経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

記事のタイトルを入力してください(必須)

2011年12月31日 | Weblog
いつも申し上げていることですが、どんな事業であろうと、

例外なしにお客が買わないことには一円の売上も上げらないのです。



この当たり前のことさえ理解していない経営者が多いのに驚きます。

経営者の相談といえば「どうしたら売上が上がりますか」といった類(たぐい)ばかり。

接客、店舗、販売促進等、すべて売る側の論理と都合からのご相談です。





売れるということは、消費者が買った行為の結果です。

だから、どうしたら買っていただけるかという側面の方が先、入り口です。

入り口を経て中に入り、始めて出口の概念がでてくる。

中に入っていないのに、出口から出るといったことはないわけで。

同様、買わないのに、売れるが先に来ることもないのです。



売る側の人が「お客様第一主義」とか「お客様は神様である」といった言い方をする。

言葉だけであったら、だれでも幾らでも言える。

実際やれているのであれば、言う必要もないでしょう。

できていないから、そうしたコピーを掲げている。

自社の恥をPRしているようなものじゃないですか。



そもそもそんなことを言っているトップが、内実、



「お客と自分の業績、どちらを第一に考えているか」



など社員はみな知っているわけです。



それが雪印をはじめとする企業のおびただしい事件です。

党利党略どころか自分の派閥や自分の利権に熱心な政治家だって、

選挙の時のみならず、この大震災直後の国会で、

は「日本のため、国民のため、復興のため」といっていますが、

国民は、自分たちの政争であることを、みな知っています。



これと同じで、身内である社員が信じていない。

それを、お客が信じるわけないじゃないですか。 



言葉やコピーで信じたり、感じたりするわけはないですから、意味がない。

だからそんなことはどうでもいいのです。



問題は、お客の方が「なるほど、お客様を第一としている主義のお店だな」、

「私を、神様みたいに大切にしてくださる従業員さんだなあ」と感じるかどうかです。

そう感じるように、意識して行動しているかどうか。

少なくとも、買う側の立場で考え具体的に行動しているかどうかで、

やがての企業の盛衰が決まってしまう。

 額に掲げたり唱和したりする暇があったら、そのこと、

日常の行動や考えに具体的にどう現れているか、

自分の胸に問うなり、自分のお店の現場を見てみることです。

現場では、みな会社第一、上司を向いて、自分大事、ノルマ必達で、

一生懸命。そしてそれを頼もしく思う、自分がいる。

利はモト-解決篇

2011年12月29日 | Weblog



「まとめて100枚仕入れると1割安くするし、送料もこちら持ち」



といわれた時から、心は揺らぎ、お客を忘れた商いになる。

実情から遊離し、幻想に、データーによる商いから離れ賭けになる。



この余分の88枚は、買うお客の見込みがないのである。

だから残る可能性は高い。



これは見込み違いとか予測違いなどではない。

見込み、予測を無視した、無謀としか言いようのない

仕入れの時の意思決定は、だれに強制された、といったことではない。



「原価が1割で2500円、送料1300円計3800円得をする」、

「これを元手に難波でパチンコ。妻に浪速のお土産でも」



といった、自欲の願望、空想を拡げた、損得計に基づくもの。

すなわち、「これ良し」とした選択の結果なのである。

この選択は、ときとして企業の論理をも無視している。



余分に仕入れた結果、当然残品が出た。

その理由を、よく「売上」のせいにするが、

内実は、こうした仕入時の判断ミスを転嫁といったことは

けして希有ではないと思われる。



仕入れは自分のせい。売上は、景気が悪く、

消費者の財布の紐がきつくなった、近くに競合店がでた、

といったように他者へ責任転換ができる。

だから、まずはよっぽどのことがない限り、

仕入れミスが、反省会の議題に上がり追求されることは少ない。



だが、仕入れが理由であれば、手が打てる。

だから企業として、自分として、手が打てる所へ着眼し、

手を打つところが繁栄し、手が打てないところに

問題を押しやり、手を打たない企業が衰退する。



当然の哲理である。



「利は元にあり」、は松下幸之助さんが諭しているように

仕入れ先を叩いて得られる「利」のことではない。



「メーカー→卸→小売店→消費者」という流通の流れをみたら

すぐわかることだが、「小売店」の矢印の先は「消費者」。



それが仕入れになると 「卸←小売店」となることに着眼して欲しい。

つまり仕入れをする小売店の(身体の)姿勢は、

卸を向いて、消費者に背を向ける形になるのだ。



ここで、私は、ああっ、と声を上げた。

「仕入れは元にあり」、を誰が、いつ頃言ったのか私は知らない。

知ったとしても、真意は具体的にどういうことですか、

