経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

基本情報について

2007年01月31日 | Weblog
 人や可愛がっているペットなどの体調は、案外につかめるものです。
私は、経営の勉強の一つとして、ホームページを眺めて、そこから画面の向こうの経営者がどういう人なのかつかむ練習を長く続けています。
 実際のところ、ほとんどのHPが専門業者に作成依頼していますが、それでも眺め続けているとわかるのです。

 それは、こういうことです。

 普段(アナログの世界で)その経営者なり」が、目立ちがり屋ですと、HPでもやはり、まず画面のトップに、自分の写真をいれて、「年頭所感」にそっくりの挨拶文が掲載されているといった具合。かねがねの言い回しや文章の癖もでますが、それがHPではまったく異なるのであれば、それは本人ではなく、秘書か広報が書いたのかな、と当てずっぽうするわけです。

 最初はよく知っている、知られている会社のHPで訓練の慣らしをやりましたから、思わずご本人を思い浮かべ、一人で笑ったものです。

 なにであれ人が関係しているのですから、その人の動きは、程度の差はあるにしても、どこかに形になって出ているものです。形はぼやけてはいてもなんとなく窺い知ろうと意識していれば、形がでてくる。また人間は、見えない心を、見えないままにして過ごすことには耐えきれないってことがありますから、言動としてどこかに形として、表れるからです。

 絵描きは絵で、肉屋さんは肉や店やPOPで、音楽家は音楽でということだけではなく、人はすべて何気ない表情、言動で、情報を発信し、また受信している。そうでなければ、信号機が故障したのと同じで、とんでもない混乱を起こすことになります。

 私は、好き嫌いの物差しをとても大事にしていますが、その好き嫌いでいえば、スキを見せない人は、私はスキになれません。完全な人などいないのに、完全ぶってもしょうがないという気持からだけはなく、読みにくい分、怖い、親しく近寄れない。時々、運転席が全く見えないようにカーテンなどで隠した車を見かけますが、それと同じ。逆に隙だらけ、無防備というのも怖い。
 昔、剣道をやっていたことあるのですが、相手が隙を見せたところを打ち込んで、見事に一本を取られたことがしばしばあります。
 情報をださない壊れた信号機は他の人を迷わすだけです。弱さも強さも、信号(シグナル)。犬同士の喧嘩をみています弱い方が、おなかを見せ、片がつく。押さえつけていた犬もそれで攻撃をやめる。自分に関する情報でも、自分以外の人が読み取ってくれることで、余計なことをしなくて済む、ということもあります。

 人間は、信号無視、突っ張ったりやせ我慢したり、見栄はったり、複雑ですから情報が交差し、読みにくくなる、というがあるかもしれません。

 いつみても同じ。動かない、揺れないHPをみると、私はまさに壊れた信号機。人間の死体。HPの死体をみているようで、気持ちが悪いです。
 この「動く」を、誤解してフラッシュつかって、動画に、というHPやブログが、これまたやたらに増えました。それは意味が違う。それも流れがないことでは同じこと。
 ここで「動く」とは、変化に対応している、といった意味。流れがある。生きている。理想的には、画面の内と外と人同士が嬉しいことあったら喜びあう、寒かったら寒があう、といった意味です。
 
 ブログは、HPより、書いてる人の心の動きがよくわかります。だから大人気なのだろうと思います。 が、これですら動きがないのや、定型文で固めている、といったものも少なくありません。そのことから、その人が見える。

 セミナーやっていて、質問すると、顔を背ける人と、俺に当てろ、と明らかに意思表示する人がいます。時には表情がそれに読み取れない人も中にはいる。こうしたことは、少し意識して観察すれば、誰しもわかる。わかることが正常。あたりまえなのです。人は情報を発信しながら生きていると言えるのではないでしょうか。

 ですが情報、情報とかしましい世の中にもかかわらず、こうした情報(基本情報)は、どんどん軽視されている感じがしてなりません。

 
 身体が出す信号に、素直であれば、自分でわかります。わかったら、産婦人科へ行くか内科に行くか、外科に行くか、どこへ行くかを決め、行くか行かないかも決めるのは本人。内科ではないか、と外科好きの第三者が口出しすることではありません。

