経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

今日は手抜き、再掲「商いの公式」

2005年11月30日 | Weblog
~等式を成り立たせるキーは消費者が握っている~

  ①売れた金額=買っていただいた金額
10万売れたということは、10万買ってもらったということである。だから売れた金額=買っていただいた金額という等式が成立する。そこで売り手が10万ではなく15万売りたいとする。しかし売り手が15万売りたいから、「はい、協力してあと5万買いましょう」というお客がいるだろうか。ノウである。だからこれは不等式になる。つまり計画倒れ、思惑どうりはいかない、当て外れ、といったことだ。では逆に右辺のお客が15万円かったらどうなるか。間違いなく左辺の売上額も15万になる。また買った金額が15万円なのに売れた金額は10万円のままということもない。このことの意味することをじっくり考えていただきたい。明日からなすべきことがわかるだろう。

  ②売る意思=買う意思
売る意思と買う意思があって売買は成り立つ。売り手は売らないことには生きては行けないから、売る意思は十分にある。しかし買う方は、例外を除いて買わなければ困るといったことはない。よしんば買わなくてはならない商品があっても、そこで買う義理はない。ここでも等式が成立するためには、売る意思だけではどうにもならず、買い手の意思が不可欠であることがわかる。だから買い手が、ここでこれを買いたいという意識を持ち、行動するように働きかけるのが売り手の仕事になる。はて、あなたは昨日、仕事をされましたかな?

 「売る意思と買う意思があって売買は成り立つ。売り手は売らないことには生きてはいけない 」

 ③売る人=買う人
 このことは,田上康朗著「羊たちのちんもく」、「羊たちの探しもの」に詳述していますが、かんたんに記すと、作り手も、売り手も、また買う人である。その買う人の側面で、商いをなさいな、という提言です。

痛たくなくとも腹を自ら探れる絶好のチャンス

2005年11月29日 | Weblog
最近、ある経営者の集まりに出た。

 「景気の回復と言うが、それは都会と大企業の話。地方と中小企業はあえいで
いる」と、つい最近まで与党の国会議員までもが、したり顔で、竹中さんを叩いていたセリフを、機を見ると言うよりその都度受けの良い言い回ししか出来ない彼らだが、さすがに最近は一言も言わない。それを中小企業経営者からそっくりそのまま、まだ言っているのである。何にかがおかしいのである。景気がいいと言ったら存在価値と職を失うであろう非力政治家ならいざ知らず、中小企業当事者は言ってはならないことだ。
 言っても良いが、「私は、無能力経営者です」という発言と同意義である恥晒しを覚悟しておいて欲しい。

 ともかく売上好調ならば経営者の手腕、不調になれば不景気、政治の責任といった調子の良さは、人格の軽さの証にもなる。確かに責任を他へ振ると気休めにはなろう。政治家の言葉を真似れば、田舎では名刺気取りも出来よう。
 だが自分の能力抵抗力を増強できる機会を失うことにもなり、結果として自社が虚弱化するからである。それを承知の上でか、と問いたい。

 今、経営者が真剣に考えなさねばならないことは、不況問題云々を論議したり、その対策を講じたりすることではない。
 企業経営者の多くは、実のところ、個々の消費者がどんなものを望んでいるのか、欲しがっているのかといった本来のことより、ひたすら自社内部の帳尻合わせに思考とエネルギーを集中してきた。その間、その分、外部、すなわち消費者への関心が疎かになり、そのため消費者との大きな乖離(かいり)が生じてしまった。これによりこれまで失った、さらに今後も失ない続ける売上(得るべき売上の機会損失)は莫大なものとなる。これは機会損失だから見えないし、定量化できない。だから怖い。何故かいつ致死量になるかわからない上に、自覚症状はほとんどないからである。

