経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

普遍性と置き換え

2009年04月30日 | Weblog
うかつにも、ほとんどわからない講演会を聞きに行った。

難解な話は、何回きいてもなんかい。
友人と、途中辞席し、久々に喫茶店に行って、
平日ののどかな風景と、軽口を楽しんだ。

生徒にわからないことを話したとしたら、それは教師ではない。
講演者が聴講しているものが理解できないことを話したら嘘の人。

わからないのは、わからない人の問題ということより
わからないことを話する人が自分の立場をわかっていないことが問題なのだ。
難解なことが高邁で内容があり、やさしいことが軽いという想いがあるとしたら、
それはまったく逆だ。

子供の背丈に合わせる。それが大人の姿勢だ。
子供は合わすことはできないのだから。

友が去った後も、しばし久々の喫茶に酔った。
普段気にもとめていなかった「普遍性」という言葉が
城野 宏 先生からしばしば発せられると、
それはまるで大人の魔法の杖にように思えた。

では普遍性とはなんじゃ、と問われると
言葉としてはわかっているつもりでももう一つという感じがした。

もう20年前の話。高松タノウエ脳力経営塾で、
これを「置き換え」と置き換えて初めて使った。

俺は偉い。これは俺のところに何を入れても良いから、普遍性がある。
水虫は偉い。長嶋は偉い。うちの花はきれい。麻生さんは偉い・・・。

だが、俺は、君より偉い、となると、普遍性は失せる。
俺は水虫は偉い? 俺は長嶋より偉い?、うちの花は、どこの花よりきれい?
麻生さんは水虫より偉い・・。

ここからわかることは、比較自体は存在して良いし、
物差しと比較することで布の裁断はできるし
それで自分にぴったしのスーツを着こなすことができるのだから。
 
「自分にぴったしのスーツを手に入れたい」。
これは普遍性がある。自分を誰に置き換えてもそうだからだ。

「これを日本一の大きなスーツを着こなす」というのであれば、
本人がアファメーションするのも雄叫びをするのも自由だが、
私はどうもその気には、ということになる。

普遍性、これを置き換えに置き換えていろんなことに置き換えてみる。
またできるだけ抽象度を高め、さまざまな分野で置き換えて考えてみる。

水飲み健康法は、どうだ。おれはこれで成功した。どうだ。
上を向いて歩け。、マンホールに落っこちる。
みんな涙した。うそだ、俺は泣けなかった。
ダイエー商法はどうだ。 絶対当たる。合格率日本一。

こうしたことから、抽象度を上げて、経営の分野、経済の分野、
政治の分野でも置き換え使えるか、試みてみる。

人は自分に置き換えて、その是非を判断している。
つまり言動に普遍性がないと、人の支持、押し上げは起こりえない。

昔、ヒグチ薬局というチェーンの社長が、自らCMにでて、
「目標365店」と叫んでいたが、今は息子がホームページTOPに。
彼がどう叫ぼうと、それで奮い立って彼の店で薬を買う人は、
皆無だろうに、と笑ったことがある。

なぜ普遍性が、重要なのか。有効なのか。
なぜ置き換えができるかで、ものが見えるのか。

理由は、簡単。
世界とは人の世界。人という普遍性の中で人は存在しているからである。
1に、自分は人間であり人間であるということで普遍性がある。
 口も、鼻、へそみな一つ。耳、手、足、二つ。
2に、世界は人間の目を通しての世界であり、
詰めるならば自分の目を通して世界が存在するからである。

宇宙人も幽霊も神仏も、法人も、人に似たり。
この世はすべからく擬人化社会。畢竟、人こそこの世界での普遍性。

よりかみさん

2009年04月26日 | Weblog
「いやぁ、さっぱり私には理解できませんでした。
判ったことは凄い、ということだけ」。

某カリスマ経営者の講演会を大枚はたいて、
東京まで聴きに行ったHさんの言葉である。

神業、神風、神のお告げ、神がかり、神のお恵み、経営の神様、
神を頭に置いた言葉は多い。・

要は宗教上の神というより、並の人、通常ではとうていできないことを
「神」と神の、とし褒め称える一種の強調語といってよい。
だから言葉自体に目くじらを立てることはないし、そのつもりもない。

何気なく新聞の広告欄をみたら二人の神様の本が掲載されていた。
神様の本であっても宣伝しなければ売れないのか、
不況の中の教えの布教かなと、おかしくなった。

二人の神様とは、松下幸之助さんと稲森和夫さんのことである。
以下、この偉大な経営者ご自身には関わりのない話である。
このことを先にお断りしておく。
熱烈ファンの方、誤解のないように御願いしたい。
(以前猛烈ファンの方から抗議を受けたことがある).

