経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

算盤と電卓

2008年07月31日 | Weblog
いわゆる、「読み、書き、算盤」の
そろばんは計算器じゃない

と、私はそう思えるのです。

根拠なぞないけど、電卓などとは全然違う。
電卓では、間を外す、間を取る、
相手と相談しながらはじく、
といったことができない。

計算して、瞬時に答えが出てきたのじゃ、
商談など出来ない。
そう思うのですよ。

戦略とまではいわないにしても、
長い付き合いでの損得計算は電卓的ではない。
人情とか、人と人のしがらみとか、定性的というか
そういった感じのものは、算盤ならではの機能。

「算盤をはじく」と言った言い回しから、
イメージを拡げると、
やはり算盤は、商人に取っての戦略策定のための
大切な道具だと、私は思います。

事務方の算盤は、計算だけでいいから、
計算機に替えていい。
現に算盤が、電卓に変わっている。
ですが商人の算盤、
そう。「読み、書き、算盤」といった言い回しの、
算盤はどう考えても商人は手放せない。
電卓に代えられない戦略思考の必需品だ
と、そう思えるのです。

端的に言えば、計算高く、合理主義の
会社人間には、電卓が似合う。
一回きりの取引には電卓があう。
商人には、算盤、
一生のおつきあい、というときは算盤。

ビジネスマンには電卓、商人には算盤
イメージに任せて、別の言い方をすれば、
企みにふさわしいのが算盤。
TV「水戸黄門」にでてくる悪徳商人と
悪代官の密談に、電卓は似合わない
こんな感じ、かな。

損して得取れとかいって、
取引に人情性を絡める商人は算盤。
太っ腹、心の広さは、電卓では表せない。
算盤だ。

算盤といっても道具なのだから、
良きことにも、悪しきことにも使える。
はじく人によって損得と善悪がでる。

電卓も道具。算盤でいえることと
同じなのだが、
どうもそんな思いが寄せられない

わたしだけの偏り、かな。
そんな風に思うのです。

私の鼻

2008年07月30日 | Weblog
難しいことを、より難しく言う人がいる。
これは、大馬鹿者だ。

易しいことを、難しく言う人がいる。
これは、戯(たわ)け者だ。

こうした人たちに、出会うと
阿保な私の、しおれた鼻は上に向く。

大馬鹿者と戯け者が多い中で、
時には、
難しいことを、やさしく言う人もいる。

そうした人に、出会うと、
阿保の私の、鼻はたちまちしおれ、
謙虚になれる。

私の周囲のいる、3人の師。

師に振り回され、
上に下に,ぶれる私の鼻。
まだまだ、蒼いなぁ。
いい年の、私の幼い心 ♪♪

自画自賛功罪

2008年07月28日 | Weblog
自画自賛という言葉を考えている。
自分の描いた絵を、自慢する。ここまではいい。
だが、それが売るためにどれだけの意義があるかどうか、とは別の意味と考えたい。
それは、自分で自分の自慢する人には、どこか人格的欠陥やあせりがあるといわれる。つまり、だれも自分以外の人が、この人よ、と言ってくれないことを自覚している証と、いえるからである。 


 で、このことを、強引かつ極論をあえて許していただけるとして置き換えて見てみたい。自分の会社や店、商品などを強くPRや宣伝するのは、どうみたらいいだろう。

もちろん自社、自社製品などを知らしめることや消費者に浸透させることは必要不可欠なことだ。微妙なところだが、そのこととは区別されなければならない。

 そのことを承知の上で、あえて重ねて問いたいのだが、自画自賛性向の強いPR、宣伝はどうなのだろう。ここで「どうなんだろう」の意味は、道義的、倫理的問題ではなく、経営をトータル的にみて是か非か。プラスかマイナスか。どちらがより得になるか、という意味である。

消費者に支持され、売れてしょうがないところでは、そうしたことは無用である。売れて行列、注文の催促が殺到する企業に必要なのは宣伝ではない。営業パーソンでもない。配送係である。

 このことを考えたら、そうした早い話が売れてしょうがないものを創ることに、フィードバックし力を集中させた方が企業としてのプラスなのではないか。それともほっておいたらなかなか売れない商品せっせと作り、それらを宣伝力で売りさばく方がよいか。企業としてはこの択一、戦略問題なのである。
 早い話が、売れないものを売る努力より、売れて、売れてしょうがないものを創る方にそのコストとエネルギーを投じた方が得策ではないか、というのが私の申し上げたいことである。

