経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

虫と武士

2008年08月31日 | Weblog
大勢の人が、宝くじの確率を楽しんでいる。
当たる確率は??

たいして、うまくいくか、いかないかの、
こちらの確率は、悪くて50対50。

そのはずれですら、し続けるコトで、
学習効果が働き、最終確率は100%に。
それがわかっているのか、わかっていないのか。

やらない。

私は、つくづく人の心の難しさに、
考え込んでしまうのです。

権威によって、行動が左右される人は、
本質をみる力がない人。
脳力開発でいう「人頼り」。
マザゴン、パパゴンの類です。

最近、市場が小さくなった。
販売力が落ちた。
売り出しが当たらなくなった、
といった相談が目立ちます。

なかには、売ることに対して
自信喪失されている方も見受けられます。

ここで、申し上げたいのです。
いわゆる今のおっしゃる「売れない時代」の意味は、
従来方法、今までの営業手法では、
という前提がついてのことなんだ、ということです。

これは、今までのやり方で努力を続けても売れない。
が、考え方を変えたら、売れるよ、ということです。
ここのところが極めて重要。多くが見落とされている。
換言すれば、戦術的対応では、どうにもならない。
戦略、時には理念のレベルでの、対応が必要だ、ということ。

動物は自分を大きく見せて、相手を威嚇します。
対して虫は、自分を小さく見せます。
これは相手からの難を避けようとする、立派な対応。
どうも私たちは、前者を勇ましい、
後者を女々しいと、偏見を持っているのではないか。

武士は、前進あるのみ、後退は恥、
そんな刷り込み、洗脳をされているのではないか。

前者は、これまでのマーケティングのありかた。
これからは、警戒し身を縮める消費者
(市場と言っても良いのですが)に、
いかに緊張を解いてもらうか。
いかに警戒を解いてもらうか。

そうしたことを念頭にイメージを描き、手を嵩じる。
そうした方向へ変わるのです。
いえ、変わっている。
市場が変わっているのですから、
それに対応して変えなければならない。
それを前進あるのみ、拡大あるのみ、とやっている。
「神国、負けるはずがない」
「そのうち神風が吹いて」

と、いったようにその精神の底にあるのは
あの大戦時と、なんら変わっていない。

だから、「売れない」のです。

武士と虫

この二つが、同じ生き物だ、
と見える人が市場の変化も見えるのです。

同じ生き物だが、違いがある。
武士は、大きいが、虫は小さい。
武士は強いが、虫は弱い。
武士は好むが、虫は群れを好む。

対等の土台においてちょいと対比してみる。
それで、マーケットへの対応が理解できる。
戦略が、見えてくる。
戦略が確定すれば、戦術が頭に浮かんでくるはず。
それを書き出し、金がかからず
すぐ出来る順にやっていく。

その過程で、新しいマーケテイングのあり方
やり方、コツが捕まるのです。


理念に即して戦略が、
その戦略が固まれば、自ずと戦術は、
いくらでも出てくるのです。

虫の知らせを無視するな

2008年08月29日 | Weblog
私としては、彼らの高邁な知識と情報と
自分の街歩きで掴んだものを、
所轄のお店の、部下に活かして欲しかった。
それでノウハウづくりを始めた。
その一環としてに過ぎないのです。
が。とにかく睨まれました。