松下さんに続いて、再建王 大山梅雄さんが登場。
彼は神ではなく王様だからパス。
次に1980年代前半、坪内寿夫さんという神様が登場。
だがこの神様の会社は1986年にあえなく倒産。
神様直営の会社でも倒産するのか、
それとも元から神様でなかったのか。
いずれにしても、神様のブランド、名誉の失墜である。

子供の頃、二宮金次郎。
少し大きくなって松下幸之助さんは子供にとっても
立身出世の見本、憧れであった。
経営自体には関わりがないサラリーマン時代にも、
松下さんの本をかぶりつくほど読んだものである。

「へぇ、小学もろくに出ていないくともこんな立派な経営者になれる。
おれ、彼より学校を出ているのだから」、
まあ、端的に言えばそんな気持ちであった。

学校を出ていなくても立派になれる。そのモデルが存在する、
という気持ちで、安月給の中から彼の本に投資をしたのである。

つまり神様だったからではない。むしろ神様でなかったからなのだ。
このことを言いたいのである。
神様ではない。むしろ身近に感じていたからこそ憧れ、
いつかは自分も頑張れば「社長」になれるかもと希望を抱けたのである。
本を読んでいて神様しかやれないことを誰が実践できようか。
神様がやれたこと、言うことを神様ではない自分がやれるはずがない。

神様のことは、神様しかやれない。
だからうちのカミさんのいうことは、やれても、
経営の神様のことは聞いてもやれるわけはないのだから、
聴きにいっても意味がない。ねえ、Hさん。

奇跡をあてに経営は出来ない。
宝くじの賞金を資金繰りに使えない。
神様がやることは、人間はやれない。
特殊性は置き換えが出来ない。

置き換えが出来ないと、「知っている」という固形知識の固まりを
持っているということを、自慢話には使えても、
自分の経営に置きかえて使うことが出来ない。

神様からであろうと、再建王からであろうと、
近所の子供達からであろうと野良犬からであろうと、
草木からであろうと、学べる人は学べる。
学べるものは、すべからく普遍的なものに限られるからだ。

神様の言うことは聞いてはならない。
というより本当の神様なら、
人がわかる人がやれる言葉で示してくれるのである。

そうしてみたら、本物の神様と偽物とが明確に掴める。
ねぇHさん。お賽銭なら30円ですむ。それを偽神様に1.5万も。
それ、神、いや人を診る目のないHさんの判断ミス。
第一、神様が、お金使って宣伝するはずがないじゃない。
神より、かみさんの言うことを、ね。Hさん。

よりかみさん

2009年04月26日 | Weblog
「いやぁ、さっぱり私には理解できませんでした。
判ったことは凄い、ということだけ」。

某カリスマ経営者の講演会を大枚はたいて、
東京まで聴きに行ったHさんの言葉である。

神業、神風、神のお告げ、神がかり、神のお恵み、経営の神様、
神を頭に置いた言葉は多い。・

要は宗教上の神というより、並の人、通常ではとうていできないことを
「神」と神の、とし褒め称える一種の強調語といってよい。
だから言葉自体に目くじらを立てることはないし、そのつもりもない。

何気なく新聞の広告欄をみたら二人の神様の本が掲載されていた。
神様の本であっても宣伝しなければ売れないのか、
不況の中の教えの布教かなと、おかしくなった。

二人の神様とは、松下幸之助さんと稲森和夫さんのことである。
以下、この偉大な経営者ご自身には関わりのない話である。
このことを先にお断りしておく。
熱烈ファンの方、誤解のないように御願いしたい。
(以前猛烈ファンの方から抗議を受けたことがある).

