経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

人心を失う

2009年06月29日 | Weblog
おおよそ殺伐な戦いに於いてすら、
人心を失った者は、滅びる。


封建時代、権力者が民を虐げ、殺しても、
TVや新聞に騒ぎ立てられることもなかった時代に、

「民ありての王なり」

の意識が存在していたのだ。

もっともそれだけ権利者の横暴が激しかったことの
裏返しとして強調されたとも言えるのだろうが。


ここで「人心を失う」を検索に入れてみる。

少し驚く。
ほとんど中国の三国志など歴史書からの引用。
現代からの引用は、ほとんどないのだ。

  「麻生総理、人心を失う」といった項目が1つぐらいはあっても当然だ。
   低支持率と高不支持率は、まさに「人心を失った」人、
   そのものだと、思うのだが。


   昔の人たちは、歴史に刻んだ。今の人たちが刻んでおかないと、
   将来の人たちは、歴史からの教訓を失う。
   そう考えれば、彼は歴史に残らない人なのかも。



昨日、項羽はいくら戦いに勝っても劉邦を
滅ぼすことが出来なかった、といったことを書いた。
楚漢最後の戦い垓下の戦いの後に、劉邦はこう言っている。

 「自分は人を使いこなせたが項羽は范増ひとりすら使いこなせなかった。
  これが項羽の滅亡した原因である」。

私が直接インタビューした訳ではないので、
本当のところはわからないが、
このことが単に人使いが上手かったから、
といった理解ではならないと考える。

そこでそれをかみ砕いてみたい。

「人」心をとらえてこそ「◎△」が得られること。

この場合キーは2つある。

 1に、「人心」の範囲である。
 2に、「◎△」が、なにかということ。

1の人心が、自分の妻の心だけであれば、自分を入れて1票。
大人の国民の半分の心をつかめば

   102,507,526(最新有権者人口)×0.5

どっちが、売れるか、ということである。


2の、「◎△」が、我が社の売上100億円と、従業員の給料が今の10倍。
さらには、「消費者が今の3倍豊かになる」。

どれが、人心を掴むに近いかということである。

歴史から学ぶとは、 普遍性があることを、
置き換えて活かすことを意味する。

1に、我が身に置き換えて。
 2に、企業に置き換えて

である。


そして、肝心なことは、その学びのお返しとして、
自分がなしたことが、将来(さき)の人たちに
お役に立てることを、残すこと。

これが名もなし、財もなし、
才もなし、子もなしの私の大口、妄想、大望である。

明暗を分かつ

2009年06月28日 | Weblog
毎日、「劉邦と項羽」を観ている。

若さ、強さ、兵力、門閥、財力・・・もうすべての点で項羽が勝り
事実、項羽がその人生の最後の最後、99%まで劉邦を支配、
凌駕し続けていた。最後の1戦まで。

そして彼はあの虞姫とともに自刃。劉邦、韓の始皇帝となる。

だが戦いが、両者の明暗を分けたのだろうか。

    ノウである。

最後の一戦で大逆転か。
    ノウである。

持って生まれた人徳に、意識して作った人徳を少しずつ積み上げて、
分量計の片方の皿に、最後の0.01グラムの重さが加わり
左右の皿の高低が入れ替わったのだ。

だから局地戦で勝ち続けてきた項羽は、
戦いは強い者が常に勝つということを
死ぬ寸前まで疑ってもみなかったに違いない。


今朝のどんよりした天候の朝、ふと昔のことを思い出した。

Y県の、あるSS(ガソリンスタンド)の本社会議室である。
幹部と店長を集めての緊急会議である。

「明るい職場づくり」、
「目標必死必達」、
「不言実行」

という今年の3スローガンを染め抜きしたたれ幕を背に
副社長のYさんは、「今月予算行かなかったら全員リストラ必死」