と確認はできまい。



私が、ああっ、と声を上げたのは、以下の思いつきにである。

「利は元にあり」の「元」とは、「消費者」のことではないか。

卸やメーカーのほうではなく、その大元である

「消費者」の方を向いて、商い(仕入、販売など)に勤しみなさい」、

という諭しではなかろうかと。

利はモトにありきか

2011年12月26日 | Weblog


利は元にあり、という言葉がある。

これを私流に解釈し、皆様方の繁盛企業作りに資したい。



仕入れは、売れることが前提で行われる。

売れるとは、購買する消費者の存在を前提としている。

このことを強く意識していないから、売ることに余分な努力とコストがかかる。

売れるように努めることは必然的に売れないことを前提にしている。



思うように売れないと当然、経営者の姿勢、販売員の姿勢としては、

大なり小なりお客への「売りと押し」が、なにかにつけ出てくる。

これで、さらにお客は背を向け、引く。



理由は単純明快だ。

お客は、売り込まれ、押されて心地良いか。

それを喜ぶか、といったことである。

コストをかけてお客を心地よい状態ではないことに努力して、

いったい何をしているんだ、と問いたくなる。





買い手は、買い手という団体さん、塊ではなく、

購買するという意志決定と行動をなす消費者の集合体である。



塊(集合体)としての「消費者」は存在しない。

「皆さん」がどこにもいないのと同じだ。



だから商品を仕入れるときは、買うお客をできるだけ一人一人を思い浮かべて

「あの人には、これにあうな。これは彼が喜ぶだろうな」

と想定して仕入れる。



この一人一人に近づけていくことが、「努力」の方向であり、

そのことにこそ本来かけねばならないコストである。



ここで、自分の胸に手を置いて、

自分が仕入れるときの心の動きをみてほしい。

このパンツが10枚売れると思ったことは、

ひとり1枚買うとして10人のお客様の存在が不可欠だ。

言いたいことは、そのパンツを買うであろう10人を

いかにできるだけ具体的にイメージできるか、ということである。



かりに最初はそのつもりであっても、問屋の営業から、

「まとめて100枚仕入れれば、1割安くするし送料もこちら持ちにするよ」

と言われれば、昨夜の接待の酔いと御礼心も加わり、



「よしゃ。それでいこ!」と1、気を大きく、100枚を仕入れる。



こうしたことはないか。



この瞬間から、お客を忘れた商いになる。(続く

たのしいですぞ

2011年12月24日 | Weblog
私は、自慢ではありませんが、いや自慢ですが、

自他共に認める、暇つぶしの達人です。

ですから、暇なときほど忙しい。

それは虫のいい話、いや私のいい話ですが、

楽しいことだけを拾い集めることで忙しい。



こうした話をして本稿の〆にします。

以下、本文。





「これって、偶然じゃないわよね。

     きっと赤い糸で結ばれているのよね」

  (必然に持って行き、次の不安を消す)。



「こんなこと、ありえない! 奇跡ってあるんだっ!」

 (偶然に持っていくことで、自分の幸運さを強調)。)



世の中には、偶然ではない。.ましてや企んだことでもない。

神の仕業でも、人智の成せることでもない。

そうしたもの以外の「それ」が、ある。

そんな気がしてならないのです。





それはなにか、実際の所分かっていないのですが

たとえば・・・・・、偶然か、必然か、と仕分けするとき、

その仕切り線の存在が不可欠。「その仕切り」みたいなもの。



老子の「パオ」。ゼロという存在ではなく、

有無を存在させている「空」間。

有でもなく無でもなく。その切り替え点。



私には、それをどう表現して良いかわかりませんが、

そんあもの。そうしたものが、「ある」。

そう思うのです。



それを前提に、そうした視点で、

日常の中から、常に対峙する2つのものを囚われずに、

公平に見てみることで、進歩発展の材料なり、課題なりが、

次々見つかる。これは私の確信です、



その確信を根拠に、私の手がける経営革新では、

革新の主題、課題を見つけ出し、そうしたものに

コツコツ対処する、といったやり方を採っています。





ともあれ、

とかく、この世、因果なものと言われますが、

因果に関わりのない存在も、そして人智の及ぶ想定内も、

天智が司る想定外も存在していて、

それら両方をやりくりしていくことが、

生きることではないかと私は考えています。





欲張りの私は

1つのことを、あれこれ空想を膨らまして

様々な角度から考えることで、その1つの些細なことで

結構、何日も楽しめるのです。



.もっと言えば、様々な角度から楽しみを見つけ、

それらを次々拾い集めていくことでわが心身を忙しくし

生きていくことで、楽しみの連続線、楽しみの金太郎飴、

楽しみの人生を創れる。

この作業こそが生きること、人生だ、と。



「こりゃ、いい屁理屈だ」と、

この思いつきを、わが生き方にしているのです。

楽しみの人生、楽しいですぞ!