松下さんに続いて、再建王 大山梅雄さんが登場。
彼は神ではなく王様だからパス。
次に1980年代前半、坪内寿夫さんという神様が登場。
だがこの神様の会社は1986年にあえなく倒産。
神様直営の会社でも倒産するのか、
それとも元から神様でなかったのか。
いずれにしても、神様のブランド、名誉の失墜である。

子供の頃、二宮金次郎。
少し大きくなって松下幸之助さんは子供にとっても
立身出世の見本、憧れであった。
経営自体には関わりがないサラリーマン時代にも、
松下さんの本をかぶりつくほど読んだものである。

「へぇ、小学もろくに出ていないくともこんな立派な経営者になれる。
おれ、彼より学校を出ているのだから」、
まあ、端的に言えばそんな気持ちであった。

学校を出ていなくても立派になれる。そのモデルが存在する、
という気持ちで、安月給の中から彼の本に投資をしたのである。

つまり神様だったからではない。むしろ神様でなかったからなのだ。
このことを言いたいのである。
神様ではない。むしろ身近に感じていたからこそ憧れ、
いつかは自分も頑張れば「社長」になれるかもと希望を抱けたのである。
本を読んでいて神様しかやれないことを誰が実践できようか。
神様がやれたこと、言うことを神様ではない自分がやれるはずがない。

神様のことは、神様しかやれない。
だからうちのカミさんのいうことは、やれても、
経営の神様のことは聞いてもやれるわけはないのだから、
聴きにいっても意味がない。ねえ、Hさん。

奇跡をあてに経営は出来ない。
宝くじの賞金を資金繰りに使えない。
神様がやることは、人間はやれない。
特殊性は置き換えが出来ない。

置き換えが出来ないと、「知っている」という固形知識の固まりを
持っているということを、自慢話には使えても、
自分の経営に置きかえて使うことが出来ない。

神様からであろうと、再建王からであろうと、
近所の子供達からであろうと野良犬からであろうと、
草木からであろうと、学べる人は学べる。
学べるものは、すべからく普遍的なものに限られるからだ。

神様の言うことは聞いてはならない。
というより本当の神様なら、
人がわかる人がやれる言葉で示してくれるのである。

そうしてみたら、本物の神様と偽物とが明確に掴める。
ねぇHさん。お賽銭なら30円ですむ。それを偽神様に1.5万も。
それ、神、いや人を診る目のないHさんの判断ミス。
第一、神様が、お金使って宣伝するはずがないじゃない。
神より、かみさんの言うことを、ね。Hさん。

どっちち

2009年04月22日 | Weblog
本は古典に限る。ベストセラーなど関心がない。
とある会で、ぶった人がいた。

「田上さんは古典派ですか。それとも・・・」
懇親会になって、流行のスーツで着飾ったその人に声かけられた。


残った、ということは凄いことだと思う。
紀元前何千年前の話が、今遺っているということは、
遺らないで消えていった夥しい事柄を考えれば、
1に、その気が遠くなるぐらいの年月の中に生きてきた
人々の意思が遺すに働いたという事実、

2に、その中身、含蓄といったものが風雪に霞むことのない
普遍性を持っているかといった意味でかけがえない重さ、価値を感じる。
これを本でいうと古典だ。

ベストセラーなど読まない、と決めつける人がいる。
上に触れた歴史、時間を経て、といった重みと価値を考えると、
そのときだけに流行、やがて泡沫化する大衆ものなど、
短い人生、忙しいのに読んでおれるか、ということだろう。


広がると、いうことは凄いことだと思う。
この今、たくさんの選択肢がある中で、ある1冊の本が、世界的に
いや日本の中でも良い。
一番売れたと言うことは、歴史の時間軸、縦ではなく、
いわゆる人種を越えて、国を超えて、宗教を超えて、年齢を超えて、
性別を超えて好まれたという横の普遍性重さ、価値があるといえるのである。


縦と横の2つの存在で世の中かが存在している絶対哲理を考えると、
縦と横を択一する考え、論議がいかに愚かなことか自明の理である。

男と女、両者が存在しないとこの世は存在しない。
自分の存在も、この両性の存在を前提にしている。なのに、
なにを無邪気なことを宣わくのか、と思う。

古典も読み、今年のベストセラーも読む。
クラシック映画も、アカデミー受賞映画も見る。
むろんどちらかに比重をかけるということはある。当然だ。

熱い風呂には、水。ぬるい風呂には、熱いお湯だ。

だが、流行の服を追い、古典オンリーの紳士に答えたのは、
前後いきさつ省略。一言。

「時には古典、時にはマンガも流行本も読んでいますが。」


択一するという概念が存在するのは、
択一できないものの存在がある、ということだ。
この区分が出来ず一方を問い、決めつけ、択一を他者に求める、
そのスタイルそのものが、その人物の偏りとしかわたしには見えない。