商品部には、衣料品だけでも、12部門があり、
それぞれ、MDがいます。
事務職の1人をくわえて13人が、この商品部長の部下。

私の担当している、紳士外装・洋品部門だけが、
ノウハウづくりが功を奏して、
16ケ月、連続の売り上げ達成。
17ケ月目に、埼玉・熊谷店に異動。

今なら理由もわかる。
100%、私の処世術のなさ。
売れれば天下。文句言われるはずがない、
といった超生意気、天狗のせいです。
でも、当時は、「何でやねん!?」
               
それは枝葉。
申し上げたいことは、その折り、
もう30年以上のノウハウが、
今、活きている、ということです。

自分自身「ええっ」と思ったぐらい、
変わっていないのです。
当然と言えば当然。普遍性とか、原理というものは、
元来そうなのです。でも、びっくりしている。

何ごともそうですが、
変わらないものと変わるものとでできている。
たいていは変わる方に目を向けるが、
私は変わらぬもの、すなわち普遍性の方を、押さえる。

私がよくいう「本質」がこの変わらない部分のこと。

この本質に、この世界に入っての20年間の事例を、
日常の言葉で、メルマガやHPにご紹介している。

でも、効果あり、の喜びの声は少ない。
稀有といってよい。
効果有り、の声は、直接店舗指導したケースでは
ほとんどなのに。。

理由は、簡単です。
読まない。読んでもやらない。
実践されていない。失礼ですが、そう思う。

コップに酒を入れて飲み続けていれば、酔う。
コップに水を入れて飲み続けても、酔わない。
これが普遍性。

やらない。それを見越して公表しているのじゃない?
と、いったように皮肉らないで下さい。
売れて儲かるにしても子供が言ったことではなく
権威ある人が、言わなければ、人は動かない。

でも私は、権威ある人に成るつもりは、ありません。
信じて下さった人が、 売れて儲かってもらえばいい。

長くなるので、元に戻します。
こんな昔のことを書いたのは、
今、まさに「売れなくなる」時代に入った、という実感です。
いや、売ろうとすれば、売れない。
それは、市場が縮む、ということです。

うちの庭に、風に吹かれたのか、
毛虫が転がっていました。いまどき珍しいです。

太陽光線に当たり、かわいそうに思い、
割り箸でつまんで、林へ運びました。

そのとき、気がつきました。
「さわれば、縮む」。
「かまえば、警戒して身をすくめる」

これ、ほんとうの「虫の知らせ」

売ろうとすれば、縮む。
アプローチすれば、身をすくめる。

では、どう対応したらいいのか
・・・というこの先に、
売れて儲かる秘けつが、あります。あります。

ここで、また先ほどの繰り返しです。
ありますが、やらなければ、その効果は判らない。
子供がうまくいくと言っても
私がうまくいくと言っても、
経営のカリスマさんが言っても

やらなければ、皆同じ。「効果なし」
経営の教祖様に500万円払ったと思って
やってご覧なさい。

頭に浮かぶことを、
かたっぱしから書き出し、
それらを、金がかからず、
すぐ出来ることから
やるのです。
500万出しても、出さなくても
やったことは、結果が出るのです。
結果は、2種類しかない。

無視と虫

2008年08月28日 | Weblog
虫から、タダで教えてもらった、
まさに虫のいい話を、したい。

この虫は、炎天下で、虫の息であった。
亀は、浦島太郎を竜宮城の視察で、ご恩返しをした。

そうか、この虫は、私に報いるために、
教えてくれたのだ。
それは、まさに、まさに「虫の報せ」

その「報せ」を無視せず、活かして頂ければ、
この今からの時代が、針のむし ろではなく
むし ろ、素晴らしい時代への転機になるのではないか。
そう、私には思えてくるのである。

         *

売らなくても売れる時代があった。
そして、売らなくては、売れない時代に変わりました。
このことは書きました。

売らなくては、売れない時代に変わりました、
と書きました。

そのころから、「売らなくても売れる方法」ということに、
強い関心を持ち始めたのです。

怠け者の30歳が、一応商品部のマーチャンダイザー(MD)で
傘下エリアの20店舗ぐらいを管轄しているわけです。

自分でやると簡単にクリアできる数字が、
他人を通じてだとうまくいかない。
それで、やはり売れるノウハウみたいなものを作って、
これを部下に伝授する以外ないのじゃないかと、
自分の考えをテキストにしたくて、取りかかったわけです。

今、テキストは残っていませんが、
変色した印刷の校正用の下刷りが残っています。
これ、つくった切っ掛けがあるのです。
脇道ですが、少し触れておきます。


意味のない叱咤激励や会議で時間潰をしていても、売れる。
そういう時代は終わった、
という実感は、やはりMDですから、ということより、
街歩きの趣味のお陰でしょうか。

誰より早く、気がついた、とおもいます。
自慢話に聞こえたら困るのですが、
(実は、困っていない)
クロコダイルの総代理店「ヤマトシャツ」という
大手の会社がありました。
今、ヤマトインターナショナルと社名変更していますが。
そこのS部長(取締役)が、
もちろん直接の担当ではないのですが、
時々、尋ねてこられる。