赤い糸に

2011年12月22日 | Weblog



 明るい職場にしょう、という横断幕を背景に 店長の暗い話。



売上と書くのに、うち(自社)は、常に売り下げ。



なんでや。おかしいやん?



公園の芝生に、立ち入り禁止という看板。

これをみたら看板を建てた人は、どうして立ち入れたのか



なんでもいい。自分の周囲の、何気ないことに、

「なんでや。おかしいやん?」と、首をかしげてみる。



そうした日常の中で、ふと浮かんだ考え、

あるいは原理、原則、法則、ルール、規律・・・・、

そう思っていたものに、まず当てはめて現象をみる。

次にそれを外して、みる。しばりを解いてみる。





想定がある、としたらそれ以外のことが「ある、存在する」

と、それをあれこれ考えてみる。



「ない」ものが欲しくなったら、

「ある」ものを強く意識してみること。



それは、そのままその事実だけに意識をもっていくだけでもいい。

その因やプロセスといったことまで考えなくていい。

実行しなくても、いい。





因と果を考えていても、

私たちは、どこかに偶然を期待しているところがあります。



それって「偶然」ってことじゃないか、と言った声は、

結構弾んで聞こえます。必然より偶然が、ラッキーといった感じ。



たしかに言葉としては、「偶然」なのでしょう。



ですが、そこに因をくっつけると、「それって偶然?」

とまた首をかしげ、理屈を付けたくなる。

そうなると、もう完全な偶然はなくなってしまう。



また、「偶然が重なって」、といった言い方があります。

これも何度も続くと、「必然」になってしまう。



確率の問題ですが、必然で成るより、偶然でなることが多い。

こうなるとそれは偶然とは思えない。



思えないのですが、人は時として、

無意識的あるいは意識して、

ことをどっちかに振り分ける。



「これって、偶然じゃないわよね。

     きっと赤い糸で結ばれているのよね」

  (必然に持って行き、次の不安を消す

だから、なんじゃ

2011年12月20日 | Weblog
様々なことで、気づいてか気がつかないでか

囚われているのかもしれない。

ときおりだけでもいい。

自分を解き放ってみることが必要ではないか





この「毎日更新ブログ」、

取り上げているテーマは、違っても

そんな思いを意識に置きながら書いている。



その、何気ない「おやっ?それでいいのだろうか」

といったことで、少し身近なことを、思いつくまま例示。



「先入れ先出し法」の考えがある。

それって、ほんとうに正しいのだろうか、とか。

それは、誰の立場での「法」なのか。



遅刻者1名、発生。

朝礼で全員129名を集めて店長が「遅刻厳禁の訓辞」。

これ、どうなのか。



「明るい職場づくり」が今期のスローガン。

その横断幕を背に、社長はいつも暗くなる話をする。

おかしいと思わないのだろうか。



「がんばりましょう!」とみなでシュプレヒコールしていた。

で、何を頑張るのですか、と質問したら、みな怪訝な顔をしていた。



A店では、「どこよりお安いです」と言っている。

B店では、「日本一安いです」と言っている。

消費者は、どちらのお店の方が「安い」と思うだろうか。

どう思うのだろうか。



 上の例はみな、実際、私が見、経験したこと。

われながら、これら、取るに足らない、どうでもいいこと。

一種の言いがかり良いかがりみたいなことだ、と思う。



「もったいない」、と食べ残しを使い回しして、

も一度お客に出して、結局倒産した老舗料理店があった。

同様の話は、最近、焼き肉店、その卸業者でもあった。



もったいないとは、どういうことだろう。

企業にとって、お客にとって。



なんでもいい。

自分の周囲、身近なできごとの、何気ないことに、

なんでや。おかしいやん?それでいいのだろうか?