 でも「お加減どうでしか」と、誘い水がかかると、実に助かることがあります。それが内なる自分に問いかけてみる、いいきっかけになるからです。とりわけ自分の気分は読めても、自分では読めない。他人でなければ読めない情報も多い。だから、「お疲れじゃないですか」といったような超えかけが、とりわけぼんやりすることの好きな私には、大変ありがたいです。私が書く文章の大半のきっかけは、多くの方々のメールが誘い水になって、書き出したものです。
 たとえばぼんやり歩いていて、うっかり水たまりに足を進めるようなときは、「ちょいと、おかしな方向へ行っているよ」と、声をかける。お節介やってみる。

 もちろん、それにのるかのらないかも、自分の選択。こうした意志決定の連続、その積み重ね、決定の結果が、この今までのこと。そしてこの「今」。今は結果。しかも瞬時に過去になります。どうしょうもない

 ではどうするか。未来は、これからの意思決定で形成されるものと、自分、というより人間ではどうしょうもない災害など、この二つで形成される。後者は。どうしょうもないですから、将来(さき)は、この今からの意思決定で形成されることになります。不満の残るところでしょうが、ここは人間のはかなさ、仕方がないとあきらめ、そうとるより術(すべ)がない。

 それを半分とみても、なんと楽しみ、すごいことでしょうか。自分の意思決定で、未来が、今になるその今を、この自分で作れるわけですから。

  


ふりかえれば、いそぎし

2007年01月30日 | Weblog
人は自分で生まれてきたわけでもなく、自分だけで生きてきたわけでない。
そんなこと聞きあきた、と逃げてきた自分が、真っ白な世界の中で思いにふけいっている。

 「俺が、俺が」で通し、それがもとでの波紋が、さらに大きな波紋を呼ぶ。大喜びもするが挫折感を味わい、落ち込むこともある。誰のせいでもない。「そんな、弱気でどうする」と、無理に自らを励まし、頑張ってきたことの結果ではないのか。
 
 それが、会社という組織を離れ、脱サラこの仕事を始めたことで、知らずして社会という組織に身を投じることになり、しかも仕事上、たくさんの組織をみてきたことで、「そうか。組織って一人で生きられない事を前提に存在するんだ」ということがわかるようになってきた。その視点で、企業を見るとその現在の問題点、行く末まで見えるし、人の場合でも組織を活かせる人かそうでないかもわかるようになった。その分、自分の我が儘も受け入れてくださる周囲の方々の好意も見えるようになったし、そうした中での自分の役割もまた認識できるようになった。

 お互い様、個性を発揮する、役割、分担、使命、仲間、社会、などなど、みんな「組織」の存在を前提として、存在する言葉だ。こう考えてくると逆にそうしたことを否定する在り方、言葉こそ、「生きること」にとっては、危険な、災いを招くことになる。
社会組織(社会システム)の中で、企業組織は存在している。このことを活かすか、否定し孤立して存在するか、あるいは反逆した存在を採るか。

 このことは、人の体を社会組織とし、正常細胞とガン細胞に置き換えることができる。後者に属し、頑張る企業ほど、頑張る人ほど、頑張るが故に、自らの組織の死期を早め、人体組織を崩壊させることになる。

 「社会システムとの有機的結合」、このことを欠く
 そうした企業の起こす事件が、毎朝のように新聞に載っている。

 今朝、5時に起き、まだ暗い空から雪が降る旭川校の窓外、降りしきる雪以外、何もかも止まってしまったような空間の中に身をゆだねて、おだやかな気持ちにひたり、「おれもまだまだ急いでいたんだ」、と思った。

定説を疑ってみる

2007年01月28日 | Weblog
話は唐突。

ライリーの法則というのがある。
これは「ある市場の消費者の来店意向(出向率)はその市場から対象となる商業施設までの距離の2乗に反比例する。」というハフモデルの距離抵抗の考え方の基本になったものである。 これが、実はほとんど使えない。以前から「一般的な小売業のあり方として根拠も無いまま敷衍した結果,現実と全く関係のない,文字通り机上の空論である」という声は少なくなかった。