 一方、買う消費者の是非、幸福度、満足度という側面から、この問題をみたらどうだろう。前者が支持されるか。それとも後者か。この答え簡単である。価格が同じなら前者だ。
 この消費者にとって如何、という側面が考慮されていない。あるいは意識的に避けているのか。
 その証に、つまり売れないことを前提として、営業部があり販売促進といった対策が講じられる。 PR,宣伝といった部門的、あるいは方法レベル的戦略が、最初から講じられている。

 その以前の問題として、経営者は、「企業として」という側面からみて、有るべき理想の姿を前提として、ということと、「消費者としてどういう有りようがベストか」という側面とを、併せて経営判断するという、いわば戦略の根幹を忘れているのではなかろうか。

 少なくとも物作りの甘さ、仕入れの甘さを、営業の怠慢とし、それを宣伝広告や販売促進でカバーするということは、本来的には愚であるということから、目を背けての意志決定は問題視されてしかるべきと考える。

 人の自画自賛には嫌悪感を覚えても、自社の自画自賛に消費者がどう感じ、どう思い、その結果どう動くか。経営トップであるなら、戦略の本質とレベルを理解した上で、本質により近い順、よりレベルの高い順、より消費者の視点においての戦略に優先順位の力点を置いて欲しいものである。

バケツ記念日

2008年07月27日 | Weblog
事務所のボックスの高さの調節に使う適当な石を探す。

鹿児島は、今日梅雨明け。炎天下の中を散歩と、相成った。
30分も歩くと、汗でびっしょり。
帰りは、石を抱えて、歩く意思失う。

それでも、かなり減量できた、と腹をさすり
気分転換。これが、今日、日曜の始まり。

石を洗うために、水を張ったバケツに入れて、投げ込む。

 「ポリバケツ、石を投げ入れ、水を浴び」

松尾芭蕉の「古池や」・・・」をもじって、
久々、意味不明の俳句?。

思わず、石をバケツに落としたため、顔面に水が降りかかる。
これが、実に涼しく、気持ちが良いのだ。
その記念の、一句

タオルで顔を拭きながら、バケツを見る。
見て、水が殆どないことに気がつく。

「はっ!」

ニュートンは、リンゴが木から落ちるのもみて、
万有引力の法則を発見したという。

私は、大きな石をバケツに、投げ込んで、
次のことを発見した。

 小さな石を少しずつ入れると、
 水が持ち上がる。
 1つのキーは、「小さい石であること」。
 大きな石を入れると、
 水はこぼれてしまう恐れがあるからだ。
 
 2のキーは、「少しずつであること」。
 様子を見ながら、あるいは慎重に、
 という言葉を含んでいると見たい。
 いっぺんにどーんとやると
 中の水はこぼれ落ちてしまうからだ。