とくに用があるわけはないのに。
この忙しい人がなんでやろ、とおもって、それで
聞いたことがあるのです。

「なんで」って。
私としては、とりとめのない雑談をしているつもりだった。

でも、このS部長は言うのです。

いあや、部下から、田上さんの読みは当たると聞いたもので、
それで失礼とは思いましたが、こうして・・・、と。

「ここから1メートル、N店に、いれといて」、とか、
「これ、デカで、15箱ね。全店にだよ」、
といった仕入れをしている私にですよ。

今考えれば、最高のお世辞だったのでしょうが。
もし半分ぐらいがお世辞抜きだとしたら、
やはり、街歩きの癖のせい。
それ以外に考えられません。

それが、切っ掛け。
いやこのお世辞で、事実舞い上がり、
それなら売れるノウハウを記しておこう。
こう考えたのです

まだ、あの大前研一さんのデビュー策にして、
名著「戦略思考とはなにか」も出ていない頃です。
経営の本は、大学の先生の翻訳ものぐらい。
 
会社が、昇格試験に絡ませて、研修会へ送り込んでくれるんです。

 「KJ法」とか「深層心理分析法」とか
 「リーダーシップとコミュニケーション」

といったものばかりです。
教養は高くなるのですが、それでスーツが売れ出す、
ということにはならない。
それで、当然の如く、ほとんど睡眠学習でした。

「カレーを食べたいと注文したら、カレー粉が出てきた」
と、同僚と、笑ったものです。

本もダメ、研修もダメ。私に取っては、の話です。 
そんなんで、ヤマトのS部長のことが、切っ掛けで、
イトマン(当時 商社)の田中部長とか、
日本衣料のHさんとか、マンエーのH部長とか。
商社や問屋のえらいさんが、尋ねてくる。

前任の上司、K部長は、親分肌で、
そういうことにおおらかな人だったのですが、
新任のO部長からは、いやみや注意をされました。
それが、昨日触れた島流しに繋がる。

幽霊と言葉

2008年08月27日 | Weblog
過日のこと。

中小企業診断士の法定研修会で、
仲間と共に講師をやらして頂いた。
この研修に出なければ資格を維持できない。
だから、毎年大盛況である。
今年も立ち見席92人。
だが、出ればいい、という意識があるので、
どうも反応はもうひとつ、である。

その分疲れる。

20時、帰宅。メールを開く。

ものは、考えようなんですね。
ピンチはチャンスということですね。

といったXさんのメールが躍っている。
例によって言葉だけが踊っている。

その通りなのだとおもうのだが、
一方、そう簡単に言葉だけをなぞって欲しくはない、
という気持ちも強い。

「それ」にいざ自分が直面したら、言葉だけの理解が、
なにの役にも立たないことが、目に見えていることだから。
時として、言葉は幻想となり、現実から離れて遊ぶ。


>前略 そうとうな景気後退の昨今、それでなくとも御承知の通り、
この業界は過当競争が激しく、パイは小さくなるのに、
業者は増えるといった現象が続いてきましたが、
最近同業者の倒産、廃業が相次ぎ、この地域ナンバー1が倒産。
さらにナンバー2もとかくの噂があり、
そうしたなかで、下から数えた方が早い私の会社は・・・・・後略

これは先日、Zさん(もちろん仮名)頂いたメールである。
わかる部分はカットしたが、ほぼ原文のママ。

メールの有り難さで、相手の顔も見えないし、
こちらの顔も相手に判らない。
そこでXさんのメールでは、遠慮なく笑わせてもらった。

Zさんは、何がおきても、自社の不振の背景に解する達人だ。
この類のメールをこれまで何回頂いたことか。
こちらは、ただただ苦笑だ。

Xさん、Zさん、どちらが、ということではない。
どちらとも言葉の上澄みで遊んでいる、と私には思える。

陽転思考なのですね、という前に、
    行動してそれを体験した後に言って欲しい。
不振の背景を枕詞に並べることより、
    そうした中で何をどうしたいのか、考えて欲しい。