ましてや今やIT時代、HP、プログ、携帯電話もある。高層ビル、地下鉄もある。二層、三層の高速道路が走る時代。状況、条件が当時とほとんど違うのである。
 それが堂々と未だ使われている。理由は、1に、憶測だがそれ以外の頼れるもの(法則)がないこと。2に、人の持つ保守主義による。。おかしなことだが旧いものは、新しいものが登場するまで使用される。人は手持ちぶさたを本能的に嫌う傾向にあるからである。
 これらはまさに原理原則偏重、現場凝視の軽視の現れといってよい。

こうした偏重を破壊しなければ、次の芽は出ない。
 だから、さらに、AIDOMAの法則はどうか。○△の原理はどうか。。△×の原則はどうか、といったように。ほんとうに消費者は、そうした法則で動いているか、現実を凝視してみることである。

私の場合、なぜそうしたものに疑問を抱き、検証しはじめたかというと、それは、それらの法則には、作り手・売り手の側面、必要性、ニーズからの「原理・法則」ではないか、という疑問が、現場を歩いている間にわいたからである。
 それに、この大変化の時代、演繹主義偏重、理論に現場を合わせるあり方に関し、、ちがうのじゃない?といったことに、たびたび直面したからである。

先入れ先出し法など、その一番わかりやすい典型的例である。作り手・売り手には都合が良い。また環境資源の観点から見れば、望ましいことである。だがたくさんのお店の売り場で観察したが、例外なく消費者は、新しい日付けのものを選択・購入していた。
 
 申し上げたいこと。
1に、原理、原則と何気なく言っているものにも、時流の変化に対応していない幽霊が生き残っており、それに支配されている。これでいいのか。
 2に、原理、原則にも、立場、観点があるが、往々にして作り手、売り手の論点から構築されている。それでうまくいくのか。

 この2点に素知らぬ顔をして、お客第一主義だのは、おかしい。私には自分中心主義のツールとして、ことさら大声でそうしたことを言っているに過ぎないように思えてならない。

 いかなる法則も、まずは帰納法、というより現場から仮説が生まれ、検証され、置き換えで普遍性が実証されて、法則が容認される、というプロセツを経る。
 だから、現場主義を唱えても、既成概念を通して現場を見たら、意味がない。

 「情理」という熟語をもじっりながら、現場をみる、以下、そのありようをスケッチしてみる。

 うっかり、お湯に指を入れる。「アッチィ!」。これが情だ。定性の世界だ。「えっ?そんな熱いはずはないだけどな。」と、温度計を鍋に指す。「90度もあるぞ」。
えっ?と疑問符がついた時点から定量化の世界に入る。

 この逆はあるか。温度計を鍋に入れる。「この鍋の温度、90度、だぞ」。「もう肉を入れてもいいのじゃない?」。

 どうも「指を入れてみよう」にはならないのだ。なぜか。最初から定性化の世界だからだ。

 シナリオを作るとこういうことか。
 どうも文字通り、情がさきで、理があと、というのが自然である。換言すれば、計算し尽くしての感激は、100%嘘っぽいと、断言はしないが、情としては薄く感じる。

「これ、もうかりまっせ」と声をかけられれば、「なんぼぐらい儲かるんや」と、利の問いには理性で答えれば、だまされることは少ないだろう。情で、「うあっ、すごいやん」と受け取ると、コロリとだまされることになる。

 「わっ!かわいい」と、手に取った人形は、情で受け入れられ、「これ、なんぼ!」と理へ移行する。

 こんなふうに情と理のシュチュエーションをシナリオ風に描いてみると、どれで自然で収まりが良いか、容易に掴める。

 その掴んだもので、自企業の販促やPR、売り場の演出、商品の陳列を見てみる。
ところが、現実はどうだ。教科書に書いてあること、セミナーで学んだ技法、ノウハウを検証もせず、いやそうしたことすら考えもせず、やっているのでは?