といった話を、延々と2時間も独演会。

時折手を振り上げ、檄を飛ばすその彼を前にみな暗く沈んだ。


彼の叔父(早くして亡くなった彼の父親の弟)である会長から頼まれ、
その会議に臨席していた日本親父ギャグ会員の私も、
とてもギャグを飛ばす雰囲気ではなかった。


暗い職場には明るさが欲しいからスローガンは「明るい職場づくり」。

目標には届かないからその不足分が積み上げられ
「必死必達」のスローガンは永遠に続く。

自分の独演会のためには他人はだまって働いてくれるがいい。
部下は自分の命令通り動けば勝利すると項羽が信じていたように。


幹部の表情は、みな暗かった。
あのころころした体全体が笑っているような
常務のTさんの表情も暗かった。
ただ彼の頭は蛍光灯を反射していつもより明るくみえた。

こらえ性のない私は、トイレに行きそのまま会長宅へ。

会長は、この自分の甥にスタンドを3店分け与え、
会社を作らせ本体と分離した。適切な対応だ。


それから6年。
去年のはじめYさんが亡くなったことを知った。享年56歳。

その3年前に、彼の会社も亡くなっていた。

ちなみに、あの頭も性格も明るかった常務は、会社分離時に退職。
現在大手損保の部長職という。同年齢。明暗を分かつ。


人の生死、死活を分けるのは文字通り、
人の持つ明暗、表裏ではないのか。

生きると言うことは、明るさを求めることだ。

今、暗いということは、それから脱し、
明るさへ向かうエネルギーを生むことだ。


Yさんは明るさを求めながら周囲を暗くし、

暗くすることで、組織の活力をそいだ。
人は、暗いなかでは活動も思考も鈍くなるのに。

彼は、どこをまちがったのだろうか。
明暗を分けるものは、まさに明暗。

暗闇でこそ1本のマッチの火が周囲の目を集め
希望の灯火となる。としたら、暗闇をなじってはならない。

問題は、机の抽出にライターがあるのに、
取り出し灯をつけることを思いもしなかった己に、ではないか。


劉邦と項羽の明暗を分けたものは、
聞く耳、聞かぬ耳。
傲慢でない態度と傲慢。
まあ史実とはいえ対比上の脚色はあるだろが、こうしたこと。

市井の老人の一言に、馬から下り、姿勢を正し、身を低くし、
「先生のおっしゃるとおりだ」と反省する劉邦。

したたかな大望を抱いていればこそだ。

とすれば明暗を分かつキーを1つに絞れば、「大望を抱く→大欲」か。

余談ながら、それ、劉邦の大きさと大望を早くから見破った男がいる。

項羽の亜父、軍師の范増である。
この男、70才から歴史に登場、様々な意味ですごい男である。

その范増の諫言を聞こうとしなかった。これが項羽の死を決めた。

項羽とYさんが重なって、どんよりの朝になった。

ものに

2009年06月26日 | Weblog
プロローグ;

物が売れない、と言った言い方をする。
物が動かない、と言い方がある。

言葉尻で言うが、それは間違いだ。

物が売れるはずはない。人が買うか買わないかである。
物が動くはずはない。車とて、人が動かしている。
売れないとは、レジまで運ぶ人が少なくなったのだ。


*


デザインの語源は、デザイア、欲望だとききました。

無限に存在する物をばらばらに頭の中に放り込む。
それは形ではなく区々ばらばらに浮揚、点在する粒子みたいなもの。

しかし頭の中のスクリーンとて一定の制約がありますから、
形ではありませんが、なにか共通要素があって、選択され、
頭の中に放り込まれたものに違いがありません。

これがイメージではないか、と思います。


繰り返しますが、イメージは形になってはいない状態。
空中にふわふわ浮いて、無秩序に流れている状態。
頭の外から、なんとなく選択され頭の中に放り込まれたもの。
それが頭の中のスクリーンに走馬燈みたいに流れている。