スーザンさんの歌声

2009年04月19日 | Weblog
人が外観ですべて判断してしまう愚かさ。
その場面を大勢の観客、そしてそれをみている自分も含めて目の当たりにする。
スーザン・ボイルさんが、舞台に立ったとき、
意地悪い小馬鹿にしたような質問をする審査員、
そしてこわらいする観衆。むろん私もその一人である。

それを彼女が歌い出して10秒も立たないうちに3人の審査員の瞳孔が変わる。
そして顔の表情。さらにはその姿勢から傲慢さが消える。

次いで観客が、彼女の歌声に釘付けになる。そして大きなどよめき。
彼女が歌い終わる頃には、観客は総立ち。
なにより、初めと終わりの審査員の変わりよう。
自分たちの誤解を心から恥じていたような素直な賞賛には、
それを聞いている観客も心を打たれ、
それををYouTube を通してみてる私も、思わず 泣いてしまった。

ただ歌を聴いて歌詞もわからずに涙が出る。
48歳にしては、老けているこのおばさん。
だが映像なしで、歌声だけを聞くと、誰しも天使の声に聞こえるに違いがない。
この落差。ああ人を外見で見てはいけないんだ。
審査員も、観衆も、私も改めてスーザンさんから諭された気がした。

もちろん、彼女はプロではない。日本でいえば、のど自慢大会みたいなもの。
そこで、審査員の一人も質問していたが、
こんなすごい人がなんで、いままで世に出なかったのだろう。

そのことを考えるだけでも、彼女は世の、人生の、不思議さ、奥深さ、
そしてその中で生きる私たちに、生きていく勇気を与えてくれる。
そんな気がしてならない。

いつもの通り、映画「姿 三四郎」を見終えて、
メールのチェックをしたときに、何気なく引っかかってきたメルマガに、
スーザン・ボイルさんの記事。
なんとなく気になり、検索かけてYouTube でスーザン・ボイルの、
その場面の映像に出会う。流れてくる美しい歌声。すごい声量。表現力。
その5分少しの放送、そして会場でのこのやりとりを10回も聴き、
1時就寝。このことだけでも、最高のいい日であった。
http://www.youtube.com/watch?v=vMVHlPeqTEg

これも仕事

2009年04月18日 | Weblog
新年度、外での初仕事は、枕崎商工会議所の特産品販路開拓の件だ。
原稿を早めに仕上げ、10時過ぎに事務所を出た。
13:30からだから、11時にでても十分間に合うのだが、
道すがら興味が引かれた店や施設、その他があっても
時間の余裕がなかったら断念せざるを得ない。

いつもそうした思いに駆られて、時間タップリでスタートする。
実際はそうしたことはこれまで全くといっていいほど起こっていない。
本当の理由は理屈を付けて、1分でも早く外へ出たいのかも知れない。

快晴。風も暖かくのどかな天気のなかを、ゆっくり走る。
案の定何事も起こらず12時には枕崎市へ入る。
リストアップしていた「カツオラーメン」を売り出しているお店の所在を確認。
その内一番小さいお店に入る。
老朽化した3階建ての自社ビルの一階。
それが、いかにも昔は儲かったぞ、といった感じ。
ラーメン専門店にしてはそこそこの規模。

店主夫妻は60代後半か。先客は3人。地元客である。
おなじみの豚骨ラーメンが600円。
対してお目当ての「カツオラーメン」は800円。
鹿児島はラーメンが他の料理に比べて高いことで知られるから、
800円には驚かないが、豚骨ラーメンより200円も高いのが少し気になる。

他の客は既に食べ終えているが皆、豚骨ラーメン。だいたい読めた。
案の定オーダーは私一人なのに、出てくるのに10分も待つ。
わかった。出汁は別。メンも別。注文が少ないので別注扱いなのだ。