 だからこそ「この損失は莫大だ」とトップが、大声で騒ぎ立て、それを一時も早く解決する施策を講じる必要がある、と申し上げたいのである。それを「地方経済、とりわけ我々中小企業は」と、被害者の位置に置き、自社業績不振の責を他に求めている。」
 たとえばリストラにより多くの人材を失い、そのために見えないお客をも失っているはずである。組織にもひずみがでて、多くのお客の不評を買っていることもあろう。最近の日経MJで取り上げていたが、正社員を増強した企業がいきなり売上が急上昇した例は、逆に言えば、いかに売り場、現場の戦力が弱体化しているかの証である。どうしてこれ

 さらに怖いことに、経営トップが我が身保身のために、消費者の命など二の次
といった企業の論理,経営者の論理、組織の都合を優先しているから、従業員の意識や論理も,企業や経営者の方を向いてしまい、消費者への不実の止め男、止め女がいない。つまり企業側に、消費者を向いている者が皆無という状況である。
 ここの状態を車の運転に置き換えて創造あれ。

 なにも最近の企業がらみの犯罪は、姉歯某に始まったわけでは無かろうに。
 企業の諭理による行動、あるいは自己のリスクを転嫁することで、一過性的に
は事態を良き方へ解決したかに見える。だがやがてその決断そのものが、結局は
企業のこれまでの利益と将来の可能性までいっきにだめにし、ひどい場合には企
業生命を絶つている。この事実は繰り返されており、決して露見したから運が悪
かった、という次元の問題でなく、経営者の決断として間違いなく誤りであった
のである。
ここをしっかりと認識しておくことである。

 少なくともこの10年間だけみても、実に多くの経営者が、自企業を死に追い込む意志決定を数多くなし、堆積させていることか。つまり過去の意思決定、それも「先に利を取り、不利益は先送り」の、そのツケが既に出始めたと見るべきである。
 だから肝心なことはこれを極端なケース、一部の特定大企業の間題、として目
をそらしてはならないのである。自社に、自分の意思決定にそうしたことはないか、我が身を振り返っておくことである。
 そして「姉歯某氏よ。ありがとう、これ我が社の千載一遇のチャンス」とみて、この際自ら痛くもない腹を探っておくことだ。
 このことでリスクを未然に防ぎ、しかも今後失うはずであった、大きな売上と
利益を手に入れることができるのであるから。

 

実に不思議で、おもしろい人たちですよね。

2005年11月28日 | Weblog
 時間には、大きく二通りの使い方があります。
1つは自分のため、もう一つは他人のため。
 
不思議なことですが,前者は、実は自分のためにならず、後者が自分のためる。なぜなら、自分のことをやっても他人に喜んでもらえることはなく、報酬を得られることはないからです。自分のことをやったのでは、収入にならないですものね。
 
 ところが不思議なことに、企業ではけっこう自分のために時間を使っている人が多いのです。仕事ですから、他者のためというのは当たり前のことのようですが、これまた不思議なことに、現実は自分のために仕事をしているのです。
 
 さらに不思議なことですが、後者だけ、つまり他人のために時間を使う人だけが、結果的に自分のためになるのです。

 以上述べていることは当たり前のことですよね。でも現実には不思議なことに、なぜか皆、自分のための仕事を優先し、それでもって稼ごうとしている。そのために、頑張れとか、効率とか生産性とか、経費を落とせとか劇を飛ばしている。
 
 これは車で言えば、前に進もうとしてバックギヤ引いて、頑張れとか、効率とか生産性とか、経費を落とせとか、言っているいるのと同じこと。と思われませんか。車では、まずこんな馬鹿なことはやりませんよね。
 それなのに、仕事では当然の如くやっている。 実に不思議で、おもしろい人たちですよね。

 お客が喜び、得をすることを仕事にして、初めてこちとらの仕事が成り立つのに、こちらが喜び、得をする仕事して、仕事が成り立つものでしょうか。
 不思議でなりません。

動いて腹が空けば、うまい知識は入ってくる

2005年11月27日 | Weblog
子供は上達が早い、ううんこの表現正確ではないですね。子供は、いや人は本来そういうものなのだと思いますよ。それが、大人になるにしたがって後退、堕落してしまう。余計なものを身につけて心身を重たくして、動きにくくしていますからね。