こんな状態ではないでしょうか。


このイメージという脳の中に点在する粒子を、
一種の欲(ここでは目的もこの欲の範疇に含んで考えています)でもって
KJ法などでいう、同じ思いのものでくくりつける。

その場合、欲を2つに分けます。
すなわち、自分の欲と自分以外の欲。

その後者、つまり自分以外、他者の欲の充足具現という形で、
デザインするのが、デザイナー。
彼ら本来の仕事だと私は思います。


ここでデザイナーは、職業で言うそれに限定されない
「ものを作り出す人」と解してください。

これが、外と自分の脳の関わりの本質、と考えられたら、
商いの根本が、それと同じシクミで構築されていることがわかる。

すなわち、自分の欲を満たすために作ったもの、買った物これが前者。
後者は自分以外の人の欲の充足を目的として作られ売られた物。

もちろん前者を否定し、後者良し、といったつもりではありません。
あくまで商いとしてどちらがうまくいくかといったことです。

デザインの本質は、人の持つ思い、すなわち欲ですから、
それがにじみでなければ、もとより単なる物質。
そこに人の持つ欲、情念といったものをわき上がらせるものを、
他者が感じてくれなければ、手も足もない単なる物体が、
そこ、たとえば陳列台からレジを経由で私の机に移動するわけはない。

何の本だったか忘れ、確かめようもないのですが、
キリスト教では、人間は神のデザインによる、
といったことを読んだことがあります。

人は、神の思い、欲の具現、産物、ということ。

となれば、人もまた欲のかたまりといえるのではありませんか。

そのことが、今の人類の繁栄を成した源になったことを考えれば、
単純そして無神教の私でも、欲を礼賛し、

「おお、ゴッド、神よ、よくぞ欲を作ってくださった」

と人様のいない、トイレでカミを求めて叫びたくなります。


お店に並ぶ果物、ワイシャツ、茶碗、お茶、ゲーム機、
あるいは商店、スーパー、おびただしいホームページ、
すべからく人のそうした思い、欲が、売れる、

すなわち人の目をとめ、人をして、購買に走らせる
「意と欲=iyoku」が不可欠と考えています。



エピローグ;

経営者の思い、理念がそうしたものを通じて、
他者に伝わらない会社、仕事、商品が動くことがありましょうや。
人が動いて、物を動かしているのだから

畢竟、人を動かすものがない、と考えなきゃ。

値引き指定業者の話

2009年06月24日 | Weblog
ある加工卸の専務Hさんからのご相談。

売上が減少する中で、取引先の値引き要求が厳しくなった。
その結果、売上は落ち、利益も落ちた。
コスト削減でなんとか切り抜けているが、限界がある。
どう考えたらいいか。

隣の家の収入が減じた。
その対策として、我が家が援助、我が家がコスト削減、といった
奇々怪々な論理をお捨てください。

つまり問屋の値引き要請に、自分の会社がコスト削減して耐える。
それで相手から感謝されることはないとぴうことだ。

その証拠に、やがてまた値引きをいってくる。
こちらの痛みがわかる相手なら、そんな要請はやらない。
こちらがつぶれても痛くもかゆくもない。
ですから自分たちの生き残りの手段、協力してくれる相手、
その見込み候補として登録しているのです。ですから一度飲むと
仮登録が確定。こちらがつぶれるまで値引き引き要請を
繰り返すのです。当然です。


対策は、最初から受諾しない。
してしまったら仕方ない。
その登録から削除してもらう意外にない。

そこで、「ぜひ外してください!」とお願いする。
「やあ、嬉しい申し入れだ。君ぃ、勇気あるな。もちOK,喜んで」
と嫌々ではなく、外してくれるか。まず「ノウ」です。