もし、石を入れなかったらどうか。
水は蒸発してしまい、なくなってしまう。

思うに、消えていった企業は、 
何もせず、消滅したのか、

大きな石(意思)を、いっぺんに落としたか、
どっちかだ。

この発見。何年かたったら、
ニュートンみたいに教科書に載らないかな。
難しいか。

それではと、俳句とともに、
日記に記し、このブログに載せることに。

題して、「バケツで発見記念日」
これ、俵 万智さんもどきか。

自分から離れてみる

2008年07月26日 | Weblog
予算、見積もり、決算書といったものは、
お客様には、関係ないこと。

ですから、
経営指導を生業にしている私に取っても、
関心がないことです。

そうしたものを見ることがあるとしたら、
数字を通じて商人のうごめきを知りたいとき。

それに、私は、自分の計算、すなわち、
数字を見たら、心が弱いせいか、
欲が強いせいか、判断が狂う。

それで自分の会社の数字も、
決算書も見ることは
なく、税理士のI先生から、
いつも叱られています。

でも、私は、自分のことを考えながら
人のことを考えるほど、器用ではないのです。
で、どっちかを、ということになる。

自分の決算書を見ても、売上が上がるわけはない。
それに、気分もいいものではない。
自分の数字を頭に残し、他者の数字を見たら
心がうごめく。コレもいやだ。

自分のをみるこの気分と比べて、他者のを見ることは
その点。気が楽だ。これは客観しているからだ。
数字を見るときには、こうの客観が不可欠だと思う。

自分より、他人の数が多い。
多い方を見る。
地面に目を近づけて、見るより
見上げて遠くを見る方が、世界が広がる。

すると一つ一つは、ぼけてくる
このぼけてくることを
抽象度が高くなる、ともいいます。
これは自分から遠くなることです。
すなわち、自我から離れることです。

一方、足下 脚下照顧という言葉があります。
矛盾するじゃないか、からと思われがちですが、
そうじゃない。

自己を見つめる。自己を究明する。自己を見失わない。
こういった意味だと思うのですが。

この自分を見る目は、誰の目か。
その自分は、どこに位置しているか、
こうしたことを考えると、すぐ判ること。

見られる自分がいて、それを見る自分。
つまり、もう一人の自分が、存在が不可欠です。

ではもう一人の自分は、どこから、この自分を観るか。
これが客観ということ。
外にいる、たくさんの他者、お客の目で
自分の企業を見る。
自欲から距離を置き、抽象度を高めて
見る。

この習慣作りが、商い繁昌の秘けつの1つだ、
と私は思います。

エビ天と情報

2008年07月25日 | Weblog
外部からのエネルギーを取り込んで、
生き物は、薔薇であろうと、ミミズであろうと、
アリであろうと、犬猫、人であろうと、
生きることが出来ます。

エネルギーだけではありません。

情報もまた然り。

情報の収集、分析といったことに関しては、
生き物であれば、薔薇であろうと、ミミズであろうと、
アリ、犬猫、人であろうと、情報を採り、
それに対応するということで生きている。

コレ、これはどんな生き物も、どんな時代でも変わらない
普遍的不可欠情報、という意味で、基本本情報と言います。

本来体内に装備されているもので、殆ど無意識に
潜在意識の元で機能している。
それ以外の情報、少し乱暴に派生情報と呼ぶことにしますが。
いわゆる、「情報の時代」といった言い方の情報は、
こちらの方です。

エビフライは衣とエビ本体とで、構成されています。
この衣がバレーボールみたいに大きくなる。
ナカのエビの大きさは変わらない、
といった感じ。
これが、いうところの情報時代ではないか、
と私は思っています。

衣が大きくなって、ナカの肝心なエビが見えない。
えびが遠くなる。相対的に小さくなる。

派生情報が大きくなって、
肝心な基本情報をあまり使わない。
また使わないから退化してきている。
これが情報化時代の反面だ、と私は思っています。

ならば、対応の軸足は、
この基本情報の方だと、私は思いますよ。
エビ天の対応は、2つあります。

衣を薄くすることです。
エビを大きくすることです。

情報の場合も、2つです、
派生情報を少なくすること
基本情報をサバイバルすること

以前にも書きましたが
使わない筋肉を使うことで
使わない脳を使うことになります。

昨年までは、床に着いていた頭が、
最近、着かなくなった。エライコッチャ
というのは、
わたしは、スポーツ選手ではないのですから
それはいいのです。
問題は、その分頭が固くなった、これを
エライコッチャ
と、言っているわけです。

1ケ月もトレーニングすれば、元のようにピシャと
着くかな、と思いましたが、あれから40日ぐらい。

まだまだです。
エビ天は、衣を大きくすることで、客離れが起きます。

派生情報が巨大化すれば、基本情報が忘れ去られる。

 私も、忘れられる。
 エライコッチャ

まさに母の顔

2008年07月24日 | Weblog
駅に向かった歩く。

友人のホテルの駐車場に車を置き、歩く。
時間は七時半ちょうど。携帯を見たから。

駅の近くの、当市唯一の高層マンションの出入り口。
三〇代後半の女性が、一人遠くを見つめていた。
その顔は、まさに母の顔。
だが、近くには子の姿は見えない。

一本道。私が通り過ぎても、
まだ、彼女の視線は、遠くの方を見たまま。
身動きもせず、私の通り過ぎた道の先を見ている。

それが気になり、彼女の脇を通り過ぎてから、
振り返って、その視線の先を追った。
五〇〇メートルも先。いやもっとか。
男児が、二人、遠ざかっていっている。
あっ。そうか。
この女性は、この男児のどちらかの母親なのだ。