 ここではっきり申し上げたいことは、それらが間違っているとかそんなことを、不遜、生意気に言いたくて、あるいは奇をてらって言っているのではない。

 1に、それらをほんとうにそうなのか検証してみることだ。だがもっと望ましいことは、 2に、自分が消費者として買い物したときには、心身の動きはどうだったか、きちんと押さえることである。

 こうしたことを、従来の定説をすべて消費者を中心に据えた観点から、構築し直してみる、というのが私が提唱している、「消費者中心主義」である。

 そのために上に示したあり方でもって、ささやかながら検証を進めている。
 まだ途半ばである。

聴く耳を持っているということ

2007年01月27日 | Weblog
リーダーの要件の一つに、「聴く耳があること」は欠かせまい。

聴くとは、幅広い分野、多方面の多くの人に会い、話を聞く。また会議などでも、全員に発言させ、それをひたすら聞く。これができるということをいう。

耳が聞こえる範囲は決まっている。だから広く人の話を聞くということは、手を足と使い、よく動くことが不可欠、ということになる。
 じっと座していて入ってくる情報を待っている人ははダメ。社長室に閉じこもっている人ではだめだ、ということになる。

 さらに、聴くことにより、やる気のある人間を発見出来るし人を鼓舞できる。また情報の公平さを保ち、歪みを避けることができる。

 人を登用、動員し、何かなしてもらう場合、もっとも重要なことは、その人がやる気があるかどうか、ということである。
 口先や、そぶりだけで見せかけのやる気を演じることはできる。だがそうした見せかけのやる気では、他人は動かない。他人に動いてもらうことで組織は成り立っているから、これでは仕事にならない。
 だからほんとにやる気があるかどうか見分けることは重要なことだし、また容易なことではない。あの葛孔明でさえ、馬謖の登用という大きなミスをしている。

 ではどうするか。

 かねがねから聴く姿勢を習慣化し、自分の体質といておくこと。これである。
 試してみたらわかることだが、人の話をじっくり聴いていると、本当に腹の中でそう思っているのか思っていないのかが、案外、容易に掴めることがわかる。
 みんなの言うことをじっと聴くことを続けていると、誰が本当にやる気があり、誰が本当にやる気がないのか、見分けることができるのである。
 人の話をじっくり聞く姿勢づくり。これが人材の発掘、登用の第一歩である。

 だから、聴くことができず、やみくもにこちらから一方的に、「やる気を出せ」とあおってみたり、やる気の出る講話や訓話をしたり、尻を叩いたりしても、みんなの心の状態をつかむことにならないから、抜擢のやりようがないのである。

 選抜、抜擢、登用とは、大勢の中から、特定の人を選ぶことである。前提として、多くの人を知っていることが前提にある。3人から、選ぶか。50人中から選ぶか。50000人の中から選ぶか。分母の多寡で、質が決まるからである。
 
 「うちには人材がいなくてね」と嘆く社長がいるとしたら、その人の行動力、聞く耳があるかどうか、を疑がってみてよい。 

 耳で食べ物を食べることは不可能。耳は聞くためと聴くための専門の機関である。だが聴くことと引っ張ることには使っても、聴く人は案外にすくないようである。

的外れ

2007年01月26日 | Weblog
米が売れないのはあの大きな米屋のせいだ、という
時代がありました。食パンが売れ始めたらパンに食われた、と言った時代がありました。ですがラーメン屋も喫茶店やお弁当屋もコンビニもライバルになりました。そのうち旅行も、ダイエットインストラクターも米が売れない理由に。問題はお客が選択しない結果なのに。右に的があるのに、左を狙う。当然外れる。これを的外れ、といいます。昔、こうした言葉、作った人は凄いです。

聴くということ

2007年01月24日 | Weblog
聞くではなく、聴くことでもう一つ、申し添えておきたいことがある。

相手の口は、開かせるものであって、これを閉じさせるものではない、ということ。これをリーダーは心しておく必要がある。こちらがしゃべると、その間こちらは聞けない。相手は聞く方に廻らねばならず、その間、口を閉じる。
 
 これでは、そもそも情報が入らなくなる。食べ物をとらず、出す方ばかりでは、出るものも出なくなるし、燃料が入らないから体力を失う。これと同じこと。組織内外からの情報が入らず、経営者は孤立する。談合大手ゼネコン会社の某社長みたいに、「私は知らない事だ」といった事態になる。