そこで、こちらが相手が喜んで、外してくれる方法を
考えなくてななりません。

キーは1に、「喜んで」でです。
怒ってでは後が怖いですからね。
2に、「いやじゃ」といわれたときの
次善策、代替案を考えておくことです。

「断られたら、一家心中するしかない」
といった脅しや焼き落としでは、
妥結してもさらにいじめられることになり、
以前よりさらに弱い立場になるのが落ちです。

今日はここまで。
Hさん、明日、明日の朝まで、考えておいてくださいね。

その根拠

2009年06月22日 | Weblog
三国志を読んで、観て、思うこと。

こには2つの「場合」がでてくる。
戦いで言えば、うまくいって勝った場合と
うまくいかず負けた場合、とだ。

この数ヶ月、三国志に関係する映画と小説を欠かさず見て、
戦いの勝ち負けの因、その違いはどこにあるかを
自分の脳に染みこませている。


時間当たり、1000個作る機械に向かって「2000個作れ」と、
機械に命じる人がいようか。いたらあほといわれるだろう。

「今夏のお中元で、この商品を昨対2億円オンせよ」

と、従業員に命じる人はどうだろう。
これが結構いるのである。

それが、「オンしたい」という願望であればいいが、
本気であれば、いかがなものか。

思いつくままその「いかがなものか」の中身を書き出してみる。

その商品の単価を2000円とする。
とすれば10万個余分に手当しておかねばならない。
できるか。手当できる見込みがあるか

原価率を50%として、1億円の仕入れ資金が不可欠になる。
借り入れできる見通しはあるか。

10万オンを売る、ということは一人2個注文としても5万人の客数増。
そのある程度の見通しがなければ、中元が終われば滞留在庫の山になる。
それは、可能か。確実性は?


増加分だけで5万人から10万個の注文を受け、
処理し、梱包し、といった対応は、現在の要員数では対応できまい。
その手配はできるか。計算済みか

そもそも、こうしたことは従業員の裁量や責任で出来るのか。

おおよそ科学的計算性が不可欠な経営の世界で、
こうした思いつきや威勢のいいかけ声や、願望といったものが、
何の疑問も抱かれずまかり通っている。
鳩の弟、「国民の八割が反対している。常識」
等、その典型例。

三国志の中に出てくるたくさんの戦いで、
その勝ち負けを決めているのは、元気でもやる気でも、特定の人でもない。

あの諸葛孔明ですら、見通しの立たない戦いを
したときにはちゃんと負けているのである。


戦って、たまたま勝つ、といった例もないではないが
通常、勝つ場合は、勝利を目的化し、勝つためのシクミを作る。

豆腐作りは、たまたまではできない。
それと同じだ。
つまりなんやかんやして、豆腐が得られるのではなく、
豆腐を得たいためのシクミを作っている。
だから、豆腐が得られ、そのシクミから、
ところてんが出てくることない。

ここで豆腐を成功、ところてんを失敗と置き換える。

成功の見通し(しかけづくり)が立つ場合は、勝ち。
その見通しが立たないで走った場合は、負ける。

ただ勝敗の場合、相手がいることだし、その相手も同じように、
勝ちのシクミを考えているから、現実は複雑になるが。

三国志における成否の論理と現代の人の成否の論理
これは普遍性がある。

「今度のお中元で、この商品を2億オンせよ」という二世経営者と
「日本経済、全治3年」というどこかの総理の論理は
科学的計算性の裏打ちとシクミがない。
単なる思いつきである点では、共通、変わりない。

前者は、会社を危うくし、後者は国を危うくする。

古今東西、成否の論理には変わりがない。
歴史から学ぶ、とはこの普遍性部分であり、
成果は置き換え(概念メタファー)で得られる

鹿と悪代官

2009年06月21日 | Weblog
邪魔なもの、やっかいもの、困るもの、迷惑なもの、
そうしたものやことを解決することは、人から喜ばれる。

怪傑ハリマオや紫ずきん、仮面ライダー、水戸黄門などが
然り。悪を駆除すれば、喜ばれ、飯が食える。

しかも、売り込み、営業不要。彼らがチラシやCMで、
「今週土日、特別奉仕中」といったことをやることはない。
営業マンを雇用、ローラー作戦で受注活動をすることもない。
そのことは、先に触れた。

悪代官の存在が、水戸黄門をヒーローにする。
特産品づくりを考えるとき、私は常にそのことを念頭におく。
熊本・五木村では、それは何か。

鹿と、おからである。
それ以外もあるかもしれないが、まずはこの2つ。

鹿の繁殖力と食欲はものすごい。
毒草を残して、植物という植物は食する。
とりわけ稲のまだ柔らかい芽を好んで食べる。
その側面からみると邪魔なもの、やっかいもの、困るもの、迷惑なもの、

