逆に隙だらけ、無防備というのも怖い。
昔、剣道をやっていたことあるのですが、相手が隙を見せたところを打ち込んで、見事に一本を取られたことがしばしばあります。
情報をださない壊れた信号機は他の人を迷わすだけです。弱さも強さも、信号(シグナル)。犬同士の喧嘩をみています弱い方が、おなかを見せ、片がつく。押さえつけていた犬もそれで攻撃をやめる。自分に関する情報でも、自分以外の人が読み取ってくれることで、余計なことをしなくて済む、ということもあります。
人間は、信号無視、突っ張ったりやせ我慢したり、見栄はったり、複雑ですから情報が交差し、読みにくくなる、というがあるかもしれません。
いつみても同じ。動かない、揺れないHPをみると、私はまさに壊れた信号機。人間の死体。HPの死体をみているようで、気持ちが悪いです。
この「動く」を、誤解してフラッシュつかって、動画に、というHPやブログが、これまたやたらに増えました。それは意味が違う。それも流れがないことでは同じこと。
ここで「動く」とは、変化に対応している、といった意味。流れがある。生きている。理想的には、画面の内と外と人同士が嬉しいことあったら喜びあう、寒かったら寒があう、といった意味です。
ブログは、HPより、書いてる人の心の動きがよくわかります。だから大人気なのだろうと思います。 が、これですら動きがないのや、定型文で固めている、といったものも少なくありません。そのことから、その人が見える。
セミナーやっていて、質問すると、顔を背ける人と、俺に当てろ、と明らかに意思表示する人がいます。時には表情がそれに読み取れない人も中にはいる。こうしたことは、少し意識して観察すれば、誰しもわかる。わかることが正常。あたりまえなのです。人は情報を発信しながら生きていると言えるのではないでしょうか。
ですが情報、情報とかしましい世の中にもかかわらず、こうした情報(基本情報)は、どんどん軽視されている感じがしてなりません。
身体が出す信号に、素直であれば、自分でわかります。わかったら、産婦人科へ行くか内科に行くか、外科に行くか、どこへ行くかを決め、行くか行かないかも決めるのは本人。内科ではないか、と外科好きの第三者が口出しすることではありません。
でも「お加減どうでしか」と、誘い水がかかると、実に助かることがあります。それが内なる自分に問いかけてみる、いいきっかけになるからです。とりわけ自分の気分は読めても、自分では読めない。他人でなければ読めない情報も多い。だから、「お疲れじゃないですか」といったような超えかけが、とりわけぼんやりすることの好きな私には、大変ありがたいです。私が書く文章の大半のきっかけは、多くの方々のメールが誘い水になって、書き出したものです。
たとえばぼんやり歩いていて、うっかり水たまりに足を進めるようなときは、「ちょいと、おかしな方向へ行っているよ」と、声をかける。お節介やってみる。
もちろん、それにのるかのらないかも、自分の選択。こうした意志決定の連続、その積み重ね、決定の結果が、この今までのこと。そしてこの「今」。今は結果。しかも瞬時に過去になります。どうしょうもない
ではどうするか。未来は、これからの意思決定で形成されるものと、自分、というより人間ではどうしょうもない災害など、この二つで形成される。後者は。どうしょうもないですから、将来(さき)は、この今からの意思決定で形成されることになります。不満の残るところでしょうが、ここは人間のはかなさ、仕方がないとあきらめ、そうとるより術(すべ)がない。
それを半分とみても、なんと楽しみ、すごいことでしょうか。自分の意思決定で、未来が、今になるその今を、この自分で作れるわけですから。