まだ見ている。
つい私も立ち止まって、
その二人の男児が、左に曲がり消えるまで、
この女性と、遠くなる男児を交互に見ていた。

この母は、子供達が、完全に見えなくなるまで、
だまったまま、身じろぎもせず、ほんとうにまったく同じ姿勢で
子供らの背中に視線をおき、見送っているのだ。

多分毎日。

その間、時間を計った訳ではないが、
子供の足と距離から見て相当の時間。身じろぎもしないで、
子の母は、母の目で子供を見守っている。
見えなくなるまで。
見えなくなって、しばらくして彼女はマンションに消えた。

おそらく子等は気づいていまい。
その間子供は、おしゃべりに夢中だった。

私は、感動して、しばし動きたくなかった。
目頭が熱くなって、眼鏡を拭いて、気を静めた。
この子は幸せだな、と思った。
自分の幼かった頃が懐かしくなった。
この子達がうらやましくなった。

そしてちらりと見た、この母の顔が、仏様の顔に思えた。
母の顔は、あんなにも神々しいものか。
知った。感動した。

いや、彼女は、きっと仏様だったんだ、
と自分が無宗教で、神とか仏とは縁のないことを忘れて、
ほんとうにそう思った。

駅に着いても、涙が止められず、
顔見知りの駅員さんを避けて、
馴れない自販機で、切符を買った。

情報の読み取り方

2008年07月22日 | Weblog
情報の集め方、読み方について、
書いています。

情報は、
第一に、広くたくさん集めること。
これは、様々な意味で重要です。

1に、限定する、目的化することで、
恣意性、的排他性を帯びることが避けられない。
これを広く沢山集めることで、
薄めることができるからです。

ちなみに、恣意性、的排他性とは、
自分に都合の良いものを採り。
都合に悪いものを捨てる、といった意味です。

2に、偏りがでるからです。

3に、量が質を決める原則に反するからです。

第二に
情報を生のまま、捉える。
このことは既に触れたところです。

情報収集時においては、
1に、情報を集約しない。
2に、大中小と分類しない。
3に重要性の原則で取捨、分類、配列してみてはならない。

こうしたことが守れませんと、
集まってきた情報そのものが
最初から歪みと曇りがついてしまう
といったことが避けられません。

要は、収集時には判断を排除するな。
色眼鏡を付けてみてはだめ。
加工情報は取り除け、といったことです。

次に、こうしてあくまでピュアにビビットに、
広くから収集された情報を読み取りします。
読み取りするために情報を集めたのですから、
これがうまくいかないと意味がありません。

コツがあります。
私だけがそう思っているだけかも知れないコツ。

1に、ここの情報が、訴えている叫びを、他の情報から切り離して傾聴する。
2に、全部の情報を、時系列視点から見て、潮流を掴む。
3に、この場合、緩やかなグルーピングをしながら、
まずグループごとに、それらが語りかけてくる本質を読み取る。
4に、最後に全体から、聞こえてくる声を傾聴する。
5に、広く人にさらして、他の人の解を伺う。

これが、正しいやり方、これ以外にありませんよ、
ということでは全くありません。
私は、こんなふうにやっています、と
恥ずかしげに、さらしてみただけです。

人それぞれ。
その証として、情報の読み取りに関しては、
多くの著名人が本を出しているようです。
参考にされたらいい、と思います。

ですが、
1に、これがベスト。ねばならない、といったものは、
そもそも情報の本質を分かっていない著者だと、
思いますので、買ってまで読むには値しない、と思います。

2に、特殊的、専門性の高い技術がなければできない、
というのも、本を売る人の立場から出たものと考えて良い。
特殊的、専門性が高いと、他に置き換えは出来ないからです。
実践できないと、自分のせいにして嘆く、
これがオチ。でもこれは、自分の世界が、
世界に通用するという無知な、あるいは思い上がりの
著者と出版社が悪い。