なにせ彼らは、牛と同様4つの胃を持っているのだから。
食欲は性欲を高めるのか。繁殖力がすごい。

私は、鹿の顔をしかと見て調べたわけではないが、
鹿相が悪いとか、いかにも悪役といった鹿は見あたらず、人
から見た鹿はみな愛らしい。かわいい。

「鹿」で検索を掛けるとわかるが、
鹿を使った地名、店名などが実に多い。わが鹿児島もそうだ。
いかに鹿が人間にとって身近な動物かよくわかる。

こうした理由からか、イノシシとちがって、
表だって駆除が積極的に行われることはきかない。

それが近年、もう異常と言って良いほど増えすぎ、
しかも里に下りてくる。叱られても言うことをきかない。
そこで困り果てた市町村が、しからばと年中駆除OK.解禁にした。

鹿の幸せ、人の不幸。これが転じて、
鹿の不幸は、五木のラッキー。これを活かさない手はない。

ということで、この鹿を特産物にと今、取り組んでいるのだ。

鹿は、刺身が旨い、というのが定説であり、
私自身、大の好物。馬刺しより旨いと思うのだが、
生食は表だって売り込めない事情がある。
そこで、刺身以外の料理に、ということで、
今商工会にティームを作り、研究を始めた。

邪魔なもの、やっかいもの、困るもの、迷惑なもの、
これが少なくなることで喜ばれる。
その上、それが人を呼び、食べた人がおいしいと喜び、
この村にしかと金を落としてくれ、村が潤う。

こうした喜びの循環、図式こそまさに金鉱。
そうしたものを見つけ、その循環に乗っければ
特産品展開はうまくいくし、乗っからないものはうまくいかない。

その根底には、商いは人のお役に立つ、人様に喜んで頂く、
という本来があるということだ。
換言すれば、それを外しているものは商いではないし、
いかに特産品とはやし立てても、まずうまくいかない。

ましてや、しかたがない、とあきらめてなならないのだ。

2009年06月20日 | Weblog
不思議と言えば不思議なこと。

一度、それがかりに2時間程度の店舗診断であったとしても、
一度ご縁のあったお店は、全部覚えているのだ。

記憶力など人並み以下だと思うのだが、これは自信がある。
ではそのお店の店主の名前は、といったらこれは全くだめだ。
昨日会った人の名前も忘れている事が多いから、
29年前の人など思い出しようもない。

なんでも「なんでやろ」と考えてみなければ気が済まない。
今朝起きがけ寝床でそのことを考え、
今こうしてキーをたたきながら考えているというわけだ。

店を見る。そして観る。さらに診る。
レイアウトや品揃えを見る。そして観る。さらに診る。
その上で必要に応じて、帳面などを覧る。

見る。観る、診る、覧る。
そして「どうしたらこのお店、売れて儲かるようになるだろうか」
を考え続ける。そして最後はそこの店主に、高騰でアドバイスする。

これで終わりではない。
事後になるが、最低でもA-4の用紙に3枚の報告書を書く。

見る。観る、診る、覧る。
見る。観る、診る、覧る。
見る。観る、診る、覧る。

なるほど、と思った。これだけ脳にたたき込んでいるのだ。
完璧なシナプスが出来る。忘れないはずだ、
と自分の出した公案に、自分で答えを出して、何となく納得した。

書きながら、診断なりの作業工程をビデオのプレイバックのように
頭をよぎらせていると、もう一つのひっかかり(公案)が浮かんできた。

「人を見る、観る、診る、覧ることが希薄だ!]。

全く覧ていないと言うことではないが、前者を7とすると後者3。

人がなしたものが、お店、品揃え、帳面なのに。
いわば人の問題なのに。
なすツールやなした結果に非常を置いている。

むろん報告書には、「それは経営者の問題・・・」
といった指摘はしているもののそれら一切が人。
ここでは経営者、店主に起因してということが希薄になっている。

愕然とした。「おい、おい、何をみて仕事しているのだ」と。

そこでその理由も考えてみた。

「あなたが悪い。売れないレイアウトをなしたのだから」
というより、「レイアウトが悪いから売れない」と、
レイアウトを主語にたてた方が、という方が穏やか。
よって、嫌われない。出来た人間に思ってもらえる。

これではないか。
いわば、心の底から真剣に糺し、結果的に売れて儲かるお店に、
といった真剣さからみたら、逃げているのではなかろうか。

大昔、ダグラス・マグレガーの「企業の人間的側面」を読んで、
一種の違和感を感じ、その引っかかりを今でも持っている。
それは企業が主で、人間が側面、脇役といった邦訳の
そのタイトルもそうだがそれだけではない。
著者の考えの根底にあるものに対してである。

