経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

なぜ協力関係が不可欠か

2014年08月31日 | Weblog
大企業をかりに強者、弱者を中小企業と決めつけて、
当てはめ、言い切ることは,私は偏見、間違いだと思います。
その理由は,後述します。

しかしここでは、説明の都合上、一般的に強者と弱者に分けて、
考えることを許して頂きたいと思います。

ということで、強者と弱者はそれぞれ量と質、
どちらを戦略として採るか、と問われたら、
これはもう「質」だ、という答えに異論はないと考えます。

ですから、ここまでの述べた等式が成立する前提に、
左辺に右辺を魅了する「質」の存在が不可欠になるわけです。
一対一の勝負に持ち込んだにしても、
その質が、相手より劣っていたのではどうしようもない。

その意味では、量を取るか,質を取るかは、
どちらに比重を置いた方が自分が優位に立てるかの,
戦略課題であって中小企業は,弱者の戦略で、質を選択せよ、
大企業は,強者だから、量の戦略を目指すべきだ、と、
図式的に固定することにはならない。

戦略上における選択肢をもって,
強者とか弱者とか立場の高低に分けて 固定的に考えること自他、
戦略の柔軟性を拘束するものと考えています。

中小企業、弱者?,私は強い言い方煮なりますが、
「中小企業を侮るな、中小企業経営者よ、自らをさげすむなかれ」
と叫び、いいたいのです。


ところで,先に繰り返し述べてきた、「協力関係」という言葉。
これも,私はずいぶん考えてきました。

なぜ人は協力関係を是としなければならないかってことは、
なんとなくわかっている、といった気がしていたのですが、
私が欲しかったのは、自分が納得いくその根拠です。

それで、人はなぜ協力が必要かって設問を立てて、
そのことを考え続けてきました。
以下、そのことに触れてみます。

結論から言いますと、人間は、神仏と違って、
不完全であるがままをもって生きることを、
前提に作られているということ。
だから補完しあうことが必要なのです。
この補完関係こそ協力の本質なのです。