と、首をかしげてみる。そして調べたり、考え込んだり。



いつしからか、これが私の習慣になった。

だから、ナンじゃ、という話は後に触れたい。

そのこと恐し

2011年12月18日 | Weblog



勇ましく戦い、勝利に導いたトップを

人々はこぞって称える。

もっとも人殺しをしたこの人をこの国の救世主と呼ぶ。





和平交渉に成功した人を、人々は静かに賞賛する。

ああ、この人のお陰で戦士の息子を戦死させずよかったと。

この人にノーベル平和賞をと。





もうこの国は長らく、そう爺ちゃんの爺ちゃん頃から

世界の話題に乗った記憶すらない。

毎年、毎年、平穏、おだやかな日々が続いている。

多くの人々は自分の国のトップが、今誰なのかすら知らない。

知っている人すらそのトップが、

何をしているかなぞ、関心を持つ人はだれもいない。





上の3つの状態、国でも良いが望ましいと思うか。

上の3つの状態、マスコミがいの一番に取り上げるのはどれか。

英雄と呼ばれる人は上の中の3人のトップ中、だれだろう。





日々日常の中でおだやかに健やかに淡々と暮らす人より

空に飛ぶ冒険家が立派にみえる。

そうしたふうに無意識に思う自分に、

せめて、「」なぜ?」と問いかけてみることが肝腎な所以である。



恙(つつが)ない状態こそ本来なのに、

平和を求めて、すなわち戦いの起きない国を目指して争う。

そのおかしさを、おかしげとすら感じなくなっている。

このことの怖さ。



戦いとか和とかそんなことを考えもしない状態を、

それは理想と遠くへ押しやって平和は勝ち取るもの。

平穏は戦いの間のつかの間のこと、といったように、

歴史の何者かによる刷り込みに

自分たちが洗脳されていることにも気づかない。





一生懸命努力して売ることより売る努力を良しなくても売れる。

そうした状態こそ理想。

その理想具現のために日々、勤しむことこそ経営。



それを、相手、仮想敵を想定してまで、

「お中元商戦、戦い抜こう」

「勝って勝って勝ち取ろう!」



と拳を突き上げ、自分たちを奮い立たせている。

戦う相手は誰だ?勝ち取る?

誰から、何を取ろうというのか!





そうした戦いに置き換えて、物事を考えたくなったとき、

あるいは現実争いが生じたとき、その争いの要因に思いを馳せて、

その争い、戦いの一人が自分であること。

その自分が、戦う相手の敵から見たら敵であることを認識する。

こうしたことをしばしでも良いいい。

両面認識、客観視することができれば、

これは自分のことだから、自分の意思で争いの起きない状態を

創ることに思いが振り向く、きっかけになるのではと思う。



その高らかな理想と夢を山の頂上の杭に見立て、

太い強力なゴムのロープを、しっかりと固定する。

そしてそこから遙か下の今の自分に下ろす。



そのゴムのロープを我が身に巻き付けて、

そのロープをたぐっていけば、最初は少しずつ、

少しずつであろうがある程度の所でゴムの吸引力で、

いっきに楽に頂上の理想と夢に引き上げられるのではないか。



といったあり方を夢見て、自分の人生の頂上に杭を打っている

この理想と夢を、私はぜったいに捨てず持ち続け、歩み続ける・・・。   

質が求められる訳

2011年12月14日 | Weblog
具体的には外部から多くの協力者を得る、外部の知恵を活かす。
この外部は消費者も、仕入れ先も全部含む概念です。

ですからたとえばクチコミなどは、消費者が左辺
作り手、売り手に対する協力と考えれば、
その代表的戦術の一つといえるのではないでしょうか。

こうした仮説設定を、主に営業で様々な実験を試みてきました。
営業部門は外部との接点が一番の多い部署からです。
まさに営業部門は、消費者の協力取り付けの部署。

ですからこの部門の主要業務は、
消費者が購買という協力関係をしてくれるにはどうしたらいいか、
これを戦略にし、それをあれこれ実行に移すこと。
これだと考えたわけです。

ほっといてそうした協力関係を右辺が積極的にしてくれる、
これが理想です。理想ですが現実にはまず稀有ですから、
ここは左辺側、つまり自分が戦略することになります。

1度≠60度 と

温度の違う左辺と右辺、温度を上げたい左辺は堰を切る。
その結果温度が上がるのは左辺、下がるのは右辺。
このことで左右同じ。これで相手の温度と共有(等式成立)できる。