すべからく、人が主体。人あっての、人のための経営、
と頑なに思っている私には、
「人があっての経営じゃん」といった違和感が抜けないのだ。
その私が人を中心に置いていない、をやらかしている。
だから、人のことを覚えていないのだ。

未だ未だこの未熟さ、言動不一致、思わず、一人で赤面。


怠け者の論理

2009年06月19日 | Weblog

怠け者というのは、忙しいときには暇を願い、
やらねばならないことを暇なときに振ってしまう。

そしてその待望の暇なときがくると、振ったことを、
こんなに暇ならいつでもやれると考えて、また先延ばしにする。

それではどうしてその暇な時間をつぶしているかというと、
やってもやらなくてもいいようなことを、次々思い出し、
それで時間つぶししているのである。

それも、今日は何をやって時間をつぶそうか、
などと考えることもない。
不思議と言えば不思議なことだが忙しいときなみに忙しいのである。

まあ、驚くぐらい次から次とトラブルも含めて
時間つぶしのための材料が、わくように出てくるのである。
パソコンの故障など、典型的な例。

それで1日が、まさに文字通りあっという間に終わる。

これじゃ、俺、100歳まで生きたとしても、あっという間の、
それも何のたいしたこともやらないままで終わる人生だな、
と、ときどきは真剣に、だがほんの一瞬、思うことはある。

時には奮い立ちを頂こうと忙しい人のブログなどのぞいて見たりする。

ちょいと羨ましくなり、おれも、と奮い立つ。
だがやはり怠け者なんだな。すぐさめて、つぶやく。

「おれ、あんな忙しさ、いやや」。


自分が怠け者である理由は わかっている。

1に、拡散。いろいろ気を散らし広げすぎる。
2に、優先順位とか重要性の原則といったものを考えないで、
頭に浮かんだことから手を掛けている、
3に、先延ばし、現実逃避の傾向あり。

おおむねこの3つ。
わかっていても、変えないのが怠け者。

だが、それで深刻になるとか落ち込むといったことはない。

この怠け者、今に始まったことではない。
この仕事を始めて、29年。その後半の15年は怠け経験者。

もっともらしい屁理屈をつける。
多くの医者が患者を捜し回ることがない。
私も然りだ。自分から仕事は求めない。

私はそれに徹し、いわゆる営業はしない。
それでも仕事が入ってきて忙しくなると、
とたんにこの怠け者が、

1に仕事に集中する。
2に、無意識に優先順位を決め、重要性の原則に即してやる、
3に、即てきぱきと処理していく、のである。

緩急自在と言うが、緩のとき、急することはない。
急のとき、急すればいい。
怠け者は、ふてくされでもある。

このことは、昔、旅をエージェントの計画表通り、
時間刻み、駆け足、特急で、旗と矢印に従い動いている
団体の観光客にであい、みて、学んで、あり方を変えた。
その後の私なりの生き方だ。

その観光客、まさにそれまでの私であった。

今日、15時30分から、鹿児島で農商工連携の会議。
昼市議に出ればいいものを、朝10過ぎには出る。
最寄りの駅まで3キロ。歩いて。

旅も、人生もゆっくりがいい。 09.6.2

大作戦

2009年06月16日 | Weblog
日曜日、朝8時からから11時まで、
クリーン大作戦のボランタリーでした。

クリーンといいますが、要は県道、市道の草刈り、ゴミ拾い、藪払い。
これではだれも集まらないと見たのか、「クリーン大作戦」。

昨夜、しこたま飲んだアルコールはぐっすり5時間寝たおかげで
残っていないようでしたが、午前中は車は控えることとしました。

やはり昨日、3万歩超あるいたのはオーバー。
そのせいでしょうか。足はもとより、体がこちこちで、
とりわけ前屈みがつらかった。

でも気持ちのいい初夏の空の下でみっちり汗を流すのは、
実に爽快。気持ちがいいものです。

今回は、うちの自治会、最年少のNさんも参加。
2年前にお父さんを交通事故で亡くし、帰郷。一人世帯主です。

嫁さんを探していますので、それを餌に誘ったのです。
もちろんこの大作戦には、女性の参加者は80代前後のばあちゃんか、
夫の代わりに参加の40代後半のおばちゃんか、どっちかです。
ばあちゃん達は独身。おばさんたちは人妻。

どっちも、嫁さんに関係ない。
ばかだな、彼女たちを嫁さんにじゃなくて、
彼女たちはみな世話好きだから、それを狙うんだよ.