言葉や知識や情報は、
それをもとに、いかに動いて、
素晴らしい人生を送るかを構想する材料なのだ。

それを、動かない理由、うまくいかない理由に、
それらを前払い、前倒し、先取りし、かき集めるのは、
どういうことだろう。

言葉には力がある。
Xさんから、「言霊」、言霊」と何回となく聞いた。

ただ、その力はプラスに対して力と
マイナスに対しての力がある。
そのどちらを選択するか、どう活用して、どう動くかは、
言葉ではなく、人である。

畢竟、言葉の力とは、人そのものの力なのだ。
言葉は、道具、ツールにすぎない。
人間が、道具の僕(しもべ)や、幽霊に
使われて、なんとしょう。

言葉が言霊であろうと、
言葉の幽霊に、自分の人生の支配されてはなるまい。
自分の人生の云々を道具のせいにしてはなるまい。
幽霊もまた、人の力が生み出したものなのだから。

逆さまを、逆立ちしてみれば

2008年08月26日 | Weblog
最近、信念とか戦略という語を、強調語として、
使う、といった誤用、誤解の場に、臨むことが多い。

確かに信念はつらぬくべきだろうし、戦略はやたらに変えてはこまる。
その意味では「信念」とか「戦略」はきわめて重要なものだし、
戦略の専門家を勝手に自称している私としても、うなずける。

だが、実態は、逆にこの「信念」とか「戦略」を、
他人の意見を拒否、拒絶するためにとか、
己の頑迷さをカモフラージュするために
言っている向きも少なくはない。

「なんだその様は。かっこたる信念をもってやればできたはずだ」

ある人は、部下を、こうやって叱っていた。
 
うなだれ、聞いていた部下は、これからどうやればいいのだろう。
裸の王様に出てくる子供であれば、

「王様のおっしゃる、確固たる信念とは何なのですか」

と、質問するのだろうが。

彼らは、そうした問いかけもなしに、
「ハハッ」といって恐れ入っている。
言う方も、聞く方もわかっているのか。

こうした場合、彼らが言っているものは、信念なぞではない。
また戦略でもない。そうしたレベルに属するものではない。
 
自分が手と口にした単なる願望と戦術を、
変化に対応したり捨てることができない。

それらを信念とか戦略とかという言葉を借りて表現しているにすぎない。
あきらかに 信念とか戦略は、みだりに変えてはならないの誤用。
取り違え、いや信念とか戦略を定義としての理解しかしていないのだ。


なんのために 言葉を借りてまで、強調するのか。
言うまでもなく、頑迷さの補強、繕いのためである。
頑迷、保守的な経営者ほど、
こうした場面のために理論武装している。
下手なコンサルタントより、様々な経営の理論や手法を
よく勉強し、頭にたたき込んでいる。
だがそれは自己の保守性を維持するためであったり、
第三者か社員に話したり、書いたりするためであり、
それらが自分の経営や行動に活かされることとは別なのである。

昨今、流れが速く、変化が激しい時期、
一年前、いや先週の天気図を元に登山する
といったことで、経営はいいのだろうか、
とすら考えない。


理念と戦略を、言葉として落とし込んで使うことは、
この二つを、あきらかに戦術と混同して使っている。、
戦術であれば、状況変化によりコロコロ変えねばならない。
変えねばならないものを、やたらに変えてはならない信念、戦略同様、
固定し、し続けろ、曲げるな、と、マジ真顔で強いて言っているのだ。
逆立ちして、逆さまをみれば、逆さまに見えない。
それをやっているのだ。、

理念、戦略、戦術は、元来シンプルでわかりやすいもの。
だが、どういうわけかこうした根本的な
誤用、混乱が見られるのは、どうしてなのだろう。
嘆かわしい、を通り越して、
逆立ちして、逆さまをみる
そのあぶなかっしさに寒気を感じているのである。

両親から良心へ

2008年08月25日 | Weblog
イタリア映画、「道」は、何度みても、
人の心の奥底までのぞき込まれるような、
考えさせられる作品である。
人のエゴとその対比の純粋さを
これほど浮き彫りにした作品はまずなかろう。