 上に述べた聴く効用について、二つに分けて、詳細に述べてみたい。

 1に、聴くことで、組織が活性化することである。 
人の話を聴くことで、その人がやる気があるかどうか掴む。そしてやる気がないのであれば、それはなぜか、その原因をつかみ出した上で、やる気のない根元を解決し、やる気が沸き立つようにもってゆく。こうした個別対応が出来る。このことは大きい。
 
 もちろん、理由には共通性と個々人の固有のものがある。この2つで構成されている。
 そこでまず、普遍性で把握し、次に各人それぞれの特殊、固有の方も掴んで、個別に対応する。これでなくては対応とはいえない。朝礼で訓示できることは、前者。これで済ましているようでは、組織の弱体化は避けられない。リーダー失格だ、ということになる。

 次に、聴くことで、情報がたくさん集まり、しかも確度が高くなる、ということである。 
 多くの人のしゃべるのを聴くことで、たくさんの情報(材料)が集まる。また関係者一同がもっている環境や条件、抱えている課題なども把握することができる。こうしたことで、みんなを取り巻く繋がりなど全貌がわかってくる。自分一人だけでは、自分が接触し得た材料だけしかもっていないのだから、とうてい全貌とはいえない。全貌を掴まず、部分的なものを全貌と解し、判断するのでは、公平さを欠くし、偏り、歪みが出る。これでは判断の結果は押して知るべし、と言ってよい。
 
 自分が何でも知っている。掴んでいるということは、自分の見ただけのものが全貌、そして正しいと錯覚、思い違いしているだけの話である。
それだけではない。聞く耳を持たぬ人には、人がもの言わなくなる。ものを言うために、人は人に近寄らなければならないわけだから、そういう人には人が近づかなくなる。だから、ますます自分の見る、知る情報の範囲と数が小さくなってしまう。

 だから、どうしてもみんなの話をじっと聴いて全貌をつかみ、みんなをやる気にさせる手だてをその中からつかみ出さす、ということを基本姿勢として確立しなければならない。これができなければ真のリーダーとはいえない。

相手を間違っていませんか

2007年01月23日 | Weblog
 競争の相手は、同業他社。競争は、勝負に勝たねばならない。当然だ。いきおいそこへ意識や関心が集中する。集中させないと勝負に勝つことはできない。
競争の対象は、消費者やお客ではなく、ライバルである。
ライバルを叩き、自分が有利に、ということだ。まさか消費者やお客に代わって代理競争しているのではあるまいから、消費者やお客のこと、そっちのけで自らの競争にひたすらする。これが集中する、という意味だ。

だから、つまりはお客様第一なんて看板と口だけで、ライバルとの戦いに夢中で明け暮れ、ということになる。肝心な消費者やお客は、主客ではなく脇役に押しやられる。否、ときにはライバルに打ち勝つための道具に成り下がる。そうした企業は、その自分の欲望を充足したい執念で、脂ギンギンで、消費者に迫ってくる。だからすぐわかる。嵩じてそれが過ぎて、アウトローにナリ、マスコミを賑わしたりもする。

誤解しないで欲しい。競争が悪いことなどなにもない。またもリコールがあったから、毎日自動車事故が発生しているから、車に責任がある、なくせ、といったことは暴論である。
競争は資本主義の誇りである。今や共産国ですら崇めだしている。消費者にとっても、競争によって、価格が下がり自分たちに大いに貢献していることは知っている。競争関係のなさを嘆き、大型店の出店を請うている消費者も少なくない。
競争の原理が、世に大きな貢献をしていること。そしてその大いなる恩恵を受けていることに、心から感謝もしたい。

だから悪者扱いすることは誤りである。
これまた、人の活かし方、使い方の問題なのである。
競争は、直接的、かつ第一義に的には自分のため。このこと認めることだ、と私は思う。なにやかんやとカッコつけないで、自分が第一なのだ、自分がそうであるように、自分以外のすべての人が、と。自分が、というその気持ちを、お店に来られるお客様も、自分第一に痛烈に思っておられるのだ、と意識して思うことだ。
 消費者だって「あなたの夢や目標具現のため、あなたお店で買い物をしているのではなく、自分の欲求充足のためですわよ」、って思ってはいまい。