またこれこそが、「おかげ様で」、感謝
の根本だと、私は思っています。
だと思います。



彼らはなぜ滅びたか

2014年08月30日 | Weblog
三葉虫が、地球を制覇していた時代があった。

そのおびただしい数が、他の種を圧倒していた。

それが消えた。



恐竜が、この地球を我が物顔で闊歩していた時代があった。

あの巨大さが、他の種を圧倒していたという。

それが壊滅した。



このように、ある種が栄華を極め、そして消えていた。

なぜか。



前者の消滅の理由は、その繁栄にある。

数が増えすぎたことにある、というのが定説。



後者の消滅の理由は、その巨大化にある。

大きくなりすぎたためというのが定説。



ミクロでいえば、少なくとも生き物には、ライフサイクルがある。

たとえば人は小さく生まれて、徐々に成長し大きくなり、

やがて死を迎える。



これは、あらゆる例外のない普遍の原則である。



マクロが、ミクロを総和した集合体ということであるならば、

人類は人の総和、集合体ということになり、

ミクロの人の持つミクロの原則に支配されることになる。



マクロが、ミクロの総和ではない異なるものと仮定しても、

このミクロの原則が、適用されないということにはならない。

こうしたことを自然の摂理だ、と断定するには、

私の知識は乏しく幼稚的であるのだが。



だが、自然の摂理ではないか、と

ここで仮説をしたのは、

そうした原則が、生き物ではない経済に置き換えられる、

と,私は考えているからである。

長崎屋、寿屋、ダイエー、ニコニコドー、マイカル、セイユー、
そごう・・・・・・。

数が増えすぎた。
大きくなりすぎた。

そのことで、他とのつながり、バランス、ハーモニー
を壊したのだ。

だれが。自らの制御なき意思決定により。

寂しいのだ。

2014年08月29日 | Weblog
そう。

人も国も、一人では寂しいのだ。

気持ちはわかるが、彼らの寂しさを癒すために

戦いすら厭わないのだ。

その戦いにすら、相手がいる。

相手という存在がなければ,

その寂しさを紛らわす戦いが出来ないということに、

彼らは思いを馳せることはないのであろう。





自分の寂しさを紛らわせるために戦いを仕向け、

血が流れることは、絶対に許されないことだ。





つながりが、命、生きていくことの本来。

それを無視しては生きていけない。



だからといって、そのつながりを「戦い」に求めることは

許されない。



事実そう国家、企業、個々人が生き続けていける

歴史を,私は知らない。



つながりは、不可欠。

このつながりは,「良い」と「悪い」の2つに分けられる。



ということは、進歩発展、企業の繁栄は、

このつながりは、その良し悪しと緊密度、

と云ったことに左右されることになる。





人はわかっていても、やらない。

わかっちゃいるけれどやめられない。

そうした側面は、誰にもある。



だからこそ、意識して、つながり

すなわち、良い関係作りを構築し、より緊密度を

高めていこう、といった姿勢が求められることになる。



そし、肝心ことは、上の「良い」の解を、

誤解しないことである。



「良い」ということは、相手にとって良し。

それがひいては自分にとっても良し、

という意味だ。



さらに念押ししておきたいことは、

その「相手」を、できるだけ広く、深く、

俯瞰度を高くして、とらえることである。



例えば、自分の庭を、草花、小動物をなどを

含めての自然界といったように・・・・。



孤軍

2014年08月28日 | Weblog
一人ではいかに優秀でも、つながり、連携には勝てない。

孤軍奮闘という言葉があるが、

私は、これを「1人でがんばったが、
やはり大勢には勝てそうもないや、

あるいは、負けちゃった、といったイメージをもっている。





いかに優れたハード商品であろうと、

その関連機器、ソフトの広がりがないと、

やはり孤立型、自滅型として萎える。



古くはソニーのビデオ、やや最近では東芝のVD・・・。

やがて、グーグルの開放性と比較されている

あの企業も・・・・・。



開放性、といったイメージを、あれこれ置き換えてみる。

過去の歴史でも良い。あるいは今、目の前で見えるものも。

悉くが、繋がっている。

繋がっているということは、

閉鎖的ではなく,開放性を是としている証である。



としたら、つながり、開放性といったことは、

普遍性ある生き方の思想そのものであることが理解できよう。





ならば、ここで自問自答してみようではないか。



俺が、俺が、我が社、我が社、と自慢話をする俺は、

気分が良かろうが、それを聞いているみんなはどうだろう。

俺の一人勝ちでの有頂天、負けた連中はどうだろう



あの国は、どうなのだろうか。北の国、あるいはアラブのあの国など。

世界から、そして国内でも孤立している

あの国の首脳者は、戦いを挑む、といった形で、

やはり、他とのつながりを求めてくる。



同情して云うのではないが、

悲しい、寂しい国ではないか。

国民と繋がっていない寂しい独裁者。

そしてそのことがどんなに国民にとって
悲惨なことなのか、悲惨な場なのか。


オープンソース

2014年08月27日 | Weblog
今潮流は?本来のあり方は?



と問われたら、私は明解に答える。



「オープンソース」、と。





元来、時代の潮流は、

「オープンソース」の方へ流れている。

国でみると、その閉ざされた国の一つが、今騒がしい。





すべからく、急速に情報開示・公開の流れに

転化、集約され初めている。



アンチオープンは、胡散臭い、透明性に欠く、

だから信頼できない、薄気味悪い、といった

消費者側の情報は、閉ざされたところや輩には入らない。

情報もまた、交換、つながりなのだ。



だから、単に情報が入らない、脱さない、といった

消極的な理由以外に、孤立型は、孤立しているが故に

恒に、永遠的に孤独であり、多勢に無勢の関係で、

外部におびえて存在しなければならないのだ。

融合系、協力系ないしはシステム系に、

単独で太刀打ちできないからである。

 