チャーシューの代わりに鰹のフライ2きれ。これがまた小さい。
それにツケ(鰹の刺身を醤油につけ込んだもの)3切れ。薄い。

「麺が先ではなく、そのツケから先に食べて下さい。
でないと刺身がゆであがります。それに最初は香辛料はかけないように・・・」。

いつの間にか外に回った店主の奥さんが、私の背中越しから声をかけたのには驚いた。
「そうそう。次に・・・」

こう、いちいち指図されながらでは、食べる気がしない。
そもそもそんなに拘るほど美味くはないのだ。
ボリュームもパンチもない。どちらかと言うと温そうめんに近い。
中麺なのだが茹ですぎかシコシコ感がない。
因みに麺は鰹で作くられているわけではない。

今度は、この奥さんは、パンフレットを持ってきて、
枕崎のカツオラーメンに関するイベントの説明を始める。

そうしたことの専門家として、今日お招き頂いたのがこの私でございます。

と言ったら、少しは不快感を払拭できるだろうに、
と心の中で思いながら800円也支払う。
「これも仕事だ」。
ラーメン店経営のすべて

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/487428017X.html

ラーメン店経営のすべて
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/487428017X.html

死者の遺したもの

2009年04月14日 | Weblog
自分自身では死の恐怖は語れても、死の体験は語れない。
そういう意味では死は他人の話であり、死を通じての生の話なのかも知れない。

生きている者は他者の死に際し自らの死に重ね、
生を思い振り返っている、といえる。

死には先達者はいない。 
自分の死、ましてや他者の死など知る者がいるわけはない。

なのに、それでも語る人の多いことよ。
なのに、それにしても多くを語ることよ。

一つの死すら経験のない人が、死について語るのは、
生きている者が区々創り上げた想像の産物であるとはいえないか。

昨夜の通夜に引き続き、受付をしながらそんなことを考えた。
何年ぶりかに会ったという故人の中学時代の友人達が、
目の前で故人を忍んで語っている。
それを、聴いていて、思ったのは、誰も死の話などしていないことである。
生きているときの話。それも過去の話。時には子供の時に戻る。

それにもうひとつ。気がついたことは
切り出しは故人の話だが、すぐ生きている自分の話に転じていることだ。
おもった。人は人の死をもって、生きている自分を語っている、と。

師 城野 宏先生は、プロの絵描きでもあった。
その画の技法は独特で、端的にいうと光を描くのに影を用い、
影を描くのに光を描く技法である。

考えて見れば、山を描くに谷は不可欠だし、
谷を描くのに山梨では不可能なのである。

このことを考えると、生きている私たちは死を描くに
その生をもって描く以外にない。このことはわかる。出来る。
誰しも生きてきた経験を持つ者が死を得ることが出来るからである。

だが生を描くに死をもって描くことは出来ない。
なぜなら繰り返すが私たちは例外なく死の経験を持たないからだ。

ここで少し考えた。タイミングよく、
騒々しかったホールには読経が流れるだけになった。

考えた。答えは案外、早く出た。
もっともそれが正しいなんてこと、絶対に言えないし、
誤りとも絶対に言えないのだが。

山と谷、陰と陽、上と下、雄と雌、左と右、こうした相対語の中に、
生と死をおいている。

だが他の相対語と異なるのは、「死」を知らないことだ。
それでは「生」を現すことが不可能だ。
そう考えれば、言葉としていえば「生きるために死がある」。
つまり生を現すために、死と言う概念を創ることが不可欠になる。

それに対して、生を贔屓に論理構成を立てるのは不公平、
おかしいやないか、という考えもあろう。
このご質問に対しては、これもまた正しいなんてこと、絶対に言えないし、
正しいとも絶対に言えない私のこじつけ論だが、こう考えたい。

地球に生きてきた経験を持つ数が、地球でこれまで死んだ者の数を、
今地球に生きている人の数だけ多いのだから、多数決で、と。

それは、次の式により、生の数が死の数を上回っているのだから、
数の多い方を優先して、考えることをおゆるし、と。

期首在庫(生きている人)+期中仕入れ(誕生者)-期中売上(死者)
  =期末在庫(現在人口)