エゴの固まりといってよい、「道」の主人公のザンバードは、
自らの行動に、良心の呵責のひとかけらも
感じることのない男である。

美しい心をもつ彼の内妻? ジェルソミーナは騙され、裏切られ、
その都度、夫を信じ、ついて行き、また裏切られる。

だが最後は、 夫ゴミみたいに捨てられ、置き去りにされる。
5年後・・・・・・・・・。
ザンバードは、自分の人生でかけがえのないものが
何であったのかを、知る。

この男にも、やはり人の良心の欠片があったのか。
観客は、ここでほっと胸をなで下ろす。

大道芸人の笑顔という仮面の下の悲しみを表情豊かに、
名女優 ジュリエット・マシーナ
(この映画の監督フェリーニの愛妻)が演じている。

彼女は、「カビリアの夜」でも、夫の監督で、
いつも男にだまされているのに
真実の愛に出会えると信じている、
純心無垢な魂を持った娼婦カビリアを好演。

ジェルソミーナは、夫に騙される。
たしてカビリアは、何人もの男に。
そして極めは、これでもか、とダメ押しを受ける。
泣くカビリア。不幸に絶望の声を上げるカビリア。
だが、エンドマーク直前。
カビニアがいとも不思議な笑顔を見せる。

これで、見ている人は、救われる。



この2作品だけでも、この夫妻が、
人生の深い意味を見る者に問いかけていることがわかる。


人は誰しも、両親と良心を持っている。
正しい道を歩んでいないと子供の頃は両親を恐れ、
その顔を伺うことで行動規範の自己調整を行い、育つ。
大きくなれば自分の良心から外れることで、良心の呵責を覚える。
 
この良心の呵責で、心がチクリと痛んだら、
規範の違反のシグナルと思い、そのチクリの根因を除去。
今後一切同じ過ちは繰り返さない。
こうして少しずつ成長しながら、私たちは大人になっていく。
人は、あの「レ・ミゼラブル」のジャンバル・ジャンみたいに、
過ちをキッカケにまっとうな生き方ができる。
だが、チクリを無視したら、新聞紙上を賑わすことになる。(後述)

なんとなくこんな学科「倫理学」の模範解答みたいなことを書きながら、
先週見た、「オリーバ・ツイスト」のことを思い浮かべた。
それは、生まれたときから両親に育てられた経験がない捨て子のオリーバが、
なんであんなひどい悪人だらけの環境の中で、
あんなにも頑なぐらい純な気持ちをもてたのだろう、という、
いまさら少し照れるが、素朴な疑問である。

「ええが、じゃさかい、ええがけんなものよ」

意訳すると、
映画だから、そのへんいい加減な虚構に決まっている。
そんなものなんでとりあげるの?

と、受け流してしまえば、将来の栄華は遠のくと
堅く信じている私は、こうした疑問にはこだわる。

純、清らか、といった顔形と違い、見えない心を
司っているものは、なんだろう。
遺伝とは思いたくない。

だって自分の心の司りを、親や、ましてや知らない先祖のせい。
つまり、良くないコトしたときの逃げ道、
良いコトしたときのご褒美が先祖に持っていかれる、といったのでは、
私はどうも生きていく楽しみが半減するような気がしてならない。

俺は、俺で生きたいと思っているのだが、
そういうわけにはいかないのであろうか。

昨夜は、名画の余韻に委ねて、そのことを考え続けた。

茶番と戦略

2008年08月23日 | Weblog
年々目に見えて売上が下降している。
現在ピーク時の半分以下に落ち込んでいる。
その間、店舗も広げ、様々な手を嵩じ、努力をしてきている。

事実、売場をみても立派だし、従業員さんの接客もレベル以上だ。
たが、このままでは間違いなく、下り坂を転げていく。
なぜか。

その理由は、単純かつ明快である。
マーケットの潮流的変化を、過去のピーク時に、
合わせたまま固定しているからだ。

戦略の誤りは、戦術では、絶対に修復できない。

少しかみ砕きたい。
「高齢化時代ですしここは田舎。若い人は少ないのです」
とこのお店のご主人は、中高年をターゲットに品揃えをしている。

「高齢化時代」、その通りだろう。
だがそうした言葉に縛られて、子供が大人になり、高齢化する、
というこの当たり前のことを「流れ」で見ることを怠っている。

高松の「お茶の亀屋翠松園」では、創業以来
毎週欠かさず、子供達のためにオチの教室を無料で開いている。
その理由を、創業者の尾碕 登さん(現会長)に伺ったことがある。
「その子供達が、20年も経て今、お店を支えてくださる」