だから大人になるって、動く、行動する、と言った側面からみたら、成長なんかでは決してない。心身ともにどんどどん硬くなってますから。生まれたばかりが一番やらかくて、大人になるにしたがって硬くり、棺桶にいるころが一番硬い。

とりわけ知識という重たい在庫、知識で縛られて、心身がコッチン、コッチンです。だから私は、動いてから考えよといつもいっています。動けば思考も軟らかになるからなんです。
 
 ある不振会社で『行動する前に考えよ』と壁にたれ幕を張り、社長が口を酸っぱくして「考えよ、考えよ」言い続けているところがありました。だから社員は、考え事ばかりして動かない。考えることは無限にありますからね。動かないのに、給料は動く。業績不振は当然でしょう。それでそのスローガン引っぱがしたんです。そしたら社長が、次に何を張ったら良いのでしょう、って。

 それでどうしても貼りたかったら、「動け、動け」をと。
 動くことが生きていること、動かなければ、結果は出ない。結果が出なければ考える材料もない。つまり動くことが先。動いて腹が空けば、うまい知識は入ってくるのです。

ある座談会で、トータルゲーム(会社ゲーム)について語る

2005年11月26日 | Weblog
 「TG(トータルゲーム)http://www.soshin.cc/に初めてであったときの、印象ってあまりよくなかった、後でわかったことですが、その時のインストラクターは,○◎ゲームと同じ使い方していたし、受講していた人もそのゲームのベテランばかりだった。
 みな、どうしたら相手を打ちのめすかで必死で。終いには私は、疲れて疲れて。この丈夫な私がですよ。

 ところが、2年ぐらい後、嶋崎(喜一)さんのインストラクトでやって、ええっ、といった感じ。私のライフワークである脳力開発の目指すものと、同じじゃないかと。そしてこれは使い方を誤まれば、恐いぞ、と感じました。脳力開発もまったく同じだから。

 良いものは、諸刃の部分が実にはっきりしているんです。つまりよくいわれる、医者が使えば精緻なメスだが、恐い兄さんが使えば鋭利なドスといったこと。TGには、それがある。これが第一。

 第二はですね。私たちは、一日の大部分を自分以外の対象物と接している。だから、坊さんたちから座禅せよ、瞑想せよといわれる。これは、つまり他者ではなく、自分と対峙してみなさいということなのですが、TGをやっていることは、実はこのことと一緒。自己との対峙なんです。

 パソコン版(CD)だと、いっそう明確ですが、ボード版でも相手は、実は自分自身。まずいかな、種明かししちゃって」

 嶋崎さんがよくいわれる、子供返りのこと。結局,我(が)を忘れて”夢中”になってしまう。これが瞑想に近い状態ではないか、と思っているのです。

 だから無長で過ごしたとき、言うではないですか。あっと驚くぐらい時間の経過が早いと。何人でやっても、この夢中の世界が出来る、作ってしまう。
 だから、雰囲気としては喧騒の中の静寂さ、といった感じなのです。それに、インストラクターの方には、少しつらいことかも知れませんが、彼らにとってルールの解説などどうでもいいこと。いやインストラクターの存在すら忘れて、夢中になってしまう。ついつい相手の存在を忘れる。中には自分の存在すら忘れている人が現れる。
 インストラクターやっているこちらはヒマだから、「本当に、ルール、わかってやっとるんか」って覗きこんでみたりして、、、、。(笑い)

 もし心の中で、戦っていたらこんな雰囲気には絶対ならない。楽しい過ぎるくらい楽しいことが”夢中”の一つの条件である、このことが、現場ではっきり証明されるんです。

余計なことですが、座禅の足の痛みを堪えての瞑想、ではこの”夢中感”はあじわえない。少なくともこらえ性のない私にとっては、我慢できない痛みですよ。あれは。
 
 人間のこうした本質が理解できれば、経営もスイスイと思っています。つまりね、生きることは楽しいことが本質。ならばそのサブシステムの一つの会社なり、仕事が面白くないのはおかしい、ということが、TGの研修をしていると本当によく理解できる。