習慣作り

2008年07月21日 | Weblog
日水2リットルをと、言っている芸能人がいる。

水を飲んだら胃液が薄まってダメですよ、
と、ラジオで管理栄養士がいっている。

ドクターから塩分は控えるように、
といわれている人もいれば、
塩分をもっと取らないと体が持ちませんよ、
といわれている人もいる。

言うのも自由。それぞれの立場で言っているのですから、
やり過ぎがなければ、それでいい。

それを、どう聞くか。また聞かないかも、勝手。
どれが、だれが、なにが、正しいか塞翁が馬。迷ってしまう。
迷いもまた結構としよう。

人それぞれです。
いや、人そのときそのときで、それぞれなのです。
それで結構。結構毛だらけ、猫、灰だらけ・・・
はい、だからいい、ともいえるのです。

選択肢が多いから、迷うのよ、といった人がいる。
が、選択肢のない国の人から見たら、それは贅沢な悩み

いろんな考えがあること自体あっていい。
そうした選択肢こそ自由社会の至福だと思うのです。

ですから、いつごろでしたが、「味噌汁健康法」が流行る、
「おしっこ飲む健康法」がブームになる。
あれらは、何処へいっちゃつたのでしょう。

ともあれ、それら自体がどうのこうのではなく、
それらを鵜呑みにし、皆が皆が飛びつく風潮、
これはやはりよろしくないのではと、思うのです。

そういう気持ちになるとき、
そうしたものに自分が惹かれ、関心がいったときは、
自分の心身のどこに不安を感じている箇所があり、
それをネーチャコールズミー、それをもって親切にも知らしめてくれる
シグナル、情報提供じゃないか。

そんな風に、情報として、きちんと受け止める。
そんな風に活用?することだ、と思うのです。

ここで私が断定的にベキダ、といった言い方をする
このこと自体が矛盾なのですが、あえて言うなら、
他人に流されない自己の確立(脳力開発でいう主体確立)が
求まられるのではないでしょうか。

「おまえさん、簡単に言うけどね、それがわかんないから出来ないんだ」

こんな声も聞こえます。

そのとおり。

だから、かねがねからの習慣作りが不可欠なんです

ということで、昨日、そのことを書いたわけです。

そんな昔のことを過去を振り返りたくない、という方と
復習の意味で、以下、繰り返します。

1に、反対面や様々な角度から見る習慣をつけること。
2に、情報は立場とセットで捉え、それぞれの立場から、
 「多角度から考える」習慣をつくること。

この2つの「つくり」によって、情報の確度は高くなり
精度は増し、より本質を捉まえやすくなり、
、いつでも、柔軟*に、的確な判断が可能になります。

*ここで柔軟とは、
諸行無常(すべからく刻々変化している)に対して、
的確に対応が出来る、という意味です。
つまり、、的確性を欠くという、一因に
柔軟性がないとことが制約になっている、
という解です

鵜呑みは怖い

2008年07月20日 | Weblog
情報は、流れてきたものを
そのまま、口に入れてはなりません。

情報は、貴重でもありますが、
危険性の高いものです。

だから選別する、という意味では、
まったく違います。
いわゆる真贋含めて、情報なのですから。


情報は、その多寡より、正しく掴む、
ということが、より、いや極めて重要だということです。


健康を思う時はたいてい不健康の時。
「心の時代」と言い始めるのは心が枯渇している時。
交通事故ゼロ運動の垂れ幕がかかる町では交通事故が多い。
 
また健康食品などを販売する人が、
不健康や病気についてのことを、しきりと話題にします。
心の時代と叫ぶ方は、たいてい心に関する仕事をしています。

さらにまた、「肉食は健康に良くありません」
といったことを講演している人がいたら、
それは精肉関係の人ではなく、
野菜ジュースに関連している人だったりします。

そのことを、とやかく言っているのではありません。
わたしだってそうなんですから。

ここで、申し上げたいのは、情報は、
通常そうした立場、という「場」に盛られて、
提供されるものなんだ、
という認識を持って頂きたいのです。

人は、自分の立場から、
自分に都合の良い情報を発するもの。

繰り返しますが、
そのこと自体を云々しているのではなく、
相手は相手の立場から、
自分は自分の立場から、情報を流し、
流れてきた情報を解している。

だから、
1に、それを鵜呑みにしないこと。
 そして自分の立場から しかっと受け取ること心、
2に、その情報発信者の立場をつかむこと。

その上で、その人と反対の立場からその情報を見てみる

こうした2つの作業の習慣をお作りになることを、
ぜひ、と申し上げたいのです。

情報は、生の侭では食べるな。
今日はそのことを申し上げました。