先日、 売れて儲かるシクミ研究会の会員に
(タノメール20-26号)で、書いたこと。以下要約

お中元・お歳暮を単に「セール」とみてやっているから、
見えない側面で、思いがけない不興を買っていることもある。

だから、辞書を引いて、中元、歳暮を正しく理解し、
それを活かせば、
今と比べようもない大きな市場と機会になる。

なのに、「無難なものを贈る」といったことで、お茶を濁し、
なにげなく、○○セール」としてやり過ごしている。
ああ、もったいない、といったことを書いた。
そして、最後に、ヘボ句をしるしておいた。
 
「団子屋に、お菓子がが届く、うだる日に」


茶化すのか、と怒った人もいた。

個別対応、真心を込めて、と
かねてからいっている商人に、

「なんだい、それ」.
「これでは、もったいないじゃないか」

と、と叱りたい思いで書いた。

お遣いものは、そのかねがねの口癖を、
実践する絶好のチャンスなのだ。
そもそもお遣いものは、個別対応そのもの。

戦略のあるなしにより絶好のチャンスも
見えたり、見逃したりになる。

しつこいが、少し入れ替えて、もういちど掲げよう。

「ケーキ屋に、団子が届く、聖夜かな」

上の2句を重ねれば、2幕ものの茶番劇だ。

友人「お茶の亀屋翠松園」の尾碕雅裕さんからメールあり。

~よくあることですが、お香典返しに
お茶屋にお茶の詰め合わせが届きます。
しかも日ごろお世話になっていたお茶の先生宅から。
業者任せとはいえ笑うに笑えない状況は、再三です~。

おー;脳

2008年08月21日 | Weblog
ここ数ヶ月前から、HPのリニューアルを始めている。
枚数が増えたし、動いていないものもある。
それに前回ページのテーマごとにブログを作り、
貼り付けたのが、私の怠慢と理想倒れで、殆ど機能していない。
全体を読みやすく、軽くしたい。

そんなや、こんなやで、時間の合間に改造にかかった。
だが、一ついじれば、他も動く。
すべからくこの世はリンクされている。そのことを実感した。
次々直さなければならなくなり、大改造レベルで収まるかどうか。
そうした思いが、気を重くして、なかなか前に進まない。

そうした間に、
実はリニューアルではなく、新たに作った方が、
これまでに囚われず良いのでは、早いのでは、
と思うようになった。

それで、裏の方で、ちょいと新作を試みてみた。
だが、いざとなると、今のHPが頭に浮かび、
そこから抜け出すことが出来ない。

それに、これまでのHPのどの1ページ、1ページ、
一字一句に想い出や、しがらみがリンクされていて、
え、えいっ、と捨てきれないのである。

それに、あっ、これは以前作ったページでまかなえる、
といった気持ちが湧き出てきて、これを追い払うのに一苦労なのだ。
いかに、人は、いや自分は楽したがる保守主義思考者であるか、
恥ずかしながら思い知るのである。

「囚われる」というキーワード。
あるいは慣性の法則、といった原理原則の類(たぐい)。
まさにそうしたものに自分が縛られて、
最初にHPを作った時みたいに、えい、えい、やぁと、
型を破り、無邪気に、思い切ったものへ、進めない。

この自分の心の動きを、
裏書きするつもりで、言うわけではないが、
どこのHPも、この点は同じ。一定のわくのなかに
収まっている。冒険したとおもっても所詮は
仏の手のひらの上の孫悟空。そんな気がする。
どこかに過去という時間軸と、他の人はどうか

冒険、革新性とは、いっても、
人並みの範囲の中に納める程度で、
奇をてらっている、といった感じで、
端的にいえば、似たり寄ったりの範疇の中で、
革新ごっこをしているに過ぎない。

これは、主体たる人の心がそうだからである。

専門家に依存すると、保守性の中での革新しか得られない。
それはわかっていた。
だからこそ言語も知らないといった無知の強みを活かして
自分のHPを自分で創り、自分なりに進歩発展、試みをしてきた。
つもりだった。つもりが、文字通り、つもりで終わっていた。
つまり、いつの間にか、無難な人並み、画一の中に
ぴったし、おりこうさんに収まってしまっていたのだ。