説明のため、「マズローの欲求」を、使いたい。
 ●生理的欲求
 人の基本的欲求であり、具体的には、食物、水、空気、休養、運動などに対する欲求。
●安全・安定性欲求
 安全な状況を希求したり、不確実な状況を回避しようとする欲求。
●社会的欲求
 集団への所属を希求したり、友情や愛情を希求したりする欲求。
●尊厳欲求
 自己の価値や自尊心を実現したいという欲求で、たとえば他者からの尊敬や責任、自立的な行動の機会を希求する欲求。
●自己実現欲求
 自己の成長や発展の機会を求めたり、独自の能力の利用および潜在能力の実現を求める欲求。
マズローのいう欲求の主体は、他者ではなく「自己、自分」、「自己」の欲求の充足である。その具現のために、商人は、自店の繁栄を他者に協力してもらうために、他者一人一人がもつ、上に掲げたマズローの欲求を満たして上げて、自己の欲求具現のためにご協力頂く」のである。

こう考えたら、あなたの目的はライバルに勝つことではなく、対象もライバルではなく消費者、お客になる。そもそも上で「その自分が儲かるためには、是非ともお客様に買っていただくといった形の協力関係作りが不可欠だ。そのためには、どうしたら自分はどうしたらいいか」、こうした命題に、まじめに取り組む人や企業に、ライバルのことなど考える暇があろうはずがない。

これは、戦いの論理の「敵と味方」、「生きるか死ぬか」、といった極論部分を経営に引いてきたことの最大の罪であろう。手段やノウハウを戦争から学びたいのであれば、主語、主体を見誤ったことと、売り買いの経済行為は、元来人が平和に生きていくためのものであって、争いにはそぐわないもの。この2点を念頭に置いて、置き換えて用いなければ、危険なことでないか。ニトログリセリンが多くの人々の命を救い、そして多くの人類の命を絶った。
使う人の「心」に関わる使い方の問題を、すり替えてはならない。商人の心が、大事だ、ということを、「なにをいまさら」、「そんなんで、生き残れるか」という人々に、まずは「相手を間違っていませんか?」と伝えていきたいのである。

飲酒日

2007年01月22日 | Weblog
寒い朝。自治会のリサイクルの日である。
今月の28日、地元中学のPTAのリサイクルもあるから、新聞、雑誌、瓶は、半分はそちらへ回すため貯金。小さい集落は、こうした場合には、余計なことで配慮が必要なのだ。これも自分が中に入ってやるようになってわかったこと。
 終えて、いったん家に帰り、お正月の出初め式の手伝いをしたMさんの奥さんに、御礼の謝金を用意する。今までは、むき出しで、ホイと渡していたのを、少ない金額だからこそ喜んでいただこうと、ちゃんとした祝い袋(ただし、予算はないから私が、仕事でいただいた袋を使用)。これに会長名で御礼のメッセージと規定のお金を入れて、Mさんの家に。おばあちゃんがニコニコと愛想を振りまき、受け取ろうとしたが、お嫁さんを呼んでもらい、本人に渡す。これ、ばば抜き。

 今朝パソコンの操作のことで相談があったので報告を兼ねて会長宅へ。今日は日曜日。平日は夫婦ふたりで、仲良く病院だが、日曜日は在宅と言っていたのに、留守。操作のやり方を、書いたプリントを(有)分受けに入れて、帰宅。

 これで午前中は終わり。
午後は、十日町のNさんへ、彼の15年前の結婚式の写真をCDに焼いて、送ったあげる準備。短時間で終わる要諦だったが、なぜかパソコンがCDをはじき出す。何回やっても受け付けない。ここでさっとあきらめて、ノートの方でやれば良かったのだが、気になりパソコンの修理にのめり込む。映画を見ながら運動の、大切な時間まで費やしても改善されず、やっとあきらめて、ノートで焼く。まだまだ、こうした時、ムキになる癖は直っていない。
21時からは、TVの劇ドラマを見る予定で、今日はスキな映画はヌキになる。
今晩は、飲酒日だから、焼酎を飲まねばならない。それでお湯を魔法瓶に入れる。ところで、肝心な、タバコの喫煙日は忘れてしまったな。物忘れがsでたのだろうか。ライターと灰皿がもったいないのに。

おめでたさは

2007年01月21日 | Weblog
15日までを、「おめでとうというのだろう」か。
なにごとにしても、遅れの私は、その15日が過ぎてから
おめでたいことが3つ。続いている。