これが体感できれば、会社が変わり、仕事は変わり(というのは正しい表現でなく、自分が変わっているのですが)ブルーの周囲が、ピンクになる。そしてすべては、自分のせいなんだ、というところへ行き着く。自分のせいと実感出来たら、革新はもううまくいったに等しい。これ私の確信」(笑)

姉歯事件、よどみと不透明さが、消費者の不安を募る

2005年11月22日 | Weblog
業種別に企業倒産の多い順位は、おおむね決まっている。1に、不動産を扱う企業、非流動性企業会社、いわばよどみと重たい企業である。 2に、見えない部分が多いところである。これには情報不開示、それに物理的に第三者が見ることの出来ないモノを扱っているといったことも含めてほしい。
 これをひとことでいえば、うさんくさい部分が大きい、という。

 前者への対応としての経営者の仕事は、企業をあらゆる意味で流動化することである。そのシクミをつくることである。指標としては、設備の生産性、キャッシュやモノの回転率をあげ、ROCE(総資本利益率)をあげる経営をめざすこと。
 B/Sは縦を短く、小さくすることにつきる。LPは消費者に関係ある費目とそうでない費目と2つに分け、前者の比率を限りなく高くしていくこと。

 つまり短く、単純、そして売上貢献度の高い決算書をめざすことである。例えば、資産を小さくするにはどうするか。議論や会議で減るわけではない。ダイエットの本をいくら読んでもダイエットは不可能である。町を歩くことだ。行動することだ。 動けば,喉もかわいてドリンク飲みたくもなろう。
 そうすれば金が動く。これが経済である。

 前者への対応としての経営者の仕事は、企業をあらゆる意味で透明化、世間の目に晒す状態にすることである。そのシクミ、仕掛けをつくることである。

 たとえば建築関係などその際たるものである。自分の家の設計図すら見たことのない施工主は多かろう。ましてや、多くの人は、自分家の中の鉄骨、天井裏が耐震強度がどう、など検証もできない。

 だから今回の手抜きした設計士事件など怒るべきして起きた、といえるが、この事件の影響がとてつもなく大きいと考える理由を、まさに「不透明さ」にある。

 見えない部分を見えるように持っていく以外に対策はないのだが、見えないことで儲かっていたとしたら、これは業界を揺るがすほどの大きな問題になる。なぜなら、生活者の不安、恐怖といったものは、見えないが故に大きくふくらむからである。

 建設に限ったことではない。医者など最たるモノだ。飲食業もそう。中に何が入っているかわからない。だからそこへ工夫がない企業は、不安が潜在的に存在するとみる。作った人が、見える形で信頼が置ける人だ、といったことが裏書きが必要だし、表書きとしては、素材の出身産地まで細かく明示しておくといったことが、対策になる。製造業はもしかり。

 今回の事件を、業界と見るのではなく、こうした1に流れが鈍い、2に不透明、ることで、自企業飛躍のきっかけになる。風は追い風だけではなく、向かい風も活用する。また風邪は、人がを引いたのを見て、自分の風邪予防のに使う、といったことである。こうしたしぶとさとともに、他人事として見ず我が身の襟を正すといった理解を竹刀と、世の中は良くならない。

 今回の事件は、設計技術以前の、人間としての信頼性が、過去の彼の仕事からそれだけ浮かび上がってくるか、という根幹の指標をより重要視されねばならない、ということが明らかになった、といえる。