期末在庫を増やし続けることがこの世の繁栄であり、死者が遺した
おくりものではないか。

世襲と継承

2009年04月12日 | Weblog
選挙が近くなると、政治家の世襲問題が、姦しくなる。
それは、何か問題があるからだろうが。
はて、何なのだろう?
世襲される人が問題なのか。世襲そのものが問題なのか。

前者なら、良い人であればそんなことどうでもいいと、と思うが、
どうもその良い人が少ないから問題と言うことなのか。

後者、すなわち世襲そのものが問題であるとするなら、
その問題とはなになのか。
器が良くないと、盛られた料理もまずいということなのか。
なぜ政治家の場合だけことさら取りざたされるのか。

べつに政治家を養護する立場ではないが、
また世襲賛成論者でもないが素朴にそう思う。

政治家の場合は問題になるが、歌舞伎ではほとんど世襲である。
これが問題になったことはない。
ここで政治家の世襲問題を云々したいのではなく、
今、話題になっている中小企業の事業継承について、
考えていることを述べたいのである。

中小企業の経営者は、ほとんど世襲である。
同族会社と、すこし色眼鏡を付けて見られたり、
二代目、三代目と揶揄されることはあっても
ほとんど世襲である。これは日本以外でも大筋では違いはない。
むしろ大企業経営者の方が、サラリーマン経営者と揶揄気味で呼ばれている。

事実、事業継承問題の相談が増えている。
国の応援をうけての事業継承のセミナーや講習会も増えている。
関連した本も書店にずらりだ。

その背景には、総じて世代交代期に入ったということがあろう。
事業継承の継承者は息子に家督と事業を継がせる。これがほとんどだ。
私自身、実子以外のケースに関係したことは稀有である。
世襲とどう違うのか。実態は変わらないのではないか。

ここで、おや?とわたしが感じるのはこの事業継承の中身、内容。
これが相続、ずばり税金問題に偏りすぎで、矮小化されているのではという点だ。
関連法規ではなくセミナー等のカリキュラムの中身において。
事業継承問題が、税対策、財産引き継ぎといったレベルでの論議に
始終されるとしたら、そのこと自体が私には杞憂すべき問題に思える。

実際そうしたことへのニーズ・要望があってのことだとしても
事業継承は人の生き方、企業の使命といった
もっと抽象度の高い見地から俯瞰、論議されるが主旨だからだ。

個人の相続問題や節税対策を、国が、乞うも大々的に施策を打ち出し
予算計上して、セミナーを開くことはないはずだ。

たとえば中には子供は継ぎたくないのに親はどうしてもと言い張り、
子は俺の人生、それに職業選択の自由はどうなのだと言う。
こうしたケースも少なくない。
また経営者としては合う合わない、適性、不適正といったことをもある。

難しい問題ながら、そうしたことも含めての論議がまずあって、
それから相続手続き、伴う節税問題、といったことだと思う。
それを最初から、いきなり方法、手続き。ここに違和感を感じている。

少なくとも継承期という大きな節目を大いに良き機会として、
事業のこれまでの反省を踏まえ今後の あり方を、
バトンを渡す者、受け取る者が論議し合う。
そういったものが、事業継承問題としてあるべきで、
施策の本来の主旨のはずである。

アンマッチ 鈍行と速読

2009年04月10日 | Weblog
昨日の話。月1の漁師の人たちの相談日だ。
寒い朝だ。6時半に駅へ向かう。
鈍行に乗り、「10分間で1冊の本が読める本」、
古本屋で105円で仕入れていた本。
これを10分もかけずに読了。

正確には読み止め、リュックの中から
読みさしの宮部みゆきさんの「ブレイブ・ストーリー」(文庫版)を
取り出し、読み始める。
これは読み始めて2年目だが、まだ今中巻の中程。
おもしろいので、読み終えるのがもったいなく
1P読んでは空想を楽しみ、別の本へ、といった読み方で
至福の時間の経過を長くしている。

その別の本は、宮城谷昌光さんの「三国志」(ハード版)。
これ5年かけてまだ4巻の後半。
まだある、塩野七海さんの」(文庫版)は、
20年前から読み始めて、あと11pで29巻を読み終え、
昨日30巻目を買ったところだ。