N君にとっては、「嫁取り大作戦」ですが、
婆とおばんに上手に使われていたようでした。
それでもまんざらでもない顔をしていました.

それになにより、ばあちゃん連中の華やいでいること。


10時半、終了。
会計係が、第三のビールを1缶ずつ。
つまみ三角小袋、2つを支給。
(よりどり5袋\398、そうあれです)

このボランタリーを始めたころは、ビールだったが、
総理大臣が代わって、発泡酒になり、
それがまた代わって変わって、今年は第三のビールになりました。

こうしたところからも、政治と経済がわるい方向へ
行っているのが伺えます。

ところで私は朝、今後酒は二度と飲まないと誓ったので、
第三の缶は口にせず、明日でも飲もうと頂いてきました。

それで、Nさんの嫁さんが見つかりますように、
そのためにはこのボランタリー、続けてくれますように
祈念いたしまして、ウーロン茶で、「乾杯!」。

止まりたくない指がある

2009年06月14日 | Weblog
プロローグ~
見込み客という言葉がある。言葉自体に良し悪しはない。

だがお客は、この自分をかってに見込んだり取り込んだりしないでね
見込むのは私たち、買い手の方なんだから、と思っているのだから。


メイン~
それもよしこれもよし。
試行錯誤を繰り返していると、人は進歩発展する。

「やる」には、大きく2つの方法がある。
1つは、相手にとっての潜在的関心、
もう一つは、こちらの関心事。

前者を選択すれば、相手は関心をもって見てくれるし、
後者なら、関心を持つどころか、まず背を向ける。

ところでまず何をさておいて、
どんなものを作っているか、売っているか、
関心をもって近づくお客様は、その人はどんな人、人間なんだろ、
これはどんな人がつくったのだろう、
売っている人は大丈夫な人なんだろうなあ、
といったことまで通常思いを馳せることはないと思う。

ないと思うが、心のどこかで潜在的にそうした気持ちは持っている。
多くは商品を選択する以前に、買うお店を決めるわけだが、
その決めた店の社長が脱税で捕まったとことがあった場合どうだろう。

彼が作った商品でも、彼が販売するわけでもないし、
商品には変わりはないのだが、いわゆうお客離れが起きる。

購買の意志決定をするとき、
とりわけ買うか買うまいか迷っているときに、
「やめとくか」という踏ん切りをつける口実として、
そうしたことが出てくるだ。

これを置き換えるとどうなるか。売れて儲かるノウハウになる。
つまり先にそうした消費者の不安、危惧を払拭して置けばいいのだ。


あげは事件をきっかけに、それを実践した人がいる。
徳島タノウエ脳力経営塾の塾生の一人、本田さんだ。

その下が彼のHPtoブログである。

アークホームHP,
http://www.archome.net/link/index3.html

「施工屋日誌」 
http://archome.blog54.fc2.com/

彼の施工主さんは、このブログでの本田さんの
人間性、考えに惚れて共感、仕事を依頼してくる。

否、正しくは、彼の人間性、考えに共感した人だけが、
彼に仕事を依頼してくる

私の言う「この指止まれ」は、こういうことだ。
言葉や手法をではない。
だから言い回しややっていることをまねてもうまくいかない。

それは、ほんとうの意味での「この指止まれ」ではないからだ。
本来は、経営者の人間の部分が丸見えの、
そこらの八百屋、魚屋といった小さなところに、
有利なありかたなのである。
それが「この指止まれ」だ。
この指に止まれて言われても止まりたくない指が多すぎる。

エピローグ
試行錯誤で得たものしか、使えない