だからこそ、以前は、個である自企業を大きくすることで

孤立故のマイナス、寂しさからの脱却をもくろみ

大きいことはいいことだ、を推進してきた。



だが今、多くの企業は、

自分、自社の「系」を大きくすることを、

生存の「決め手(売り)」とする潮流へ、

大きくギヤチェンジしている、といってよい

2つの世界

2014年08月26日 | Weblog

ちなみに世には、
自分が知らない世界と知っている世界とがある。
「知っている」、「わかる」は
自分の知識の範囲以内でのことにすぎない。
つまり自分が知っている世界なんて、極くわずか。

だから言葉を発したり行動したりするときは、
知らないことがほとんど、ということと
それぞれ違う様々な広い世界を人それぞれが持っている、
という認識が大切だと思うのです。
ここから謙虚さがが生まれる。

これを欠かすと、必然的に不遜、傲慢さが現われ、
他者は協力どことか、背を向けてしまう。

そのことを頭に置き、自分の戦略に賛同し、
その戦略を共有する人を集めることになります。
そのことはとりもなおさず、他者、一人一人のもつ戦略との
共有と言うことになります。
また当然、情報の共有化ということにもなる。

一人の力なんて知れている、
自分だけで戦略は果たし得ない、
という諦観に達すれば、そうせざるを得ない。
続く。

前見れば、後ろ見えず

2014年08月25日 | Weblog
前見れば後ろ見えず






値下げという対処は、

薄れた魅力、劣化した価値への対策、改善にはならない。

値下げによる対処は、

単に実勢価格への調整に過ぎないからである。



その誤りの対処をなすことで、

本当の対策が講じられないということで、

手遅れ、事態をさらに悪化させることだ。



そしてさらに何より恐いことは、

誤診の結果、値下げという処方箋が出されたことで、

問題の本質的要因が隠れたままで、

その解明が、先送りされるというこのことである。



過去のおびただしい「倒産」という現実の中に、

結果として誤診からきた,誤れりその対処、

問題の本質的な解明の先送りといったことを、

私たちは、見ているのである。

見ているのではあるが、見えていないのである。



利益を得つつ価格を低減すること。

これには必ず限界がある。



またこの路線は、

価格競争に敗退した夥しい企業の屍を見ることと、

「次は俺の番かも」,といった恐怖を前提に成立するのである。



しかもそれらは,概ね規模の論理で優劣が決まる。

だから中小企業の勝算は立ち難い。

では、低価格路線に変わるあり方は?