意識しているわけではないが、自分が気に入った本は
作者が執筆に要した時間かけて読む。
おもしろくて読み終えるのが怖いといった思いもある。

手を抜いている。軽い、といった本は、10分もかけない。
速読ではない。ぱらぱら、で終わり。
ならば、買うときそれがわかるはずだ、ということだが、
その通り。それを買うのは、買わず目を通さずで批評はできない。
またつまらないものをつまらないと思った証拠品として、
反論などが予想される間程度はしばらくは手元に置いておく。

ところで速読のことだが、その効用を否定しているのではない。
あくまで私にかぎっての話だが、
速読で読むつもりの類の本は、買って読みたくもない。

本は出来れば自分の人生の長いパートナーとなるものを選びたいし
良いパートナーとなら出来るだけ時間をかけて付き合いたいのだ。

鹿児島中央駅までの約1時間。楽しむ。
仕事仲間の運転する車に乗り換え、垂水まで
2時間を、談笑で過ごす。これまた至福なり。

蓄積していくもの

2009年04月09日 | Weblog
従来の営業のあり方ではない形で、
ハマちゃんは受注業績を上げているとかってに前提をおいて話を進めている。
それは、いわゆる会社の組織やルールにはそぐわない。
そちらから見たら組織無視、掟破りだ。
営業二課の仕事は、営業一課とどう違うのか、
原作でも映画でも触れていないが、少なくとも営業数字を上げることが、
目的であることは間違いがなかろう。

であれば、出勤時間など関係なかろう、と飛躍してみる。
ここで、定時出勤と、フリー出勤、この2つを検索にかけてみる。
2つの大きな違いは、後者ででてくるのは100%が風俗系の求人。
前者には1つもないということである。
この点、深く考察すれば、いろいろおもしろかろうが、
ここでは「フリー」という言葉の地位、使われ方の確認だけに留め置きたい。


ところで、このハマちゃんが、組織に合わない、掟破りだ、
ということ首になったとしたらどうだろうか。
鈴木建設はこまるだろうな。
スーさんとの関係は?
といった関心もあるが、ここではハマちゃんのことに限定。

会社を興すだろうか。
釣り専門店でも開業するだろうか。
それとも再就職か。
フリーターか。
いや、水を得た魚みたいにいっそう釣り三昧か。
それでは生活が破綻する。息子、鯉太郎の教育もある。
そもそも超愛妻家の彼が奥さんに働かして釣り三昧とは考えにくい。
その軍資金も出まい。

「生活」が主でそのための会社、という価値観を公言、実践している中年男を
スーさんの会社みたいにある意味では重宝してくれる奇特な会社があるわけない。

だがわたしは、彼の一家3人が路頭に迷うようなことは絶対にないと確信している。
理由は、繰り返すまでもないが、日常の生活での様々な人とつながりが
彼の大きな財産として蓄積されているからである。

一家三人、それに釣りを楽しめるぐらいの仕事は
大勢のかれの仲間があちこちから持ってきてくれるに違いない。
なぜなら、皆、彼とのつながり、関係を楽しみたい。釣りを楽しみたい。
そうした楽しみの生活空間を失いたくないからだ。

会社人間は、会社では強い。だが会社を離れたら別だ。
非会社人間でも、会社以外のつながりをもっていないと辛い。
だが、ハマちゃんみたいに生き方の基盤を、
会社以外おいている非会社人間は強い。

ここでの「基盤」は、2つ揚げられる。
1に、人生を会社ではなく自分の生活に基盤をおいていること。
2に、仕事を通じてのそれではなく、趣味、日常生活周辺の
人的ネットワークに基盤をおいていること。

会社人間を自称する人も、この2つの基盤を持っている人は強いはずだ・
この2つに、会社が手放したくない者、これがあれば鬼に金棒である。

こんな形で私なりの会社のあり方のイメージづくりを試みている。
が、別に、釣馬鹿日誌を理想のモデル、下敷きと考えているわけではない。

フィクションの世界の映画の中の「日常性」、
そして過去の脱サラ前後の自分の無能力ぶり、
さらに今の「エイエイオー」のいきさつ
この次元の違う3つを重ね、思ったことは、

企業にどっぽり人生を浸らせることは、人を世間と乖離し、
日常性の中の普遍性ある哲理から乖離していくことなのか。

といったごく当たり前の結論であった。