こうして企業戦略を考えるとき、とりわけ人・モノ・金のない、
ないないづくしの中小企業の戦略を練るときの、
私のイメージ、フレームワークが出来上がりました。


当然ですが、作用があれば反作用あり、
大なり小なりリスクがかあります。 

たとえば、水1度≠お湯100度
これをいきなり解放したら、
左辺は100度のお湯が流れこみやけどする。

=という堰を一度に切ったらこれはヤバイ。
ですから少しずつ、様子を見ながら、といった工夫は必要です。

ここまで量での説明でしたが、これを質に特化し考えると、
左辺の戦略はいっそう際だってきます。

戦いの事例に置き換えたらわかりやすい。
広大な草原で戦うと、数の多い方が有利ですが、
狭い細い長い道での戦いとなると、
一対一に限りなく近づきますから、数の論理でなく、
個々の質の勝負になり、ここの質、能力が勝負を決める。

つまり、ここまでの述べた等式が成立する前提に、
左辺に右辺を魅了する「質」の存在が不可欠ということです。

開放形の勧め

2011年12月12日 | Weblog
自分は一人。

対して自分以外の人間、他者は60億人-1人もいる。



これは自分一人では多勢に無勢。

どうしょうもない、ということを示しています。

当然、こちらが組織を大きくしても対等は難しかろう。、

つまり等式が成り立つことは、不可能ではないか、

ということになります。





これ、1≠60億-1

このままでは左辺、右辺が同数にならない不等式を、

かりに、閉鎖系と呼ぶことにします。

以下、わかりやすくするために、水の温度にたとえて説明。



封鎖系の不等式を

1度≠60度 とおきます。



これが等式として成立させるためには開放形にする。

すなわち、両者を仕切っている堰をはずす。



そうすると、右辺から左辺に流れ込みます。

どれだけ?



不思議なんですね。(^_^)、

これがぴったし左右同数、 

 29.5=29.5



29.5、に落ち着く。かならずそうなる。

完全解放すれば、例外なく上の如くになります。



右辺のエネルギーが、左右同数になるまで

左辺に加算されるからです。



この加算には、2つの見方が考えられます。

1には、右辺が左辺に協力。

これは、平和です。

もう一つ。

右辺が左辺に(悪意を抱いて)侵入。

この場合は、左辺だって黙っていることはなく、

抵抗し、争いになります。

ですから、左右同数には成りましょうが、

29.5には、たぶん成らない。

争いの過程で、減じるからです。



とすれば、これを左辺の立場、、弱者からみると

弱者のとる戦略は、後者の争いではなく、前者の平和裡、

つまり封鎖的ではなく開放的にして、

右辺のエネルギーを引き入れる形が望ましい。



何を言いたいのか。

具体的には外部から多くの協力者を得る、外部の知恵を活かす。

そのためにあえて、開放形を採ることが、望ましい、

とこう申し上げたいのです

ほっとけば固定化

2011年12月10日 | Weblog
企業において流動資産と経費の固定化が進んでいる。

だが、企業の多くはこうした兆しを見逃し、
老化に伴う課題への対処を怠るだけではなく、
規模拡大こそ生き残る道、それゆけ、どんどんとを続け、
さらに組織の硬直化、資産の固定化を積み重ねている。

ナショナルチェーンなど、その典型であろう。
規模のメリットを叫び、規模拡大し、それを担保に
金を借り、さらに出店、出店。
それが見事にあたり、そしてバブル崩壊後、その土地が暴落し、
次々、巨艦沈没となった。
その後も土地は目減り、担保力を弱め、在庫金利も増える・・・・。
ということで、その苦難は続いている。


子供時代は大きくなることが強い願望である。それでが当然だ。
しかし大人になったら、大きくなるのは肥満、むしろ不健康
(ここを書いていながら、我が身の肥満で心が痛みます)。

企業の目的は、大きくなることではないはず。
大人になっても身体を大きくすること、
これが人としての成長、目標であるはずがない。

だったら新たな、いや本来のメルクマールに戻さねば。

本来のメルクマールとは、
心の成長、人間としての成長、企業としての成長といったこと。

そうした観点から新たなメルクマールを設定したうえで
自企業のあり方のフィールドチェンジを計る

こうしたことを、この今、急がなければならないと考える。
 

それでも、「堅くなること」を、
「年だからしかたない」
「組織が大きくなるにはさけられないこと」
と「ほっとけば固定化」を見逃しますか。

       *
日本は、まだデフレである。政府も終結宣言はしていない。
出来ないのだ。デフレが、基調、常態化しているのだから。

デフレとは畢竟、主として固定資産の目減り。
固定資産を持つことは、企業価値目減りの戦略
だから、せっせと流動化。組織の柔軟性を促進。
これが対応となる。