「長いそばの原稿、、八年目の掲載」

2005年11月20日 | Weblog
 11月20日と言えば、思い出す。
北白川書房http://www.kitashirakawa.co.jp/ といえば、おそば屋さんなら知らない人はいない、おそば屋専門のユニークな出版社である。
 もう15年ほど前の話。新潟・越後そばの元祖、十日町、小嶋屋http://www.hegisoba.co.jp/社長 小林 均さんが、「越後蕎麦の会」をを発足。その記念行事の席で、この北白川書房の種村社長とお知り合いになった。
 名刺交換が終わったとたん種村さんが、「経営じゃなくて蕎麦のエッセー書いてくれませんか」。これにはびっくり。
 私は蕎麦通などでではない。ど田舎の経営コンサルタントの肩書きの名刺は持っているが、名士ではない。蕎麦は好きな方だが、通でもない。ただ小林さんとこのうまいへぎ蕎麦が食えるので参加しただけである。と心で思いつつも断ることなく、1つ返事で快諾。
 5日ほどで原稿を仕上げ、お送りした。その後、なんの音沙汰もなかったし、当然ボツになったのだろう、と思い、いつしか忘れてしまった。
 5年ぐらい後だったか、小林さんが、3代目就任記念に「小嶋屋物語」という小冊子を出すというので、私もお手伝いをし、寄稿もさせていただいた。(ちなみにこの本の巻頭文は、女優の池内淳子さん自筆のものである)。これが平成11年のこと。実は、この冊子に寄稿した文章は、北白川書房の種村さんに送った原稿に、加筆修正と書き足したもの。

 それから3年経た平成14年11月、突然小林さんから連絡があった。北白川書房の「新そば」に、掲載されたので掲載誌送るから」。

 なんと種村さんは、8年前の原稿を覚えていて掲載してくれたのだ。この雑誌の常連室筆者は、著名人、たとえば歌舞伎俳優、落語家、作家がほとんどなのだ。ちなみにこの号には、作家の串田孫一氏、俳優の奥田英二さん、ジァーナリストの大谷明宏さん、等々である。
 なんだが自分も有名人になったみたいで、一人で良い気分に浸ったことを思い出して、今もまた良い気分。

固有名詞を持ってくること。

2005年11月20日 | Weblog
人が事業をやっている。けして企業、会社、お店が、商品やサービスを売って、お金を戴いているのではない。例え自動半履きであろうと「人」がやっている。

 一方、お客様も人です。ペット食品であろうと買い手は人です。つまり商いは人と人の関係である。うまくいくもいかないも人と人の問題である。それを経営の問題だ、店が悪い、陳列が出来てない、といったいいまわしをするからおかしなことになる。これは、経営者の自分が悪い。店長が問題だ、Aさんの陳列ができていない、と対、人で考えると、対応や対策が見えてくる。
 この場合の「対」は、対立の「対」ではなく、一対の「ツイ」。つまり売り手と買い手は一対の関係(=二個で一組となるもの)なのです。
  対応にしろ対策にしろ、この「対」について特定の「人」、出来れば固有名詞を持ってくることです。

私が、どうしても92歳まで現役で居なければならないその理由

2005年11月19日 | Weblog
 私は長く人、主に経営者ですがみてきて、あるとき生活感のある人と、そうでない人がいることに気づきました。
 この二つに分けて、その人のその後を研究してみました。結論と根拠を大まかにいえば、次の通りです。
人は生活、すなわち「生を活かす」ために、仕事をしているのですから、本来は前者が本来です。また日常性90、特殊性10の世界ですから、、すなわち日常性で生き抜くことはが、人生のほとんど。、生活感がない生き方、特殊に属していることになります。
 
 持ってまわった言い方を抜きにして言うならば、生活感のない人は、疑問視せざるを得ない。これは好き嫌いの問題ではなく、これまでの経験と研究からの私なりの、「人を見
る指標」の一つとして、申し上げていることです。
 
 ですから、たとえばメーカーのカスタマーサービスでも、自分の言葉を出せる人と、マニアル人がいます。前者には、思わず嬉しくなって甘くなります。後者には厳しくなってしまいます。
 