と言うことだが、それは現在採っている低価格路線を止めなければ

見えてこないのである。そのことは上に述べている。



その証に,私はこのブログに,何度も話をあれこれ変えて

その答えをかき立てているのである。

後ろを見ている限り前は見えない。

風邪に痔の薬

2014年08月24日 | Weblog

「下り坂、アクセル踏めば、地獄道」

といったことを,お話している。





そうした話しを聴講した人達が,実行に移さないから

救われているが、実践したら大変なことになる



勾配の程度にもよろうが、

そうした低価格戦争で生き残るのは、せいぜい2-3社であろう。

その彼らが限られた席に腰掛けるまでの過程で、

ことごとく企業は消えていく。



言うまでもないことだが,売価を下げるということは、

仕入価格を下げねばならない。

卸屋にしたら,その分をメーカーの原価低減に依存。

メーカーは、その分をコストダウンで吸収する。



これが模範的図式だろう。

しかしこの図式はまったく機能しないことは

現場経験があれば誰しもわかっていることだ。

畢竟、負担,負荷は,弱い所に集中し、かかる。

これが現実で,その結果が倒産である。





話をもとに戻す。

値下げによる対処は、単に実勢価格への調整に過ぎない

というのが私の見解である。



従来の価格では売れなくなったということは、

消費者が,そこを選ばずそこの商品を購買しなかった

ということの結果だが、その理由が、

商品・サービス、あるいは店舗に関する何か

魅力が薄れた、といったことであったとしたらどうだろう。

まさに、「風邪ひいて,早く治れと、痔の薬」である。

脱デフレへの正道

2014年08月23日 | Weblog

最近お相談事例。
強豪、ライバル店に対抗して、経営全体が狂ってきた話。
その理由を記してみたい。

「うちの値下げ攻勢で、そのうち競合店が脱落するから」
ということだろうが、その願望は相手も持っているから泥仕合になる。

そもそも願望的要素を戦略に組み込むこと自体重大な誤りである。
それにこの値引き対策の結果、客層ががらりと変わってしまう。
このことは当たり前のことなのだが、案外に見過ごされ,
そして、後々の危惧要因になっているのだ。

なぜなら、客層が変われば、
企業の戦略、コンセプト、方針等々との整合性に
ブレや齟齬(そご)が出る。

時には、企業の根幹を再構築する必要すら想定される。
ところが、これだけ値下げ戦略が話題になる中で、
そうした問題が論議、検討されるという話は聞かない。

ということはほとんどの企業が、値下げ戦争は、
他が脱落するまでの臨機体制、一過性的とみてよい。

かって、ある経営評論家が、デフレ時代においては、
皆さんの会社も例外なく低価格旋風に巻き込まれ,
好む、好まずに関わりなく低価格戦争に泣き込まれます。

ですから、早めに低価格戦略に転換しないと生き残れません、
と言っていたが、まさに無責任きわまる発言と
私は、即座に反論を書いた。


だってそうではないか。
お金の価値は変動する。その変動に連動して
「ものの価値=物価」が上下する。
それで上がるのがインフレ、下がるのがデフレ。

今、依然としてデフレ時代なのだ。

だから、低価格商品を作ったら、作ったその商品の価格が
価値が下がるのである。
それは、下り坂、アクセルを踏み込み,加速せよ」
といっていることに他ならない。・・・・・

井戸に落ちたら、這い上がる。
デフレから這い上がる、品質のハイアップ。
これが正道である。

仕事、あれこれ

2014年08月21日 | Weblog
端的に言えば、生が死、やるか,やらぬか、といったこと。
その判断の材料は,広く集め、多くの意見を聞く。
が、生か死、やるか、やらぬか、といった戦略を
決めるのは自分。人に委ねてはならない。

戦略が決まったら、
それを可能にする条件を1つ1つ作っていかねばならない。
これが戦術である。

その戦術の1つに、人材の活用がある。
上に立つ者、すべからく才能ある人をねたんだり、
これと対立するようなことであっては失格である。

自分の戦略達成に役立つために、どんどん活用、
どんどん抜擢する。これが、人材活用の要諦である。

人材のことですが、
戦術的やり方といった細部まで、
指示されないと行動が出来ないような人では、
歯車に過ぎず、リーダーとして
自分で仕事を切り開いていく力はないのである。

人物とは、自分が何をしたらいいかの戦略方向を
持っている人をいいます。

一人ひとりが有能でも、組織としての仕事、
タスクはこなせません。

タスクにはゴールがあります。
このゴールの具現のために組織を構成する必要があります。

組織といえば、自分の会社のことしか
念頭にない人がほとんどですが、
私はむしろ社外の組織づくりを推奨しています。

人の手を借りなさい、人の褌で相撲をとれ、と。
それが零細・中小企業の強みなのですから。



いくどとなく繰り返していますが、
仕事とは、こうした人と人との関係を作ることです。
ですからこのこと以外のこと、仕事と称していても、
実は仕事を具現するための戦術なのです。

愉快で楽しい人生を過ごす、と戦略を掲げていたら、
そのための戦術の1つが、この今やっている仕事、

といったように、ときには大きく考えてみることを、
是非実践ください。