その1
1月26日、タノウエ脳力経営塾イン徳島が川人税理事務所にて開催。実に、四国での、この会、宇和島に始まり、高松、徳島と続くこと18年目に入った。
18年藻ですぞ。威張るのではなく、私の誇りである。皆さんが、会費を出し合って、年何回かこうして招いてくださる。こんな冥利を味わえること。私は誇りたいのである。

 税理士事務所は納税期に入り、多忙極める時期である。それを川人先生は、自分の事務所と共催ということで、会場まで貸してくださっている。ほんとうにこんなめでたいだけの男が、こんなご好意を。有り難いなぁ、と思う。一般参加も大歓迎。お問い合わせは大源、中谷さんへご連絡ください。
その2

 昨日 H13年4月夜半、開設した私のHPが、昨日の昼頃、12万を超えた。数を誇るつもりはないがといってことをブログにかいた。
 その夜、名古屋・カムサの朴さんから、メインバナーをプレゼントいただいた。仕事を終えて、私のこのブログをみて、それから作られたのであろう。家族団らんか、酒を楽しむ時間を、費やして作ってくださったことを思うと、感謝に堪えない。私の方、それで仕事そっちのけで、それを組み込んで、ついでにリニューアルをした。


 その3
 今朝ほど、T大学 M校長から直々お電話あり、1月29日から31日、旭川へ観光ゼミへ出講することが決まりました。北の旭川から、南の私に声をかけてくださった前川校長の電話に、思わず涙が流れた。涙が出るほど仕事が恋しかったかというと、それもないとは言えないが、10年以前のご縁を、心に留めていてていただいていた、ということ。それだけでも嬉しいことなのに。講師でお招きくださる。

 昔ならいざ知らず。といったら叱られるかもしれないが、今は大学校も当時の通産直ではなく、独立法人でさる。採算や収支計算に厳しくなっている。鹿児島から、ということになるとよっぽどの理由がないとやらない。そのことが頭によぎったからだ。
 こうなれば、遠くから交通費が莫大に掛かったが、呼んだ価値があった、と関係者が校長の決断を評価する、ということにしないと、私の胸が収まらない。

 年賀のお年玉、今年も3等賞が4枚。これ加えたら4つ。「めでたさも、中程以上の、良き年かな」のスタートといってよい。
 ここで、標記のヘボ句「おめでさが、俺にもきたよ、鈍行で」。

感じて動く

2007年01月20日 | Weblog
本を読んでいると、そのストーリーから受ける感動とは別に、そこで使われている言葉に、大きく影響を受けることがある。これを「言葉との出会い」といってもいい。

その語なりフレーズを取り出し、それを他の方へ渡したところで、どうだろうか。多くは感動どころか、キョトンとして、それで終わるのではなかろうか。全体の中の語、全体あってのフレーズといったこともある。体験が抜けた抜け殻といったら、言い過ぎか。
 
 いずれにしても「言葉」は、その言葉に潜む、あるいは背景とする行動から創出されたものではないと、人は動かないのではなかろうか。

ここに「動かない」と書いた。人は、自分を持ち上げられないし、他人を動かせない。自分は、他人に持ち上げてもらい、他の人が、こちらの目的にそって、自らの石で動いてもらう。このことを知り、そこの2つのためには、どうしたらいいかをわかっている人が、真のリーダーである。


お客様の立場でとか、お客の視点でと言っても、それだけのこと。言っても、言わなかくても、どちらにしても変わりはない。

こちらが動いたか、相手の動きに合わせたかによってのみ、変化はあらわれるものなのだ。

言葉を換えて繰り返すことになるが、このことは言葉が無力であるとか意味がないということにはならない。人は自ら、感じて動く。相手を感じて動く。「感じて動く」をつづめて、「感動」と言う。だから真のリーダーの吐く言葉には、相手をして感動がなければ、言葉自体が意味をなさない。

 文字も然り。不二家の社内通達は、その配下にすら無視された。人をして感じて動かせるものが、なかったという証である。

 辞任する、といった問題ではなく、そうした人を動かせない人が組織トップにいたこと自体、問題なのである