 人が、人とする時、感じるのはそうした。微妙なことではないでしょうか。
 その微妙が、人と人との出会いの分岐になる、そう思います。
 
 世知辛い世の中で、そんな甘い考えで、と言う方も多いと思います。生き方の違いですからそれでいい。どっちが正解と論議する気持ちは全くありません。

 「それで、大丈夫でしょか。うまくいくでしょうか」という声も聞こえます。これはいろんな意味で、難しい質問です。
 ただ私は、このあり方に添うありかた、間違いなく大丈夫、と確信している。それ以外のあり方でうまくいくことなど考えられないからです。それは、正しいあり方がうまくいかずそうでない方がうまく行く、そうした世の中では決して、絶対にない。その点は、世の中を信じている。世が大きすぎるのであれば、今の日本では、正しさが残り、不正が消される、そうした日本であることに、私は確信を置いているからです。

でも、それでもうまくいかない、ということ現実があります。そのときは、まだ自分に問題がある。足りないところ多々あり、自分自身にその問題すらも見えていないのだ、と思っています。、事実、正直言って、今の私はいろんな意味で不調。それがわかっていますので、それが難易に起因しているのか、過去にさかのぼり、洗いざらい棚卸しし、見つけることが出来ました。やはり予想どおり、不調の原因は100%、自分にあったので、ほっとしました。自分の問題なら、自分で解決できる。万が一、少しでも世の問題、他人の問題なら、非力私は、なすすべも為しに世を怨み、人を責めて生きることになるかも知れなかったからです。

いまそれを本来の正しい方向へ直そうとやっています。大変ですが、答えがわかっての大変ですから、やります。
その問題のほとんどは、私がいちばん絶好調の頃、自ら作ったものです。やけどのケロイドが消えるのに年月を要するのと同じく、それはそれは、時間がかかるようです。

人生における活動期間を延長してでも、それは消していかなければなりません。
それで、、65歳までの現役目標を、92歳まで現役活動にしないと、遅れとお返しが出来ないまま、いわば借金未返済、赤字人生になるからです。
これはいや。ぜったいにダメです。

87歳でこの世への借金を完全返済、あと5年で黒字にし棺桶代と妻のバックと着物(これまで妻に何もかってやったこと無いのです。)程度の黒字。それ以上の延長はしんどいので再延長はせず、必ず実現させます。

「自分を主語に すれば、自分が得する話」

2005年11月18日 | Weblog
  「経営が悪い」とか、「会社がよくない」いういいかたをします。主語を経営や会社に持っていっても、手も足も口もないものを擬人化して犯人に仕立てても、その理由の発見も対策も出来なくなってしまいます。これすなわち手も足も出ない状況に陥ることで、これを手遅れと言っています。

 人は、無意識にあるいは意識的に他者に責任転嫁しがちです。ましてや擬人に振ってしまうと人間の方の自分に関係や責任がなくなった感じで、気は楽になる。でも改善や対応は遅れ、創意・工夫ができないことになる。

 そうした意思決定をなした自分に、あるいは原因を招いた自分に「問題があり」、と自分に引き寄せるアプローチが問題を解決、そして何より自分の成長になるのでは、と思っています。

 このことは、売れない状況を、「景気と天気が悪い」とするのと、問題を突き詰めて「自分のケーキと陳列が悪い」とするのでは、どちらが対応しやすいか。簡単にわかりますよね。よしんば景気が理由であったとしても、「景気が悪いから、大きめのケーキを値段据え置きで販売してみよう」とアプローチするといったことで、「工夫・創案」ができます。

 私はいつも、「消費者を主語に」といっていますが、問題事項は「自分を主語に」とも申し上げている。

 この場合の主語の使い分けを、逆にしている方が多いということ、敢えて申し上げておきたいのです。

 追い風で前進。これは背に付き、後押ししてくださる消費者を主語にします。向かい風で、改善のたくましさは自分を主語にして身につける。
 この風の使い分け、ヨットマンのあり方こそ、商人の腕前といえるのでは、と思います。
 ヨットはできなくても、風邪を、時には参加したくない会の不参加理由に使っておられる方なら、大丈夫。出来ますとも。
  自分を主語に 他山の石まで活用するしたたかこそ、自分の成長に欠かせない。