このことはHPのことではない。
HPは、私の心と動きの一客体に過ぎない。
主体たる「私」が、「人並み」にチョコンと収まっている。
そのことに、他ならない。

こうやって書き進めているあいだに、そのことに気がつく。
これはショックだ。ぞっとしている。
これが夏場だけの怪談で終わればいいが。
脳の老化現象、ということにでもなれば、
改造すべきはHPではなく、自分の脳ということになる。

エイ、エイ、イヤーができない脳は、「ノウ!」だ。

余韻

2008年08月20日 | Weblog
一つが終わると、寂しさと虚脱感に襲われる。
いや自分を被害者風、悲劇のヒーロに見立てて、
余韻を楽しみたいのかも知れない。

とくに今回は、週2回、で5回。
大袈裟になるが足かけ2ケ月の長丁場のセミナーだったから
と書きながら、いやそれはそのせいではない、と頭を振り始める。

中小企業大学校での長期経営管理者コースのことが頭に浮かんだからだ。
これは隔週おき、実に6ケ月の長丁場なのだ。
だが、こんな気持ちには陥ったことはない。

どこが違うのだろう。
違いだけを述べれば、
今回は片道6時間の旅がくっついている。
これだろうか。

もうひとつは、町がくっついている。
大学校は、町とは分離され、そこには生活感がない。
これか。
両方か、これか。
一つに絞れば、どうもこれのような気がする。

参加者のお一人お一人のお店を伺い、
商いや生活との繋がりの中で、皆さん方を認識する。
やはり、これだ、と思う。

そうだ、そう考えると納得がいく。
参加者の生活空間の中に、私が浸り、短い間だったが
その空間を共有したのだ。

だから、そこから離脱し、切り離されることで、
寂しさと虚脱感に襲われるのだ。

昨夜飲み過ぎた、と言うこともあるが、
このひどい疲れようは、それが理由かも知れない。

明日からは、しばらくは、この竹原の臨店指導の
報告書の作成にかかることになる。

一字一句、文字を考え、打ち込むたびに、
この竹原での一こま、一こまを、思い出すだろう。
それはこの 寂しさと虚脱感が、続くことを意味する。
疲れは直に取れるだろうから、
やはり余韻を引きずり、楽しむ、といったことになろうか。

それにしても、中小企業振興課こぞって
お世話してくださったこと
、忘れられない想い出になる。

月並みの御礼の言葉と言い回ししか、出てこない。
もどかしさが悔しいが。

なんでやろ

2008年08月19日 | Weblog
1昨日あたりから、パソコンの温度が60度近くなり、
入れているソフトが、うるさく警告を発する。

「言うのはいいけど、やるのは俺なんだ」

と、このソフトにブツブツいいながら、
それで、例によってレイアウトを変えることにした。

窓からの風を遮っていた本棚をどける。
出来るだけ風通りを良くする。
空間を設ける。
より扇風機が当たるようにようにする。

これだけで、警告はやみ、うなりも消えた。
ローンでかったパソコンだが、現金なものだ。

人間様の方は、クーラーもない。扇風機もない。
パソコンの熱風が扇風機にあおられて流れてきて
前より暑くなって、頭がクーラー、クーラーする。

風上にパソコンの本体がある。
これを夏は、風下。冬は川上に、
移動できればいいのだが
配線が面倒なので、夏は人間が我慢。
冬は、人間が益を受ける。

今朝は、7時からボランタリー。
地域の枝払い、ゴミ拾い、どぶさらえ
称して、薩摩川内クリーン大作戦だ。
7時、それまで曇っていたのがカラリと晴れる。
心地よい風が吹いていたのが、ピタッと止まる。

部屋の中でもクラクラするのに、この暑さのなかで、
熱中症すら忘れて、ボランタリに熱中する2時間。
不思議なことだが、楽しい時間なのだ。

これが仕事だったら、どうだろう。
これが命じられて、だったらどうだろう。

終わって、27歳から83歳までの老若男女が、
以前は缶ビール、最近は、第三ビールで、乾杯。

みんなとりとめのない軽口をたたき合いながら
小一時間を過ごす。
この至福感。
なんでやろ、どうしてやろ、と
自宅に帰り、パソコン相手に考えている。

頭の中は、このことと昨夜見たDVD映画
「さよなら、クロ」のこと。

犬、クロの死が、どうしてこれだけ
尾をひくのだろう。哀しいのだろう。
感動するのだろう。
なんでやろ、どうしてやろ、と
考えている。